第17話

 休み明け、社長が外回りへ出掛けるのを待って副社長に声を掛ける。副社長は少し驚いた様子で書類の手を止め、私を見上げた。

「翠ちゃんから声掛けるなんて、どうしたの? 高熱だった?」

「そういうわけじゃありません。あの、お願いがあって」

 見据える視線に耐えられず逃れ、震える手を握り締める。副社長は、ふうん、と答えて椅子へ凭れた。

「母と衝突して、どうしようもなくなって一昨日の夜に家を出たんです。それで、その」

「彼の世話になることにしたわけだ」

「全部ではないんです。予定どおり、私は娘を連れてあの部屋で暮らします。ただ」

「よりが戻ったから、新参者は邪魔するな、引っ込んどけってことでしょ」

 付き合っていたことなんて、とっくに佳苗から仕入れていたのだろう。少し荒れた表現に溜め息をつく。

「そこまで横柄な表現を、するつもりはありませんでしたが」

「やきもち焼きだって言ってるのに、ほかの男の話なんかするからだよ」

 副社長は腰を上げ、私の傍へ来てデスクに座った。ふわりといつもの香りがして、色々なことが心苦しくなる。清太郎は昨晩、急かすつもりはないと言った。どのみち桃花が卒業するまでは考えてはいないし、町にいる間は今のままの方が都合はいいらしい。ただ、市内へ異動で戻る時にはついてきて欲しい、と続けた。

「で、めでたく寿退社するまでは、僕に目の前にぶら下がった人参を我慢して仕事し続けろって言いたいわけだ」

 いつもより棘を感じる口調で続け、指先は私の頬を撫でる。少し滑り下りて、唇をなぞった。

「その贖いが彼女一人じゃ、ちょっと僕の傷心は癒えないなあ。だって僕から解放されたって、翠ちゃんにはなんの良心の呵責もないでしょ」

「そんなことは」

 否定を塞ぐように指は押し入り、私の歯に虐げられる。口を開けると、また唇をなぞってから離れた。

「天秤が釣り合わないよね。翠ちゃんにも少しくらい、僕の痛みを味わいながら働いてもらわないと」

 そんなものは微塵も感じないくせに、まるで存在するかのような口を利く。すぐに許されるとは思っていなかったが、やはり追い詰められるのは耐え難い。怯える私に副社長は笑みを浮かべ、ゆっくりと手を組んだ。

「じゃあ、こうしようか」

 いつもの、たった今思いついたかのような切り出し方だ。何度聞いても、いやな予感しか湧かない。どんな賭けも提案も、私を救うものだったことは一度もないのだ。

「翠ちゃんのお母さんとお父さん、僕が好きにしてもいいかな」

 見上げた私にも、柔和を装った笑みは微動だにしない。本当に、露ほどの罪悪感も湧かないのか。

「それでいいなら、僕はもう翠ちゃんに手は出さないよ。もちろん、この取引のことは誰にも言わない。約束する。もし破ったら、うちの奥さんに言ってもいいよ」

 また伸びた手が、宥めるように私の頬を撫でる。ようやく、震えていることを知った。

「僕は別に、このまま翠ちゃんに深入りして彼に殴られるコースでもいいけど。でも、翠ちゃんは望まないでしょ。それならこの程度、彼と娘との平穏な新生活のためには必要な犠牲じゃないかなあ」

 相変わらず、なんの躊躇いもなく不穏な言葉が滑り出る。頷けば嬉々として父を、母も、潰していくのだろう。そしてその罪悪感を引きずりながら働く私を眺め、愉悦に浸るつもりなのだ。何がそこまで、この人を歪めたのだろう。

「副社長は、どんな子供だったんですか」

 控えめに尋ねた私に、副社長は少し固まったあと肩を震わせて笑った。

「ああ、そうか。翠ちゃんは、僕のこういうのは子供時代に何かあったからって考えたわけだ。自分みたいに」

 引っ掛かりのある言葉を加えながら、わざとらしく目元を拭う。外の音に少し向こうを窺ったが、また私へと視線を戻した。

「残念だけど、それはないと思うよ。親父はワンマンだけど、子煩悩だったしね。母親も至って普通の母親だった。金はあったし好きな勉強もさせてもらえた。帰って来たのも強制されてじゃない。翠ちゃんとこに比べたら、遥かに恵まれた家庭環境だった。今、姉は県外、妹は市内で家庭持って幸せに暮らしてる。思い当たる原因はないよ」

「じゃあ」

「生まれつきなんじゃないかな。ロマンチックなことを言うなら、星の巡り合わせとか前の人生に問題があったとか。まあどちらにしろ、翠ちゃんが求めてるような答えはないよ」

 苦笑交じりに答え、また私の頬を撫でる。指先で、窪みを少し突いた。

「だから、諦めて選んでくれないかな。僕も正直、色恋抜きでも翠ちゃんに辞めてほしくなくなっててね。ここまで手の内を話せる同類は初めてだから」

 予想外の言葉に視線を擡げると、待っていたかのように笑む。まあ、よく話すのは事実だ。そして私も聞いてしまう。でも、聞くだけで「同類」認定、なんてわけはないだろう。副社長は頷いてデスクに座り直し、いつものように手を組んだ。

「これまでいろんな人を見てきて思ったんだけど、善と悪って実はそんなに差はないと思うんだよ。よく言うじゃない、善と悪は紙一重とか、良いことの裏には必ず悪いことがあるとか。あんな感じでね」

 突然に宗教めいたことを口にしても、気にする様子はない。私が拒絶しないと踏んでいるから反応を確かめもしないのか、当たり前のように持論は展開を始めた。

「ただ善と悪自体にはそんな差はないのに、レベルは人によってものすごく違いがあるんだよ。それで面白いのが、中途半端にいい人は、悪いことも中途半端にしかできないんだ。プラスを三しか持たない人間はマイナスも三までしかいかないし、マイナス三の人間はプラスも三までしかいかない。それ以上は、持たざるものだから許容できないんだよ。僕の出した選択肢を選ばず死ぬ人は、多分そういう人じゃないかと思うんだ」

 何かを思い出すように少し宙を見て、頷く。恐らく罪悪感の記憶を辿ったのだろう。三までしかない人間に、十を求めて潰したことを思い出しているのかもしれない。

「だから、プラスを百持ってる人はマイナスも百まで針を振れる。すごく善いことができる人はものすごい悪人にもなれるし、善に物怖じしないのと同じほど悪も許容もできるんだ。愛妻家で子煩悩で民草思いの国王が、他国の民を大虐殺するようなもんだよ」

 突然拡大された例えに少し怯んだが、言いたいことは分かる。愛と憎しみみたいなものだ。憎しみへ変わった愛が人を殺すなんて、珍しくもない。じゃあ私は、そこまで愛してはいなかったのか。

「そのスケールで考えると、僕の対極に翠ちゃんがいるんだ。多分、翠ちゃんは僕がすることには全部ついてこられるよ」

「なんで、そんなことが」

 訝しげに返した私に笑い、引き寄せてキスをする。デートしとけば良かったなあ、ともう二度と手に入らぬもののように小さく言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る