52段階の一段目の景色

断言する。私はこの話を現実逃避のために書いているのではない。私が仮に大学受験生だとしても、日々に驚きを加えるために書いているのではない。


事の始まりは三年の春。色々東洋哲学を調べるうちに至った。その一段目に。何週間も存在の言語化を捨てた。ただ在ることを在るが儘に存在した。言葉にすることは愚かな児戯であった。

 いま言語化している理由は、その一段回目から降りてしまったからだ。本当にその扉を開いたときは無情の喜び、苦しみからの開放があった。(今でも両手の拍手のあとに、片手に意識を集中させると音が聞こえる(?)。)生きていることがどうでも良くなった。もっと感覚的に言えば、「生きる」と「在る」は全く違った。


生への執着が解けた。本当に洗脳から溶けたみたいだ。(洗脳は他者からかけらるれるものではない、恐怖に対する自己防衛である。)人々は在るを恐れ、生を恐れている。現代ではその傾向が強まっている。


後学のために大好きな哲学者?を紹介する。学びが悟りを取っザケルの明らかな事実だが、プラマイはプラスになるだろう。瞑想とかいらんから。


1、ディオゲネス 犬儒学派 アレクサンドロスとの逸話が有名 


私も(本名)でなかったら、ディオゲネスになりたい


2、達磨


命を捨てて在るを選んだ偉人。悟るための瞑想ではなく、坐禅。



3加筆予定

書き殴り、筆足らずで申し訳ない。来年になったら更新するゆえしばし待たれよ。

来年まで生を捨てずにいられるかはわからないが。

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