第10話

 罵声を覚悟しつつ戻ったが、意外にも副社長は上機嫌だった。そして私が売ったあのアパートを勧めるつもりだったと、本気かどうか分からないことを言った。

――どうかなあ、人って目先の誘惑に弱いもんだよ。だからうちの商売も成り立つし、君だってうちの仕事に飛びついた。悪徳って言われてようが、二十万が魅力的だったんでしょ。

 勧めても選ばないと言い返した私に笑い、答えを封じた。これまで人の弱さや脆さを喰って生きてきた男の言葉だ。時間が経っても、嫌な手触りがずっと拭えない。清太郎からの『今日行くわ』に、図らずも救われてしまった。とはいえ、これは良くない傾向だ。このままでは桃花との約束を本格的に破ることになってしまう。担任だの同級生だの言い訳したところで、清太郎も男だ。桃花にそんな逃げの理屈は通用しない。

 『もう来ないで。桃花との約束が守れなくなる』『ケンカしたのか』『する以前の問題。落胆させたくないって言ったでしょ。男に頼らず一人で育てるの』。

 メールはそれきり、返って来なかった。


 いつものように惣菜をおかずに発泡酒を空ける。しかし、いつもなら下りてくる桃花が、今日はまだ姿を見せない。

「桃花、何かあったの?」

「ないわよ、何も。寝ちゃってるんじゃないの」

 素知らぬ顔で行き過ぎる母の手には空き缶と、パック寿司の空容器が握られていた。改めて確かめた体のラインは、また膨らんでいた。離婚で減った分すら戻らない貧相な娘とは対象的な肥えっぷりだ。

 私も、できることなら桃花を連れて家を出たい。

 切々と訴える今日の佳苗を思い出しながら、最後の唐揚げを口へ放り込む。再び和室へ戻る母を見送り、片付けに立った。

 母の食べていたパック寿司の値段は、千二百円だった。確かめてしまうから暗澹とするのだろうが、確かめなければ今後の目処も立てられない。年金から持ち出しているのが食費だけならいいが、膨らむ体に合わせて服も変わっている。化粧品だって、私が結婚していた頃ですら買えなかった価格のものを惜しみなくライン使いだ。一人で暮らしていた頃は、ここまでではなかっただろう。私を苦しめるためだけに、破滅の道を選んでいるのかもしれない。

 知らず溜め息が漏れた時、携帯が揺れる。佳苗からのメールだった。内容は予想どおり今日の礼だったが、まだ元夫へ打診した様子はない。続いた飲みの誘いを快諾し、行けそうな日を二つ三つ挙げて返す。次はすぐに返ってきて、今週の金曜日になった。

 少しだけ凪いだ胸を引き連れ部屋へ向かう。ドアを開けた時、背後のドアも開く。姿を現した桃花は、明らかに様子がおかしかった。

「どうしたの? 学校で何かあった?」

 控えめに尋ねると、緩く頭を横に振った。ひとまず安堵はしたが、しかし学校ではないとしたら、残りは一つだ。

「おばあちゃんと、ケンカしたの」

「お母さん、先生と付き合ってたってほんとなの? おばあちゃんが言ってた」

 本当に、碌なことをしない。母は娘の人生だけでなく、孫の人生まで壊すつもりなのか。私の溜め息に肯定を嗅ぎ取って、桃花はじっと私を見上げた。

「もう会わないでよ。約束したじゃない、私を一人で育てるって。男の人なんか頼らないって!」

 半泣きで訴える細い声に、胸のどこかが潰れていく。このままでは、繋がり掛けた手を振り払われてしまう。

「分かってる。大丈夫、もう会わないよ。だから、先生を嫌わないでね。この前会うまで、先生は私達の事情を何も知らなかったの」

 私だけは、信じられる大人でいなければならないのだ。

「不安にさせて、ごめんね」

 加えた詫びに、桃花は頷く。頭を撫でると、しきりに目元を拭った。


 古びた小料理屋の座敷に現れた佳苗は、私を見て嬉しそうに笑う。仕事帰りだと話す格好は小奇麗で、久しく嗅いだことのない美容院の匂いもした。忙しかった、ぼちぼちね、とお互いの状況を軽く撫でてから一通り注文し、乾杯をする。佳苗とは同窓会以来の乾杯だった。

「翠のとこは、なんで別れたの?」

 まだ乾杯のグラスも空かないうちに、佳苗は重い話題へ触れる。

「向こうの浮気」

「そっか。多いよね、浮気理由って」

 佳苗は慮るように返したあと、グラスを空ける。そうなのだ、私達の離婚など「よくある離婚」の中の一つでしかない。苦しんだ妻は、同じように泣いた妻は、私だけではない。何も特別なことではないのだ。

「佳苗のとこは?」

 問い返しながら、二杯目の酌をする。

「まあ、価値観の相違ってやつかな。真面目な人で、そこが良かったけど口煩くて。経済DVってあるでしょ、『俺が稼いだ金だぞ』ってやつ。あれよ。何度か手を上げられたこともあるし」

 私の暮らしにはなかった激しさに答えが見つからず、差し返された瓶にひとまずグラスを空けた。

「そうだったんだ。子供は一人?」

「ううん、もう一人高校生の息子がいる。旦那が育ててるの」

「そっか、寂しいね」

「うーん、どうかな。旦那に似ちゃってね、二人揃っておんなじ顔でおんなじこと言うの。もうノイローゼになっちゃって。もうちょっとしたら寂しくなるかもしれないけど、今は正直、ほっとしてはいるかな」

 顔をさすり上げ、佳苗は疲れたような笑みを浮かべる。なんとも妙な感覚を抱えたまま、早速届いたサラダを取り分けて山羊のように食んだ。

「じゃあ、ご主人に連帯保証人っていうのは、やっぱり難しいかな」

「うん、ごめんね。翠に言ってもらった時はできるつもりでいたけど、家に帰ったら怖くなったの。電話したかったけど、一方的に捲し立てられるのを想像したら」

 俯き、零れ落ちた髪を耳に掛けながら、肩で息をする。

「事情もよく知らずに、ごめんね」

「いいの。翠が必死になってくれたのは分かってたから。変わらないなあって」

 思い浮かべたのは、きっと同じ記憶だろう。

 中学生の頃、クラスの子の財布から金が抜き取られる事件が起きた。体育の授業で、皆外へ出ていた時だった。本来なら全員にアリバイがあるはずが、「お腹が痛いとトイレへ行った」佳苗が疑われたのだ。

 もちろん、女子全員が疑ったわけではなかった。しかしその先導が女子のボス格だったせいで、佳苗は窮地に追い込まれていった。佳苗を信じていた私は真っ向から抗議し、佳苗の同意を経て持ち物のどこにも金がないことを確かめさせて潔白を証明した。それでも彼女は謝らなかった。疑われるようなことをしたせいだ、と言い逃れて、周りを黙らせた。結局金は出てこず、佳苗は一方的に傷つけられたまま卒業した。

「あの人が話してた、実家を担保にするローンってそんなにだめなの?」

 突然切り替えられた話に、居住まいを正す。

「だめだよ。払えなかったら、実家を取られるんだよ」

「でも払えてたら、取られないんでしょ」

「確かにそうだけど、うちが斡旋するのは銀行のローンじゃないの。消費者金融みたいなとこと組むの。金利だって銀行のものより高い。最終的に払えなくなって家を手放した人が何人もいるの」

「でも、保証人や敷金なんかもいらないって」

「自分のとこが損するプランを勧めるわけないじゃない。そんなの不要なほど、あとで儲けが出るからだよ。あれは保証人や現金に苦労してる、持ち家がある人にしか勧めないプランなの。返済能力が低くても貸すのは、最初から担保で回収するつもりだからだよ」

「じゃあ、どうすればいいの。こうしてる間にだって娘は悩んで、円形脱毛症がひどくなってくのに。話をまともに聞いてくれたのは、あの人だけよ。ほかの不動産屋は、鼻で笑って終わりだった」

 それは彼らが、条件を満たす勤務状況と支払えるだけの年収、まともな保証人を用意できる人間しか客にしないからだ。それ以外の客層は全て排除する、極めて真っ当でクリーンな商売をしている。そしてうちは、そこからあぶれたものを客にする。社長は慈善事業だとたまに笑った。

「それなら、絶対に五万以上の物件は借りないって約束して。高額のローンを勧められても、絶対に組んじゃだめ。開業については佳苗の方が詳しいと思うけど、借りられるからって焦って考えないで。とにかく、もらえるわけじゃない、借金なんだから少なければ少ない方がいいの。あと『これは娘のため』って割り切って、養育費や手当も全部使って。返済だけは絶対に止めちゃだめ」

 私にできることなど、これくらいだ。金を貸すことなんてもちろん、安くて安全な部屋を探し出して貸すこともできない。

「ありがとう、分かった」

 こんな拙い策なのに、佳苗は安堵の表情を浮かべる。酒に弱いのか、頬は既に赤くなっていた。

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