Prologue–③

「びっくりした」



 夕暮れをバックに海に佇むあの子。


 海風が吹き抜ける。


 長くなったあの子の黒い髪がたなびき、彼女が微笑む。


 海の女神様がふと、人間の前に現れて人間を誘おうとする。



 そんな一枚絵みたいな光景。



「子供の頃って性別の差ってあんまり感じなかったじゃない?きっと彼もそうだったんだろうなって思った」



 彼の頬の赤みは、きっと夕暮れのせいだけじゃなかった。


 

「ああ、好きになったんだなって」



 私ですら眩しく感じた。


 彼がいかほどの衝撃を受けたのかは分からない。


 あの子が自分とは違う女性で、自分は男性で。


 違いを認識した途端、何よりも魅力的な人物が傍にいることを思い出した。そんなところ。


 過程が面白いほど分かったし、同時に私は失恋したのも分かった。


 ただ、失恋のショック以上に感じてしまったがあったけど、ここでは割愛。


「彼があの子を好きになって、2人は付き合い初めた。私は疎外感を感じちゃって、2人と話すことも減っていたの」


「うん」


「私みたいな平凡人間が、野球部のエースと学校一の美少女といるのが不釣り合いだなって思ったし、実際に言われたし、嫌がらせも散々された」



 あの時は本当に辛かった。


 虐めてくる女子の愉悦に塗れたあの顔。



 その隣には–––…。



『ねえ分からない?』



だめだめ、思い出すな。



「だから2人から離れた」



 未だ癒えぬ傷がジクジクと痛み始める前に、話しに戻る。



「私がいなくても2人とも上手くいっているのかと思ってた。けど知らない内にあの子が悪い人と付き合い始めてね」


「うん」


「彼もあんなに好きだった部活も出ずに、毎日治安の悪いクラブまで行って止めようと頑張ったんだけどーー…事件が起きたの」



 唾を飲み込む。


 みたいに携帯が震えている気がした。



「あの子が酷い暴行された姿で見つかったの。しかもあの綺麗な容姿が幻だったかの様な容姿にされて、生きていたのも奇跡だって」



 ベッドに横たわっていた彼女を見た時、心臓が止まりそうになった。


 

「犯人はその悪い付き合いの連中だって分かっていたんだけど、親が有力者かなんかで誰も捕まるなんてなかった」


「うん」


「そしたら彼が、」



 どこをどうしたらこんな結末にならなかったのか。


 今でも答えが見つからない。



「その柄の悪い連中を見つけ出して襲ったの」



 あの子のことは新聞にも乗らなかったのに、彼のことは少年Aとして大きな見出しにもなった。


 人生は不平等。


 その後の話も救いがなかったから、余計に。



「主犯格の男は少し怪我をするぐらいで終わった」


「うん」


「怪我なんてあの子と比べたらかすり傷レベルだったけど、主犯格の男の親が相当怒ってね。社会的に彼の家族も潰しにかかったの」


「うん」


「そしたら、彼の家族は…一家で、」



 言葉が続かなかった。


 でも充分に伝わったと思うので、ハッキリとは言わなかった。



「その間にあの子も学校に来る様になった。腫れ物扱いする人もいたし、虐める人もいた」



 怒涛の様な変化に、私はオロオロするしかなかった。



「で、中学3年生になって初めての全校集会で、あの子が遅れてあらわれた」



 そして、


 ナイフがヒラヒラと舞った。


 血と悲鳴が、陽だまりの体育館に広がる。


 

「いじめの主犯格の女子生徒の顔をナイフで一閃、そこから周囲を刻みに刻みまくって、私の前に来たら首を、」



 横からシュッと。


 言葉にするのも気分が悪い。


 顔に飛び散った血も、彼女の顔も忘れられない。


 忘れちゃいけない。



『許さない』



 目を瞑って開く。あの子はいない。


 息をふーっと吐き出す。



「私何にもしなかったし、何も出来なかった」


「…」


「勝手に病んで家族に面倒かけて、逃げ出してここに来た」


「…」


「もう、それだけ」


「…」



 聞いた割には黙りこくってしまう着物の少女。


 まあそうだよね、話した私でもげっそりした。


 胸に残る黒い塊は、吐き出し切れない。


 未だに思い出しただけで喉が塞がる。



「綴は、」



 ぼんやりとした私の意識に、着物の少女の声が入り込んでくる。


 

「ん?」


「綴は、その子にーー…」



 と、何か言いかけた直後。



「あ」



 保健室に着いてしまった。



「先生ー…っていない」



 ガラリとドアを開ければ、保険医も留守にしているようで誰もいなかった。



「はい」



 保健室の長椅子に降りる様促すと素直に座る着物少女。


 足をふらふらと彷徨わせて、何処か考えている様子だった。



 そうだ、今更だけど。



「それで、名前–––」


『1年生、唐堂綴。今すぐ職員室に来なさい』



 放送に邪魔された。


 ピンポンパンポーンという音ともに溜息が出る。



「ふふっ…綴行ってきなさい」


「大丈夫なの?」



 あんな咳き込んでいたら心配にもなる。


 けれど。



「大丈夫よ、使用人を呼ぶから」


「あらそう…」

 

 

 庶民に馴染みのない“使用人”という言葉の破壊力よ。


 振り回されただけじゃんかという気持ちと、何でか別れるのを惜しくなる気持ちを抱えながら、保健室の入り口まで歩いて行く。



「綴」



 明瞭な声に振り返る。


 白い手をひらひらと振るいながら。



「また会えたら教えてあげる、私の名前」



 同じ世界の人間とは思えない、異世界の住人の様な空気を醸し出す着物の少女は、それだけ言って直ぐにそっぽを向いていた。


 もう興味ないと態度で表す彼女に、憤りを取り越して呆れてしまう。


 

 しょうがない…。


 

 私は先ほどより重いため息を吐いて、



「またね」



 と言って、今度こそ保健室を後にした。




–––この時の私達は、この出会いを直ぐに忘れてしまった。


 忘れてしまったのはお互い理由があって。


 一方は本当に瑣末ごととして忘れ、もう一方は。

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