第16話

 翌朝、不安そうに撫でる桃花の手で目を覚ます。起き上がることすらままならない私に桃花は休むと言ったが、宥めて送り出した。初の病欠を伝えた私に社長は恫喝どころか、二日でちゃんと治して出て来い、と慮る言葉を掛けた。

 大人しく横たわっていると、階下で蠢く母の気配を簡単に感じ取れる。その度にぞわり、ぞわりと何かが爪先から這い上がって体が震え、冷や汗が出た。

 考えたくもないのに、いやなことばかり浮かんでしまう。飛び降りたら、線路へ飛び出したら、とそんなことばかりだ。仰向けになると、上に紐を掛けられる場所を探してしまう。

 ようやく微睡み始めた頃に携帯が鳴る。相手は予想どおりだったが、通話でなくメールだった。『具合はどう? 何か必要なものがあれば持って行くよ。明日は延期にするから、ゆっくり休んで』。副社長がいつも電話を選ぶのは、不利な証拠を残さないためかもしれない。このメールも、どうとでも言い逃れできそうな言い回しだ。こうやって、あの人はずっと罪の間をすり抜けて生きてきたのだろう。短く礼を返すと、それきり途絶えた。

 それから眠り、たまに起きて、また眠った。こんなに眠るのはいつ以来だろう。多分、思い出せないほど昔だ。不意に蘇った父の記憶に、涙が溢れる。これまでずっと私を支え続けていた温かい手触りを、今更消すこともできない。どうすればいいのか分からない。分からないのだ。

 泣きじゃくりながら眠ったら、清太郎の夢を見た。

 高校の学食だった。私が定食Aを食べる向かいで、清太郎はカレーを食べていた。「お前大学はここか」「せいちゃんは」「県外に出る」「良かったね」「就職はこっちでするけどな」といつものように短い会話を繋ぎながら、黙々と目の前の食事を口へ運んだ。やがて、一緒に来るか、と清太郎が聞いた。私は、やめとくわ、と答えた。そうか、と返した夏服の清太郎は揺らいで、どこかへ吸い込まれるように消えていった。

 柔らかくて温かい夢だったが、温かさだけは不思議といつまでも続く。なんとなく聞こえた声に目を覚ますと、本物の清太郎が頬を撫でていた。なあ、と聞こえた声に全部夢でもいいような気がして頷く。

「俺が、元旦那に勝ってるとこねえのかよ」

「そういうの、気にするようになったの?」

「四十三だからな」

 一つ増えていた年に、ああ、と気づく。そうだ、昨日が誕生日だった。帰ったらメールの一通でも送ろうと思っていたのに、それどころではなくなっていた。

「せいちゃん、誕生日おめでとう。それで、図々しさかな」

「褒めてねえ」

「ううん、あのね。あの人は私が何かあると、そっとしておくタイプだったの。せいちゃんみたいに踏み込んでこない人だった。それをありがたいと思ったし気まずい思いもしなくて済んだけど、私、改めて自分から切り出せるタイプでもなかったの。まとまったら話そうと思うけどまとまらないし、まとまったらまとまったで、仕事帰りの疲れてるところや休日に改めて話す必要もないかなって」

「馬鹿だな」

 清太郎は常夜灯の赤黒い灯りの中で笑いながら、また私の頬を撫でた。温かくて懐かしい手だ。思いついて手のひらを合わせてみると、私の一.五倍近くあった。いつの間にこんなに育ったのか、同じだったのはいつまでだろう。

「それを踏まえて、今話せることは」

 踏み込む声に手を滑らすが、清太郎は逃さず握り締めた。

「俺がなんで今ここにいるか分かってるか。あいつが言いに来たんだよ。お母さんがぼろぼろだから助けて欲しいって。俺が男だとか女手だとかそんなのはもう、お前が助かるならどうでもいいんだとよ。あの柔らかさを見習えよ」

 ふと胸に落ちる熱に、涙が滲む。もうそれだけでほかには何も要らない気はしたが、許されるならもう一つ欲しいものもあった。

「一個、聞いてもいい?」

「何だ」

「せいちゃん、私のこと好きなの?」

 多分、こんなことを聞くのは初めてだ。私達の間にそんな言葉はなく、いつも吸い寄せられるように引き合っていた。

「いつか俺んとこに戻ってくるだろうなとは思ってた。最後には、俺が面倒みるんじゃねえかなって」

「なんで」

「なんとなく」

「馬鹿だね」

「そうかもな」

 笑うと、涙が頬を伝い落ちる。鼻先に抜けた痛みに洟を啜り、一つ息を吐いた。

「助けて」

 小さく零して手を伸ばす。応えた体は覆い被さるようにして、私を強く抱き締めた。


 やがて清太郎は、私の涙が乾くのを待って抱き上げる。桃花が準備したらしいボストンバッグを肩に部屋を出て、向かいへ声を掛けた。すぐに出てきた桃花は、私を見て安堵の笑みを見せる。

「準備できたか」

「はい」

「なら、行くか。お前は下りたあと、もしばあさんが出てきても止まらず車に行け。いいな」

 頷く桃花をよく見ると、リュックにボストンバッグの大荷物だった。私が眠っているうち、清太郎に諭されているうちに準備をしていたのだろう。清太郎は私を抱え直し、階段を下り始める。急に這い上がる悪寒に震え、清太郎のシャツを握った。

 そのまま何事もなく脱出できれば良かったが、許されるはずもない。奥から出てきた母に、清太郎は桃花を促す。桃花がドアをくぐり抜けた時、何してるの、と不機嫌な声がした。

「翠と桃花は、俺が連れて帰ります」

「何を勝手なことをしてるの、翠」

 清太郎の前でも隠しきれず、母は鋭い声で私を呼ぶ。びくりと揺れた私の肩を、手は宥めるように抱え直した。

「娘を返しなさい、泥棒。私は親なのよ!」

「親なら何してもいいのかよ」

 初めて凄んだ清太郎に、母は怯えた様子で黙る。これまでは大きな声を出せば勝てる人間ばかり相手にしていたから、清太郎にも勝てると思ったのかもしれない。でも清太郎は、そんなものにはびくともしないのだ。長い息を吐き、目を閉じて清太郎に体を預ける。母はもう、何も言わなかった。

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