名前色

朝田さやか

私にとっての

「じゃあ、次会うときの宿題で」


 色というものが何なのか、私はあの日からずっと答えを探していた。


 「色って何?」という質問に対して、一体誰が的確な返答をすることができるだろう。理科の教科書に載っている説明は、どこか表面的で無機質だ。きっと先生でさえ、その本質を捉えることはままならない。


「桜の好きな色って何色?」

「青です」


 それでも、「青色って何?」と聞かれたときの、私なりの答えだけは持ち合わせている。


 空の色? 海の色? 汗ばんだ制服のワイシャツの色? みんなが答えるその青だって、一人一人の目に映る色には微妙に差異がある。だから、私にとっての青が特別だとしても許される。


 青色は、私の欠けた部分を埋める色。世界を眩しく染める色。青色は私の、初恋の色だった。



「桜?」


 逃げるように都会の大学へ進学して数ヶ月。高速バスから地元の駅へ降り立った一歩目。半年にも満たない期間で既に懐かしい夏の熱気が、一気に私を包み込んだ。


「どしたん、ぼーっとして」

「安心するなぁって」


 地元の駅が、こんなに心強い場所だとは知らなかった。県名が付く中心の駅だというのに、通りを歩く人はまばらだ。


 肩幅を狭めなくても誰にもぶつからない。肩の力を抜いて、真っ直ぐ歩みを進められる。その感覚が、ワンシーズンぶりに着たお気に入りの洋服みたいに肌にフィットする。


「分かる。着いた瞬間肩の力抜けた」


 夏実の顔色は普段大学にいるときよりも心なしか明るい。方言の残ったままのイントネーションで、「でも、」と続ける。


「桜はなんもなさ過ぎて退屈ってすぐ言い出しそう」


 自分では夏実と変わらないと思っている。一度外に出て、地元がもっと好きになった。想い出が詰まりすぎているから息が苦しくなるときがあるだけだ。肩肘を張らなくていい空気は都会の憧れに勝る。


 標準語、メイク、ファッション、ネイル、バイト、SNS。地元にいるときにはすれ違いもしなかった様々な存在に出会い、私は数ヶ月で詰め込んだ。都会私立文系大学生に馴染めるように必死だった。ふくらはぎがつるほど、身体の変な部分に力を入れて背伸びをしていた。


「そんなことないよ。飽きない飽きない。祭りはこっちの方が絶対楽しいし」


 そう言って、駅のそこかしこを彩る祭りのポスターの一つを指差す。お盆に五日間かけて開催される、一年間で一番のビッグイベント。毎年この時期になると、県丸ごとのボルテージが上がる。


 踊りの練習が行われた昨日の夜の余韻が、落っことされたらしい熱気から感じられる。目を閉じて、和楽器と踊り手の掛け声の音が街のあちこちから聞こえる夜の風景を想像してしまう。


 恋に焦がれそうになる、特別な夜。私は馬鹿みたいに、奇跡のような特別がもう一度起こることを願い続けている。


「甘いもの摂取したい」


 地元に戻って来るだけで胸の奥から飛び出てきそうになる感情に負けないように、とりあえず叫んでみたくなった。


 私の大声は面積の大きな空に広がっていく。綺麗に盛り付けられた飲み物を跡形もなくなるくらいぐちゃぐちゃにかき混ぜたい気分だった。


「ずっとバス乗っとったのに相変わらず元気やな、桜」


 周りを気にしてきょろきょろ視線を動かす夏実の声には、少しため息が混じっていた。


「嫌?」

「ううん、行こ」


 夏期講習を終えた高校生たちが私たちの横を通り過ぎていく。その中に母校の制服を見つけるたび、胸が詰まる。


 熱気が全部肺へ流れ込んできたみたいだ。眩しい世界の真ん中を歩く彼女たちと、端に追いやられた自分。そんな構図ばかり頭を掠めては、内側の感情が沈んでいく。それに反比例するように、外に出す動作は明るくなる。


「聞こえた? 今の子桜のこと美人~羨ましい~って言よったよ。ほんまにな」

「メイクメイク」


 私の方がよほど羨ましかった。戻れることなら同じ制服を着ていたあの頃に戻りたかった。


 景色は色彩を失っている。空の青も制服の青も、全てが色褪せて認識できない。駅ビル、商店街のお店、コンビニエンスストア、デパートの装飾。同じ構造物でも、見え方が昔と変わってしまっている。


 「もう一度」は、もう訪れない。あの頃に戻ることはできないと突き付けられるのが嫌で、都会に逃げた。


「新作美味しそう」


 待ち合わせによく使われる外壁の大きなロゴマークを横目に、駅ビル内にあるカフェの入り口に立つ。私を歓迎するための自動ドアが開くと、よく冷えた冷房が肌の温度を下げる。


 カフェ巡りが好きな友達に付き添ってよくカフェを訪れるけれど、結局チェーン店が一番安心する。隠れ家のようなカフェに入るとき、身構えてしまうから。そんな憂鬱さは微塵もなかった。


「何頼むの?」

「いつもの」


 映えも他の子からどう見えるかも、大学にいるときよりは考えなくていい。私はちょうど飲みたかった期間限定のモモのを、夏実は中学校のときから変わらずマンゴーのを、それぞれ注文した。カウンターで飲み物を受け取って、入り口すぐの席へ座る。


「さっき対応してくれた店員さんかっこよかったことない?」


 一息ついてすぐ、身を乗り出した夏実が囁く。思い出そうとしても、顔にもやがかかって思い出せなかった。


「分かんない、全然見てなかった」

「私なんて目も合わせれんかったけど、確かに桜と仲良い子の方がかっこいいか」

「そうかな」


 曖昧な愛想笑いを貼り付けて、ストローを掴んで掻き回す。素直になんでも言えない悔しさを手に込める。氷同士がぶつかる音が、一方的に気まずい空気をぶち壊してくれたらいい。


「あっ」


 夏実の視線が私を通り抜けた場所に飛ぶ。夏実はすぐさまスマホを持ち上げて乱れた前髪を手で直した。どうしたの、と振り返ろうとしたそのとき、斜め後ろから声がかかった。


「桜? やっぱり桜やん」

「にっしー久しぶり」


 店の外の通路を通りかかったらしい声の主に、反射的に右手が上がって背筋が伸びる。高校のとき女子からそこそこ人気があった西澤ことにっしーだった。地元の大学に進学したらしいという話を、友達から聞いたことを思い出す。


 中高の同級生だから夏実とも知り合いのはずだけれど、にっしーは私しか見えていないようだった。そっと夏実を盗み見ると、俯いて飲み物を飲んでいる。私たちの会話に入る気はなく、空気になりたがっている。夏実は自分で線を引いて、私の友達とは積極的に関わろうとはしない。


「都会行ってより美人になっとってびっくりした。でも相変わらず服がモノトーンだったけん気づいたわ」

「カラー取り入れるのは怖いからね、変な取り合わせでも気づけない」

「俺服屋でバイトしよるけん、チェックするよ。桜ブルベそう」

「ブルベってそれ嫌味? 買うたびに写真送らないといけなくなっちゃうじゃん」

「ほな連絡先交換せななー。インスタ交換いい?」

「いいよ」


 ここ数ヶ月で幾度となく請求された動作だった。オートモードで動く機械のように指が動いて、自分のアカウントのQRコードが開かれる。差し出されたスマホが読み取って、ものの数秒でFFになった。


「ありがとう、色の取り合わせの相談いつでも待っとる」


 自動ドアから暑そうな外に出ていく彼を見届けて、一息ついて猫背に戻る。そんな私の様子を見ていた夏実が伏目がちにストローを口にする。


「いいな、桜は」

「何が?」

「私もモテてみたい」


 目線を上げないまま、夏実が自嘲気味にこぼした。


「モテてないよ」


 あくまで謙遜を装うけれど、心は重い。インスタ交換を持ちかけられただけでモテると決めつけられてしまう。男子と仲が良いというだけで羨ましい対象になってしまう。私にとっては何もないことに意味をつけられることに圧迫感を覚える。


 真正面から受け取ってはかわしたり反射したりできずにダメージを食らう。それでも、お腹の底まで沈んだ心とは裏腹に、表出する明るいブランディングは絶やせなかった。


「昔からやけどさ、見た目可愛いん羨ましい」

「普通になりたくて、みんなに馴染めるように頑張ってるだけだよ」

「努力とらん私が悪いもんな」


 気をつけていたのに、外的要因によって夏実のネガティブモードを引き出してしまった。親友だから、私だけに見せてくれる部分が嬉しくもあることは確かだ。けれど、暗い心の内を声に出されるのは息が詰まった。何を喋ってもどう動いても、私には何の力もないと思わされてしまう。


「そんなこと言ってないじゃん。私はビハインド埋めるためにしてるだけのことだよ。コスメ選び、夏実が手伝ってくれるから助かってるし」

「私じゃなくてもできることやん」

「大学の友達には隠してるの、知ってるでしょ。夏実にしか頼めない」


 伝えても伝えても、夏実視点で語られるバッドエンドの物語は終わらない。


「隠さんでも、人気やし、いっぱいおる友達の男子でも女子でもいいんちゃう。あー友達多いんも羨ましい。私は昔の同級生に声かけられたことない」

「浅く広くだから意味ないよ」

「私のフォロワー三十人くらいしかおらんし」


 暗くなりかけた画面の中に浮かぶ私のフォロワーの数字は四百五十を超えている。多くたって、片っ端から交換して積み上げた数字には何の意味もない。繋がりたいたった一人とは、未だに繋がれていないのだから。


「大学生になってマシになったかなって思っとったけど、地元の空気に触れたらまた昔の自分に戻ったわ」


 猫背、地元に帰るだけだからと気を抜いたすっぴん、Tシャツにジーパンという服装の夏実。昔から私と自分を比較しては、自己肯定感を下げる幼なじみ。でも、カラーの取り入れ方が上手いと私の友達に評価されていることは知らない。


 対して、幼なじみの前でもありのままを見せられなくなった私。メイクもお出かけ用で、髪型も外ハネハーフアップ、服装はシアーの羽織りにミニスカート。失敗を避けたモノトーンのコーディネートでも映えるように研究し尽くした見た目。一度身につけることを覚えたら、装備を外して外に出るのが怖くなった。私は夏実とは違って、等身大になれずに首を絞め続けている。


「それでも生まれたときからずっと仲良くしてくれる夏実が一番だよ」

「幼なじみやけんっていうだけで私なんかと仲良くしてくれてありがとう」


 上唇の方だけに力が入って、瞼が厚くなって目元が少し隠れる。夏実がそんな表情をするとき、私は決まって心臓が絞られたみたいに苦しくなる。


 それぞれの劣等感と逃げたさがぶつかり合う。陰りが強調されたテーブル上の空気に耐えられずに、新たな話題を提供した。


「だけでもなんかでもないよ、ほら、私一人だと勇気出なくてバレーの練習顔出しにいけないもん。いつにする?」

「お盆前最後とか?」


 夏実の口から飛び出たワードに、内心過剰に反応してしまう。三年前と結びつけて、勝手に意識してしまうのは私だけ。


「いいよ、新入部員どれくらい入ったんだっけ」

「妹情報で六人やって、一学年でワンチーム揃えれるんいいよな」

「羨ましい。みんな経験者?」

「んーん、初心者もおるって。中学から始めた子がほとんどらしい」


 バレーの話に入ると、下がり切っていた夏実の口角が上がっていく。膝に添えられるだけだった手が、言葉に合わせて顔の周りで動き始める。元気になる様子を見て胸を撫で下ろした。


「今小学校からやる子少ないのかな」

「小学校どれくらいのチーム数残っとるんだろ、県大会結果見てみよう」


 夏実がスマホ上で指を動かす。トーナメント表が載る画面が差し出された。


「見て、これ最新じゃないかもしれんけど、二十チームちょっとしかないよ」

「嘘、私たちのときは七十チームは超えてたよね」

「みんな何習っとるんだろう、理由少子化だけじゃなさそう」


 二本指でズームして見ると、見慣れたチーム名が並んでいる。


「みんなJVCってついとったよな。見て、浜っ子懐かしい。よく練習試合したな」


 一つずつ、一つずつ、スクロールされていくチーム名。一つ一つにある思い出話を語りながら進んでいく。私たちの所属していたチームも、なくなった五十チームの中にあった。


「私らのとこ男女混合になっとる」

「ほんとだね」


 注目が、女子チームから混合チームへと移る。また一つ一つを見ていくうち、たった一つに目を奪われる。


「待って、北小も女子から混合になっとんや、一番強かったのに」


 夏実が言う声に色が被さる。青。北小のチームカラー、ユニフォームや横断幕の鮮烈な真っ青の色が、スマホの画面から広がって目の前に被さってくる。


 青、青、青色。失くしたはずの色が生まれる。もしも立っていたら思わず後ずさりしてしまっているだろう。勢いよく視界に青色が足されていく。


 「北小」は私にとってはトリガーになる言葉の一つだった。一度出した色は簡単には引っ込められない。青色と共に引きずり出された記憶が、私の身体中を支配していった。



「先輩、」


 じっとりと汗が滲む、お盆前最後の帰り道。青々とした街路樹が立ち並ぶ人気のない道に、静けさを突き破った蝉の声がけたたましく鳴り響いていた。


「よかったら、一緒に祭り行きませんか?」


 それは、私が口にした精一杯の告白紛いだった。先輩用に作ったワントーン高い声が、五センチの身長差を超えて夏の青い晴天に吸い込まれていく。


 私の提案に、歩幅を合わせて歩いてくれていた先輩の歩みが止まる。先輩の目を直視できず、代わりに見ていた唇が徐に開いた。


「いいよ」


 世界から一瞬、先輩の声以外の音が消えた。昔と変わらない、清水のように透き通った声が耳から流れ込んで、心臓が荒れ狂う。


「ありがとう、ございます」


 動悸に負けてさらに俯くはめになる。私の視界は、空とは違う別の青色に独り占めされた。燦々と輝く太陽が私たちを焼きつけて、汗ばんで染まった制服のワイシャツの色に。


「高校最後やけん、全日行こうと思っとったとこ」

「そうなんですか?」


 歩き出した先輩についていく。肩に入った余計な力と心音に埋め尽くされて、呼吸の仕方や歩き方さえ忘れてしまったみたいにぎこちない。


「うん。ちょうど良かった。せっかくやけんいっぱい行きたいよな」

「めっちゃ考え方同じです」


 この口は容易く嘘を吐く。先輩に共感するように、誰でもいいわけではないのに、予定が埋まるなら誰でもよかったみたいなふりをする。


 誰と居るときも、どこでも、頭で考えるより先に取り繕った嘘が積み重なって、私の輪郭を形成していく。


「懐かしいな、昔会ったの。初めて喋ったんあのときだっけ」

「はいっ」


 構えていない方向からの攻撃に声が裏返る。

 心臓の鼓動が大きく、速くなった。爆発しそうに熱い。オーバーヒートする胸の内を鎮めたくて、身体中にさらに力が入る。


 ずっと気になっていたことだった。私だけが出会いを特別に思っていて、先輩は忘れていたらどうしよう、と。


「いきなり話しかけられてびっくりしたん覚えとるわ。あんとき二個も下なん知らんくて、同じ小六やと思っとったし」


 どんな顔をしているのか、見たくも見たくなくもあった。好奇心と自衛心の二つがせめぎ合って、結局顔を上げることはできなかった。


「プロフィール帳書いてください〜って、あんなところで渡されると思っとらんから実はちょっと困った」


 小学校の頃に流行っていたプロフィール帳。親には友達の個人情報なんて集めて何になるの、と言われてなかなか買ってもらえなかった。「書いて」と友達から渡されるたび羨ましがっていたそれを、ようやく買ってもらったばかりだった。


「だって試合の日は渡せんじゃないですか」

「まあ他のチームと馴れ合うなって言われとったけんな」


 もし他のチームの人に会えたらと僅かな期待を胸に、祭りにプロフィール帳を持って行っていた。一人で屋台を回ってみたくて、一緒に来ていた親や夏実の家族に無理を言って離れて歩いていた。


 人混みを抜けて一息つこうと訪れた公園に、まさかいるとは思わなかった。


「ていうか今でも覚えとるなら、何で返してくれてないんですか」

「タイミング逃してて、ごめんやん。なんでか話しかけるだけで泣かれたし嫌われとるんかなー、いらんのかなーと思って」


 揶揄う楽しそうな声だけを噛みしめる。タイムスリップした気分だった。ジェットコースターのてっぺんから落ちる寸前と同じように浮わついた感覚がする。


「嫌いなわけないじゃないですか」


 感激で声の端が震えてしまう。発熱にうかされて思考が鈍くなる。素直な心情のまま口角を上げられているのかも分からない。ただこの熱を胸の中で受け止めて、手触りを確かめる。


「私こそびっくりしとったんです、優勝チームのエースやって思って話しかけて、気づいたらなんか泣いてました」

「なにほれ」


 分からん分からん、と声を上げて笑う。先輩の笑顔は周りの人まで明るくさせる。晴れた真昼の太陽みたいに眩しい。あの日だって私の顔を見て笑われて、気づいたら泣きながら笑っていた。


「それに怖すぎますもん、試合中の先輩。アタック痛いし」

「昔から、ブロックは誰よりも上手いよな」


 またそうやって、守備範囲外から私に致死相当の攻撃をする。変わらない声が私の世界に記憶の中の青を導く。


「小学校のときに先輩を初めて止めた日から、誰にも負けない自信になりました」


 ネット越し、背番号の四番だけを追いかけた。指導者に爪楊枝と大根に喩えられたほど体格が違った。到底勝てない実力差があるチームのエースを、私は徹底的にマークしていた。


 覚えている。初めて手のひら全体に当たったボールの感触を。初めて目が合ったことを。ボールが床についた途端、正の感情が集まって色になったことを。


「それはなんか悔しいな」


 初めて出会った色の正体を、そのときの私は知らなかった。


 その答えにたどり着いたのが祭りの日だった。姿を見つけて、気づいたら声をかけていた。


 トリガーは先輩の声だった。高揚感で泣いて熱くなった表面温度に清水のような声が響いて胸に落ちたとき、色が弾けた。その色が、ブロックした日に生まれた色とリンクした。


 チームカラーの色。追いかけたユニフォームの色。目の前に立つこの人の色、青色。正体を掴んだ瞬間に、行き場もなくくすぶっていた胸の中の色が弾けて、視界に青が広がっていった。


 初めて触れた情報を頭が処理できなくて、パンクしそうだった。それでもその青は、私の世界の色を補完して、鮮やかに染め上げた。


「でも、やっぱり嬉しいか」


 空気が変わった肌感に従って反射的に顔を上げると、先輩は顔を上げて空の遠く先を見つめていた。敵になったときは身震いするほど怖い、切れ長の奥二重の瞳が日光を微かに反射する。


 口角で頬が持ち上がっている。昔から変わらない、ネットを挟まないときの笑顔だった。親しみやすさだけを周りに振りまく笑顔。


「桜?」


 先輩に呼ばれるたび、薄くて存在感のない自分の名前の輪郭が立ち現れてくる。


 先輩は知らない。あのとき、アタックが狙い通りに決まったときのような高揚感に包まれたことを。手足を痺れさせてざわつかせる感情の色が走り出したことを。


「悔しがらんと嬉しがってくださいね」


 私と出会えたこと。同じ時間を今、共有していること。私と同じように嬉しいと思ってくれたらいいのに。


「分かった分かった、でも次の練習からは止めさせんけん」

「無理です無理です」

「うわ、舐められてるわ」

「舐めとりません」


 無意識に声に力がこもる。いつも先輩だけを目で追いかけていたから、フォームも打つコースも、私が一番知っているだけのことだ。


「ほんま?」


 また、反射的に足が止まる。青色が一面に広がる視界。空や制服の縁取りが曖昧になって、青が滲みだしていく。


「憧れですよ」


 先輩にずっと、憧れている。あの日、色をもらって、世界が全国大会のセンターコートと同じくらい輝し始めたときから。

 

「あら、ありがとう」

「先輩」


 「青春」が「青」という字を使う理由を、私はあのときに知った。


「ん?」

「青いです」


 唐突な私の言葉に、先輩は少し首を傾げた。


「桜の視界に見えとるのは、どんな青なんだろ」

「見てみたいですか?」


 私視点の世界を見せられたなら、どれほど世界が私にとっての青で埋め尽くされているか伝えられたのに。


「うん。想像できんけん。でも私の視界も見せたげたいかも。青は私の大好きな色やけん、共有したい」


 青が大好きです、と思わず口走りそうになってしまう。その気持ちを制御して、会話を進める。


「遠慮します。それに私だけとちゃいます、人それぞれ見える色は違いますよ」


 一人一人の見える世界が違うことを、きっと誰よりも私が一番知っている。だから、先輩から私がどう見えているかなんて知りたくない。


「そっかごめん。ならみんなの色、見てみたいわ」

「自分だけにしか見えん世界やけん、好きな色が特別に映るんですよ」


 私の言葉を聞いて、先輩はすぐに笑いながら口を開いた。


「ほな、私の世界も青いわ」


 先輩がどう解釈したかは分からない。けれどそのときは、私の世界を彩る青色の欠片を先輩と少し共有できたような気がした。


「じゃあまた、祭りの日ですね」


 ちょうど分かれ道だった。部活以外に「また」がある。五日後に、初めて喋ったあの夜をもう一度先輩と共有できる。相変わらず鼓動は忙しないまま、落ち着かない。


「うん、他に来る人決まったら教えて」


 ガードが完全に緩み切ったタイミングでの攻撃には、耐えられそうもなかった。膨らんだ期待の風船から手を離されて、みるみるうちに空気が抜けて萎んだ。


 残ったのは、余計な希望を持った分みすぼらしく朽ちた外側の輪郭だけ。訪れた沈黙に、また蝉の声が飽和する。あと一デシベルでも大きくなったら、その鳴き声の声量に心が負けてしまいそうだった。


 一人で育てた独りよがりの気持ちに、気を抜くと自分自身が潰されてしまいそうになる。


「はい」


 口の先の方だけで声が生まれる。口の奥の方は息を吸うごとに空気で詰まって、器官を無理やりこじ開けられるような鈍い痛みがする。つばと一緒に飲み込まれたその痛さは胸に落ちて、心臓が一回鳴くごとに強調された。


「ばいばい」

「受験勉強頑張ってください」


 いつも通りを装えてしまう、この口が心底嫌いだった。痛みは心臓から血液と共に体循環で身体に回って、存在を主張している。内側と外側が乖離されたみたいにばらばらに動く私の部品。


「うるさーい、明日はまた社会人バレーに顔出すけん」


 振り返って手を振る先輩にお辞儀をして、しばらくそのままの状態で硬直していた。汗がコンクリートにとめどなく滴り落ちる。地面に落ちたシミの一点を見て、思考がいくらかの時間別世界に飛んでいた。そうでもしなければ、巡った痛みが身体中を蝕んで立ってすらいられなくなりそうだった。


 時間が麻酔に変わり、痛みが緩和されるようになってようやく顔を上げた。顔を滴る汗を制服の袖で拭う。先輩と同じ制服を着ている事実を噛み締めて歩き出す。


 小学校と中学校は学区が違って、どうにかして先輩との接点を持とうと必死だった。試合のたびに先輩の姿を探して、毎回試合終わりに観客席のゴミを拾っていることを知ってからは真似をした。


 先輩のチームと対戦するときは、学年で月交代のユニフォーム番号が四番になるように祈っていた。そうすれば、試合開始のホイッスルのときに先輩と握手できるから。


 ネット越しにしか交わせないやり取り。超えられない学年の壁が厚くて、あの日以降は話しかけることすら叶わなかったけれど、先輩のアタックをブロックするときだけは、同じ舞台に立っていると思えた。


 それだけでは物足りなくて近づきたくて、私にとっては学力がワンランクもツーランクも上の高校を受験した。やっと同じ制服を着られるようになって、同じユニフォームを着るためにバレー部に入って、先輩の背中を追い続けてきた六年間だった。


「必死やなぁ、私」


 同じ場所にいても、別のコミュニティに属している私たち。接点を無理やり作らなければ関わることさえままならない。私が一歩進んだと思う間に、先輩は気づいたら二歩も三歩も先へ進んでいる。


 総体が終わって、先輩以外の三年生は全員引退した。先輩だけは春高のために勉強と両立する覚悟で残ってくれたのに、それでもまだ何も行動を起こせずに、片想いのままだった。


 だから、今日は最後のチャンスだと思った。部活帰りに制服を着た補習帰りの先輩の後ろ姿を見つけたとき、神様が私の背中をそっと押してくれた気がしたから。


「今日言えたけん言える。よし」


 祭りの日、告白する。今そう決めた。気まずくなっても、先輩と過ごすのは残り数ヶ月。一目惚れした瞬間から叶わぬ恋だと分かっていたから、付き合うなんて大それたことは言わない。ただ、先輩にこの胸の切なさを受け止めてもらいたかった。



「あーさん今何しとるんだろう」


 名前が聞こえて、意識が現在へ戻ってくる。チーム名を見ただけで取り乱してしまう人だった。名前が耳に入るだけで、心の内から滲み出した淡い想い出の色に私の全部を支配されてしまう人だった。


「お盆になったら帰って来てるのかな」

「練習、誘っても来てくれんかなあ」


 瞬きを一回。自分では制御できない動作が私の色を奪う。一秒にも満たない時間で、滲んでいた青色が心の底に引っ込んでいた。


「無理でしょ、バレーから完全に離れてるらしいし」


 希望は持つだけ無駄。淡い期待は持たない方が身のためだ。全部切り捨てて、諦めの箱の中に整理すれば平静を装える。傷つくこともない。


「ダメ元で連絡してみよかな」


 夏実は机の上のスマホを手に取って、マニキュアを塗っていない指先を軽々と画面に走らせて操作していた。気軽にメッセージを送れる夏実が羨ましい。飲み物を一気に口に含んで、言えない気持ちまで飲み込んでしまう。


「写真撮り忘れてた」


 帰省しましたと、飲みかけの飲み物の写真を撮ってストーリーズに投稿する。形作った私の輪郭。友達の投稿をチェックして気持ちを誤魔化すことしかできない自分。


「西澤くんからいいね来た?」

「うん」

「夏実は、先輩から返信来そう?」

「既読付いとる、相変わらずスマホばっかり見とるんかな」


 通知でひっきりなしに震える私のスマホ。けれど、旧友からのおかえりメッセージも、大学の友達の足跡も、そのどれも私の世界に色を足してはくれなかった。



 一年で一番熱い夜。大小あれど、県民はみなこの夜に何らかの特別な想いを持っているのではないかと思っている。


 練習した成果の踊りを見せる人、夜に外を出歩いていい許可をもらえる子供たち、たくさんの人に笑顔を届ける屋台の人、めったにない家族でのお出かけにはしゃぐ人、そして、想いを寄せる誰かとの時間を過ごす人。


 たくさんの人視点の想いがうごめくお祭りに出かけて、かれこれ三十分。お父さん同士が同僚で、小さい頃から家族ぐるみで仲が良い夏実と祭りに訪れたのはこれで何度目だろう。


 駅を通り過ぎて本格的に屋台が立ち並ぶ中心部に近づくと、あちこちで踊り手の掛け声や和楽器の音が周囲の空気一体を震わせている。そこに人々の話し声が混ざって、音が衝突事故を起こしてしまいそうだった。


「今日の服本当に大丈夫?」

「いけるいける、その色味似合っとるよ」


 キャミソールに半袖のメッシュカーディガンを羽織って、マーメイドスカートを合わせたコーデ。キャミソールのグレーの色味が変ではないか心配だった。


 タグを見て買っていても、新しい服を下ろした日は普段の何倍も失敗していないか気になって夏実に質問してしまう。小学校のときから、夏実は私の服をチェックしてくれている。流行に敏感でありたい私にとって、夏実は必要不可欠な存在だった。


「本当?」

「ほんま」


 先輩にあった次の年から、祭りの日には毎年新しい服を下ろすと決めていた。会うための自分の中の願掛けみたいなものだ。街中でばったり会うなんて運命は私には起きえない。必死に努力してしがみついて、先輩のことだけを考えて、そうしてやっと指先が掠るかどうかの恋だ。


「じゃあ自撮りしよ」

「SNSにあげんとってな」

「分かってる」


 道の端に寄って内カメで前髪を軽く直してから画角を調整する。街一帯を彩る提灯が入るようなアングルで、二人での写真を数枚撮る。その次に自分一人でポーズを変えて写真を撮って、それだけをストーリーズに投稿した。


「どこ行く?」

「なんか食べたいよね、焼きそばとか食べる?」


 道の真ん中に戻り、人混みに押されるまま屋台の方へ近づく。離れ離れになってしまわないように夏実は私のTシャツの裾を握っている。人の熱気と外気の熱気がぶつかって混ぜ合わさって酷く暑い。身動きが取れなくなるくらい絡みつく湿気の多い暑さが少し心地悪かった。


 見渡す限り、人、人、人。都会で初めて経験した、すし詰めの電車の中みたい。浴衣も屋台も色がたくさんあるけれど、色褪せた私の視界では気をつけていないと判別が付かないことだってある。それでも、先輩の姿だけは見逃さない自信があった。視界の端まで神経を尖らせてサーチをするのは怠っていない。


「昔の同級生とかバレーの人とかちらほらいるね」


 私が遠くに見つけた知り合いに手を挙げながらそう言うと、夏実は首を横に振る。


「そう? 名前も顔も覚えとらんわ、相変わらず記憶力いいなぁ」

「まあ記憶力良くないと私は普通の生活ままならないから、副産物みたいなもの」

「そやな、それよりカップルがいっぱいや」


 夏実の言葉によって始めてそのチャンネルを与えられる。私にはなかったチャンネルに切り替えて周りを見てみれば、確かに男女で歩く人たちが圧倒的に多いことに気づく。


「桜、あれ食べたい」


 Tシャツを引っ張られて夏実の指先の先を追うと、かき氷やわたあめなどの屋台が立ち並んだところに、はしまきの屋台があった。


「私も食べたい」


 地元でしか食べられない味に共感して右に歩みを進める。人の流れに乗り、そのまま真っ直ぐ歩いていく。


「何味にする?」

「レモンかな、桜は?」


 想定外の答えを投げられて、一秒思考が止まる。進行方向を見直して、思考プロセスを踏んで、掛け違ったボタンのありかを見つける。


「ごめん、はしまきかと思ってた、暑いからそっちも食べたい。いちごに練乳かけようかな」

「ほうだったんじゃ、かき氷二つ買うけんはしまき買ってきなだ」


 地元の方言を話す人々に周囲を囲まれて、夏実の方言が強くなる。昔に戻れたような気がして底抜けの安心感を覚えた。大きく頷いてはしまきの屋台に並ぶ。目につきやすいところだということもあって、かき氷の方が少しだけ列に並んでいる人が多かった。


「いらっしゃい、何にするで?」

「チーズでお願いします」


 言いながら五百円を渡すと、すぐタッパーに入れてはしまきを貰えた。


「ありがとうございます」


 キャッシュレスに慣れてしまったから、現金は煩わしい。けれど、屋台のおじさんの方言も相まって懐かしい感覚が強く私を撫でてくれるのは心地いい。


 その感覚を邪魔するように、ポケットに入れていたスマホが震える。取り出せば、にっしーからのメッセージが届いていた。


『俺も今日来てて、場所近いとこにいるかも』


 ストーリーズを見て送られてきたメッセージは下心が見え透いていて大きな嫌悪感に襲われる。さっきまでの懐かしい感覚に新しい感覚が入り込む。内面と他人に見せる輪郭までもを取り込んで、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていく。汗が噴き出す。Tシャツが貼り付いて気持ち悪い。


「桜、買えたよ」


 夏実の声が安心感を足してくれたおかげで、どうにか平静を取り戻した。


「座れるところ移動しよっか」


 屋台の並びの奥まで進んだところにある公園のベンチがちょうど空いていて、二人で並んで座る。お金を渡してかき氷を受け取って、はしまきとかき氷を一口ずつ食べながら体温を上手く調節する。


「そういえば、今日あーさん来とるみたい」


 耳が敏感に反応する。結局先輩は練習には来なかった。おそらく私はほんのちょっとだけ期待してしまっていた。時間にしたら瞬きするような一瞬、量にしたら霧雨の一粒、重さにしたら糸くずくらいの、それくらいのちょっと。


 でもそれだけでも期待してしまっていたから、その分、落胆は地中に引き摺り込まれるくらい大きかった。


「そうなんだ」

「桜、あーさんにあんま興味ないよな。りんご飴欲しくなったけん行ってくるわ」


 かき氷を先に食べ終えた夏実がゆっくりと立ち上がり、先ほどの屋台街に向かって歩いて行く。夏実の声が胸に刺ささったまま抜けない。黒をぶちまけられたみたいに視界が汚く塗り変わった。


 夏実視点ではそう見えていることが悲しい。やさぐれながら、残ったはしまきの二口分とみぞれになったかき氷の海を少しずつ食べているところで、背後から声がかかった。


「桜おった」


 振り返ると、またもやにっしーだった。


「めちゃくちゃ偶然。隣いい?」


 首を横に振る前に、にっしーは隣に座った。


「服めっちゃ可愛い」

「にっしーの洋服もかっこいい。黒似合ってる」


 嘘ばかり、適当に音を発する口。こぶし一個しかない距離に顔をのけぞらせながら、あべこべに満面の笑みを貼り付ける。


「不正解。これは紺やで。まあ黒に見えるかもくらい微妙な色やけど」

「ごめん、でもとにかく似合ってるよ」

「えー、絶対適当やん」


 大学で周りにいる友達とも交わしているような軽いノリの会話。私を着飾る私が作り上げた虚構が、私自身もを呑み込んでいきそうになる。


「一人なの?」

「家族と来とって、今一人で買いに来たら見かけたけん」

「そっか」


 その後も口先だけの適当なやり取りをして夏実を待っていたけれど、十分ほど経っても戻ってこない。


「友達なかなか戻ってこないから見に行くね」


 吸う暇を奪われたかき氷が完全に液体になって、冷たさまで失われていた。会話をするのが我慢できなくなって自分から立ち上がった。


「電話したら? 人多すぎるけんやみくもに探すよりいいと思う」

「確かに、それはそうだね」


 この時間から解放されたくて腰を浮かせたくせに、気づけばまた同じ場所に座っている。すぐそこの屋台に買いに出かけたにしては時間がかかりすぎている。


 にっしーの言うことが理に適っているから従ってしまった。みんなに嫌われたくないという思いが自分の中で強すぎるせいだ。


 自分一人の見え方じゃ自信が持てないせいで他の人の見え方を参考にしていたら、どう見られているかばかりを気にするようになっている。他の人の普通に合わせられるように、自分自身を歪めて輪郭を作ってばかり。


「俺、離れるわ」


 電話の内容を聞かないように気を遣ってもらって、やっと肩の力が抜ける。トーク画面に飛んでも何もメッセージは来ていなくて、少し心配になりながら電話をかける。


「もしもし」


 案外数コールで繋がった。踊りの音がこの辺りよりも近くで聞こえるから、場所を少し移動したようだった。


「もしもし、今どこにいる?」

「無料演舞場の方。西澤くんと喋っとるの邪魔できんくて歩いとったらあーさんに会って、食べながら移動しよるとこ」

「邪魔じゃないよ」


 名前を耳にするだけで、心臓が縮こまる。声を紡ぐ口の内側は、皮膚がちぎれるように痛く苦しい。県民が全員集まっているように錯覚するほど、道が人で埋め尽くされる日。そんな中で特定の人に会うことは宝くじで一等を引くように難しい。


「邪魔以外の何者でもない。羨ましいんじゃって。いっぱい友達がおって、いっぱいモテて、昔からいつもそう。前も言うたけど、大学に入ってちょっと可愛くなれたんちゃうかなって思っとったのに、西澤くんは私に気付いてすらくれんかったやん。名前も存在も記憶から抹消されとるって」


 突然大声になって、またネガティブモードに突入した。夏実の声を聞いていると、俯いて、握り拳を作って、肩がわなわなと震え出した。羨ましいと、私だってそう思っている。


「そんなことないよ」


 何に否定したのかも分からない。ただ、私から見た世界では夏実の言葉の全てが間違っているということは主張しなければならなかった。


「桜は、私が西澤くんを好きなことなんて知らんやろ」


 ほとんど叫ぶような掠れた声。バレーをしているときだけ見せていた敵対心むき出しの表情が目に浮かぶ。味方ではないと言われているようだった。ネットを挟んだ向こう側に移動して、距離をとられる。


「どしたん、夏実」


 電話越しに清水のような声が聞こえて一瞬、言葉を失った。探していた声が耳元で響いて、自分の胸の苦しさと夏実の視点に立って想像した感情が一緒になって膨れ上がる。火を吹くほどの焼けるような熱さが広がる。


「ごめん、知らなかった」


 届かない気持ち、嫉妬に取り込まれる胸中。私が一番夏実の気持ちを分かってあげられるはずだった。それなのに、私の表層が紡ぐ言葉の一つ一つはやけに軽かった。


「さっさと彼氏作ってだ。私が好きになった人はみんな桜を好きになるばっかり。私なんかと関わらんでも桜は友達いっぱいおるやん」


 声に突き飛ばされた。分かるような気持ちで寄り添おうとしたら距離を取られて突き放される。胸の奥が膿み始めて、血が噴き出すような痛みに襲われた。


「あなたと私が見てる世界は違う」


 反射的に声が出た。自分で言葉を発しておいて、自分自身で驚いた。私を構成する輪郭が崩れ落ちて、中身が剥き出しになる。誰かに気持ちのままに言い返したのは、これが初めてだった。


「何それ、もういいよ」


 電話が切られる。遮断された機械音は拒絶のメッセージを代弁していた。トラブルが起きないように周りに合わせて、我慢するばかりだった。穏便にやり過ごす立ち回りしかしたことがないから、誰かとぶつかった経験がなくて、どうしたらいいか分からない。


「電話、大丈夫?」


 離れたところで様子を伺っていたにっしーが戻って来る。電話が終わってなおスマホを握りしめるだけの私を見て、遠慮がちに問いかける。


「親友と喧嘩しちゃった」


 なんでもないと言うつもりだったのに、口からこぼれたのは素直な言葉だった。


「小川夏実さん?」


 私が何かヒントを与えるわけでもなく、にっしーから自然に名前が出てきた。


「そうだよ」

「やっぱり? ごめん、きもいけど実は二人を見かけたけん家族と離れたんよな。桜の横におるの小川さんかなって思ったんやけど、可愛くなっとったけん自信なかった。てかこの前会ったときも一緒におったよな」


 どうしても泣き出しそうになってしまった。夏実の変化はちゃんと把握されていて、忘れられていたわけでもない。心の内も、見え方も、その人自身にしか分からない。そんなことは当たり前に、私が一番分かっていて、たとえ昔からの親友だったとしても、言わないと伝わるわけがなかった。


「そうじょ。いっつも一緒におるけん。仲直りしに行ってくるわ、ありがとう」


 むき出しになった中身が、輪郭を破壊する。自分を守ってくれる装備を失う代わりに、私はきっと他の大切なものを手に入れられる。


「うわ、方言良いやん。おっけ。もし夏休みまだいるなら二人で会いたいかも」


 にっしーの距離感の詰め方に、なぜか嫌悪感を感じなくなっていた。真っ直ぐに誘ってくれるにっしーの眼を、私も誠実に見つめ返す。


「ごめん、にっしーのこと好きな子がおるん知っとるけん、それはできん」

「まじか」

「うん、ほなね」

「ばいばい」


 にっしーに手を振って、無料演舞場を目指して歩き出す。持っていたごみを真っ先に捨てて、人の流れに邪魔されながらも、ほとんど走っていた。


 吹き出す汗によって、完璧に施したメイクも崩れ切っているだろう。けれど、鏡を見る暇もメイクを直す暇もない。嘘で塗り固められた自分じゃなくて、本音で夏実と対峙したい。


 夢中で前だけを見て駅まで戻って来た。距離的には残り半分で、少しだけ人が少なくなる地帯に差し掛かったときだった。


「桜」


 見知った声を耳が拾って、横を向けば夏実がいた。夏実は私に向かって走って来る。その様子を見て、夏実も私を探して会いに来ようとしてくれていたのだと知る。


「夏実」


 何を言うでもなく人の流れから外に出て、二人で近くの階段に横並びで座り込む。


「さっきはごめん。桜に言われたこと考えて、でも分からんくて、会いに来た」

「私もごめん。話したいけん探っしょった」

「方言の桜、安心する。聞かせて」


 大学に入って周りに染まるために強制したイントネーション、語尾、言葉たちは、私をさらに内側に閉じ込めていたのだと分かる。肌に合う空気、慣れ親しんだ土地、馴染んだ言葉のテンションで、今なら包み隠さず伝えられる。


「にっしー、夏実のことちゃんと分かっとったよ」

「嘘」

「ほんま。夏実は昔から物事を一方的に決めつける癖があると思う。はっきり言えん私も悪いんやけど、それがちょっと窮屈になるときがある」


 夏実といるとき、息が詰まる瞬間がこれまでに何度もあった。小さな頃は違和感としてしか認識できなかったその感情を言語化できるようになったのはつい最近だった。


 夏実の見たい世界だけを作り上げて私を見ているとき、私から見える世界を否定された気がして苦しかった。


「私も夏実を羨ましいと思っとるよ」


 知らぬ間に俯いていた顔を隣に向けると、夏実は私を見ていた。私が紡ぐ言葉を一音もこぼさんとするように、私だけに焦点を合わせていた。


「信じられんけど、ありがとう」

「夏実以外に親友おらんよ。いつもほんまに助かっとる」

「桜に友達でいてもらっとると思っとった。めっちゃ嬉しい」


 階段に置いていた私の手に、夏実の手が被せられる。汗ばんでいるのに心地良い。


「でも、私のこと羨ましいっていうんは?」


 視線を逸らしたくなる。逃げてしまいたくなる。私を守っていた殻に、もう一度入り込みたくなる。


「夏実は私をモテるって言っとったけど、私はそう思ったことや一回もなくて、」


 それでも、嘘をつかないと覚悟を決めたから、今日伝えなければならない、向き合わなければならないものがある。


「私は小学校の頃からずっと、先輩のことが好きなんよ」


 それは、私の中心にあるものだった。私を形成する上でなくてはならない気持ちだった。先輩という言葉だけで、誰のことを言っているかは伝わった。


「ほなけん、私は先輩と仲良い夏実が羨ましいんよ」


 夏実の瞳が虚を衝かれて、戸惑って小刻みに左右に動く。重なった手にお互いに力がこもるのが分かった。


「西澤くんのこと好きなの知らんくせにとか言っといて、私こそ気づかんくて、たぶん今までいっぱい傷つけて、ごめんなさい」


 その瞳から溢れた涙が頬を伝う。気づけばぎゅっと、正面から夏実を抱きしめていた。


「ごめんよ」


 気づけば私も泣いていた。抱き合って触れ合って、お互いの世界を共有する。言葉を使って表現することでしか、誰かとの世界のチャンネルは合わせられない。見たいものを見たいように見ているだけで、分かった気になっていたことをお互いに反省する涙だった。


 汗と涙が入り混じって、髪が肌に貼り付く。顔も台無しになっただろうというタイミングで、嗚咽が収まって来た夏実が声を出した。


「実は、あーさんに『一方的に喋ってたんちゃう』って言われてちょっと気づいて、背中押されて、桜探しに来たんよ」


 こんなときでも、私の耳は過剰に反応してしまう。私たちのことを思ってくれた言動に触れて、胸が高く鳴いて締め付けられる。それに伴って呼吸が上手くできなくなる。


「あーさん、演舞場の近くの川沿いの公園で休憩するって言っとったよ。仲直りしたら二人でおいでって言われとったけど、せっかくやけん一人で行ってきな」


 ぎゅぅ、と夏実の腕に力が入る。緩んだかと思えばほら、と立たされて、手を振られた。


「ありがとう」


 夏実に背中を押されて走り出す。好きだと叫びたい気分だった。私の中の色が、重力みたいに先輩に吸い寄せられる。目的地は先輩と初めて喋った想い出の場所だった。人の隙間を針を縫うように、ときには強引に掻き分けながら進む。宿題の答えを伝えに、全力で走っていた。



 高校一年生の頃祭りに誘ったのは、気持ちを受け止めてもらいたかったからだった。伝えて気まずくなったって、気持ち悪がられたってよかった。ただ、大きくなりすぎた初恋の甘酸っぱさに、終止符を打ちたいだけだった。


 けれど結局、私たちの関係が変化することはなかった。 


「うわ、桜めっちゃ綺麗」


 大好きな声が私の名前を呼んだ気がして振り返ると、それはよくある勘違いだった。じゃなくて、先輩が校庭の桜を見て風情を感じているだけ。


「ま、卒業式といえば桜やろ」


 バレー部の別の先輩が先輩の隣に並ぶ。ブランドがデザインした制服は私と同じもののはずなのに、卒業という特別なフィルターがかかって、二人ともモデルのように綺麗だった。


 私も先輩と同じ学年に生まれることができていたら、一緒にいられた未来があったのかもしれないと無駄な妄想ばかりしてしまう。


「卒業やな」


 私が必死に近づこうと努力しても到達できなかったポジションに、最初からいる人たちが存在する。あんな風に、先輩と肩が触れるほど近い距離にいられるのが羨ましかった。


 気づけば視界は滲んでいて、二人の影も揺らぐ。友達の輪をそっと抜けて校庭の隅で泣いていると、突然目の前に影ができて、俯いていた頭を優しく撫でられた。


「桜」

「せん、ぱい」


 顔を上げると、先輩は私と対照的に笑顔を浮かべていた。その距離の近さに胸の体積が急激に小さくなって、顔を直視できない。私が泣きすぎているせいで、これだとどちらが卒業するのか分からない状態になっていた。


「また泣いとる」


 私の様子を見て大爆笑する先輩。だけど、私は言い返せるような元気を持ち合わせていなかった。そんな私に気づいて、先輩は雰囲気を変えた。


「ごめんよ、祭り行けんくて」


 『祭りに行けなかったことが後悔です。また足の怪我が治ったら一緒に行ってください』


 私がバレー部の寄せ書きに書いた言葉を見たのだろう、優しい先輩はわざわざ私の元へ近寄って来てくれた。


「バレー、大学ではやらんのですか」

「今まで通りできんのが悔しいけん、もうやらん」


 松葉杖が外れても、念のために器具をつけて歩いている先輩。約束を取り付けた次の日、先輩は参加した社会人バレーの練習中に怪我で前十字靭帯を損傷してしまって、そのまま引退した。


 怪我のことも約束のことも、突然の出来事を処理しきれないまま、先輩と会いたいときに会える環境を失った。学校内で会ったら手を振るくらいで、まともな会話もままならない。完全に距離ができてしまったせいか、話すのは本当に久々だった。


「そうや、これ返す」


 不意に差し出されたのは、見覚えのあるプロフィール帳だった。


「え、あ、え、嘘、なんで。これ、まだ持っとったんですか」


 やっぱり、突然の攻撃には弱い。涙も引っ込んでしまうくらい取り乱してしまった。


「タイミングがなかったけん渡せんかっただけよ。昔書いたけん、字汚いけど」

「ありがとうございます。ほんまに大切にします」


 寄せ書きに、プロフィール帳のことを書くかぎりぎりまで迷って結局書けなかった。小学生のときのことをずっと引きずっていることが痛いと思われたくなかった。


「大げさやな。そんなに喜んでもらえるんだったらもっと早くに返せばよかった」


 他の人にしたら、プロフィール帳なんて小学校のときだけのちょっとした文化の一つなのだろう。ただの紙切れ一枚だとしても、私にとっては憧れてやっと買ってもらえて、先輩との繋がりができた特別なものだった。


 それでも、少しだけ寂しさが胸を襲う。これは、私と先輩を繋いでいた細い細い糸のようなものだった。返してもらった今、先輩と私の接点は何もない。何もなくなってしまうと思ったから、それが怖くて寄せ書きにも書かなかった。


「ありがとうございます」


 あと何分、私は先輩と一緒にいられるだろう。明日からの毎日に先輩はいない。校舎もグラウンドも部室も、どこを探したって先輩はもうこの学校からいなくなってしまう。


 六年間追い続けてきた背中。私にとっては、同じ空間で生活することも、すれ違ったら手を振ってくれることも、名前を呼んでくれることも、今こうして話していることも、全てが奇跡みたいだった。そんな取り留めもない日常が、私にとっての特別だった。


「桜の好きな色って何色?」


 風が舞う。桜の花びらがたぶん二人の空間を横切った。大きく息を吸い込んで、呼吸を整える。涙の跡をブレザーの袖で拭って、先輩の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「青です」

「そうなん?」


 先輩が不意打ちを食らったみたいな顔をする。


「青いですって、言うたじゃないですか」


 青色が私の景色に色を付けていく。


「確かに言うてたけど、嫌いな色かもって勘違いしとったわ」


 先輩はポケットから青いシューズの紐を取り出した。好きな色を聞いて、その色の紐を後輩に配っているらしい。


「桜色じゃないんや、一応用意しとったんやけど」

「決めつけんとってください。桜色の方が嫌いです、存在感薄くて見えんので」


 私はそう言いながら桜を指差した。私の視界からは、空の青に侵食されて見えにくい。


「そんな理由なん、春といえば桜って感じでめっちゃ存在感強いのに」


 先輩は空を見上げて、またあの笑顔を浮かべた。先輩に見える世界では、桜色がどう見えているんですか、なんて言ってしまいたくなった。


 期待はしない。けれど、春が来て、桜を見て、そのたびに私を思い出してくれるならそれだけでいい。


「桜」


 普段は薄い自分の名前も、先輩に呼ばれたら存在感が増すから不思議だ。空の色に溶ける桜色も、今ならはっきり判別できる。


「はい」


 先輩のことを穴が開くほど見つめていたから、次に言う言葉に全神経を研ぎ澄ませて待っていた。


「色って、何なんやろうね」


 それは、先輩が私だからこそぶつけた質問だったのだと思う。


「分かりません」

「じゃあ、次会うときの宿題で」


 先輩はそう言って、新たな接点を曖昧に作った。私が何か言う前に、名残惜しさの欠片もない足取りで私から離れていった。私に謎の宿題と、無駄な期待と、恋心だけを残して。



 色というものが何なのか、あの日からずっと答えを探していた。


「先輩」


 先輩の背中を見つけて叫ぶ。隣にいる人の声も聞き取りづらいほどの音の中でも、真っ直ぐ先輩の耳に届くように。


「桜?」


 清水のように透き通った声だった。忘れるはずのない声だった。


「夏実と仲直りしました」

「まーた泣いとったんやな。でも良かった、話せたんやね」

「先輩のおかげです。感謝と、宿題の答えを伝えたいけん、一人で来たんです」

「そうなん。じゃあ、色が何かっていう答え出たんや」


 私だけが特別に思っていて、先輩は忘れていたらどうしよう。先輩は、そんな不安も掻き消すほど強い視線で私を見つめてくれた。


「一人一人の色の見え方は違うって話は前にしたと思うんですけど、」


 色は経験の言語だと言われる。一人一人それぞれが見ている色は違っている。ここに来るまでにすれ違った多くの人それぞれが観る世界も、その人それぞれの固有の色で作られている。誰一人として同じ世界を見ることはできない。赤と言われた色を赤だと認識して、積み重なってそれが自分の中の赤色になる。


「だからこそ、色はその人の世界だけにある、特別な何かなんだと思います」

「そっか、おもろいな。青色が好きって言われたとき、見えんのじゃないんって不思議だったけど、ほなやっぱり、桜の中にも無いはずの青色はちゃんと見えとんやな」


 私にとって色は記憶の言語だった。生まれたときからS錐体が欠落して、青色が見えない私にとって、普通の人と同じように擬態するためには記憶力が不可欠だった。


 信号の一番左の色が青。葉っぱの色は緑。友達の推しのメンバーカラーの色が紫で、高校の制服の色が水色。できるだけ多くの色を覚えて生きてきた。


「先輩に出会って、青を知りました」


 それなのに、先輩からもらった青だけは特別だった。記憶よりもっと深いところで、向こうから主張してくる色だった。


 世界が色づく、という表現を小学五年生の国語の授業で触れたとき、私にとっての青色だと思った。誰かにとってはスルーされるものを、誰かは特別だという。それぞれのチャンネルを通して見える世界で、その人にしか見えないもの。それが色だと思った。


「青先輩」


 初めて話した場所。私が特別な色を知った場所。特別な夜のもう一度を恋焦がれて、追いかけた気持ちの始まり。


 目の前に、また青が広がる。浴衣の模様の薄い青色、夜空の深い青色、私の心から生まれる冴えた青色が輪郭を失ってむき出しになって、混ざり合って一つになる。


 先輩は確かに私の世界に色を与えてくれた。最初から叶わぬ恋だと知っていたけれど、それは決して辛い恋じゃなかった。先輩を好きになることができて、本当に幸せだと心から思うから、ありのままの私の言葉で伝えたい。


「私にとっての特別は、青色です」


 先輩は青色を教えてくれた。他の人とは違う、私なりの青色を。


「同じやね、私も青は特別に好きや」


 振ってくれた手、笑顔、今も忘れられない声、バレンタインのチョコレート、文化祭のツーショット、お下がりの制服の夏ベスト、試合開始の握手、ブロックの感触、背番号の四番、プロフィール帳。追いかけた日々の記憶が溢れ出す。


「青いです」


 唐突な私の言葉に少し首を傾げて、けれど、先輩はすぐに笑いながら口を開いた。


「青いな」


 青色は、私の欠けた部分を埋める色。青色は世界を眩しく染め上げる。青色は私の、初恋の色だった。

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名前色 朝田さやか @asada-sayaka

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