第9話

 その日の午後一番に訪れた客は、私を見て驚いた顔をした。私も多分、似たような顔をしていただろう。

「えっと、翠だよね」

「そう。久し振り」

 午前の絶望を和らげてくれた佳苗かなえは清太郎と同じく、小学校から高校まで一緒に過ごした同級生だった。卒業してからは疎遠になってしまったが、昔はよく遊んだし清太郎の愚痴も聞いてもらった。急にこみ上げた懐かしさに、自然と顔が綻んだ。

 お友達、と水を差す声に一歩退く。現れた副社長は一見柔和な、商売人の笑みを浮かべて佳苗に挨拶をした。途端にぎこちなく、翳を浮かべた佳苗の表情に胸裏を察す。私を始めとして、ここで育ったものなら悪評は知っている。ここはひとまず「あそこはやめとけ」と言われる一軒だ。しかしほかの二軒を回って相手にされなかった客はここへ来る。つまり、そういう訳あり相手の商売をしているのだ。

「あの、部屋を探していて」

「はい。ご相談に応じますよ。もし良ければ、彼女にも同席してもらいましょうか」

「ええ、あの、是非」

 縋るような視線を向ける佳苗に、以前の自分が重なる。どうにもならないから、ここへ来たのだ。頷き、応接セットへ勧める。佳苗は散らばるボブの茶髪を忙しなく耳へ掛けながら、奥へ進んだ。

 佳苗が娘を連れて市内から戻って来たのは今年の三月、中学の入学に合わせてだった。実家には体の不自由な母親が一人、その世話をしていた父親は二年ほど前に癌で死去。妹は遠方で家庭を持っている。父親の死後は介護サービスに頼りつつ佳苗が母親の世話を続けていたが、離婚を機に同居を決めた。

 でも、と続けて佳苗は暗い視線を落とす。

「母と娘の仲が良くないんです。母は昔から私をすごくかわいがっていて、婿をとって同居させるつもりでいました。それが普通に結婚して出ていったものだから、元夫に対してすごく恨みを持っていて。私ではなく、彼そっくりな娘に当たるんです。離婚のショックも消えてないのに、あまりに娘がかわいそうで」

 本来なら、部屋を借りるのにここまでの事情説明は不要だ。しかし佳苗は私のいる気安さからか、全てを詳らかにしていく。隣で神妙な表情を装い相槌を打つ副社長が腹で何を考えているかなんて、知りたくはない。

「それは、おつらいですね。お察しいたします。なるべく早く、お二人で住める部屋を探しましょう」

 当たりの柔らかい副社長の声に、佳苗の表情が明らかな安堵を浮かべる。隣でゆっくりと組み直された手が、不気味だった。

 そのあと聞き取った佳苗の情報は、美容師として勤め始めたが手取りは十万ほどであること、多少古くてもいいから三万円以下の2LDKを探している、借金はない、クレジットカードの滞納歴もない、とのことだった。

「連帯保証人はいらっしゃいますか」

「いえ、それが。母では無理ですよね」

「そうですね。まあ連帯保証人がなくてもお申し込み頂けるサービスはあるんですが、そちらだとどうしても家賃が上がってしまうので」

 明るくなったり暗くなったり、佳苗の目まぐるしい一喜一憂が伝わる。余裕がないと本当に、藁でもなんでも掴めるものなら掴みたくなってしまう。目の前に垂らされたロープしか見えなくなるのだ。

「ご主人だった方は、難しいですか。お仕事は何を」

「銀行員です」

 横目で確かめた副社長が、少し目を細めた。相変わらず貼りつけたような笑みを浮かべているが、頭の中では何かしらの算段を整えつつあるはずだ。本当は、今すぐ佳苗の腕を掴んで連れて出たい。こんなところで決めるなと帰したい。でも佳苗だって、来なくて済むなら来なかっただろう。

「それでしたら、うちは喜んでお貸しいたしますが」

「でも、無理だと思います」

「そうですか。では、今の収入で考えてみましょうか」

 あっさりと引き上げた声に、ぞわりと肌が粟立つのが分かった。膝の上に重ねた手をそのまま握り締める。今にも震え出しそうで、恐ろしかった。

「お母様を扶養されてますか」

「いえ」

「昨年の所得は」

「百八十万ほどです」

 副社長は頷きつつ、養育費、手当、と聞き取りながら電卓を繰り返し叩いて数字を弾き出す。

「児童扶養手当て、養育費を足して年収約三百万、といったところでしょうか」

 当たり前のように加算された金額にも、目的はある。本人に収入を実感させること、いざとなれば「そこまでは回収できる」ことの確認だ。

「でも、養育費は子供のために貯めたいので」

「まあ、そうですよね。ちなみに、ご実家は持ち家ですか」

 さらりと切り替えられた最終段階に、佳苗を見られず俯いた。

「あ、はい」

「どの辺りですか」

「駅の近くです」

「それでしたら、結構高く売れますけどねえ」

 弾き出された金額はいくらか、もうこの場に座っていることすら居た堪れない。

「ああもちろん、売却をお勧めしているわけではありませんよ。ただご実家を担保にすれば、ある程度まとまった資金を借りられるんです。美容室の開業資金にしても問題ありません。うちで応じて頂ければ、連帯保証人不要、敷金礼金なしでお貸しします。家賃七万の物件までいいですよ」

「七万、ですか」

「ええ。三万以下の物件もありますが、女性の二人暮らしでしょう。防犯的にはあまりお勧めできませんし」

「まあ、でも」

 突然割って入った私に、佳苗ははっと我に返ったような表情でこちらを見た。

「とりあえず一度、ご主人にお願いしてみたらいいんじゃないかな。お嬢さんのためだもん、保証人になってくれるかもしれないでしょ。家賃も助けてくれるかもしれないし」

 早口で言い終え、荒い息を吐く。佳苗は私を見据えたまま頷き、また来ます、と頭を下げた。

 見送りついでに会社を出て、連絡先の交換をする。

「さっき、ありがとう。なんかもう、ほかのことが考えられなくなっちゃってた」

「いいよ。実は私もバツイチで、子供連れて戻って来てるの。最初はやっぱり、そんな感じだったから」

「そうなんだ」

 佳苗は驚いたあと、長い息を吐いた。その心細さも迷いも全て知っているし、まだ抱えている。助け合えることはあるはずだ。

「だからまず、ご主人とよく相談してみて。あと、何か困ったことがあったら連絡して。いい案は浮かばなくても、話くらいなら聞けると思うから」

「ありがとう。翠に会えて良かった。帰って来て、やっと、嬉しいことがあったよ」

 大きな目を赤く潤ませて、佳苗は私の腕を掴む。荒れた手は震えていて、黙って頷いた。

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