猪熊翔堂 (2)
突然の告白だ。いや、もちろん俺もそういう話だろうとは当たりをつけてきたわけだけれど、実際に愛を告白されるとドキドキするものだ。心臓がビートを刻んでいるとでも表現すればいいのだろうか。エイトビートか、十六ビートか。いや、今はそんなことはどうでもいいし、俺は音痴で音程とかリズムとか良く分からないんだけどさ。
女生徒は頭を深く下げたまま、俺の返事を待っている様子だった。右手がピンと俺の方に伸びている。だから、俺も今日一日考えていた返事をする。
「お、お互いのことまだ良く知らないから、と、友達からお願いします」
向こうは俺のことを知っているかもしれないが、俺はまだ相手のことを知らない。また、相手も俺の噂話くらいしか知らないだろうから、表現が適切かは分からないが、「生」の俺は知らないはずだ。だから、お互いのことを知ることから始めましょうという返事だ。我ながら、妥当な落としどころだと思う。妥当過ぎて、口からバケツ一杯の砂糖を吐きそうなほどだ。
かなりどもっているが、伝えたいことはちゃんと言葉にしたつもりだ。これで、ちゃんと伝わっているか不安だが、後は向こう次第だ。俺の言葉を、好意的に受け取るか、それとも――。
女生徒の反応が気がかりだったが、しかし、俺の返事を好意的に受け取ったのだろう、少女は頭を上げると、喜びの表情を浮かべ――。
「――誰ですか?」
一瞬で真顔になった。それはもう、びっくりするくらい真顔だった。喜怒哀楽のどの感情も顔に出ていなかった。目は死んだ魚のようだし、頬の血色も悪い。唇は真っ青だった。
しかし、呼び出しておいて「誰ですか?」はないだろ。相手の顔くらいは把握しているんじゃないのかよ。まさか――。
「二年三組の猪熊だけど……。一年の石川さんじゃないの?」
俺は恐る恐る尋ねるが、恐れていたことが起きた。
「いえ、違います。一年の佐藤です。石川さんって、誰ですか? 私、同じクラスの田中君を待っていたんですけど……」
石川さんじゃなくて佐藤だった! 人違いだった!
超絶恥ずかしい。勝手に惚れられたと勘違いして、勝手に返事をしてしまった。それもどもりながら。羞恥この上ない。チクショウ。
しかし、それならそれで話が早い。お互いに相手を勘違いしただけだ。なら、やり直しすればいい。仕切り直しだ。幸い、俺の相手である石川さんも、彼女の相手である田中君もこの場にはいない。無かったことにしてしまえば良い。
「ああ。すまん。俺は石川さんって人を待つから、佐藤も田中君とやらを待ってくれ。実にすまん」
平謝りだ。だって、俺が勘違いしたのも悪いが、相手の顔さえ確認せずに告白した佐藤も十分過失ありだ。俺は女の子には基本的に弱いが、イモくさい彼女は別だ。一歩も引かない、堂々とした態度を取らせてもらう。だって、同じ人間だろ? 俺は基本的には男女平等主義者なんだ。だから、ここは痛み分けとしてもらおう。
しかし、佐藤は顔面から火が出るくらい顔を真っ赤にして、俺に抗議してきた。感情が表情に宿る。それは、怒りだった。
「わ、私! 精一杯! 勇気を振り絞ったんです! それなのに!」
確かに、彼女がうっかりとは言え、人生にそう多くはないであろうガチ告白を聞いたのはちょっと申し訳ない気持ちになったが、過ぎたことをいつまでもうだうだ言われてもどうしようもない。貴重な体験だったと思うが、それ以上の感情は無い。
「分かった。実にすまん」
その場で分かりやすく地団太を踏む佐藤をあしらいながら、俺は周囲を見渡した。やはり佐藤以外の女生徒の姿は無い。部活や委員会活動だろうか。いや、それなら「放課後」ではなく、ちゃんとした時間を指定するはずだ。時間指定が無いってことは、帰りのホームルームが終わってすぐのはずだから、ホームルームが長引いているのだろうか。特に一年は担任の教師も気が張っていることだろうから、ホームルームは長くなりがちだ。去年の俺の経験談だ。
まさか、誰かの凝った悪戯ということは無いだろうか。……あり得る。つい一週間前、二年四組の長宗我部とちょっとした口論とつかみ合いになった。まあ、幼稚園からの腐れ縁である長宗我部とのじゃれ合いみたいなものだ。俺も、アイツも、本気では無い。……はずだ。しかし、あの腹に一物ありそうな長宗我部なら、こういった陰気な真似をするかもしれない。クソ。長宗我部め。俺が女の子に弱いとどこからか聞きつけて、わざわざこんな手の込んだことをしたのか。もしそうなら、今度こそアイツを保健室送りにしてやる。主に打撲で。全治二週間くらい。軽めに。ボコッと。
少しだけ、気弱になったところに、声をかけられた。
「あ、あの」
男子生徒の声だった。俺は落胆しながらも声の主に振り返った。そこで、先ほどの佐藤とか言ったイモくさい女生徒が歓喜の声を上げた。
「た、田中君!」
ああ。コイツが想い人の田中君か。
田中君はスラッとした細身の体型で、髪を少し茶色に染め、ワックスでふんわり固めた、実に今風な好青年だった。身長は百六十五センチメートルくらいだろうか。高校一年にしては平均的な身長であるが、細身だからとても華奢に見える。
その田中君は、子犬っぽい人懐っこい顔を破顔させ、女生徒に近寄った。
「佐藤さん。お話って何ですか? それと、この人は?」
田中君は俺の方を訝しげに見てくる。その好奇の視線が、かなり煩わしい。
「俺は無関係だ。ほら、佐藤とか言ったか? 話、あるんだろ? ちゃんと伝えろよ」
俺はちょっとだけ格好をつけて、その場を少し離れた。しかし、俺も伝説の亀像に用事があるので、あまりこの場を離れるのは気が引けたのだ。距離にして十メートルほど離れた。もちろん、人の告白の場面、特にイモくさい女生徒の告白など見たくもないから、正直な話、もう帰りたいのだが、まだ見ぬ石川さんに会うまでは、俺も帰るわけにはいかない。今日一日、俺もヤキモキしたんだ。俺自身の結果を見届けるまでは、帰れない。
もちろん、長宗我部の陰謀ならこの足で長宗我部を追いかける。長宗我部とは幼稚園からの腐れ縁なので、家も知っている。と言うか、近所だ。徒歩十分もかからない。アイツの家にダッシュで押しかけて、そのまま二、三発かましてやる。アイツの両親は共働きだから、家にはアイツ一人だけのはずだ。チャイムを鳴らして、無防備に出てきたところを、軽くボコって、それで手打ちだ。アイツの喧嘩の実力は良く知っている。俺なら、アイツから一発も貰わず、一方的にボコれる。
何も隔てる物が無いので、佐藤の告白は良く聞こえた。
「あ、あの、田中君!」
気持ちを振り絞っているのが、良く伝わる。その必死さは、とても健気で、尊いもののように思えた。やがて、先ほどの俺に間違えて告白した時とは違い、力の抜けきった声で、囁くように思いを告げる。
「……好き、です」
言った。
やったな、佐藤。やるじゃないか。俺相手じゃなくても、本物の相手に、本物の想いを告げられたじゃないか。
良かったじゃんか。俺相手に予行練習ができて。今の方が、随分スッキリした告白だぜ。その方が想いが伝わるってもんだぜ。
イモくさいお前じゃ、あか抜けた田中君の答えはちょっと期待できないけど、その勇気、ちゃんと俺が見届けたからな。
「付き合ってください!」
佐藤は先ほどの焼き増しのように、頭をガクンと下げた。腰が直角に曲がっている。見事なお辞儀だ。またスッと右手を差し出している。
ああ。いいな。人の生の感情を伝える瞬間は、見ていて琴線に触れるものがあった。
頑張ったな。佐藤。もう、いいじゃないか。お前は良くやったよ。
などと、俺が人知れず佐藤の想いに同情していると、田中君は実にさっぱりした声で言うのだ。
「僕もです! よろしくお願いします!」
田中君は佐藤の右手をギュッと握りしめた。
マジか。
マジのマジか。
やったじゃん。
告白、成功したじゃないか。
イモくさい佐藤とあか抜けた田中君でカップル成立かよ。
俺は佐藤と一緒に喜びを分かち合いたかったが、当の佐藤はその返事が信じられないようで、ドン引きするくらい号泣していた。
「う。うわーん。だ、だながぐん、ぼんどう? ぼんどうにわだしどづきあっでぐれるの? わ、わだし、うれじいー」
顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら、佐藤は感激していた。顔面が蜂にでも刺されたみたいに真っ赤になっている。
その一連の告白を見届けた俺も、訳が分からなくなって、いつの間に拍手していた。
パチパチパチと俺の拍手が校舎裏に響く。佐藤を祝福するのが俺の拍手だけとは少し寂しいかもしれないが、その代わり、俺は精一杯拍手した。手が痛くなるほどに、熱く、強く、叩く。
「おめでとう。おめでとう、佐藤」
俺は声高に二人を、佐藤を、祝福した。
「あ、ありがどうございまず」
俺の称賛を、佐藤は素直に受け取った。
田中君は涙で一杯の佐藤の肩を優しく抱きながら、ポケットからハンカチを取り出し、佐藤の顔をそっと撫でる様に涙を拭う。そんなキザな仕草が妙に似合っていた。
「佐藤さん。ほら。涙を拭いて」
「あ、ありがどう、だながぐん」
感極まっている。
そのまま、田中君がエスコートして二人は伝説の亀像の前からいなくなった。
あの二人は、これから愛を囁き合ったり、時には喧嘩をしたりしながら、二人だけの愛を育んでいくことだろう。それに、伝説の亀像の噂が本当なら、二人はこれから、一生を添い遂げることになるだろう。俺は、心の片隅でそうなれば良いな、と感傷に浸っていた。
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