第6話 痕
彼女の手が私の肌に触れる。優しく、ゆっくりとタオルで背中を洗う。それはとても心地よいものだった。
しかし、何故その手は震えているのか。隠しきれていない不安に私は疑問を持つ。嫌なら自主的やらなくていいことを伝える。しかし、
「大丈夫、大丈夫だから……。」
彼女はそう答える。それは、私の問いに対する答えというよりは、自分に念じているように感じられた。鼓舞、いや、違う。一種の洗脳の様なものだろうか。
段々と背中を擦る力が強くなる。ザリザリと皮膚を削ぎ落とすような勢いで擦られ、痛みすら感じる。先程の心地よいものとは対極の感情になった。
痛いのでもう少し弱くしてくれと伝えると、彼女は手をパッと離す。
「ご、ごめんなさい……。」
何かに怯えるように彼女はそう言った。しかし、再び私の背中を擦ることなく、燃料が切れた様に止まってしまった。
時が過ぎる。後ろを振り返らず彼女に話しかけるが何も反応がない。
シャワーから水が一滴、また一滴としたたり落ちる。その音は静寂に対して大きすぎる異物に感じた。
目立つ呼吸の音に包まれ、時は寸分狂わず進む。静寂を破ったのは、それを作り出した者だった。
「私ね、父親と一緒に住んでるの。義理の父親と。」
彼女は急に口を開く。
「その人ね、私に乱暴をしてくるの。毎回毎回ありったけのいちゃもんをつけて私を言いなりにするの。」
彼女の手の震えが強くなる。
「殴って、つねって、熱して、冷やして、叩いて、責めて、犯す。そんな吐き気のする人間と一緒に暮らしているの。」
彼女の言葉の一言一句が真実の重みを表し、私の心にのしかかる。
感情が身体に直接まとわりつかれるような感覚に陥る。
「シオンさん。助けて……。」
彼女は私の名前を呼ぶ。か細く、そよ風にさえかき消されそうなほど弱々しい声で。
ハルが私の身体に抱きつく。おそらく本能的な行動だろう。誰かに縋りたかったのだ。誰にも頼れなかったのだから。不思議と先ほどのような緊張は消え、ぬくもりだけが感じられた。
私はハルの手を握る。ぎゅっと、力強く。そして後ろをふり返る。
そこには嗚咽を漏らすことなく、静かに涙を流すハルの姿があった。身体は痣だらけ。火傷の痕もある。目には見えない傷はそれらよりもっとあるのだろう。
見捨てられなかった。
私はハルを抱き返す。
「大丈夫。大丈夫だから。辛かったね。」
その言葉にハルは先ほどとは違い、声を抑えることなく泣き始めた。顔をくしゃくしゃにして、赤子のように。今まで溜め込んできた心の鬱憤を晴らすように。
その間にも私はハルを抱きしめ続けた。どれだけ辛かっただろうか。何故気づいてあげられなかったのか。思考が私に問いかける。だが私はそれを無視し、温もりを伝えることに専念した。
私はハルの身体を洗ってあげた。初めて他人の身体を洗った。彼女が何故あんなにも他人を洗うことに慣れていたのかは考えないようにした。
手際の悪く、おぼつかない手。彼女の身体は柔らかく、繊細だった。そしてひどく脆く、今にも崩れそうだった。
彼女を守ってあげたいと思った。
それは、心の底から思った本心だった。
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