熱烈アプローチ (2)


 男子トイレは空いていた。小便器の前に立ち、制服のズボンのチャックを下ろし、ブツを取り出す。用を足す間、俺はつかの間の快適を謳歌していた。小便だ。ほんの数十秒の短い間だが、とても心休まる時間だ。


 ああ、石川がいない学校はこんなにも平和なのか。


 思わず頬が緩む。


「ひっ!」


 そして、俺の顔を見た隣の男子生徒が短い悲鳴を上げて、足早にトイレを去っていった。

 ズボンの裾に少しだけ小便を引っかけていた。汚いやつだ。まあ、気持ちは分かる。誰だって、トイレで用を足しながら不敵に笑っているやつがいたら不審に思うものだ。


 俺が男子生徒に同情していると、トイレの外で大きな声が上がった。


「猪熊先輩! まだですか? 倒れていないですか? 入りますよ?」


 石川だった。

 アイツ、よりによって男子トイレに押しかけてきやがった。

 このまま男子トイレに侵入させるのはマズい。俺はまだ小便の途中だ。ブツが、急所が丸出しだ。


「石川! 平気だ! 教室で待ってろ!」


 男子トイレの狭い空間に俺の声が反芻した。それがとても耳障りだった。


「分かりました! ごゆっくりどうぞ!」


 しかし、石川は納得してくれたようで、男子トイレから離れていく足音が聞こえた。

 もうちょっとで石川に、排尿と言う情けない姿を晒すところだった。


 いや、石川には少しくらい幻滅された方がちょうどいいのでは? いや、それでも小便姿はあんまりだろ?

 もはや意味不明の心配をしながら、俺はしっかりとブツを振って水滴を落としてパンツの中へ収めた。社会の窓もしっかり閉めた。

 洗面台でしっかりと両手を石鹸で洗って、それから男子トイレを後にした。


 教室には戻りたくなかったので、屋上にでも逃げようかと思ったが、後が怖いので大人しく教室に帰ることにした。あのサイコパス石川なら、俺が帰ってこないと知ったら、校内放送でも何でもして、俺を探し始めるに違いない。いや、放送部がアイツの言葉に従うかは微妙だが、美少女の力で何とかしそうな気がする。


 うん。考えていてこの考えの妥当性に空恐ろしくなった。


 アイツならやりかねない。


 昔、俺が万引きを疑われた時に、言われた言葉だが、今はその言葉に深く共感してしまった。まあ、監視カメラのお陰で俺の疑いは晴れたのだが、石川はもはや執行猶予を与えられるレベルを超えている。


 教室に戻ると、石川は俺の席の傍でソワソワしていた。しかし、俺の姿を見つけると、足早に近寄ってきた。その様は子犬のようで微笑ましくあったが、俺個人の見解としては恐怖以外の何物でもなかった。


「先輩! 遅かったですね!」


 お前がトイレに押しかけてから、三分と経過していないぞ。


「先輩が心配で、あと十秒遅かったら、校内放送を頼もうかと思案していたところです。でも、良かったです。先輩が帰ってきてくれて」


 やっぱり、校内放送とか考えていたのか。

 予想が当たっていたことは、喜びよりも恐ろしさが勝っていた。

 コイツ、本物だ。本物のヤバいやつだ。


「いしか――」

「何ですか、先輩?」


 石川は俺の言葉に、食い気味に反応する。


「……何でもない」


 その機敏な反応が辛くて、俺は言葉を濁し、頭を抱えた。

 くそ。誰かコイツをどこかに連れて行ってくれ。


「先輩?」


 だから、その大きな目を緩ませるのを止めろ。俺が悪人みたいじゃないか。

 しかし、そんなことは口にできなかった。


「あ、もうお昼休み終わりですね! また、放課後来ます!」


 そう言い残すと、石川は俺を残し、教室を出て行った。まるで嵐のようだった。

 そして、その嵐はまた放課後、俺のところにやってくる。


「……チクショウ。俺が何やったよ?」


 いや、アイツをぶっ飛ばしたことは言い逃れも無いくらいの事実なのだが、それがこんなにも罪なことだとは思わなかったんだ。俺からしたら、降りかかってきた火の粉を払っただけの話なんだ。それが、どうしてこうなった。


 俺の弱気な声は、クラスメートにも聞こえず、教室の温い空気に溶けていった。と思ったが、俺の声を聞いていてくれる人がいた。


「だ、大丈夫、猪熊君?」


 隣の席の三太郎だった。三太郎は実に俺を心配してくれている様子で、ソワソワしていた。その様子が何だか微笑ましくて、俺は少しだけ気が楽になった。


「猪熊君?」


 三太郎は俺の目を覗き込んだ。

 三太郎の目は俺の三白眼よりずっと大きくて、まつ毛が長かった。


「お前、女みたいな目してるのな」


 しかし、どうやら三太郎もそのことを気にしていたらしい。プンスカと怒り出した。


「ひ、ひどい。気にしてるのに……」


 およよと泣き真似をして三太郎は俺から目線を外した。その様子が何だか可笑しくて、俺は少しだけ肩の荷が下りた気持ちになった。


「すまん、すまん。中性的で格好いいって話だ。ほら、機嫌直せ。パン食うか?」


 ズイッと身体を伸ばし、学生用のロッカーからパンを一つ掴んで、三太郎の前に差し出す。


「だから、僕は小麦アレルギーだって……」

「ああ、そうか。すまん」


 すっかり頭から抜けていた。食いたくても食えなかったんだった。

 俺は手にしたパンに視線を移す。パンのパッケージには『米粉で作ったパン!』と大々的に印字されていた。

 米粉。米粉ねえ。


「……三太郎。米粉のパンだけど、食えない?」


 すると、三太郎は嬉しそうに顔を上げた。


「米粉? 米粉なら食べられるよ、僕」


 俺は仲直りの証に、三太郎にパンをあげた。俺としても、手元のパンが減り、三太郎もパンが食える、ウィンウィンの関係だ。

 これが、俺と石川の関係だったら、どんなに良かったことだろうか。


 三太郎には胸の内を明かさないまま、午後の授業が始まった。

 それから、気を取り直して午後の授業を楽しんだ。少しでも気になることがあれば挙手して聞いた。やけっぱちだった。しかし、各授業の先生はまるで不良が更生したかのように、嬉々として俺の質問に答えてくれた。その優しさが、少しだけ救いだった。


 放課後はすぐにやってきた。

 昨日と同じく、帰りのホームルームが終わる前に教室の後ろの扉が開く。


「猪熊先輩! あ、まだホームルーム中でしたか。失礼しました」


 石川は少し成長しているようだ。教室内の空気を読むと、すぐに引っ込んだ。

 担任の相坂先生が優しそうに微笑む。


「猪熊。良かったな」


 何が「良かったな」だよ。代わってくれよ。頼むから。

 しかし、そんなこと口にできず、「ま、まあ」と生返事をするだけだった。


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