禁忌の春

 カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ますと、私は床の上にいた。そこでああ、と昨夜のことに思い至る。あの後疲れもあってベッドにたどり着けず、気絶するようにそのまま眠ってしまったのだった。あれは夢か何かだったのだと思いたいところなのだが。


 私の上に乗っかっている重量のない躰を見ては夢だとも言えない。もぞ、とそれは動いた。


「おはよ」


 死体がはにかむ。そういえば未來は朝早く起きるタイプだったな、と思い出しながらそのよく冷えた背に手を回す。


「なーに、急に」


 彼女にそっくりの甘えた声が聞こえて、咄嗟に手を離した。


「重いから降りて」

「えー」


 離れようとしない死体を引っ剥がす。これを未來と同一視するなんて、最悪だ。絶対に嫌だ。こんなの彼女じゃない。きっと私は疲れているんだ。よく考えたら昨日帰ってきて化粧を落とすのだって忘れていたし。今日は休みで良かった、と心から思う。


 立ち上がって、まずは顔を洗うことにした。体が重いのはやはりあれが一晩中乗っかっていたからだろう、と思うと文句を言ってやりたくなる。

 固まった体を伸ばしながら鏡の前に立った。疲れた顔の私が映っている。化粧はかなり崩れてぐちゃぐちゃだし、ただでさえ重い瞼はおそらくちゃんと眠れていないせいで余計に重たくなっている。


 はあ、とため息をついた。髪をまとめ、もう半分以上なくなっているクレンジングバームを掬って、肌に乗せる。広げる。


「華子、メイクしてたんだ」


 気付けば隣に死体が立っていた。無視してやろうかと思ったけど諦めて、仕方なく会話することにした。これが未來だと思うのも癪なのだが。


「気づかなかったの、結構変わったと思ってるんだけど」


 変わった、とはいえ大学生になって始めたのは化粧だけだ。髪は一度も染めたことがないし、他のことは特にしていない。けれど、化粧に関しては自分なりに調べてそこそこよくできていると思う。もともと特徴のない薄い顔だから、どうやってもぱっとしない印象なのはどうしようもないのかもな、とか。思ったのだけど。


「変わんないよ、華子は」


 思わず死体の方を見た。たぶん、落ちかけの化粧のせいで私の顔は随分間抜けだったと思う。だって化粧しても変わらないなんて悪口みたいなものだ。どういうつもりで、と思っていると、死体はそんな私の顔をまっすぐに見て言った。


「メイクしてても可愛いし、してなくたって可愛い」


 目を細めて、笑む。手が止まる。本当にずるい人だ。心拍数の増加を知らない振りして適当に流す。うん、さっさと記憶から消すことにしよう。クレンジングを落として、濡れた肌をタオルで拭った。


「朝ご飯はどうするんですか華子さん」


 隣に立つ死体はふざけた調子で言う。


「それやめて」

「えー、ケチ」


 ふふふ、と悪戯っぽく笑い、セーラー服のリボンが揺れる。


「ケチじゃない。食べるの?」

「食べないよ、死んでるから」


 そう改めて言われるとようやく冷静になって、自分がおかしな状況にいるのだと分かった。というか、死体って。疲弊した脳は簡単に受け入れてしまったけれど、よく考えたら意味が分からない。


 ……いや、考えたら負けな気がする。いちいち深く考えていたらいらないことまで思い出してしまいそうだ。やめよう。


 とりあえず、冷蔵庫を開けて朝食について考えることにした。まあ目玉焼きとご飯と味噌汁とかで十分だろう。味噌汁はインスタントで。そういえば実家から送られてきた漬物もあったはずだ。あれも出すか。


「お手伝いは必要ですか」

「いらないです」


 敬語で言われたからつい敬語で返してしまって、不覚にもつられてふざけたみたいになってしまった。決してふざけているわけではない。

 とにかく手を動かそう。ご飯は電子レンジで加熱、味噌汁はお湯を入れるだけ。ガスコンロの点火ボタンを押すとチチチチ、という音とともに淡く蒼い火が灯る。 そこにフライパンを乗せ、卵を割った。


 最近は慣れてきたけれど相変わらずもたつく。もともと料理ができるほど器用なタイプじゃないし。未來は割と何でも器用にこなす方だったから、料理も得意だろうな――――と、思わず死体を見た。

 目が合った。微笑まれる。


「ね、華子」


 死体が私を呼んだ。未來と全く違わない、はっきりした声。


「好きだよ」


 瞬間、ぶわっと何かが解ける感覚がした。ああ、そうだ。未來はただの親友じゃなかった。親友であり、私の"彼女"だった。そう思い出した。なんで忘れていたんだろう。





 ――――私の村で、同性愛は禁忌だった。その起源は知らない。理由も知らない。知ろうとも思わなかった。だって私の恋は永遠に秘められたままでいいと、本当にそう思っていたから。


 確か入学式の帰りだったと思う。まっさらな制服と、ぴかぴかしたローファー。まだ固くて、歩くと小指の辺りが擦れる感覚がしていた。


「華子、部活入んないの?」

「私は入らないかな」

「ふーん。じゃああたしも入んない」

「なんで」

「だって華子、一人で帰りたくないでしょ?」

「それはそうだけど」


 しゃりしゃりとした土の感触が靴の裏から染み込んでいく。前日の雨で湿った空気が肺に籠もって、呼吸するたび少し苦しかった。それでもやっぱり、高校生活のはじまりはふわふわしている。

 ほんの少し浮かれた空気の漂う会話の中、その瞬間は唐突に訪れた。


「ねえ」


 いつもと違って私より少し後ろを歩いていた彼女に、突然腕を掴まれる。


「なに?」


 振り返れば彼女は至極真剣な顔をしていて。その綺麗な顔をそのまま保存しておければどれだけ良いだろう、とか、思ってしまって。後に続く言葉のことなんて考えてもいなかったから。


「あたしさ、華子のこと好き」

「え」


 私は思考停止した。好き? 未來が、私を?

 いやいや、それは友人としての好きであって、恋愛的なものではないはずだ。とか。混乱する脳みそがぐらぐら揺れた。一体どういう状況? 頭が追いつかない。


「好きだよ、華子」


 未來はまっすぐに私を見ている。その眼を見たら、それがただ友達としての好きだなんて思えるはずがなかった。色素の薄い瞳。春の光がきらきらとその目を輝かせて、私には眩しいほどの恋愛感情が突き刺さってくる。


 なんで、私なの?


 頭の中がぐちゃぐちゃした困惑と幸福で満ちていく。人柄も才能も綺麗な外見も兼ね備えていて、何もかも完璧で、それでも私にはちょっとだけ本音を聞かせてくれる彼女。地味な私を大切な幼馴染だと言ってずっと一緒にいてくれる彼女。


 ああ、断るなんて無理だ。なんで彼女はこんな私を好きだなんて言うのか。私はつまんないし、何もできないし、ただ彼女の後ろをついていくだけなのに。これは、禁忌なのに。


「だめなのに、どうして」


 ただ、一言。自分でも情けない声が出たな、と思った。もっといい人はたくさんいるでしょ、とか、私のどこが好きなの、とか。言いたいことがぐるぐると脳内を巡る中出てきたのは純粋な疑問で。でも答えは単純だった。


「好きになっちゃったから」


 未來は微笑む。その頬に微かな桃色が浮かんでいるのを見て、余計に何も言えなくなった。


「だって、恋ってそういうものでしょ?」


 まるでいたずらっ子のように。照れ隠しか、彼女は駆け出した。ざくざくざく、と砂利道が軽快に音を立てる。つやつやしたローファーにうすい傷がついていく。私もそれを追った。二人で走った。しっとりした風が私達を包んで、何も言っていないのに全部分かり合えたみたいに一つになった。


 春って、すてきだ。私はその時初めて思った。だって目の前を走る彼女が、こんなにも綺麗だ。揺れる薄色の髪に桜色がよく映える。もう言葉なんて必要ないんじゃないか、そう思ったとき。


「ねえ、もう、なんか言ってよ」


 振り返って、彼女は恥ずかしそうにそう言った。たぶんこの世で一番綺麗な彼女が、私を好きだと言ってその頬を赤らめている。


「――――そうなのかもね」


 恋ってそういうものなんだ、って。それだけ、返した。でもこれだけじゃいけない。分かっていた。だからなけなしの勇気を振り絞って、声に出して言う。


「私も未來が好き」

「知ってる」


 間髪入れず、満足そうな顔で。たぶん私も笑っていた。普段は固まった表情筋も、このときのために存在していたのだろうかというくらい。そうしてしばらく二人で笑って、何気なく近くにあったバス停のベンチに座った。


「ねえ、やってみたいことあるんだ」


 きい、と金属製のベンチが音を立てる。彼女の体が近付いて、淡い花の香りがする。


「キス」


 ひどく軽い響き。小説なんかでも小っ恥ずかしくて見ていられないような言葉。それを恥ずかしげもなく彼女は使った。


「してみよっか?」


 未來が目を細める。硬直した。

 なんでそんな、いやだって、さっき、なんて。心臓の音がうるさすぎて思考がかき消される。だってまだ、ついさっき告白されたばっかりだ、とか。彼女の真っ赤に染まった耳を見てしまえば、もはや野暮だ。


 たぶん、今思えば高校生という中途半端な大人に酔っていたのだと思う。私も、彼女も。

 それでも浸っていたかった。今だけは禁忌だとかそういうの、忘れたかった。


「嫌なら嫌って言って」


 私が何も言わないからか、彼女は拗ねたように言う。


「嫌なんかじゃ、ないけど」

「じゃあいいの?」


 そんな優しい声で言われたら断りようがなくて。控えめに頷くと触れる、私より体温の高い未來の指。頬をつう、と這うのがくすぐったくて反射的に目を瞑る。瞬間、隙を突かれた獲物のように。喰われた。貪るような口付けだった。


 触れて、離れる。かと思えば侵すように入り込む。彼女が私の腰に手を回す。されるがままに受け入れて、全てを彼女に預けて。そうして、ああ、幸せだな、と思ってしまったのだ。


 これが罪なのだろうか。


 ぼんやりする頭の中で得た充足感を柔く噛み、その甘さに酔っていた。禁忌だなんて忘れて、いけないことだなんて思わないで、ただ愛する人とこうして繋がっていられることを幸せに思える。思ってしまっている。

 あれが罰だったのだろうか。



 だから未來はいなくなってしまったのだろうか。




「華子」


 未來の声。芯のある、まっすぐな人の声。


「華子。目玉焼き、焦げるよ」

「あ」


 手元を見ると、半熟にするはずだった目玉焼きはしっかり加熱されていた。


「まだ焦げてないからセーフでしょ」


 言い訳して、火を止めた。別に半熟じゃなくたって食べられればそれでいいのだ。そういう妥協には慣れている。フライパンから皿へする、っと目玉焼きを移した。そこに醤油を一回しして終わり。


 準備しておいたご飯と味噌汁、漬物を用意してテーブルに置く。椅子を引いて、座る。多分普通に動けていたと思うけれど、なんだかぎこちなさがあった。あんなことを思い出したからだろうか。 私から発せられた気まずさが部屋に充満して居た堪れない。


「ちょっとあっち行ってて」


 隣に立ったままこちらを見つめている死体に言った。そもそも私は人と食事をするのが、特に自分だけ食べている、という状況が苦手だ。信頼している人相手でも辛い。 その上こんな複雑な状況では到底無理だ。耐えられない。


「相変わらずだよね、食べてるところを見られるのが苦手とか」


 そんなことを言いながら死体は私を見続けている。分かってるなら早くやめてくれ。視線に耐えかねて目を逸らす。死体はそんな私を笑って言った。


「今更なんじゃない?」

「うるさい」


 思わずむすっとした私を嗜めるように、ひや、と。その指先が私の唇に触れた。何かを拭うように撫でて、離れる。そしてその指がそのまま死体の唇に触れて。


「間接キスしただけ」


 どき、っとした。してしまった。そういう気障なことをするのも未來らしかった。居た堪れなくなって目を逸らす。それでも気になって、もう一度それを見て。また、目が合う。


「かわいいね、ほんとに」


 死体はまだ私の眼を見ていた。胸がぎゅっと締め付けられるような感覚。お願いだから、未來の声でそんなこと言わないでほしい。絆されてしまいそうになるから。


「ああそう」


 半分自棄になりながら、固い目玉焼きを口に運ぶ。醤油の味がする。塩胡椒をかけるのを忘れていたみたいだ、と気付く。それでまた、ため息。


「もー、素直じゃないんだから。昔とは大違いだね」


 死体は笑う。そういうところ、あなたは変わらなすぎるよ、なんて死体に言っても仕方がないのに。言いたくなって、やめた。


 どうしようもない空気の中、しばらく無言のままの食事が続く。さく、と漬物を噛む音だけが響いていた。私の隣に立ったまま死体は窓の外を眺めている。雲一つない空だ。日が出たばかりのぼんやりとした日光が淡い水色に融けている。そんな景色を横目に味噌汁を口に含む。少し塩辛い。お湯、少なかったか。などと反省しながら箸を動かした。


「ごちそうさまでした」


 空の食器に手を合わせる。一人であってもこれを言うのは習慣だ。ぼうっと外を眺めている死体をスルーして皿をシンクに運び、水に浸ける。洗うの、面倒だな。まあいいやと目を逸らした。


 逸らした先に死体が立っていた。


「ねえ華子、五年前のこと覚えてる?」


 なんでもないような口調で、それは唐突に切り出した。こちらを試すように見据える視線。言葉に詰まってしまう。正直、曖昧だ。というよりもあえて忘れようとしている節がある。私はあの村のことが嫌いだし、未來とのことだってこうならなかったら一生目を逸らしていただろう。


「……覚えてないし思い出したくもない」

「まあ、そうだよね」


 自分でもわかるくらいうんざりした声。死体はうすく笑った。そうしてネタばらしの準備をするマジシャンのように、マフラーの裾をわざとらしくひらひらと揺らす。


「じゃあこれ見たら、嫌でも思い出してくれるかな」


 にやり、と笑って、死体はするりとマフラーを外した。そうしてそれは床に落ちた。晒された首筋。ぐわん、と脳が揺れるような感覚。それで初めて、自分は膝から崩れ落ちたのだということに気付いた。私の中の罪が全部戻ってきた。触れてしまった。たぶんそれは、ずっと奥底に仕舞われ隠されてきた猛毒。そんな安易な言葉で表せるほど単純なものではないけど、そう言うことしかできないような。


 まるで洪水みたいに、押し寄せる記憶の波が私を攫って、もっと攫って、そして嫌になるほど溺れる。溺れた先にあるのは、一体何?

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