第三話

 ──戦、乙女、か。


 グレンセラ城前のアリアンロッド広場。

 中央には白皙の石像──伝説の戦乙女、アリアンロッドが剣を振り上げた姿で立っている。


 アリアンロッドは丘を谷を駆け巡り、命を賭して戦い、動乱の世を鎮めた英雄。グレンセラの統一を前に花と散った。

 その像の前に、今。アルスノは立っている。



 ──その瞳は、総てを捉えてきたのだろう、


 数々の争いを、人間の栄華の果てを、


 憎しみの行き着く先さえも、



 夜風に吹かれる静かな夜に、独り。過ぎ去っていった人とときとを追憶していた。


『――アルスノ』

 静かに、穏やかに名を呼ぶ声。アルスノは、はっとして後ろを振り返った。

「……何だ、気の所為か」

 落胆したように、諦めが声に滲んだ。

 だが、そう思った瞬間、次々に声が脳裏に蘇ってきた。



『――あっ、あにうえ!』

 未だ、純粋で、無垢な己の声。

『しっ、内緒だからね。僕がここに来るのは』

 優しく諭す兄の穏やかな声。

『しーっ、わかりました。きてくれてありがとう、あにうえ』

『お菓子を持ってきたんだ。お食べ』

『わあ、ありがとう、あにうえ!』

『よく噛むんだよ』

『はーい!』

 優しい光に包まれたほんの、ひととき。二人だけの平和で静かな世界。

 その時間は、その空間は、幸せが詰まっていた。



 もう、あの日々は、戻らないのだろう。


 分かっている。温もりも、何もかも、私は。失ってしまったのだから。



 アルスノは少しの間立ち竦んだ。


 重い、重い扉だった。やっとの思いで扉を開ける。すると、ほんのり紅く色づいた秋桜色の瞳がまたたいた。


 目の前にいるのは、グレンセラの第一王子パーシバル。アルスノの、兄である。


『……兄上』

『アルスノ? ……っ、アルスノ!』

 哀しい瞳で此方を見つめる兄。随分やつれている。やはり、病状が悪化しているというのは、本当なのだろう。姿を見るのは、いつぶりだろうか。本当に、久しく会えていなかった。

『ごめん。……ごめんね、アルスノ』

 ゆっくりと歩いて、兄は弟を抱擁した。腕に骨が当る。痩せ細っている兄の身体。

『……何故。兄上が、謝るのですか』

『アルスノが生きていて、本当に良かった。こんな不甲斐ない兄でごめん。僕は、アルスノを守りたかった。それなのに――』

『兄上の所為ではありません。貴方が事を起こしたとしても、何も、変わらなかったでしょうから』

 アルスノは兄を引き離した。だが、喘鳴ぜんめい混じりに、兄は懸命に弟に語りかける。


『もしも、僕とアルスノが普通の兄弟だったら、こんなに苦しまず、平和に暮らしていけたのかもしれない。……もしも、次が、あるのなら……』

『次なんてありません。貴方も、私もあまりに多くのものを失いました。そんな事を考えても、何の意味も成しませんから』


 アルスノは兄の言葉を遮断した。否定することしか、出来なかったのだ。それでも、パーシバルは、未だ語らいたかった、愛する弟と。

『どうか、お願いだ。兄としての、最期の願いだ。――幸せに、なってくれ』

 幸せを願う兄の姿、そして、慈愛に満ちたその言葉。

『……どうして』

 その瞬間、アルスノの身の中に在る何かが爆発した。


『どうして、どうして! そんなことを言うんです。こんなに、優しいから……憎むことも、恨むことも出来やしない! 貴方が悪人だったら、どれほど。どれほど良かったか!』

 感情を昂らせ、アルスノは泣き叫ぶように怒鳴った。

『ごめん』

 兄はずっと、謝っていた。



 昔から、兄は本当に優しい人だった。今でも不思議に思う。何故あの環境で、こんなに優しい人が育ったのだろう、と。優しい兄の事が、ずっと大好きだった。


 あれは七歳の頃。母を亡くし、途方に暮れていた時、監視の目を潜って密かに兄は私を訪ねてきていた。それが、私にとっての唯一の救いだった。兄がいれば、それでいい。そう思っていた。

 でも、長くは続かなかった。正妃の手の者に見つかり、兄は無理矢理引き戻され、私は鞭で打たれた。鞭の痛みよりも、兄と会えないことの方が、辛く苦しかった。母も奪われ、兄も奪われ。


 何故。救いを望むことさえ許されないのか。

 何故。私はこれほどまでに憎まれているのか。


 その答えを、誰も教えてくれない。だから、もう、何も期待しないことにした。失望するくらいなら、最初から期待しなければいい。崩れる関係なら、最初から築かなければ良かったのだ。そう思った。思い知らされた。それから、兄とは会わなかった。姿さえ見なかった。会いに行こうと思えば、一目見ようと思えば、別に手段が無いわけではなかった。


 会いたくなかったのだ。

 死と隣り合わせの日々を送ってきた私は、汚れてしまった。そんな姿を天使のような人に見せたくなかったのだ。もう、兄とは分かり合えない。裂け目は、修復出来ないところにまで及んでいる。


『アルスノは、嫌がるかもしれないけど。でも、何度でも言う。何度でも、祈る。……どうか、幸せに。それしか、僕にできることはないから……』


 兄は哀しい人だった。

 いつも、いつも、自分の事ではなく、誰かの幸せのために祈り続けている。独りで、祈ることしか出来ない人。

 私は兄に、怒って欲しかったのだ。叛乱という身勝手を起こした私に、怒りをぶつけて欲しかったのだ。そうすれば、心が軽くなる。そう思った。


 だが、解っていた。兄は決して、そんな事はしないと。


 変わらなかった、兄の純愛。変わらざるを得なかった、弟の純真さ。


 弟は、兄に背を向けた。


『……さよなら、兄上』

 兄は何も返答しなかった。でも、悲しそうに微笑んでいるのだと、目にしなくともアルスノには解っていた。



 それから、二度と兄の姿を見ることはなかった。



「殿下」

 アルスノは再び振り向いた。

「……ああ、ヒース、か」

 それは臣下の声だった。その声で、アルスノは現実に引き戻された。後ろ髪を引かれる思いをひた隠して、アルスノは微かに笑みを浮かべる。


「外は冷えます、中に入りましょう」

「……ああ、分かった」

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