第14話

 翌日、控えめに願い出た私に社長は書き物の手を止めた。「今の家では娘を守れない」と簡素にまとめた事情を、隣の副社長も手を止めて聞いていた。社長は、あんたつくづく不憫だな、と半ば感心した様子で漏らし、副社長に顎で指示をした。

 シングルマザーで娘を連れ実家から逃げ出す状況は、収入を除けば佳苗とほぼ一緒だ。しかし副社長は、当然のように五万の物件を並べた。しかもそれを社宅扱いにして家賃は三掛け、敷金礼金なしで貸すと言った。焦る私に背後から社長も了承の声を投げ、普通の契約以上に心苦しい内容でまとまり始めていた。

 間取りや立地から二軒まで絞り込んだ物件を、副社長の車で見て回る。個人的にはもうどちらでも良かったが、副社長が許すはずもなかった。

「ここまでしちゃったら、さすがの僕でも穏便には辞めさせてあげられないよ」

「三掛けせずに、敷金礼金も取ればいいだけじゃないですか」

「僕が言わなくても親父が言ってたよ。親父は気に入った人間はとことん身贔屓するから、案外ロハで住ませてたかもね。その分、裏切ったらかわいさ余って憎さ千倍になるけど。今でも君には一方ならぬ憐憫を寄せてるみたいだし、多分、怒り狂うだろうね」

 涼しい顔で予言しながら、車を止める。中学校に程良く近いアパートは、間取り的にも気に入っていた方だった。

「住んでる人の属性も悪くないから、できればこっちにして欲しいかな。ほんとはそれでも心配だけどね。まあ僕が合鍵持っとくから」

 鍵を開けて振り向き、距離を置いていた私を手招きする。仕方なく中へ入ると自分も続いて、鍵を掛けた。

 後ろから覆い被さる体になす術なく、開け放たれた部屋を眺める。LDKに洋室と和室が一つずつ、見る限り採光も悪くない。最近壁紙を変えたのか、築二十年の割には綺麗だった。

「僕も遊びに来たいよ。遠い親戚の、たまに来て小遣いくれる羽振りのいいおじさんの役とか、させてくれないかな」

「いやです」

 短い拒絶に、首元で熱い息が揺れる。

「僕は鞭で燃える方だけど、それでもたまには飴が欲しいね」

 首筋を這う唇に爪先から悪寒が走り抜け、息が震える。ヒールの軸が心許なく揺れて、上手く立つのも難しい。ゆっくりと胸を揉み始めた手を引き剥がすこともできず、俯いた。

「色々天秤に掛けた上でうちに残るのを選んだってことは、やっと僕を受け入れる覚悟ができたのかな。君のお母さんには、感謝しないとね」

 副社長は胸を深く穿つ言葉を連ねたあと手を離し、私を解放した。

「来週の水曜、デートしよう」

 そしていつものように目を細め、人の良さそうな笑みを作る。牧師と言われても信じたかもしれない。後ろ暗い仕事につきものの胡散臭さもギラついた感じも、腥さもまるでない。だから、今の私の中では一番恐ろしい。

「罪悪感とか、ないんですか」

「ないよ。感じるようなことには、最初から手を出さない。暇潰しで落ち込んでたら、本末転倒だからね」

 副社長は中へ進み、がらんとした部屋に響く声で欠けたものを語る。

「どんなことなら、感じるんですか」

「そうだなあ。やっぱり死ななくていい人が死んじゃった時は、気分が良くないよね」

 奥へ進めかけた足が、ぴたりと止まった。副社長は窓から差し込む光を浴びながら振り向く。まるで後光のように見えるのが皮肉だった。

「人ってさ、なんで追い詰められると死ぬしかないって思い込んじゃうのかな。死ぬよりマシな方法を並べてるんだから選べばいいだけなのに、結構簡単に死ぬ方を選んじゃうんだよ。そういう人達は意地でも、それこそ死んでも変わりたくなかったんだろうね。僕にはそこまでの我はないから、興味深いよ」

 淡々と、何かを思い出すように話して顎先をさする。形の良い女爪は今日も、行儀良く短く切り揃えてあるのだろう。

「気高い死より、地べた這ってでも生きる方が僕は好きだね。君にも長生きして欲しいなあ」

 そして少しの悪意もないような顔で、へらりと笑う。

「死ぬまでちゃんと面倒はみてあげるから、心配しなくてもいいよ。ただ僕は割とやきもち焼きだから、そこだけは気をつけてね」

 何を以って「始まった」ことにしたのだろう。いつ私が、そんな同意を返したのか。でもはっきりと問われて答えを求められるよりは、傷は少ないはずだ。

 俺はいつまで、と零した清太郎の声を思い出す。こんな道が正しいわけはないのは分かっている。でも私にはもう、ほかの道を選ぶ勇気も気力もなかった。


――お父さんのことは、水曜日に教えてあげるよ。

 副社長は消えた賭けの報酬を移行して、これまでで一番長いキスをした。それでも、清太郎か佳苗か、そちらの賭けをやめるつもりはないと言った。何一つ私には得のない、ただ理不尽なだけの賭けだ。選べばどちらか一人は守れるが、選ばなければどちらも守れない。

 清太郎が教師をしていると話して巻き込んだのは、佳苗だろう。離婚の理由も事実ではなかった。嘘の理由で借りた金を踏み倒そうとしている。娘の話だって本当かどうか分からない。金遣いが荒くて離婚したのなら自業自得なのに、逆恨みで私を遠ざけた。私が言ったことなど聞かず高額ローンを組んで、あのアパートだって借りるかもしれない。

 でも、だから「不幸になっても仕方ない」のか。私はいつから、人を裁ける立場になったのだろう。

 小さく叩いて開けたドアの先で、桃花は机に向かっていた。ベッドへ腰を下ろすとすぐ隣に来て、差し出した間取り図を回しながら眺めた。

 契約は六月から、引っ越しは十日の土曜。しかし来週には業者が見積もりに来るから、母にはそれ以前に話をしておかなければならない。怒り狂うか暴れるか、どちらにしろ穏便に済む話ではない。鍵だけは既に渡されているから、何かあればひとまず逃げ込めばいい。いつでも連絡してと副社長は言ったが、当然するつもりはない。桃花には、絶対に会わせたくない相手だ。

「でも、お金とか、大丈夫なの?」

 控えめに窺う不安げな目に、居た堪れない心地になる。肩を抱き寄せ、宥めるように腕をさする。金の喧嘩など聞かせるべきではなかったのに、私が浅はかだった。

「大丈夫。ちゃんとお給料はもらってるし、この部屋だって安く貸してくれることになったの。桃花は何も、心配しなくていいのよ」

「そっか。いい会社なんだね」

 安堵を滲ませた素直な声が、胸を揺らす。痛みを押し込めて、小さく頷いた。私が自分から、桃花を遺して死ぬことはあり得ない。それでも私も、死にたくないわけではなかった。

 そのまま一塊で揺れていると、桃花はやがて学校の話を始めた。友達ともいい感じ、部活も楽しい、勉強は先生に聞きに行くようになった、と続いた報告がふと途切れ、寄せていた体を起こす。

「あのね、無理ならいいんだけど、高校、市内のとこに行きたいなって」

 遠慮がちに伝えられた願いは、嘗ての私も抱いたものだった。

「私立はちょっと難しいけど、公立ならいいよ。授業料無償で、掛かったとしても定期代くらいだから」

 自分ができなかったからといって、ほかの人生を妨げる理由にはならない。子供が親を越えてはならないなんて、そんな掟があるはずないのだ。

「好きなところで好きな勉強をして、自分のしたいことをしてね。高校だけじゃなく、その先も」

 どこにでも好きなところへ行って自由に、伸び伸びと生きればいい。私のことなど、忘れてしまえばいいのだ。

「でも、お母さんはどうするの」

 綺麗に丸く収まる予定が、思わぬ問いに手が止まる。一瞬、頭の中が真っ白になった。

「私はいいの、どうでも」

 ああ違うの、「どうでも」っていうのは投げやりな意味じゃなくて、とごまかすように続けたが、どうにもならない。すぐに差し替えられるような、適した答えも思い浮かばなかった。考えたくもないから、考えていなかったのだ。

「とにかく、私のことなら心配しなくて大丈夫だよ。桃花は自分のことだけ考えて」

 納得していないことくらい見て取れるが、親としてそれ以上の言葉が見つからなかった。たとえ事実だとしても、部屋を世話してくれた愛人が一生面倒を見てくれるらしいから、なんて言えるわけがない。今の私の中には喉元まで、そんなものばかりが詰まっていた。


 二つ目の原稿を書き上げチェックしていた時、傍らで携帯が揺れ始める。迷う手を伸ばしつつ確かめた時間は、もう一時になろうとしていた。

 小さく応えると、微かに音楽が聞こえる。ごめん、寝てた、と尋ねる声は緩く、角がなかった。

「起きてたから、大丈夫。飲んでるの?」

「うん。職場の人と飲んだあと、今は一人でもうちょっと」

 郁深は答えたあと、溜め息をついた。

「ごめん。飲んだら声が聞きたくなって」

「桃花、もう寝てるよ」

「いや、君のだよ」

 短く否定して、残酷な言葉を継ぐ。

「桃花は、君が育ててるんだから、元気にしてるんだろうって分かってる。でも君はどうなんだろうって」

 私と過ごした十数年の間に、こんな酔いを見せたことはなかった。あの頃は飲み会があっても、こんな時刻にはもう帰宅していた。私の差し出した水を飲みながら、少し赤い顔で普段と変わらぬ口を利いた。

「君はあんまり、色んなことが上手くないから」

「それが、いやだったの?」

「違う、逆だよ」

 思わず聞き返してしまった理由を、郁深はまた否定する。

「そこが、良かった。かわいくて、ずっと好きだったんだ」

 しかし続いた告白が私の胸を救うことは、もうないのだ。瘡蓋を剥がされた傷口が、さっきから疼いて収まらない。

「でも、世の中には碌でもない奴がたくさんいるから、いやな思いをしてなきゃいいけどって。泣いてないかな、とか。まあ俺が、言えることじゃないんだけど。でも、まだ好きなんだ」

「酔ってるね」

 小さく返し、唇を噛む。今にも溢れそうなものを堪えるので精一杯だった。

「そうだよ。酔ってなきゃ電話なんてできないし、こんなことも言えない。どこからおかしくなったのかな、俺は。何がだめだったんだろう」

「少し飲み過ぎただけだよ。もう切るから、あなたも家に帰って。大丈夫。明日になれば、こんなことはみんな、ちゃんと忘れて仕事にいけるから」

 流れるものを拭いながら、折れそうな全てを奮い立たせて返す。分かっている。こんなものは全部、明日には私の胸にしか残らない。郁深はどうせ忘れてしまうだろう。でも、そうでなければ私が救われない。郁深は深い溜め息をつき、詫びて、通話を終えた。

 翌朝、短い詫びのメールが届く。『もうかけないようにする』に馬鹿みたいに傷ついて、くすんだ目元を拭った。

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