第9話 崩壊
太陽の光が出てから数刻経った頃、シオンは目覚めた。同じベッドで寝ているハルを起こさないようにそっと立ち上がり、昨夜の情事ではだけた部屋着を着直す。
まだ目覚めきっていない身体を引きずり、キッチンに向かう。食パンにマーガリンを塗り、オーブントースターに放り込む。トーストができあがるまでの間軽くベーコンエッグを作る。
朝食ができあがった頃、ハルが寝室から出てくる。寝ぼけて裸のまま出てきていたので服を着るように促す。その間に皿を机に並べる。
いただきますと言い、食事に手をつける。朝のニュース番組に軽く目を通し無心で朝食を口に運ぶ。
「行きたい場所決めてくれた?」
二人は旅行へ行くことにしていた。初めての二人での遠出。考えるだけでも楽しい。
「ハワイがいい。」
「国内でって言ったじゃん。」
「じゃあ、沖縄。」
「沖縄かぁ、いいね。」
行き先が決まり、シオンの頭の中では予算会議が開かれる。使うのは格安航空。宿泊も民泊の方が予算を抑えられる。水族館に行って、海にも入りたい。本場の沖縄そばやサーターアンダギーも食べたい。
シオンの脳内はいつの間にか本来の目的を忘れ、旅行の計画を立て始めていた。
ふとハルの方を見てみると、あちらも何か楽しそうに考え込んでいる。
少し前までは寡黙な人物という印象だったのに今では普通の女の子になっていた。トラウマを平凡な日常でフタをしているのだろうか。
シオンはそのフタが永遠に開かないように願った。
「旅行に行くなら買い物に行かないと。服もバッグも全然足りない。」
「こんなこと言うのは野暮かもしれないけど、お金足りるの?」
ハルはシオンに質問する。
「今まで働いてばっかで散財する機会なんてなかったからなぁ。お金の心配はしなくて大丈夫。今思えば、この時の為だったのかも。」
買い物の支度をする。便利な交通手段はないので徒歩で。楽しい気持ちが交錯する。お喋りに花が咲く。他愛もないただの世間話。それがなにより楽しい。
「なんか他に欲しいものとかある?」
「別に。あぁ、水着買わないと。せっかく沖縄に行くのに泳がないなんて有り得ないよ。」
水着、そういえば持ってたっけ。まぁ、この機会に買い直せばいいか。そう考えていると目的地であるショッピングモールに着いた。
「買うものは、服、バッグ、水着、あとお菓子とか?」
「テキトーに回れば良いんじゃない?眺めているうちに欲しいものはそのうち見つかるよ。」
「それもそっか。」
いくつか店を回る。横目で眺めながら気になった店に寄ることを繰り返した。まばらに商品を物色し、旅行に全く関係のないものもいくつか買った。こういう自然な関係が一番心地がいいと二人は思った。
普通の生活でいいのだ。質素な生活の中にある些細な娯楽。自らが好意を向ける相手との共存。誰も無理な干渉はしない自然な関係。今までそれらを享受できなかった二人は、その幸せを噛みしめると共に依存した。
この関係から抜け出したくない。あんな地獄みたいな生活には戻りたくない。誰が反対しようが今がいい。あの時には戻りたくない。
つないだ手が震える。その震えを打ち消そうとするかのようにより強く握り返した。
「ちょっとトイレ行ってくる。」
ハルがそう言う。
「私はいいや。外で待ってるよ。」
シオンは外のベンチに腰掛ける。少しの暇を潰すためにスマホを覗いた。薄い電子機械の板を眺める。二十分、三十分と。
いくら何でも長すぎる。不思議に思ったシオンはトイレの中を覗いた。すべて空き部屋。誰も個室にいない。
「……ハル?」
若干震えを帯びた声で呟く。何かを察したシオンは脱兎のごとく飛び出した。買い物袋を放置し、人込みをかき分けながらタクシー乗り場に急いだ。
あぁ、なんてバカだ。こんなことを想定出来なかった自分に腹が立つ。彼女のことを大事だと言っておきながら彼女から目を逸らした。その結果がこれだ。最悪の事態だ。
自己嫌悪の渦の中でスマホに入れたGPSアプリを開く。ハルの現在地は隣町にあった。
「やっぱり…。早くしないと。」
人が多かったが運よく一台のタクシーを拾えた。シオンは勢いよくそれに乗り込むと、上がった呼吸で行先を伝えた。
車が走る。徒歩よりもスピードはとっぽど早いはずなのにとても遅く感じた。目に映る景色、そのすべてが味気なくモノクロのようだった。
動悸が激しい。頭が働かない。震えが止まらない。恐怖が体を締め付ける。
ごめんなさい、ハル。あなたを最後まで守れなくて。私は噓つきだ。貴女にはもうつらい思いはさせないって約束したのに。私の不注意でまた貴女は…。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
瞳から静かに涙が溢れる。
日常が壊れた。全てまっさらに。
約束を果たそう。今なら何でも出来る。
辛いことがあるなら元凶を刈り取ってしまえばいい。私とハルにはその程度の権利はあるはずだ。
待っててね、ハル。貴女を助けるためなら私、なんだって出来るから。
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