第1話

 ***


 徳井正彰は嘘が吐けない人間だった。


 彼は駆け出しのライターであり、出来るだけ事実に基づいた内容を書こうと常に心がけている。もちろん、文章を盛り上げるために脚色を加えることは時折あるが、嘘を交えたことは一度もなかった。


 真実であってこそ記録として残す価値があり、虚偽は時間と共に記憶から薄れていくもの。だから、真実な文章を書き記したい――。


 大学を卒業してから年月はそんなに経過はしていないが、正彰の胸中にはずっと理念があった。


 しかし、現実はと言えば。


「いやぁ、鎚里さんの文章は素晴らしい!」


 正彰の倍近くの年を重ねている鎚里晧也を、重厚そうな声を上げて褒め称えるのは、今回の依頼主である金盛社長だった。


 金盛は前社長でもある父親からそのまま地位を引き継いだ、いわゆる二代目社長だ。金盛が社長を任されるようになってから、様々に紆余曲折があったのだが、その武勇伝を本にしたいという募集があり、正彰は早速応募した。金盛の部下による厳選な抽選により、正彰と鎚里が最終候補に選ばれることになった。

 どちらに執筆を任せるか判断するために、序章部分を正彰と鎚里に書かせて提出させた。しかも、金盛社長が出した条件は、金盛の名前を出さずにどれだけ人となりを表現できるのか、というものだった。


 事実に基づいた内容を書きたかった正彰は、迷惑だと分かりながらも金盛に頼み込んで、一週間ほど後ろについて仕事ぶりを観察した。金盛は「まるで有名人になった気分だよ」と豪快に笑って受け入れて、自分の武勇伝を惜しみなく伝えていた。

 正彰は、金盛の言葉と金盛の行動を、忠実に自叙伝として書いたつもりだった。


 その結果発表がまさに今なされているのだが、仕事を勝ち得たのは先ほどの金盛の言葉通り、正彰の競争相手であった鎚里だった。


「いやぁ。僕なりに金盛社長の素晴らしいところを、ふんだんに書かせてもらったのですが、お気に召したようで何よりです」


 媚びへつらうように鎚里は言う。四十半ばだというのに、鎚里にとって自分のプライドを捨てるのは容易いことだ。鎚里の言葉に気を良くした金盛は、満足気にうんうんと頷いて、


「今回の執筆は、鎚里さんに任せるよ」

「ありがとうございます」


 正彰をおいて、とんとん拍子に話が進んでいく。


「あの、おれ、……っと、僕は」


 いたたまれなくなった正彰は、ついに自分からおずおずと問いかけた。すると、「ああ、徳井さんね」金盛はまるで今存在を認めたかのように、正彰に目を向けた。けれど、その瞳は、路傍に置かれている石を見るかのように熱が伴っていなかった。一週間ほど一緒に過ごしたはずなのに、と正彰は少しだけショックを受ける。


「君の文章は面白味がないんだよね。確かに事実を書いてほしいとは言ったけどさ、学生みたいに人の言葉を真に受けないで少しは忖度してほしかったわけ。大人になるためには必要な能力だよ?」

「は、はぁ」

「その点、鎚里さんは素晴らしい。やはり伊達に年齢を重ねているわけではない」

「へへ、もったいない言葉です」


 鎚里と金盛のやり取りを、正彰はどこか冷静に眺めていた。


「では、今日すべき話は済んだので、二人にはお暇願いましょう。鎚里さん、後日また連絡いたします。徳井さん、また機会があればお会いしましょう」

「へい、失礼します」

「あ、ありがとうございました」


 社会人らしい形式的な挨拶を受けると、正彰も鎚里も頭を下げて、金盛社長の部屋を後にした。


 そして、そのまま自社ビルを出るとすぐに――、


「おたくさぁ、もうちょっと要領よく出来ないの?」


 今まで媚びるような話し方をしていた鎚里が、まるで人が変わったかのように正彰に話しかけて来た。その豹変ぶりに、「え、え」と正彰は言葉を詰まらせる。正彰の反応に、更に鎚里は溜め息を吐いた。


「この世界に何を期待しているかは知らんけどさ。たとえ事実を書いたとしても、クライアントの意向を削ぐような文章書いたら受け入れて貰えないなんて、ガキでも分かるだろ。金盛社長の私生活なんて、とても文章として残せる代物じゃないし、どこに需要があるんだよ」


 一週間金盛に付き添いをしていたが、鎚里の言う通りだった。経営は上手いのかもしれないが、人に対する敬意はなかった。部下に対しては荒い口調だったし、公共施設などを使う際のマナーも傲慢な態度で、付き添いをしながら恥ずかしい思いをすることが正彰には何度かあった。

 金盛の私生活を書くべきかは正彰も確かに迷ったが、自叙伝として書き上げるためには隠すものではないと判断し、事実を書いたのだった。


 何が楽しいのか、鎚里は卑屈な笑い声を漏らす。


「この世界で生き残るには、自分のプライドなんてゴミみたいなもんだぜ。事実を変えてでも人の興味を惹きつけなければならないし、特定の誰かを傷つけてでも不特定の誰かの気に入るように文章を書く必要だってあるし、なんなら自分の苗字とか名前を変えてでもしがみつかなければいけない時だってある。何のために書いてるんだっけ……、あぁ生活するために書いてるんだって思えるようになってこそ、プロのライターになるんだ」


 鎚里の意見も一理あるものかもしれない。けれど、その結果が死んだような目をして媚びへつらうことになるのなら、正彰は願い下げだった。「はぁ、そうなんですか」、と受け流す。


 しかし、正彰の言葉を肯定的に受け止めたのか、鎚里は親指と人差し指をくっつけて、口元に近付けると、


「どうだい、これから一杯やってくかい? 俺の処世術、安く売るぜ?」

「いえ、結構です」


 二回しか顔を合わせていない人間――しかも、商売敵である人間と、一緒に食卓を囲むことは考えられなかった。即答した正彰に、鎚里は大袈裟に肩をすくめた。


「これだから、最近の若者はつまらねぇ。今回の報酬で、最初の一杯くらいなら奢ってやろうと思ったのに。あぁ、俺の特ダネを聞く機会を捨てるなんて、後悔しても知らねぇからな」


 そう捨て台詞を残して、鎚里は去っていった。


「つまらねぇ大人なのは、どっちだよ」


 去り行く鎚里の背中を見つめながら、正彰は誰にも聞こえないくらいの声量で呟いた。


 そして、正彰は鎚里とは反対方向に向かって歩き出すと、いつもの習慣でカフェに入っていった。常日頃利用しているカウンター席に腰を掛けて、ホットコーヒーを頼む。コーヒーが出てくるまでの間、パソコンを立ち上げ、書類の束を並べた。書類の内容は、先ほどの金盛についてまとめたものだった。誤字脱字を見つけようとしたところで、


「いや、意味ないんだったわ……」


 正彰は自分の行動の無意味さを悟って、机の横に置いた。今更確認したところで、これが仕事に繋がるわけでもない。

 同時、店のマスターがコーヒーを机に置いたので、正彰は軽く会釈をしてコーヒーを口につける。ブラックコーヒー独特の苦味が、失望した正彰の心を更に刺々しくさせた。


「社長の私生活を、ちゃんと書いただけだったのにな」


 もちろん好みなんて人それぞれだ。鎚里が書いた文章をちらりと見たけれど、金盛のことを敏腕社長かのように扱って綴られていた。確かに金盛にはそういう一面もあったが、いいところだけを切り取ってその人の本性を隠した文章を、果たして自叙伝として扱ってもよいのだろうか。

 それとも、正彰の意見はただの理想論に値してしまうのか。


 考えても仕方のないことに、正彰は思考を費やしていた。


「切り替えよう」


 グイっとホットコーヒーを呷ると、正彰は次の仕事に向けてキーボードを叩き始めた。と言っても、内容はどこかのサイトで小さく取り扱われるウェブ記事だ。そのせいか、一向に考えがまとまらず、いつの間にキーボードを叩く指も止まってしまった。


 ぼやける頭で考えていると、いつの間にかウトウトと睡魔が襲い掛かって来た。

 誰かがカウンターの隣の席に座った気がしたが、正彰を目覚めさせるまでには至らない。


 そのまま世界が闇に包まれて。正彰が微睡みから戻ったのは、


「これ、君が書いたのかい?」


 とハッキリと正彰に対して声を掛けられた時だった。

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