第10話 準備

 「少しここで待っててください。」


 そうタクシーの運転手に言い残すとシオンは車を降り、勢いよく階段を駆け上がった。着いた場所は自らの住処であり、ハルの居場所ではなかった。

 戸を開ける。靴を脱ぐことなく土足で廊下を走る。朝と何も変わらない思い入れの少なかった部屋。朝食のまだ表れていない皿が洗面所にある。洗濯物がベランダに干されている。水をやり忘れてしおれた観葉植物が隅にある。

 平凡な、何も変わらない日常。ハルがいないことを覗いて。

 

 短い時間ではあるが、色々とあった。私の人生の中で一番輝かしかった。ハルが来てから本当に好きなものが出来た。私たち二人を結び付けたのはおそらく恐怖だろう。一人になりたくない。犯されたくない。死にたくない。

 傷の舐め合いかもしれない。辛い現実からの逃避かもしれない。だが、それでいいのだ。そんな現状が私たちをめぐり合わせてくれた。

 しかし、すべてが都合良くはいかない。障害が私たちの行方を阻む。現に今がそうだ。二度とこんなことが起きてはならない。障害があるなら元凶を潰してしまえば良い。そうすれば一生安泰だ。私たちの邪魔をする奴らはいない。このままずっと二人で。


 「あと少しだからね、ハル。」

 


 シオンは無心で部屋を物色する。危機に際して極限まで最適化された脳みそを使い、時間を一秒も無駄にしないように。最適解のみを新調に選ぶ。


 「確かこっちに……。」


 シオンはハルが持ってきていた少ない所持品を漁った。その中に一つ小さなカギが紛れていた。おそらく家の鍵だろう。それをポケットに押し込み台所に向かった。迷うことなくあるものを抜き取り、反対側のポケットに入れた。


 部屋を出る。階段をトントントンとペース良く降りる。待っていてくれたタクシーに飛び乗った。


 「待たせてすいません、出してください。」


 車が発進する。荒くなった呼吸で先ほど入れたポケットを覗いた。

 あるのはフルーツナイフ。シオンの覚悟はすでに決まっていた。私たちは幸せを奪われた。負けっぱなしなんて性に合わない。報いを受けるべきだ。

 奪ってやる。奪い返してやる。シオンはこぶしを強く握った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る