あらかわ遊園→北千住
……だ!! ……田!!!
俺の名前を呼ぶ声がする。全身が痛む。口の中から土の味がする。やかましい爆音の中うっすら目を開ける。
……き田!
生きてるならこっちに来い!!
砂丘の上の方から人間がこちらに向かって叫んでいるが、体が思うように動かせない。
砂埃で視界が再び霞む中、上空を発光しながら飛んでいく『何か』を見た。
飛行機の墜落ではない。地面に対し平行に滑空している。あれは……
「隅田さん」
ふと我に帰ると右手にあらかわ遊園が見える。時刻は13時を過ぎていた。
屈んでこちらを見ている顔がある。
「ああ、ごめん。何?」
「見てください。あれは、鉄琴ですか?」
川沿いの、茶色く錆びた手すりに、確かに銀色の長方形が鉄柵のように並んでいる。
少女は一番手前の長方形を爪で弾くと、「コン」と、楽器然とした音が響いた。
いやに川が匂う。それは埃と潮と錆と肉が溶け込んだような匂いだ。
空中を、小型の飛行機が何機も飛び交っていた。
中にはヘリコプターが真上を旋回しているように見えるが、しばらくして遠くへ行ってしまった。
今ではもう当たり前のような景色だが、飛行機を見る度に、頭痛と共に嫌な記憶を思い出す。
思い出すたびに、悔しさと絶望が混ざった感情が蘇ってしまう。
2022年2月の開戦時、日本はそれまで合衆国に散々尻尾を振ってきたが、いざ有事となった時に合衆国は冷たかった。
最初こそ、敵連合国を焚きつけるだけ焚きつけて、「我々は決して敵に屈しない」
と自信ありげに、カバのような顔の大統領は力強く演説したが、台湾が降伏し北海道があっさり占領され、長崎、福岡、広島が陥落すると米軍は沖縄からさっさと撤退した。
2023年。佐渡島が占拠され、新潟が消滅した時も、多摩、座間、横須賀の米軍基地の動きは消極的だった。
そして2024年1月。鳥取、岡山、兵庫に連合国の手が伸び、中国地方が新潟と同じ運命を辿り……
数千万の日本人移民にアメリカ人が文句を言い始めた頃、「敗北」の二文字が現実的になってきた。
与党は、「逆転の目は確実にあるのだ!関東が機能している間は日本は負けたわけではない!」と、今年の頭からずっと同じ文言繰り返していたが、
段々と「関東が」が、「南関東が」に文章が転じてきている。
彼らが馬鹿の一つ覚えの如く繰り返している「逆転の目」とは、
開戦直前に多額の資金で、合衆国から買わされた技術が由来しているが、
合衆国自体がその兵器を用いることはなく、
日本も日本で、甲斐性がなかった。……2023年までは……
少女は、端っこから鉄琴を爪で弾いて鳴らし始めた。
滝廉太郎の『隅田川』。リズムが滅茶苦茶だが、はっきりわかる。
演奏後、拍手を求めるようにこちらを見て、お辞儀をして見せた。
緑色の「おだいばし」を渡り、島忠ホームズを通り過ぎ、舎人ライナー足立小台駅に着くと、荒川と再会する。
与党も、どのように『終わらせるか』を考えているのだ。政治家連中は、すでにハワイ、オーストラリアに逃走した。と言う根も葉もない噂が立っている。
俺達は歩いた。別に晴海埠頭に着いたらどうなるわけでもない。それは彼女もわかっている筈だった。
黙って少し先を歩く少女の背中をただ見ていた。頭には、「隅田川」が流れていた。
足裏に水膨れができている。
「おたけばし」を渡り、左手に帝京化学大学が見えた頃には、2時を過ぎていた。
そこから先はまた河川敷が途切れており、行き止まりだ。左手に見えるマンションのテラスを通って、しばらくは下町を歩くことになる。
誰もいない下町。誰もいないはずの町工場の跡地から、鉄屑を拾う物音がする。
日に焼けた中年男性が、少女を見つけると直立し、無表情で敬礼した。
その姿はカラカラに渇いたボロ雑巾から搾り出して、ようやく滲んだ、最後で最後の一滴を思わせた。
少女も敬礼を返した。
京成本線の高架下をくぐり、階段を登ると再び隅田川の川沿いに出る。
足の痛みがひどいので、少女に休憩を哀願した。
隅田川沿いのベンチに腰を下ろす。
「今度は私が質問していいですか?」
「ん?」
「隅田さんは、どうしてここにいるんですか?」
川の両面を高層マンションが建ち並んでいるが、この辺りには今どのくらい人が残っているだろう?少なくとも見える範囲では確認できなかった。
まして、自分と同じくらいの年齢の者がこの辺りにいるとは思えない。彼らはそれこそ逃げたか、仙台か大阪にいる筈だ。
俺はただ自分の足裏の水膨れを見つめていると、
少女は顔を覗かせて「もうやめときますか?」といたずらっぽく笑って見せた。
俺は痛む足を摩り……
……
「やめねえよ!」
俺はまだ痛む足を摩り、同い年ほどの青年将校に言い放った。
青年将校は俺の胸ぐらを掴んで、
「お前、家族の仇がとりたいのか!? 故郷をあんなにされた恨みを晴らしたいのか!?」と叫んだ。
「おうよ!」
「だったらやめろ! 英語教師に戻れ! よほど世のためだ!」
「戻らねえよ! 確かに今戦っても、どうにもならないかもしれない。でも勝ち負けじゃないだろ!」
「…… 相手が同じ日本人でもか」
「ああ?」
「お前の家族を中国地方ごと消滅させたのが……『同じ日本人』でもお前は軍に服役するのか!?」
「……どういう意味だ」
「……上官から聞いたんだ……『零式』の話」
「なんだ? 『零式』って何だ!? ……まさか……」
「…… おそらく、新潟で使われた兵器だ。そして……お前が鳥取で見たものも……」
「糞!!」
俺は壁を殴った。誰にこの怒りをぶつければ良いのか。俺は拳が砕けるまで、ひたすら壁を殴り続けた。
「…… なんて馬鹿な事を!! 『あれが兵器』だ!? あれは……」
実際に拳が砕けると、今度は額が割れて出血するまで、壁に頭をぶつけた。
「あれは『人間』だったぞ!!」
……
また、嫌なことを思い出した。
俺は再び立ち上がり、二人は歩き出した。
……足の痛みに堪えてでも、嫌な思い出から離れたかった。
少女が立ち止まる。左手の壁面には、松尾芭蕉の句と、「おくのほそ道、旅立ちの地」と書いてある。
「松尾芭蕉とは誰ですか?」
少女が訪ねてきた。
足の水膨れは「おたげばし」のあたりから潰れており、痛みを庇うように歩いていたら痛みは膝まで来、そして今や腰にこようとしていた。
「……わからないけど、日本中を歩いた人だよ。多分」
息を切らし、声にならない声で答えた。
「そうなんですね。ここから……」
少女は感慨深そうに壁面と川を交互に見た。
「旅をはじめたんですね」
句には、こうある。
『千じゆと伝所にて
船をあがれば、前途三千里の
おもひ胸にふさがりて、
幻のちまたに離別の泪を注ぐ』
「どうして芭蕉は泣いたんでしょう?」
「さあ……」
痛む足腰を摩りながら、壁画に描かれた芭蕉と少女を重ね合わせた。
そして慎重に言葉を選んだ。
「多分……、もう帰ってこれないって思ったのかもな」
「え……」
少女が振り返った。出会って数時間で彼女が初めて見せる表情に感じた。
「……芭蕉さんは帰ってきたんですか?」
「どうだったっけ?」
少女は、句を口ずさみ芭蕉を見つめた。
「帰って来れたら、いいですね」
それは芭蕉に向けた言葉なのか、俺に言ったのかはわからなかった。
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