第2話
***
真実な出来事であってこそ、後世に引き継がれ、人々の心を震わせることが出来る。
正彰は常日頃からそう思っていた。
地球上の歴史だって、真実だからこそ全人類の共通認識となっている。
だから、正彰でも真実な文章を書けば形として残せる、そう信じてやまなかった。
もちろん、そこまで影響を与えられるような文章を書けるだなんて正彰自身も思っていなかったが、理想は高ければ高いほどいい。
正彰は真実を文章に落とし込もうと、常日頃から意識していた。
しかし、真実というのは、誰かにとって都合の悪いものになる可能性もある。
今回、金盛の自叙伝を書いて欲しいという依頼があった時も、正彰は事実を書こうとした。敏腕な二代目社長として世間に知れ渡っている金盛だったが、それは表向きだけであって、裏では人に対する敬意はなかった。その真実を踏襲して自叙伝を書こうとした正彰だったが、イメージダウンを畏れた金盛は正彰から手を切った。自叙伝は、嘘で塗り固めた文章を綴る鎚里の手によって書かれることになった。
真実が持つ影響力を誰もが知っているからこそ、だった。真っ当に生きている人間であれば気にも留めないことでも、何か疚しいことを感じながら生きている人間にとって、真実とは不都合以外の何物でもないのだ。
それゆえ、正彰が仕事を逃したことは、金盛の件に限ったことではなかった。
実際のところ、金盛以外の相手からも、似たような旨を伝えられたことがある。だから、正彰は自分には文章の才能がないと感じ始めていた。もしくは、世間一般が求めているものと正彰が書きたいものには、絶対的な違いが生じていると認め始めていた。
正彰は細々としたウェブの記事でしか、仕事を達成したことがなかった。
文章が好きで自分も何か残したいという思いだけで始めたライターだったが、結果も満足に出せない今、畳み時ではないかと思い始めていた。
そんな最中――、
「よく金盛社長のことを書けているね。ここまで書けることは凄いことだ」
突如現れた初老の人物は、正彰のことを手放しに褒めてくれたこともあって、まさに神のように思えた。
しかし、ここは現実だ。普通のカフェにいる正彰の前に、いきなり神が現れるわけもなく。
「……なんで」
まとまらない頭で、必死に疑問を紡ぎ出す。
僅かな時間とはいえ仮眠していたのだから、まだハッキリと頭は働かなかった。正彰がぼんやりとしていることを察したのか、正彰の隣に座る初老の人物はマスターに対して指を一本立てた。すると、マスターはすぐにホットコーヒーを淹れて、正彰の前に置いた。
初老の意図を汲み取ることが出来なかった正彰は、
「これは……?」
「私の奢りだよ。もし良かったら飲んでくれ」
無理強いをしない奢り方だったから、名前も知らない初対面の初老の厚意に甘えることにした。「ありがとうございます」と、コーヒーをゆっくりと口に含んでいく。二杯目のホットコーヒーは、正彰の頭がフル回転するための手伝いをしてくれる。少しだけ頭も冴えて来た。
「えっと、どうして俺が書いた文章が金盛社長について書いているって分かったんですか? 名前は書いていなかったはずなのに」
正彰が一番聞きたいことだった。
「金盛くんが社長になる以前だが、かつて個人的に交友があってね。それでこの文章を読んだ時に、真っ先に彼の姿が思い浮かんだんだ。君の文章には、正確に人となりを記す力があるみたいだね。私と交友があった時と、全く変わっていないようだ」
初老の人物は、正彰をおいて一人で楽しそうに笑っている。
正彰の頭に疑問がグルグルと回っていく。金盛をまるで赤子のように懐古するこの人物は、一体何者なのだろう。
「あぁ、一人で盛り上がってしまったね。実は私はこういうものなんだ」
そう言うと、初老の男は丁寧な挙動で名刺を渡して来た。そこには「トゥルースランド株式会社 社長 真田倫幸」と書かれていた。
「え」
正彰は純粋に驚きを隠し切れず、素っ頓狂な声を上げた。隣にいる初老――真田の顔と名刺に書かれた情報を、何度も何度も見比べてしまった。
トゥルースランド株式会社と言えば、日本で有名な会社だ。誰もが一度は間接的にお世話になったことがあるほど影響力の強い会社の社長が、どうしてここに。一度は冴えたはずの正彰の頭だったが、あまりにも予期せぬ大きな出来事に、またしても頭を悩ませることになった。
真田は微笑を漏らすと、「君について教えて貰えると嬉しいのだけど」と遠慮気味に正彰に問いかけて来た。「は、はいっ」と、正彰は胸ポケットにしまっていた名刺入れから名刺を取り出した。
真田は興味深げに名刺を見ると、「徳井くん、ね」と正彰の苗字を口にしてから、名刺をしまった。
「徳井くんに執筆の仕事を正式に依頼したい」
「はい?」
突然の真田の発言に、正彰は疑問符を口から漏らす。
微睡みから醒めて真田と出会って以降、正彰の心はずっと動揺しっぱなしだった。
「私ももうそろそろ社長を引退しようとしていてね。その前に、自叙伝を残しておきたいと思っていたんだ。ここで出会えたのも何かの縁だということで、是非依頼したい」
「で、でも俺は、金盛社長からも仕事を断わられたような人間ですよ……。ガキみたいな文章しか書けないです」
思わず自己否定をするような言葉が出てしまった。しかし、それは事実だ。真実を取り入れたいと願う正彰の文章は、金盛だけでなく、会う人会う人から否定され続けた。信じ続けた理想と正彰を結んでいるのは、糸のようにか細いプライドだけだ。
仕事をやんわりと断わろうとした正彰に対して、全てを受け入れるかのような、柔らかい笑みを真田は浮かべた。
「確かに、徳井くんの文章は幼く拙いかもしれない。けれど、それをカバー出来るような魅力が、君の文章にある。私は君の人となりを正確に記す力に惚れ込んでしまったんだ。私が全ての責任を取るから、是非お願いしたい」
「そ、そうですか」
まさかそこまで褒められるとは思ってもいなかった正彰は、照れ臭さを感じてしまい、真田と顔を合わせることが出来なかった。
辞退の言葉を紡がなくなった正彰を肯定的に捉えたのか、「では、受け入れてくれるということでいいね」と真田は言った。真田みたいな大きな業界人に褒められて断わる人はいないだろう。無論、正彰も例外ではなく、「あ、はい」と首を縦に振った。
真田は重厚かつ柔らかい笑みを浮かべると、
「必要な情報は何かあるかい? 徳井くんが望むものなら、全て用意するが……」
顎に手を触れながら、正彰に訊ねた。正彰は瞬間考えたが、迷う必要がないことに気が付いた。真実を伝えたい、という想いは、相手が誰であろうと変わらない。
「あ、と。そしたら、真田社長について行ってもいいですか?」
「え?」
正彰の言葉は真田の想像していた言葉を超えていた。ここに来て、素の声が初めて真田の口から漏れた。
「俺、書くならその人のことを分かって、正確に書きたいんです。裏も表も、全部余すことなく、真実を伝えたい。そのために、真田社長について詳しく知りたいんです。だから、暫くの間でいいので、可能な限り俺を近くに置いてください」
正彰の言葉に、真田は言葉を返すことなく、真顔で見つめていた。その振る舞いに、正彰は出過ぎた真似をしてしまったことを悟った。当然だ。相手は、日本を支えるような会社の社長なのだ。ここで会って仕事を貰えたことさえも、信じられないほどの奇跡なくらいだ。
しかし今、考えなしに自分の主張を貫いたことで、その奇跡を自ら壊そうとしている。
「す、すみません。冗談なので気にしないでください」
正彰は今までにないくらい頭を深く下げた。
けれど、真田の返答は、正彰の想像を超えるものだった。
「謝る必要はないよ。むしろ、私も同じ気持ちだった」
「え?」
「私のことを正しく知ってくれる人に、正確な文章を書いてほしいと思っていたんだ」
これまで真実を残そうとしたら、否定されて来た。
当たり障りのない文章を、誰もが求めているのだと思っていた。
なのに、正彰と同じ想いを抱いている人がいるなんて。しかも、相手は高い地位を築き上げている、日本を誇る大企業の社長だ。
正彰の心を奮わせるには十分だった。
伸ばされた真田の手を、正彰は握る。真田の手は大きかった。
「では、早速だけど、これから約束があってね。一緒に着いて来てもらってもいいかな?」
「はい、もちろんです」
そして、真田は何も言わずに伝票を手にすると、正彰が自分で頼んだ最初のコーヒー含めて、すべての会計を払ってしまった。
真田の器も、また大きかった。
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