第12話

 佳苗は翌週の月曜には姿を表し、副社長の提案通り実家を担保にローンを組むと言った。まず登記の変更をして実家の所有者を佳苗にする。次に斡旋するノンバンクの担保ローンへ申し込ませて審査、融資額を確定して契約する。まとまった金を作らせたあと、うちの物件を斡旋して賃貸契約を結ぶのがここの流れだ。ただこれが世間一般でも「正しい」方法なのか、私は知らない。

 母親は、どうせ佳苗のものになるのだからと所有権移転には反対していないらしい。しかしどこまで事実を話したのか、私を見ないまま副社長と話を続ける佳苗に聞く隙はなかった。

「お友達に随分嫌われたみたいだけど、何したの? うちはやめとけって説教でもした?」

 ひとまずの書類を確かめながら、副社長は含んだ笑みを浮かべる。

「馬鹿だねえ。追い詰められた人間に正論なんて、煙たがられるだけなのに。天使の君が助けようとしたって、自分が傷つくだけだよ」

 一枚ずつサインをし、判子を押したあと私へ渡す。これに、新しい登記簿と申込書を加えて手放したら、もう私には何もできなくなるのだ。

「悪魔の僕が予言すると、彼女はかなりの額の融資を組むよ。そして開業も管理もできず二、三年後には使い果たすね」

「どうして、そんなことが言えるんですか」

「『七万』だよ」

 副社長は答えて、ペンを置いた。

「僕が明らかに分不相応な家賃を提示したのに、彼女は驚いただけで怯えも怒りもしなかった。寧ろ『そこまでいけるのか』って顔だった。一瞬目がぎらついてね。ああいう顔は、倹しい暮らしをしているのに金に困った人はしない。離婚理由は話さなかったけど、大方金遣いが荒すぎて捨てられたんじゃないの。ギャンブルかもね。で、その辺手堅い君は旦那の浮気でしょ」

 突然の言及に、ファイルへ挟む手を止める。もちろん、話したことはない。向けた視線に、副社長は応えて薄く笑った。

「妻を変えるより外の女で間に合わせる方が色々早いし、楽なんだよ。特に君みたいな妻ならね」

 胸のどこかを一突きされて、息ができない。ようやく息ができたと思ったら鼻がつんとして、勢いよく涙が溢れた。

「馬鹿だなあ、真に受けたの? 冗談だよ」

 どんな顔で言ったのか、揺らぐ視界では確かめもできない。ファイルを投げ出して給湯室へ逃げ込み、ダンボールの陰にしゃがみ込む。仕事中に、しかもこれしきのことで泣きたくはないのに、悔しくても涙が収まらなかった。

「こんなとこで泣いてるの、かわいいなあ」

 予想通りの声は足を止め、私の前へ同じようにしゃがみ込む。

「君さ、ほんと僕のとこにおいでよ。結婚以外ならなんでもしてあげるよ。残りの借金は僕が払うし、欲しいなら家も建てるし。僕の奥さん以外、怖いものなんてない生活をさせてあげられるのに。庭で花でも育てながら、笑って僕を待っててくれないかな」

 虫唾の走る提案に、頭を横に振った。繰り返し背筋を這い上がるものに肌が粟立ち、手が震える。辞めます、と言えない喉がひりついた。

「できれば心が折れる前に頷いて欲しいんだけどなあ。もうそんなに余裕ないでしょ」

 抗う手を押さえ込んで抱き締め、強引にキスをする。滑り込んだ舌が、ゆっくりと歯並びを確かめていった。



 一週間も立たずに弾き出された佳苗の実家の評価額は約千五百万、提示されたローンの限度額は一千万だった。

「翠ちゃん、確定額を賭けようか。僕が勝ったら一晩付き合ってよ。で、翠ちゃんが勝ったら、そうだなあ」

 副社長は私のデスクへ腰掛け、相変わらずの思いつきで私を追い詰める遊びを始める。近頃はもう、近づくだけで動悸がして手が震え出す。それでも悟られれば余計につけ込まれるから、必死に平静を装っていた。

「穏便に辞められるよう取り計らってあげるよ。個人的な退職金と、次の就職先の斡旋もつけようか。うちと比較にならないくらい真っ当なとこの」

 思いも寄らぬ報酬にキーを打つ手を止め、恐る恐る隣を見上げた。副社長は審査資料を手に、私を見下ろして目を細める。七三の山が蛍光灯に照って、作り物のように見えた。

「いい加減、辞めたいんでしょ、ここ。最近は僕が近づくだけで震えちゃうもんね。仕事自体は、結構向いてると思うけど」

 分かっていて平然と傍へ座り、私の望みに叶うような餌をぶら下げる。

「しません」

「そう、結構いい条件だと思うんだけどね。僕が負ければ、僕に翠ちゃんを失うショックも与えられるし」

 そんなことはないと分かっているから言えるのだ。ただひたすらに、私を弱らせるためだけに言葉を重ねている。一つ一つに刻まれて、傷つけられない日がない。

「ちなみに僕は、一千万と踏んで審査に出したんだよね。これより低くても高くても翠ちゃんの勝ちでどう?」

「困ってる友達のことで、そんな賭けをするつもりはありません」

「堅いねえ。じゃあ、お父さんの情報もつけようか」

 追加された報酬に、また見上げる。何を考えているのか分からず、静かに混乱した。

「父を、知ってるんですか」

「まあ、翠ちゃんの知りたいことを全部教えられるほどじゃないけど、多少はね。沼井寿夫ぬまいとしおさんでしょ」

 さらりと口にされた名前は確かに、私が戸籍謄本で知ったそれと全く同じだ。本当に、知っているのか。

「どうして」

「その先は賭けのあとだよ。そうだねえ、じゃあ、お父さんのことだけは翠ちゃんが勝っても負けても教えてあげるよ」

「私も一千万と言ったら、どうなるんですか」

「僕が変えるよ」

 あっさりと見立てを覆して、私を揺らす。私がいくらにしたって、自分の決めた数字へ持っていく自信があるのだろう。だからつまり、私は負ける賭けをするのだ。

「すぐには、無理です」

「いいよ。お友達が次に来るのは今度の月曜らしいから、朝にでも教えてよ」

 副社長はすぐに許し、私の頬を撫でる。

「連絡、いつあったんですか」

「さっき。メールでね」

 いつの間に連絡先をやり取りしていたのか。尤も、していたって何もおかしくはない。顧客とのメール連絡なんて、いつもしていることだ。でも今は、いやな予感しかなかった。

「何を、するつもりなんですか」

「何も。いつもどおり、ただの暇潰しだよ。人生ってさ、すごく柔らかいもんだよね。だからちょっとつついただけで揺れるし、押さえたらすぐに潰れちゃう。ただ、潰れ方だけは千差万別で面白いんだ」

 指は私の頬を軽くつついて窪ませたあと、首筋を伝い下りる。ブラウスのボタンを一つ外して、鎖骨をなぞった。

「こんな田舎町にはもうそれくらいしか、僕の楽しめることがなくてね。翠ちゃんが僕のものになってくれるなら、少しはマシになるけど」

 目を細めれば一見しては柔和で善良な、人の良さそうな笑みができあがる。

 気性が荒く分かりやすい社長を宥め、まるで救いのように手を伸ばす。信じた客は皆この角のない容貌と、当たりの柔らかい声と甘い言葉に呑まれ、わけも分からぬうちに落ちていくのだ。

「彼は中学校の先生なんだってね。翠ちゃんのためなら、二千万くらい組んでくれるかなあ」

「やめてください」

 二つ目に掛けた指を払い除けたが、一層昏い喜びに浸るだけで少しも堪える様子はない。予想どおりの反応を引き出されたことは分かっていた。それでも、反応しなければ興味を失うようなタイプではない。反応するまで、どこまでも抉りにくるだけだ。

「お願いです。何も関係ないのに、巻き込まないでください」

「じゃあ、こうしようか。お友達か彼か、翠ちゃんがどっちか選んで僕に与えてよ」

 丸めた資料で、また思いついたかのように手を打つ。青ざめる私を眺めて、嬉しそうに笑った。

「選ばなかったら、まあ、両方かな」

 こんな時はどこを、誰を頼ればいいのだろう。警察に言えば捕まえてくれるのか。弁護士なら正しく裁いてくれるのか。どちらもなんの役に立たない気がするのは、私が絶望しているからだろうか。

「翠ちゃん、彼に僕のこと何も言ってないんでしょ。知っちゃったら殴りに来そうだよね、大事な仕事も投げ捨てて。まあ先生なら、器物破損と傷害くらいじゃ復職しちゃうかなあ。顔が分からなくなるくらいまで殴られるのは、さすがに僕もいやだしね」

「自分がこんなことをしてるって、お子さんに言えますか」

 再び伸ばされた手を振り払うと、副社長は鼻で笑う。そうだなあ、と呟くように言って、膝の上で手を組んだ。左手の薬指にはいつも通り、鈍い輝きの指輪が嵌っていた。

「こう見えても家では良き父、良き夫だよ。息子は家業の評判を恥じて市内に進学したけどね。でもかわいい娘は、親父がだめなだけだって信じてる。奥さんもね。結婚して二十年経つけど、大きな喧嘩もしたことない。なんの不満もないよ、死ぬほど退屈で息苦しいってこと以外は」

 徐に指を組み直し、少し視線を伏せたまま苦笑する。これまで見せたことのない表情だった。

「ぶち壊したら後悔するって分かってるのに、たまに取り返しのつかない失敗をしたくなるんだよね。全部打ち明けたい衝動に駆られる。破滅にどうしようもない魅力を感じるんだ。翠ちゃんの旦那さんは、どうだったのかな」

 ゆらりと擡げられた視線にまた、何も言えなくなった。郁深は、どうだったのだろう。浮気の代償を知らなかったはずはない。一度堕胎させた時点で目を醒まして戻ることだってできたのに、それでも家庭を、私を選ばなかった。壊した家庭に、カタルシスでも得たのだろうか。

「二者択一の答えも、賭けと一緒の時でいいよ。楽しみにしてる」

 一息ついてデスクから下り、私の頬を撫でて去っていく。続きを忘れた指に腰を上げた時、外回りの社長が帰還する。よく焼けた頭をハンカチで撫で上げながら、アイスコーヒーをくれ、と掠れた声で所望した。

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