第15話
月曜の朝、待ち兼ねていたように副社長は二者択一の答えを求めた。どちらの答えも出したくなくて渋ったが、彼のお母さんは自殺でお兄さんは殺されたんだってね、と聞いてすぐに滑り落ちた。
予定より十分遅れて現れた佳苗は、相変わらず私を見なかった。それは前回と同じだったが、副社長と親しげに話す様子はまるで違う。彼氏にでも接すかのように副社長に触れる佳苗は抜かりなくメイクをして甘い香りを漂わせ、よく光るピアスをつけて、高そうな腕時計を嵌めていた。
「あと十分ほどで向こうの担当者が来て正式契約になりますが、融資額は最初に仰った額のままでよろしいですか」
「はい、お願いします」
「では、一千万ですね」
副社長が明確にした金額に、思わず佳苗を見る。佳苗も私を一瞥したが、卑屈な笑みを返してすぐ、はい、とそれを了承した。
やがて姿を表した担当者は私と入れ替わりに席へ着き、本格的な契約を始めた。私の役目は珈琲を出すだけで終わり、あとは社長の傍で雑用だ。
副社長はいつ、一千万なんて決めさせたのだろう。私に賭けを持ち掛けた時は、もう決まっていたのか。二者択一の結果も、とっくに分かっていたのかもしれない。副社長は私の答えなど待たず、もう始めていたのだ。
思わず溜め息をついた私に、社長が声を掛ける。やだあ、と聞こえた向こうを眺め、あんた巡りが悪いんだな、と腑に落ちた様子で言った。
それからしばらくして担当者は腰を上げ、続いてうちとの賃貸契約に移る。佳苗がいくらの部屋を契約しようが、もう何も聞きたくなかった。買い出しを理由に会社を出て、萎びたスーパーへ向かった。
レジ袋を手に戻ると、もう佳苗は全てを終えて帰宅していた。給湯室まで運ばれていたコーヒーカップを洗っていると副社長が現れて、佳苗があのアパートを契約したと報告した。佳苗は、私の「養育費や手当も使って」のアドバイスだけ守ったのだろう。しかしそれだって、大きな負担になる。冷静に考えれば分かるはずなのに、もらったわけでもない一千万に目を眩まされたのだ。その上、居抜きの美容室まで購入することになっていた。
「今すぐ開業しましょう、とでも言ったんですか」
「いや、何も。お友達の方から『美容室のいい物件がないですか』って。僕を気に入ってくれたみたいでね。もちろん、枕営業なんてしてないよ」
手を止めて見上げた私に、副社長はわざとらしく両手を上げて身の潔白を主張した。
「お友達は多分、君にだけは負けたくないんじゃないかなあ。同じシングルマザーだし。まあ、それだけでもないみたいだけど」
再び手を動かし、泡だらけのスポンジを二巡目のソーサーへ滑らせる。行き場のない感情を洗剤にぶつけたら、出し過ぎてしまった。一度で流すのは罪悪感があって、二巡目でごまかしている。
「『あの子は少しも変わらない』って言ってたよ。昔何したの?」
「他人に話すことじゃありませんから」
「そういうところ、なんだろうなあ」
それでも残る罪悪感にシンクを磨いている傍らで、副社長は小さく笑った。
「そのお金、盗んだのは彼女らしいよ」
突然齎された過去の結末に、思わず凝視する。副社長はいつもの笑みで応え、壁へ凭れて腕を組んだ。
「本人は時効にして、自分から馬鹿みたいに喋ってるのにね。『ちょっと取っただけなのに、あの子のせいでものすごく惨めな気分にさせられた』って」
その「ちょっと」は盗んだことに掛かるのか、金額に掛かるのか。どちらにしたって、罪は罪だ。あの時信じて庇った私も、同罪か。佳苗を傷つけたと思っていた彼女達の方が、正しかったのだ。
「さすがに不憫だから、お父さんの話を少し教えてあげるよ」
突然手繰り寄せられた約束に、え、と短い声が漏れる。
「お父さんは、山寺の参道にあった旅館の次男坊でね。元はちゃんと旅館で働いてた。ただ、かなりモテる人だったみたいだね。お母さんはすごくやきもち焼きでしかも男並みに稼いでたから、自分が稼ぐから家にいろって押し込めちゃったんだって。繁忙期にだけ許しを得て実家の手伝いに行ってたって」
「それ、誰に聞いたんですか」
「御本人だよ」
まさかの相手に、胸がどくりと音を立てた。でも、まだ嘘をついている可能性だってないわけではない。胸はそのまま早鐘を打ち始め、指先までじんと熱くする。汗が噴き出すのが分かった。落ち着くためにゆっくりと握り締めたスポンジから、泡が落ちる。
「翠ちゃん、幼稚園いかなかったんだってね。それ、お母さんがお父さんに浮気する暇を与えないためだったらしいよ。娘はかわいかったけど、かわいそうなことをしたって」
「私のことは、話してないんですか」
急に湧いた不安に窺うと、副社長は少し目を細めるだけで返した。途端、背筋に冷たいものが走る。ああ、そうだ。父と副社長の接点で考えられることなんて、土地か金しかない。父も父で、何かに巻き込まれているのだ。
また荒れ始めた胸に蛇口を捻り、冷えた水で手を洗う。震え続ける手を、どうにかして落ち着かせたかった。
「私が娘だって、副社長はどうして分かったんですか」
「お父さん、今は市内にお住まいでね。会社を経営されてる。離婚後は、ずっと一人だったみたいだよ。でまあ、翠ちゃんのお父さんだから仕方ないんだけど、借金の連帯保証人になっちゃってた。借りた人は、会社も家族もほっぽり出して夜逃げしててね。お父さんはまだ頑張れるみたいだけど、もしかしたらそのうち会社も家も売っていただくことになるかもしれないんだよね。で、その辺の書類の中に翠ちゃんがいたってわけ」
副社長は笑顔のまま、父の現況を語る。予想通り、決して良い状況ではなかった。しかし滲むように胸へ広がる温かい記憶が切なくも、それを父だと認めていた。
「優しくて、温かい人でした」
「今も多分、変わらないよ」
向こうから呼ぶ声に応え、副社長は私の頭を撫でて去っていった。
結局、その後は碌に仕事もできなかった。処理のできない事実と感情が、重く絡まって胸を塞ぐ。家へ帰って桃花に会えば癒えるが、母もいる。家を出ることも言わなければならない。いつ、どのタイミングで話すべきか。できるだけ桃花を傷つけないようにしたいが、母と二人だけで過ごす時間は無防備だ。最低限の荷物だけ運び込んで、先に生活を始めるべきかもしれない。いきなり全ての荷物が揃っていなくたっていいのだ。見積もりには私が帰ってくればいい。今日はひとまず、いつでも荷物を持って出て行けるように話しておこう。今はもう、これ以上は考えられない。頭も痛いし、とにかくまとまらない。日に日に思考が鈍く、何も考えられなくなっていく。
溜め息をつき、いつものように重いドアを開ける。いつものように古臭いインテリアを眺めながら靴を脱ぎ、上がり框を乗り越え洗面所を目指した。しかし奥からいつも通りでない母の声が響いて、慌てて行先を変える。居間には泣きじゃくる桃花と、仁王立ちで顔を歪めた母が立っていた。
「桃花に、何したの」
咄嗟に前へ立ち塞がった私に、母は短く鼻を鳴らす。
「別に何もしてないわよ。市内の高校にいきたいなんて、馬鹿なこと言うから」
嫌な記憶を呼び起こす台詞に、血の気が引いた。
「やめて、桃花は孫でしょ。私じゃないんだよ」
「何言ってんの、桃花だろうとあんただろうと、私はただ当たり前のことを言っただけよ。あんたに似て馬鹿なんだから、そんなとこ行けるわけないじゃない。それこそ金の無駄遣いよ、馬鹿なのに」
また後ろで啜り泣き始めた声に退室を促すが、桃花は私のブラウスを握り締めたまま頭を横に振る。
「私、桃花を連れて出ていくから」
「何言ってんの、あんたの作った借金はどうすんのよ」
「私の借金なわけないじゃない。アパートを建てたのは誰よ。契約者は。どこに私の名前があるの。私はただ、間借り家賃の名目で返済を手伝ってただけだよ」
予定は早まったが、どうだっていい。これ以上桃花をこの家に置いておくくらいなら、手ぶらでだって出ていく方がましだ。もうこれ以上、私の大切なものを傷つけさせない。
「残りの七百万は自分で返して。もう私は助けないから」
「よくもそんな偉そうな口が聞けたもんね。女手一つで育ててやった恩も忘れて」
「自分がお父さんを働けないようにしたからでしょ」
遮って返した私に、母は初めて怯んだような表情を見せた。眉を持ち上げ目を見開き歯茎を剥き出しにした、醜い顔だ。今の私も、同じほど醜い顔をしているだろう。でも今はただ、父を苦しめた母が憎くて仕方がなかった。
「聞いたの。お母さんが嫉妬するせいで、外で働けなかったって。私を幼稚園にいかせなかったのも、お父さんを外に出させないようにするためだったんでしょ。何が女手一つよ。全部、自分がそう仕向けたんじゃない。お母さんがそんなんだから、お父さんは嫌になって逃げ出したんでしょ。全部お母さんの」
「あんたに手を出したからよ!」
叫ぶようにぶつけられた答えは、すぐには理解できないものだった。何か返したいのに何も発せなくて、自分が何を話そうとしていたのかも思い出せない。いや、違う、父は、とようやく湧いたものに、揺らいでいた視線を母へ向ける。
「あんたに手を出してたのよ、あの男は」
追い打ちを掛けるように繰り返して、母は私を睨んだ。憎しみ以外の、ほかのものは何も感じられない。ただ憎しみだけを込めた視線だ。親とは、なんなのだろう。私はいつ、それほどまでに憎まれることをしたのか。
「私は何も悪くない、あんたが悪いのよ。全部、最初から、何もかもあんたのせいじゃないの!」
母は私を指差して言い放ち、憤懣やるかたない様子でまた睨みつけた。
ああ、そうか、最初からなのか。ただ、産まれてしまった私が悪かったのか。
揺らぐ足に立っていられず、その場にへたり込む。桃花の悲痛な声がしたが、反応もできない。だめだ、私は親なのに。
桃花は泣きながら私を助け起こし、肩を貸して部屋に運びベッドへ横たわらせる。傍らで泣きじゃくる頭を撫でても、何も言葉が湧いてこない。桃花が、我が子が泣いているのに、体を起こして抱き締めることもできない。私は、こんなに脆かったのか。最初から間違った私が、まともな親になれるわけはなかったのか。好きなだけでは、愛しているだけではだめか。もう、どうすればいいのか分からない。死ねば、いいのか。
不意に何かが揺らいで、副社長の言葉を思い出す。でも今は、ほかになんの策があるのか。急に頭のどこかが重くなって、体も吸い寄せられるように沈む。抗わず、眠りを選んだ。
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