第一章 青の国
第一話
赤は、嫌いだ。赤は血の色だ。血はとても
瞳に映るのなら、青色がいい。青は夜の空の色。夜を照らす月影の色。
それはとても、綺麗なものだから。
王子は血の海で、夜空を見上げていた。一面を真っ赤に染め上げたのは、王子の剣。その赤は、今目の前で無様に死んでいる男達の血潮だった。
アルスノ、というのが王子の名だ。
アルスノは生まれてから今まで、ずっと命を狙われてきた。
数年を経てやっと、事情が
総て、殺す前に聞き出した事だ。
初めて、剣を取った時。アルスノはまだ十二歳だった。
アルスノを連れ去ろうと計画していたゴドズィンの連中が、真夜中、アルスノが独りで身を隠す館に侵入したのだ。異変を感じた時には遅かった。口を抑えられ、羽交い締めにされた。
咄嗟に腕に噛み付いて隙を作る。男は呻いて力を
生か死か、だと思った。
何も抵抗出来なかったら、このまま黙って死ぬことになる。それは、許されない。何としても、生きなければならないのだ。それが、自分の使命なのだと、アルスノは誓っていた。
その瞬間、眼が合った。
床に転がっていた、剣の残骸を手に取り、馬乗りになる。そうして――持てる力の総てを込めて首を掻き切った。嫌な触覚があった。鈍い音を立てて、その男は倒れた。暫く
――ああ、あの時の赤色だ。
飛び散った血を、切傷で血だらけになった己の右の手を、アルスノは冷笑ぎみに眺めた。その日、アルスノは己を護るため、男の剣を奪った。
来る日も来る日も、招かれざる客はアルスノの館に訪れる。最初の頃は、比較的非力な者が多かった。幼い子ども相手に、甘く考えていたのだろう。だが、いつになっても、アルスノを捕らえることが出来ない。段々と、ゴドズィン公爵は痺れを切らし始めていた。
今日の相手は、これまでと格が違う。戦場を潜り抜けたであろう
「ガキ相手に本気になって、バカみたいだけどよ、あの御方の命令だからな。背く訳にはいかねぇんだ」
「前のヤツらは何をしくじったんだかな!」
品の欠片もない狂ったような笑い声が、アルスノの耳を
真っ赤に染まった手を、じっと見る。いつまで経っても、終わらない。何も、変わらない。終わりの見えない閉塞的な日々。己に向けられる悪意と憎悪。染み付いて消えない、鉄と肉の臭い。所詮、私は無力な子どもだ。結局、何も抗えずに刈り取られる運命なのかもしれない。流石に死を覚悟した。ここまで
断末魔の悲鳴が、鋭い悲鳴が上がった。
「ああああああああああっ! うわああああああ、あ、あああああっ!」
無論、自分の声ではなかった。あの男達の声だ。烈しい破裂音と共に、悲鳴を上げて次から次へと、ばたばたと倒れていく。
――何が……起きた?
一瞬にして、一面が血の海と化した。そこに浮かぶは山を成す屍。
アルスノは立ち尽くして、呆然と眺めていた。
◇
あの日から数日経った。館は死体だらけで、とても住めたものではない。彼処にある本にも血の匂いが染み込んでしまっただろう。あまつさえ、大雨が続いている。暫く森で雨を凌ぐことにした。
雨が上がり、眩い光を久しぶりに浴びた時、目の前に男達が立っていた。いつもの野蛮な者ではなく、引き締まった格好をした者達だった。どうやら、正式な手立てで捕らえにきたらしい。ああ、一応罪状はあるのか。そうか、そうだったな。初めからそうすれば良いものを。
酷く冷たい視線がアルスノに注がれていた。大して反抗はしなかった。これまでと比べたら、丁重な扱いだったし、血に塗れた日々に、アルスノは疲れ切っていたのだ。
「入れ」
冷淡に言い捨てられ、地下牢に投げ込まれた。冷え冷えとした壁。暗がりに仄かな
それから二日後のことだった。突如として、闇の中から人影が現れた。
「お前は誰だ。何故此処に居る。私を殺しに来たのか」
問答無用でアルスノは目の前の男を睨みつけた。狼のように鋭い眼光に、その男は息を呑んだ。だが、心を落ち着かせ、その男は語り始めた。
「お初にお目にかかります。……アルスノ
自分に敬称を付けるのか、とアルスノは目を細くした。
「ヘンリー・アングリアと申します。アングリア公爵家の、当主で御座います。貴方を、助けに参りました」
「帰れ」
間髪入れずにアルスノは拒んだ。
「情けをかけるな。私を憐れむな。今直ぐに去れ」
アルスノの冷淡な口調に怯むヘンリー。
「殿下……」
アルスノは孤独を常として生きてきた。今更、人間を信じられない。信じられるのは、己のみ。ずっと、独りで生きるしか、ないのだ。――独りで。
「非礼を、お許しください。……また、参ります。私は何度でも、此処へ参りますから」
ヘンリーはそう言い残して去っていった。
言葉通り、ヘンリー・アングリアという男は毎夜やって来た。貴族家の当主にしては随分若い、とアルスノは思った。アングリアは紺色の、控えめな刺繍が入ったジュストコールを身に纏っている?
記憶が正しければ、これは、グレンセラにおける公式の場での服装だ。そんな服を何故今着ている? それに、どうやってこの男は監視の目を掻い潜っているのだろう、とアルスノは怪訝に思った。
その日の夜、
「――王を殺す勇気は有るか」
酷く冷たい声だった。氷のように、刃のように鋭く。空間全てが凍てつくような響き。アルスノとヘンリーの影が、石造りの壁に大きく映っている。
「無いだろう。その程度の覚悟ということだ」
諦念に染まる言葉に、ヘンリーはすぐさま返答した。
「いえ、殿下。貴方がお望みなら、私は、叛乱を起こすことも
アルスノはヘンリーを
「……本気か」
「勿論です」
「失敗に終われば、お前もお前の一族も皆殺しだぞ」
「ご心配には及びません。そんな事は絶対に起こりませんから」
「……妙に自信があるのだな」
得意げに聞こえるヘンリーの言葉にアルスノは興味を引かれた。
「王だけでなく、王妃やその取り巻きも滅ぼすと言ったらどうする?」
「同じことです。アングリアの名にかけて、殲滅するだけです」
「お前は権力が欲しいのか? それで私を担ぎ上げようとしているのか」
「いいえ、そうではありません。自分で言うのもなんですが、権力や金には興味がありません。執着すべきではないものと考えています」
「お前は理想主義者か」
「それも、いいえ。私は理想などという得体の知れないものは信用しません。私は、この国を在るべき姿に戻したいだけです」
「お前は誰を打倒しようとしているのか」
「個人的な恨みはありませんが、ゴドズィン公爵には下がっていただきたいと考えています」
次々打ち出されるアルスノの問いに、淡々と答えるヘンリー。
「血統に縋った栄光ほど虚しいものはありません。自慢する訳ではありませんが、私の祖父は激務をこなし続け、余生を過ごすことなく亡くなりました。貴族があらゆる
すっ、と一息をついて、ヘンリーはアルスノに申し立てる。
「……私は、貴族の本来の在り方を取り戻したいのです」
アルスノが顔を上げる。
「他の貴族は? 殆どの貴族はゴドズィンを支持していると聞く。どうするつもりだ?」
「私にお任せください。他の貴族も、沈黙しているだけで、反感を抱いているのです。事が起これば、必ず。一体となるはずです」
アルスノは頭を回転させ、思いを巡らせる。暫くの沈黙の後、声を落として問うた。
「……何故、私なのだ。何故、私を助けようとするのだ」
ヘンリーは少し驚いたような表情を見せた後、口を綻ばせ微笑んで言った。
「ふむ、自分でもよく分かりませんが……ですが、誰も助けようとしない王子に、一人ぐらいは手を差し伸べたって良いではありませんか?」
一瞬意表を突かれた表情を見せた後、アルスノは鼻で笑い、口端を吊り上げた。
「はっ、生意気だな」
表情が柔らかくなったのを見て、ヘンリーは付け加える。
「あとは、そうですね……貴方の事を待っている者たちがいるんですよ」
「私を……待っている?」
「ええ、後で会って頂きたいのですが……その前に」
ヘンリーは膝を着き、アルスノを見上げる。
「改めて申し上げます、殿下。私ヘンリー・アングリアに信を置いてくださいませんか」
「……いいだろう」
青い瞳が、澄んだ青い視線が、仄かな温かみを含んで、静かに注がれた。
◇
数刻後。辺りは地下牢と同じく暗い。ヘンリーがアルスノを連れて行ったのは、アングリア邸――ではなく、誰も住んでいない
「管理が行き届いていない所ではございますが、ご容赦を」
ヘンリーがそう言って、アルスノを
「紹介したい者達がおります」
開かれると、男達が武装した姿でアルスノに向かって跪いていた。
「
その声に反応し、彼らは一斉に視線をアルスノに集中させた。緊張が走る。
「この者達は……
「騎士団? 時代遅れな呼称だな」
「私が勝手に呼んでいるだけです。公には知られていません」
アルスノが騎士を見る。切実な目、憂慮を映した瞳が、此方を、見つめている。
「……殿下。トリスタン・ウィッチェという方をご存知ですか?」
ヘンリーが唐突に尋ねる。
「知らないな」
首を振るアルスノ。
「貴方の、叔父上にあたる方です」
「……アゼルレッドの、弟か?」
「ええ、そして、彼らは――トリスタン様の遺臣です」
重い沈黙が落ちた。
「まさか……アゼルレッドが殺したのか?」
アルスノの語気が強まった。僅かに躊躇った後、ヘンリーは黙って頷いた。
トリスタン・ウィッチェ――王弟であり、伯を叙爵していたこの人物は多くの人民に慕われていた。偉大だが暴君とも称される兄王アゼルレッドよりも、貴賎関係なく一視同仁に接する心優しい弟の方を親しむのは明白な事であった。だが、その人望の厚さが、トリスタンを死に追いやる一因となったのだ。
と、多くの者は証言する。
トリスタンの処刑については、あまり詳細が明らかにはなっていない。最期に兄と弟が何を話したのか、何故、トリスタンは死を受け入れたのか――何も分からないまま歳月が過ぎ、風化していった。
だが、家臣達は違った。決して主を忘れることは出来ない。家臣としての責務を果たせなかった後悔と恥辱は未来永劫消えることはないのだ。
「彼らは殿下、貴方に付き従うことを望んでおります」
「……そうか」
アルスノは向き直って、彼らを見下ろした。鮮烈な青い瞳に彼らは目を
「――復讐を願うか」
彼らにはその一言だけで十分だった。あの日の悲しみ、やり場のない怒り、無力さに雁字搦めになっていた彼らの心がやっと、動き出した。無言の涙が、幾つも流れた。
「ならば、私に力を貸せ」
アルスノの芯のある声が空間に響き渡る。
「王を殺し、敵対する
仰せのままに、と騎士達は声を揃えた。
あれから、半年が経った。その間、アルスノは脱獄をし、行方不明になっている、とされていた。王国には何事もなく、日常が流れていた。それが、嵐の前の静けさとも知らずに――。
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