第7話 新生活

 ほのかな米の炊ける匂い。焼き魚はパリパリとフライパンの上で油を弾き、香ばしい。だし巻き卵を丁寧に菜箸でつつき、味噌汁から溢れる蒸気で顔が蒸れる。


 いつものように淡々と朝食の準備をする。だが、一つ違う点があった。二人分の朝食を用意していることだ。

 隣の部屋にはまだ自分のベットで寝ているハルの姿がある。シオンは誰かのために料理をすることを初めて幸せだと感じた。


 料理を皿に盛り付ける。いつもとは違い皿は二人分使う。違和感に勝る謎の幸福感を感じた。


 料理を机に並べ終わったところにぽかんとした顔でこちらを見つめるハルの姿があった。なにが起こっているのかわからないような顔をしながらも、目線は真っ直ぐと朝食を向いていた。


「準備ができたから一緒に食べよう。」


 私はそう言った。初めて飼い主に出会った犬のようにゆっくりと出てくる彼女を見て愛おしいと感じた。


 席に着く。いただきますと言う。箸を持つ。白米に手をつける。次は焼き魚を肴にして白飯をかきこむ。だし巻き卵で口の中を整え、味噌汁で身体を芯から温める。

 シオンはハルの予想以上の食べっぷりに釘付けになった。他人の食事を見ていて気持ちがいいとはこのことだったのか。将来店を開いてもいいと感じた。

 私は誰かのために尽くす喜びをこの時知った。見返りなんていらない。ただ、相手が喜んでくれて感謝の言葉をかけられるだけで満足だった。


 食べ終わった皿を片付ける。すると、


「私も手伝うよ。」


 と、ハルがキッチンのシンクに来た。


 黙々と作業を進める。最初はバラバラだった動きも少し時が経つと統率がとれはじめていた。シオンが皿を洗い、ハルが皿を拭き食器棚へと片付ける。


 案外私たちは相性がいいのかもしれない。



 作業をしながらシオンはハルに聞く。


「どこか行きたい所とかある?」


 ハルの手が止まる。予期していなかった質問に思考が固まってしまった。


「だって、今日は平日だよ?学校に行かないと…。」

「制服だって今持ってないでしょ?それに、しばらく休むことを伝えておけば大丈夫だよ。ていうかもう伝えてある。」

「え?」


 無理矢理な理屈をつけて強制的にハルを繋ぎ止める。


「だって、どこかに行って遊ぶことなんてほとんどしたことないでしょ?せっかく今は抑圧から解放されてるんだから楽しまないと。後のことは私に任せておけばいいよ。」


 シオンはハルを安心させようと努める。


「でも…。」

「と・に・か・く、今は楽しむ!いいね?」


 ハルは困ったような顔をみせる。だが、数秒考え込んだ後一回頷いた。


「…分かったよ。」

「ヨシッ!じゃあどこ行きたい?何処でもいいよ。」


 シオンがそう言うと、ハルは部屋の床を指差した。


「今日はこの家でシオンさんと一緒に遊びたい。おうちデート、みたいな?」


 拍子抜けだった。てっきり遠出をしてこの街から逃げ出したいと思っていたから。

 まだ外に出るのは恐ろしいのだろうか。


「じゃあゲームやろう。準備してくるね。」


 シオンは少しキッチンを離れ、十歩先のテレビへ向かいゲームの電源をつけた。

 


 そんな一瞬だった。


 キッチンの方からガシャンと食器が倒れたような音がした。


 シオンは直ぐに振り返る。そこには涙を流しながらへたり込むハルの姿があった。


 シオンは直ぐハルに寄り添う。


「ハル、だいじょ…。」


 ハルの様子は一目でわかるほど異常だった。

 瞳孔は完全に開ききり、フゥ…フゥ…と荒い呼吸を抑えている。身体が小刻みに震え、ずっと胸を押さえている。


「ハル、落ち着いて…。」

「喋るなぁァァァァ‼︎近づくなぁァァァァァァァァ‼︎」


 完全に錯乱している。フラッシュバックが起こったのだろうか。人に怯える小動物の様だ。

 彼女が今見ているものは私じゃない。頭の中にいる悪魔だ。物理的に恐怖の象徴から一時的に逃れられたとしても、記憶にこびりついた記憶たちは消えない。いつまでもその人物を縛り付ける。


 シオンは冷静になれるはずがない頭を必死に動かす。警察には連絡できない状況である今は私がハルを落ち着かせなければいけない。

 シオンは身体を脱力させ、無抵抗な姿でハルに向かい歩き出す。ゆらりゆらりとしならせた身体でわざと大きな隙を見せた。


 平静を保つ。ハルが何か喚いているが、それらの言葉は脳をシャットダウンし心が動じない様にする。


 ハルの目の前に立つ。荒れた吐息を感じる。包丁の刃は腹部にピタリとはり付いている。


 二人は目を合わせ硬直した。言葉は交わすことなく、目の動きだけでコミュニケーションをとる。焦点の合わない目としっかりと開いてを見つめる目。対極だった。


 シオンは一瞬目を瞑る。そして勢いをつけハルの包丁を手で払う。払われた包丁は壁にストンと突き刺さり固定される。

 ハルの目線は払われた包丁を向く。その隙を突いてシオンはハルを床に押し倒した。ドンという刺激音がハルの脊髄を揺らす。


「離せ‼︎」


 ジタバタと四肢を暴れさせて抵抗するハル。シオンはそれを押さえつけ、ハルの目を再びじっと見つめる。


 シオンの覚悟はすでに決まっていた。最後に大きく息を吐き出す。


「離せ‼︎離せ‼︎離せ‼︎離せ‼︎離せ‼︎はな…。」

「憎いよね。」


 シオンが耳元で呟く。


「いくら憎んでも足りない。貴女をこんなことにしたヤツ。ボロボロになっても何も助けてくれなかった人たち。我関せずを貫き通した人たち。みんな殺したいくらい憎いよね。」


 紡がれるは静かな暴力の言葉。目からはその言葉たちが真意であることが伝わる。


「私は違う。貴女を守ってみせる。貴女を辛い目になんて合わせない。貴女の為ならなんだってする。」


 本来無条件に与えられるべき権利をハルは与えられた。狂気的とも言える空間の内側で。


「だから、一つだけ私の願いを受け入れて。」

 

 

 ハルの視界が消える。


 身体の感覚がある一点に集中される。つややかで、妖艶で、魅惑的なそれはハルの唇に柔らかく触れた。


 なにが起こったか。それは一瞬で理解できた。だが、衝撃が大きすぎたせいか、ハルの脳の処理速度では頭が事実と認識するのには時間がかかる。

 シオンはハルから顔を離した。放心状態のハルを見て優しく頬を輪郭に沿わせるようになでる。自然と笑みがこぼれた。


 「ほら、早く片付けるよ。今日は一日中ゲームやるんだから。」


 ハルは未だに余韻に縛られ、その場から動けないでいた。

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