第13話

 確かめた携帯には、清太郎からのメールが届いていた。「たまに」と言ったのに、結局毎日のように届いている。『大丈夫か』とか『変わりないか』とか、そんな言葉が二言三言綴られたメールだ。当然、それに事実を綴って返したことはない。これまでは桃花との約束を守るためだったが、今日からはそれだけではなくなった。

 『大丈夫、今日はあんまり忙しくなかった』。いつものように嘘を綴って送り返し、玄関の前で顔を整える。会わない約束にして良かった。会えばきっとばれてしまうし、私も縋ってしまうかもしれない。清太郎を傷つけるわけにはいかない。じゃあ、佳苗ならいいのか。

 出ない答えに落ちていく視線を無理やり上げて、肩で息をする。新たな芝居のために顔を作り、玄関をくぐった。

 鼻を掠めた久し振りの匂いは、確かにカレーだ。しかしこの家でこんな風に私を迎えたことは一度もない。靴を脱ぎ捨て、すぐに台所へ向かった。

 コンロには予想通り、カレーの鍋が置かれていた。

「それ、ももちゃんが作ったのよ。カレーなら作れるって」

 そう、と小さく返して掬う。大きめのじゃがいもといちょう切りの人参は、私と同じやり方だった。

「このまま色々作ってくれないかしら。そうすればあんたに責められなくなるのに」

 母はシンクへ空き缶を置き、冷蔵庫から当たり前のように二本目を取り出す。

「桃花に、家事を押しつける気なの」

「あんただって、中学生の頃にはもうしてたじゃない」

「お母さんがしないからでしょ」

「だから、今だって私がしないんだから同じことでしょ」

 母はうんざりした様子で言い返し、プルタブを起こす。これ見よがしに一口目を送り込み、腑抜けたような声を出した。

「ももちゃんだって、あんたが私に食費のことを煩く言うから気を使って作ったんでしょ。あんたが作らせたのよ。かわいそうに。私『作れ』なんて一言だって言ってないもの。あんたのせいよ」

 確かに、月末の度に何度となく諍う声を聞かせてきた。でもそれは、最低限必要なことだと思っていて。ああ、だめだ。頭に霞が掛かるようで、もうよく考えられない。

「何よ、人を責めといて詫びの一つも言えないの」

 黙って立ち去る背を、勝ち誇った声が追う。

「ほんと、かわいくないわ。あんたみたいな子が、なんで生まれてきたのかしらね」

 私だって、選べるのなら違う胎を選びたかった。でも生まれだけは、親だけはどうにもならない。

 不可逆の痛みを抱えながら引いたドアの向こうに、俯き小さくなっている桃花がいた。

「ごめんね、違うの、そんなつもりじゃなかったの」

 声を掛けるより早く涙声の詫びが漏れて、思わず抱き締める。

「大丈夫、分かってる。私が少しでも楽になればって作ってくれたんでしょ。ちゃんと、分かってるから」

 腕の中で泣きじゃくる桃花を宥めながら、天井を仰ぐ。どこもかしこも古臭い、流行遅れの、腐った家だ。こんなものを守るために私は帰って来たわけではない。借金も、老後も。もう、見捨ててもいいだろうか。

 ただ私に部屋を貸す不動産屋なんて、うちしかない。でもうちで借りれば、本当に抜けられなくなってしまう。それでもまだその方が、桃花のことを考えれば、まだ。

 少し落ち着いた桃花の手を引き、二階へと連れて行く。ベッドに座らせ、しゃくりあげる頭をゆっくりと撫でた。

「カレー作ってくれて、ありがとね。ほんとに嬉しいよ」

 ようやく伝えられた礼に、桃花は小さく頷く。鍋を見た時に湧いたのは罪悪感だったが、嬉しくないわけではないのだ。

「今日は、守れなくてごめんね。でも、必ずなんとかするから。桃花がこんなことで傷つかなくて済むようにする」

「お母さん」

 不安げに揺れる視線に言ってやれることは何か。確実なことは何もない。でも今必要なのは多分、正確さではないのだ。

「今はまだ、絶対って言えないけど。ここを出て、二人で暮らそうか」

「うん、いいよ。私も」

 控えめに口にした提案を、桃花はすぐに受け入れる。

「私も、お母さんと二人がいい」

 私より遥かに率直な願いに頷き、涙に濡れた柔らかい頬を指先で拭う。桃花は私が産んだ、産まれる前から大切にしてきた娘だ。私を愛そうともしない人間のために生きる必要はない。手を伸ばし、もう一度抱き締める。初めて知った日から変わらない熱に、長い息を吐いた。


 その晩だけは、どうしても直接報告したくて電話を選ぶ。桃花のカレーを報告した私に、清太郎は安堵した様子で「良かったな」と言った。

「それで、桃花を連れて家を出ようと思うの。これ以上は、桃花に良くないから」

「お前にも良くねえよ」

 私を付け加えたあと、清太郎は溜め息をつく。

「あんまり、人ん家の親を悪く言いたくはねえけどな」

「分かってる。ずっと心配してくれてたもんね」

 本当なら、高校から私と清太郎の線路は違っていた。荒れ狂った母のことは、少しだけ報告していたから知っている。尤もそれ以前から、清太郎は家事をする私を気に掛けていた。

「せいちゃんの方が、ずっと大変だったのに」

「子供のしんどさに、上も下もねえよ」

「そうだね。すごく、しんどかった」

 認めて口にすると、また少しどこかが楽になる。息も少しだけ深くなった気がした。

「それで、明日から物件探しか」

 切り替えられた話題に、再び息は浅くなる。

「うん、会社で探してみる。ほかのとこが貸してくれるわけないし」

「翠」

「大丈夫だよ。裏を知ってる私にローンなんて勧めてこないから」

「そうじゃなくて」

「分かってるけど、だめだよ。絶対に手を出さないで。それなら、ここに残る」

 遮るように返した声は、最後が震えた。携帯も、滲んだ汗に滑り始める。

「お前、俺に言ってねえことがあるだろ」

 少しの沈黙のあと、清太郎は大人の気遣いをした。

「俺は、いつまで黙ってればいいんだ」

 苦しげに零す声に、目を閉じて俯く。あの頃の、子供だった私なら言えたかもしれない。でも今は、だめだ。今の私にはあの頃よりずっと、怖いものが増えてしまった。

「ごめんね。もう少し、見ない振りしてて」

 自ずと絞り込まれた二者択一に、鼻がつんとする。聞こえた溜め息に、唇を噛んだ。目を開くと視界が滲んで、パソコンの白い光が余計に眩しい。もう一度小さく詫びて、答えを聞かないまま通話を終えた。


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