第8話

 あの晩以来、桃花は私の部屋で眠るようになった。私が仕事をしていても、気配があると落ち着いて眠れるらしい。それは私も同じだ。隣で眠る顔は違っても、今はもう寂しくなかった。

 なんとなく話をしたそうな顔にパソコンを閉じ、今日はもう布団へ入ることにする。二日続けて友達と遊んでいたからその報告かと思っていたが、切り出すまでに少し時間が掛かった。

「お母さん、初めて付き合ったのって何歳の時だった?」

 予想外の始まりに、仰ぐように常夜灯を眺める。いや、でも、嘘はつきたくないし、上手く誰かにすり替えられる自信もない。

「十四の時だよ。今の桃花と同じくらい」

「えっ、そうだったんだ。どれくらい付き合ってたの」

「二年生の運動会のあとから、三年生の夏までかな」

 へえ、と素直に驚いてくれるのはいいが、これ以上踏み込まれると為す術がない。できればここで切り上げて、自分の話をして欲しい。

「どんな人だったの?」

 無理だった。この先は当たらず障らず、特定されないように全力を注ぐ必要がある。とても眠りに就けるような状況ではなくなった。

「そうだなあ。表裏のない性格でね。普段は子供っぽいんだけど、たまに父親みたいなところがあった」

「格好良かった?」

「見た目は普通かな。女子にキャーキャー言われるようなタイプじゃなかったよ。まあ、部活してるとこは格好良かったかな」

「へえ、何部だったの?」

「剣道部」

 滑った口に、清太郎が剣道部顧問でないことを心の底から祈る。頼むから科学部副顧問とか、話題にも上らないようなところで燻っていて欲しい。

「どっちが告白したの?」

「それがね、今も分からないんだよね」

「何それ」

「多分、どっちも告白はしなかったのよ。運動会のあとにね、足の爪が割れて歩くと痛いって私が言ったの。そしたら、彼が家までおぶって帰ってくれた。周りには友達もいたのにね。でもそれでも、彼はおぶってもいいと思ったし、私はおぶわれてもいいと思った。あれが告白の代わりだったんじゃないかな」

 そう言えば、この前も似たようなことをした。あれもやっぱり、そういうことになるのだろうか。

「うわー、なんかすごい。通じ合ってる感じ」

「そういうわけじゃないけどね。ただ『好き』なんて、とてもじゃないけど恥ずかしくて。照れくさくて言えなかったの。今みたいに、みんながスマホ持ってる時代じゃなかったしね」

 あの頃は通信手段といえば固定電話のみで、背後には親がいた。今のように自分の部屋に引きこもって気軽に甘い言葉を交わしあえるツールなんて存在しなかった。

「なんで、別れたの?」

 少し控えめな次の問いに悩む。さすがにこれを打ち明けたら気づかれるだろう。

「やっぱり、子供だったからね。向こうはもっと自由に友達と遊びたかったし、私はもっと自分を見て欲しかった。それで上手くいかなくなったの」

「そっか」

 経緯は話していないが嘘は言っていない。どの引っ掛かりも核を抜き出せば全てここへ辿り着くだろう。私は、自分を蔑ろにする清太郎の自由を許せなかったのだ。これ以上、置いていかれたくなかった。

「気になる子ができたの?」

「ううん、違う。ほんとそういうのじゃない。ただ今日、友達が自分のお母さんの話をしててね。聞きながら、私お母さんと話をしたことないなって思ったの。この前みたいに、色んな話ができたらなって」

 それとなく窺った言葉はきっぱり否定されたが、続いた胸の内は心地良いものだった。

「ありがと。私も、桃花とたくさん話ができて嬉しいよ」

「ごめんね」

「どうして」

「だって私、ずっと」

 小さく上ずった声のあと、洟を啜る音が続く。過去がどうであれ、変わることを選んだのなら何も言うことはない。手を伸ばし、私にとってはまだ稚い頭を撫でる。私達はまだ間に合うし、やり直せる。滲んだものに、私も洟を啜った。


 小学生の頃、桃花は私が積極的に関わることを望まなかった。郁深に比べて地味で見劣りする私が疎ましかったのだろう。自慢だった「お父さんとわたし」が、母である私を加えた途端に格落ちすると気づいたのだ。私は、桃花の恥だった。寂しかったが、どうすればいいのか分からなかった。「私を好きになって」と訴えたところで無理なことくらい、自分が娘の時に分かっていた。友達と仲直りするのとはわけが違うのだ。結局全てを郁深に任せて、「そのうち」「やがて」分かり合える日がくるだろうと、そんな日が来ないことを知りつつ距離を置いた。離婚がなければ、私と桃花の線路はもう二度と交わらなかったかもしれない。痛みは多くても、悪いことばかりではないのだ。


 でもやはり大半は、痛くて悪いことが占めている。

「あのあと、どこ行ったの?」

「家に帰りました」

「とてもそんな風には見えなかったけど」

「娘が待ってるのに夜遊びなんてする暇はありませんから」

「まあ、そうか。堅いもんねえ、君は」

 いつものように尻を揉みながら、副社長は含んだような物言いをする。予想通りの展開ではあったが、いつも以上に心地悪い。

「でも、なんとも思ってない男がわざわざ迎えになんか来ないでしょ」

「幼馴染みなんです」

 答えた途端、副社長は短く刻むように笑った。

「今日は答えが早いし、よく喋るなあ」

 覆い被さるように抱き締めたあと、肩越しの顔を寄せる。視界の縁に入り込んだ横顔が、少し揺らいだ。

「キスしようか、翠ちゃん」

 粟立つ肌に、思わず体を突き放す。逃すわけもない手は強引に私を引き戻し、また抱き締めた。震える私の背をまるで慰めるかのようにさすり、宥めるかのように叩く。

「僕がいやなら、うちを辞めればいいよ。どうせ親父があることないこと言うから、次勤められるとこなんかないと思うけど。下手したら、町にもいられなくなるかもね」

 何も返せず俯くと、汗ばんだ手が頬を撫でる。少しずつ引き上げる力に、逆らう勇気はなかった。見上げた顔は、蛍光灯を背にぼんやりと暗い。

「辞められないよねえ」

 影は呟くように零して笑い、湿った唇を押しつけて私を絶望させた。

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