紺青のグレンセラ

久世 比朔

序章


 グレンセラは古都の面影が遺っていた。


 格調のある建物の数々。そこは人の気配を全く感じないほど静寂に満たされている。堅固な門楼を通り過ぎると、悠然とそびえ立つ城が迎える。石造りの荘厳な風格。国と同じ名を持つその城は、数々の勇猛たる君主達の権力と血の象徴である。


 グレンセラ城の広大な敷地内には、幾つも宮殿が在る。歴代の君主達が愛する妻や子の為に建てさせたものだ。ほとんどが建てられた時の姿を持している。


 その中でも、一際壮麗な離宮がふたつ。

 正妃と嫡子が住まうサングリアル宮。そして、丘の上に建つクラレント宮。


 対照的に、美しさが拮抗きっこうするかのように、ふたつの離宮は建っていた。


 それは、凍えるような寒さが続く冬のこと。深い雪が音を封じていた。見渡す限り、そこはまさに銀世界。夜空には蒼白い月がぼんやりとたたずんでいる。

 このクラレントの名を冠した宮殿に、ひとりの王子が生まれ落ちた。


 母親は愛おしそうに我が子を抱き、その名を呼んだ。

「――アルスノ」

 今夜の空の色を映し出すかのように、王子は澄んだ青色を瞳に宿やどしていた。


 静寂に包まれた、生誕の夜だった。




 時は流れ、王子はみどりの草原を駆けていた。雲ひとつない青空の下。遠い空で鳥が鳴いている。蒼翼ブルーウィングの花が辺り一面に溢れ、清風に揺れていた。


 王子は空をつかむような動作を繰り返す。その先には、青く、羽ばたく蝶々。

「転ばないように、気をつけるのよ」

「はい、ははうえ」

 母と子の、暖かなひととき。光が空から降り注いで、煌めいている。

 母は微笑んだ。いつも、いつも。宝を見るように、子の姿を眺めて――。


 王子とその母を愛する使用人に囲まれたその空間は、幸せに満ちていた。

 ささやかだけれども、穏やかで平和な日々が、続いていた。


 あの日までは。





 しあわせが、こわされた。


 耳を塞いでも振動する怒鳴り声。破裂したような、音。狭い空間で、王子は必死に目を瞑っていた。


 だが。静寂に、暗闇に、王子の心は恐怖で満たされ、堪らず扉を開けた。

 呆然と歩みを進め、縋るように母の名を呟く。


 王子は静止した。白い光が散ったあと、目に入ってきたのは。

 崖から突き落とされたような眩暈めまいを催す。ぐわん、と地面が覆るように視界が歪んだ。

「……ははうえ?」

 声が震える。赤い何かが、目を覆う。床が深紅にられ、その鮮烈さに目が痛んだ。

 真っ赤な、普段見たことのない色の、赤。

 ………赤?







 ――これは、血だ。


 王子の母は腹部に深い傷を負って、倒れていた。段々と、手の平が赤く染まっていく。それとは対照的に、顔が青白くなっていた。それが、ただただ怖かった。母が何か言っている気がしたが、混乱で何も聞こえなくなっていた。何も分からないまま、泣きじゃくっていた。


 ――だれか、だれか!


 目を抑え、咽び泣いていると、そこにメイドが慌てた様子でやって来た。

「……んえ?」

 ほんの少しの驚きに、王子は顔を上げた。メイドが、王子を抱き上げたのだ。


 ――いやだ、いやだ、


 王子は泣き叫んだ。母の元に戻ろうとメイドの肩を叩いたりして、藻掻いた。母の姿が小さくなっていくことに気付いたからだ。

「ははうえ――っ!」

 予想外にメイドは強固だった。為す術なく進んでいく道。心を焼き尽くすかの如く、襲う恐怖。漂う黒煙。爆竹の音。気が付くと、宮殿に火の手が上がっていた。轟々と燃え盛っていく。

 空が赤い。青が、紅蓮の炎にかれている。新月の夜、焔のうなりだけが響いていた。


 王子は絶叫した。

 建物が崩れていく。その勢いは凄まじく。メイドは王子を必死に庇うものの、落下物が何度も王子に直撃した。叫びが枯れて、もう声が出せない。メイドが数歩先で倒れ込んでいる。盾が無くなった王子の身体に、激痛が幾度となく走る。


 這うように、王子は目線を上げた。視界には燃え盛る業火のみ。

 と、その時、王子の目が何かをとらえた。紅く照らされた深緑の森の方へ。段々と遠くへ消えていく、うごめあかりと人影。


 王子は目を見開いた。幼い王子の中に燃え上がる、己からすべてを奪った者への殺意と憎悪。青い瞳が獰猛どうもうな炎を宿していく。


 それは、死をもいとわぬ復讐者のだった。














 これは、一人の王子の運命を辿る物語である。

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