最終章「永夜の墓守 / Fragments from the Past」

「――ここは?」

 星明かり見えない夜、満月の空。ハルミは丘の上に佇んでいた。

 唐突に明瞭となった視界に、ハルミは困惑を覚える。つい先ほどまで、ハルミはディーとの死闘を演じていたはずではなかったのか。

「……いいや、違う」

 それは死闘と呼べるものでは無く、一方的な虐殺だった。“心の闇を具現化する”というディーの力に掛かれば、本来ハルミは手も足も出ずに処理される他なかったのだ。それが何のつもりか、ディーはハルミに猶予を与えた。リットのためにと全身全霊を賭したハルミの戦いは、ただ勝敗の決まっていた茶番を演じていたに過ぎない。

「それも違う」

 リットのためにではない。あの時のハルミは、確実にリットの存在を忘失していた。悪逆非道を地で行くような刺客たちの振る舞いに、ハルミは怒りを抱いていた。

 刺客たちとの連戦を経てディーと対面し、ハルミは復讐心を煮え滾らせていた。そしてディーこそが【星詠みの魔女】を討った張本人であると発覚し、ハルミは我を忘れるほどの激しい怒りを覚えた。否、ハルミのあれは発狂と呼ぶべきものだった。

 その時の激情は、今のハルミには存在しない。当たり前だ、怒りを抱いたところで、自分にできることは何もないのだから。既にハルミは、殺されたのだから。

「……俺は負けたんだ」

 ならばこれは、走馬灯とも呼ぶべきものなのだろうか。はたまた死後の世界か。

 どちらにしろ、ハルミには関係ない。もう終わった話なのだ。

 自分が終わったことを理解すると同時に、ハルミはこの光景を思い出していた。

 ――気づくと同時に、ハルミの足元に小さな人影が揺らめいていた。

 それは痩せこけた少年の姿をしている。ぼろ布のような衣服を身に纏い、表情は常に俯いて、まるで幽鬼さながらの危うげな足取りで歩んでいる。

 ハルミが既に死んでいるとするならば、目の前の少年は死へと向かっているかのようだ。

「ああ、そうか。だったらお前は……」

 この光景がハルミの内奥に由来するものであるならば、目の前の少年もまたハルミなのだろう。これは決して違えることのない、ハルミの走馬灯そのものであった。

 ここは三年前の世界を再演している。暗夜戦争が終結しておらず、ハルミがレジスタンスとして行動しておらず――まだ【星詠みの魔女】が殺されていない世界。ならば、


「――どうしたの? そんなめそめそした顔して」


 虫のさざめきが反響する静かな宵闇に、鈴の音のような声が凛と鳴った。

 ここには自分以外に誰もいないだろうと思っていた少年は、不意の響きに顔を上げる。

 そして、少年の息が止まった。

 丘の頂きに一人の少女が立っている。燃ゆる炎のような鮮明な赤髪をなびかせ、両の手を後ろに回し、悪戯めいた微笑みをハルミへと浮かべている。

 少女は子供っぽい服装だった。なのに表情や立ち振舞いだけがいやに達観していて、どうにもアンバランスで、儚げに映ってしまった。

 しかし何よりも少年に驚きを齎したものは、少女の青い目であった。底知れない深さを思わせる紺碧色、その瞳に映る光景に――無数に尾を引く光の軌跡を捉えたからだ。

 それは今やこの世界に存在しないはずの光。写真や映像でしか見ることの叶わない輝き。

 少年は我を忘れて口を開く。あり得ないはずのものがそこにあることを確かめるように、

「星の光……?」

 少年ははっとしたように背後を振り向く。しかし、その夜空には星のひと欠片も見つかりやしない。ただ全てを黒く塗りつぶす宵闇だけが広がっているだけだ。

 なのに再び少女の瞳を覗き込むと、そこには違えようのない光――帚星が瞬いている。

「流星群って言うんだって。ね、とっても綺麗でしょ?」

 少女は言う。それはまるで、とびきりの手品を披露したかのような声色で。

 いじわるそうな目つきに星々の煌きを湛えて、甘ったるくて優しい声で、華やぐように微笑んでいた。そんな目が潰れんばかりの少女の明るさに、後ろ暗い心根を持つ少年は気後れした。自分と一緒にいてはいけない存在なのだと本能的に理解した。

 そんな少年が、踵を返して少女から遠ざかろうとするよりも早く、

「一緒に行こうよ」

 少女が少年へと手を差し出した。

 その手を握り返すべきではない。自分はただ一人で、孤独にいるべきだ。そうした少年の葛藤を、少女は微笑みながら眺めている。少女は少年に強制をしない。ただ選択を待っているのだ。少年が少女を背にして歩きだせば、この邂逅はそこで終わる。

 ――なのに、

「……うん」

 少年はおずおずと、少女の手に指を伸ばす。少年は自分には無いはずの、自分にあってはいけないはずの輝きを、少女に求めてしまった。

 いったいどこに行くと言うのか。どこまで行けばいいのか。

 何も分からない。羽虫が街灯に留まるが如く、少年はただ少女の輝きに触れたかった。

 おっかなびっくり差し出された少年の手を、少女は両手で包み込む。

 何かとても愛しいものを確かめるかのような微笑みを浮かべながら、そっと呟く。

「ありがとう、ハルミソウスケ」

 少女があまりにも自然に言うものだから、なぜ感謝される謂れがあるのか、なぜ自分の名前を知っているのかという疑念が生じることは無かった。

 その代わりに、年齢相応の疑問が口をついて出た。

「きみの、名前は……?」

「アリスティア・ローレライ。私のことはティアって呼んで。だから代わりに、ハルミって呼ぶから――うん、ハルミ。とってもいい響きだわ」

「……えっと、よろしく……ティア」

「――じゃあハルミ、ついてきて」

 ハルミはティアに連れられて、丘を抜け、森の中へと入る。一寸先すら宵闇に包まれて、ハルミは見えない何かに怯えていた。知らずの内に、ティアを握る手が強張ってゆく。

「大丈夫だよ」

 ティアが振り向いて、ハルミの手に両手を重ねて励ましてくれる。それだけでハルミの恐怖で高鳴る心臓は、全く別の理由で鼓動を早めてゆく。

 暗闇の中であるにも関わらず、ティアの足取りに迷いはない。そうして先導されるがままに連れられたハルミは、ついぞ先に光の灯った洞窟を見つけた。そうして中に入り――

「お嬢のお帰りだ……って、なんだそいつは?」

 仄かなランプに照らされた室内、大きな円卓が地面に直置きされている。並べられた椅子には、それぞれ年齢も性別も異なる六人の人影が佇んでいる。その内の一つである巨漢の大男が、凄みを効かせながらハルミの方を見ているのだ。

「ひゃっ!」

「おいガキ、何か言え」

「――旦那、いけませんぜ。お相手さんがビビっちまってますがな」

 年季の入った渋い声色がどこからともなく発せられる。ハルミはそっと円卓を見渡すが、どうやら椅子に座っている他の誰かが口を出した訳では無さそうだ。では、どこから――

「ここですぜ」

「……どこ?」

「だからここだと言ってますがな。わしが見えないって訳じゃねえだろうに」

 声のする方を見ると、巨漢の肩に一匹の黒っぽい小動物が留まっている。

「え、え――ネズミが喋った!? ネズミが喋った!? ……ネズミが」

「三度も言おうとするな! 坊主、わしゃネズミじゃねえ! 立派なハムスターだ!」

 自らをハムスターと名乗る小動物の抗議に、周囲の円卓がどっと湧いた。

「やっぱりねえ。最初に見た時はみんなそう思うわよねえ」

「まっ、俺様に言わせれば威厳が足りねえな。威厳がよ」

「年端もいかない少年に、大人げないハムスターですこと」

「ふむ、人も動物も第一印象が大事ということであろう」

「このチーズ上げたらちーちー鳴くんじゃない? ほれ、ちーちー」

 思い思いに騒ぎ出す人たちを前に、ハルミは借りてきた猫のように身を縮こまらせた。

「おいクロハラ、やっぱりお前ネズミなんじゃねえの?」

「旦那、そりゃねえですぜ……」

 巨漢のからかうような物言いに、クロハラと呼ばれたハムスターは苦渋の声を漏らした。

「まあ、んなことを言ってる場合じゃねえですな……嬢ちゃん、この坊主は何ですかい?」

 この中で一番ハルミと話しやすい存在であることを自ずと察したクロハラは、彼らの代表としてティアに尋ねた。座る六人もクロハラに談話を任せるかのように、無言で促す。

「拾ってきた、かな?」

「犬猫じゃねえんだから……坊主、帰んな。今日の出来事は全部忘れておくことですな」「できない」

「わがまま言うんじゃねえ。嬢ちゃんにはわしから説得しておく。だから親御さんに」

「ない……帰る場所が、ない」

 ハルミの絞り出すかのような声色に、さしものクロハラも言葉を失った。

「ハルミ、代わりに言っていいかな?」

 その後黙り込んだハルミにティアが助け舟を出す。ティアが何を代わりに言うつもりなのかは分からない。それでもその微笑みに安堵したハルミは、理由もなく頷いてしまう。

「えっとね、ハルミの両親は何年も前に死んでしまったの――暗夜戦争に巻き込まれて。それからは施設で暮らしていたのだけれど、ある日“検査”が行われた。そこでシグナルだと発覚して、全員が敵になって……逃げ出したんだよ」

 ティアの説明は酷くシンプルで、正鵠を射ていた。

「どうしてそれを……」

「私には分かるのよ。全部、全部ね」

 ハルミの両親は既にいない。そしてハルミは、同じような境遇の子供達を集めた施設で暮らしていた。そのせいだろう、子供達は全員、シグナルという存在に対して人一倍の憎しみを募らせていた。ハルミだけは何故かそういった感情は芽生えたことがない。既に両親の記憶が定かではないのもあるだろう。しかし元来、ハルミは落ち着いた気性なのだ。

 奪われることに慣れていた、と言ってもいい。

「ねえ、貴方はどこに行くつもりだったの? あのままだと、野垂れ死んでいたよ」

「どこにも行くつもりはなかった。……別に死んだっていい。誰も気にしないから」

 幼くして達観していたハルミの言葉に、人々は言葉を詰まらせる。

 けれども、ティアだけは変わらずに微笑んでいた。

「要らないんだったらハルミ――貴方の命を、私にちょうだい」

「いいよ」

 即答だった。あまりにも呆気ない判断に、ティア以外のどよめきが生まれる。このどうでもいい自分の命が誰かの役に立てるのなら、ハルミは喜んで差し出すつもりだった。

「坊主……ここがどこで、目の前の女が誰なのか、分かった上での返事なのか?」

 首を振るハルミに、クロハラは呆れながら答える。

「ここはレジスタンスの最後の拠点――そして嬢ちゃんの名はアリスティア・ローレライ。レジスタンスを束ねる首領、世に言う極悪非道の【星詠みの魔女】その人さ」


 レジスタンスの残党に名前は無かった。彼らはとっくの昔に名前を捨てており、その最後までティアの傍に居続けるつもりだったのだ。代わりに、各々の異能を名乗っていた。

 【防護障壁バリア】、【衝撃放射ブラスト】、【部分強化ビルド】、【金属生成スミス】、【動作付与シフト】、【直線爆破ライン】――。

 それぞれがその名で呼び合い、ハルミもまた彼らをそう呼んだ。

「坊主、何をどんよりとしてるんだ?」

 クロハラはどういう訳か、ハルミが落ち込んだり悲しんだりしていると、すぐにやってきて、こうして宥めてくれるのだった。

「豆知識を教えてやる。ネズミは他者の感情や、身の危険ってもんを臭いで嗅ぎ取れるってもんですぜ。わしゃ更にこの防護障壁バリアで、誰かを守ることができるときたもんだ」

「クロハラさん……やっぱりネズミなんじゃ」

「おい坊主、目上に対する口の利き方ってもんが――」

「――なにを楽しそうに話してるの?」

 ハルミの肩に顎を置いて、ティアが口を挟んでくる。

「私にはクロハラがハルミをいじめているように見えたのだけれど?」

「な、な、そんなわけねえじゃねえですか。嬢ちゃんの見間違えってもんですぜ」

 クロハラは露骨に目を背けながらそう嘯くと、一目散にその場を逃げてゆく。

「あの……ティア」

「どうしたの?」

 ハルミの肩に顎を置いたままこちらを向くティア。息遣いすら肌身に感じる距離だ。

「ちょっと……恥ずかしいんだけど」

「私は恥ずかしくないよ。だから大丈夫ね」

 どういう理論なんだ、というハルミの心の中のツッコミが口に出ることは無かった。代わりに、ずっと抱いていた疑問が零れた。

「どうしてティアは、ぼくなんかを……気にしてくれるの?」

 ハルミは過酷な生まれ育ちを経て、自身に一切の存在価値が無いと思っていた。容姿が優れているわけではない。頭の出来もごく普通で、機転が効く訳でもない。であるならば――シグナルとしてハルミが持つ異能【愚者の天秤ウロボロス・ロウ】が理由なのか。

「ぼくの異能が……欲しいから?」

 【愚者の天秤ウロボロス・ロウ】は契約に関する異能だ。他者と言葉を交わし、心の底から嘘偽りのない両者一致の契約を交わすことで、力の行使を可能とする。簡単なもので言うと「嘘を吐いたら死ぬ」という契約を両者が納得したうえで交わせば、契約者が嘘を吐けばまさしくその瞬間に死亡する。そして、ハルミが持つ契約の中で最上のものは“異能の譲渡”だ

 シグナルと契約を交わし、その契約者が死ぬことで、ハルミは異能を引き継ぐことができる。シグナルの異能は一つのみ――そういった常識に反した規格外の異能なのである。

 これまで、ハルミは誰とも契約を交わしたことが無い。自身の力を恐れてのことだ。しかしティアがその力を欲するなら、ちっぽけなハルミの存在に価値は生まれて――

「好きだから。ハルミが大好きなの。貴方がここに居てくれることが、とっても嬉しいわ」

「ど、どうして……」

 ティアから送られる無償の愛に、ハルミは困惑し、赤面した。まだ、利用価値があるならば拾われた意味も分かる。そういうものなのだと納得することができた。

 それなのに、ティアは――

「私はね、今たまらなく幸せなの。だってハルミは、こんな私のことを世界で一番大事に思ってくれるから。そんなハルミと、こうして一緒に居れるから」

 ティアの言葉はいつも大げさだった。確かにハルミは、少なからずティアに好意を抱いている。それがどうして、そんな大それた表現になってしまうというのか。

 ハルミはそれを口にだすことは無かった。この心地よい関係を壊したくなかったのだ。

 いや、それは単なる言い訳だ。ハルミは怖かったのだ。言葉に出してしまったら、何かが壊れてしまいそうで。終わりの予感を、知ってしまいそうで。

 ――ティアの異能である【虚空索引リズ・スキャルフ】は、未来を知ることのできる力なのだから。

 そうして少年が隠し続けた淡い恋心は――言葉にされることなく終わりを告げた。


 いつも、いつでも思い出す。どうしてハルミは、あの時何も言えなかったんだ、と。

 ――君にヒーローになってほしいんだ――

 彼女は青の瞳に星々の煌きを湛えて、甘ったるくて優しい声で、華やぐように微笑む。

 ――困っている人を助けるの。悲しみにくれる人がこれ以上悲しまないように。理不尽に遭う人がこれ以上理不尽を背負わないように――

 僕にそんな大それたことはできないと言うと、彼女は首を振って否定する。

 ――ううん、君にはそれをできる力がある――

 今の僕には何もないと言うと、彼女は優しく口にした。

 ――その時は、私のをあげるから――

 そんなものはいらないんだ。本当に助けたい人は、他の誰でもないティアだと、そう言えたならばハルミは――


「ティアが殺された」

 食事時のことだ。唐突に放たれたハルミの一言に誰もが言葉を失った。そんなことがあるはずがない、と言う彼らの反論を、ハルミはたった一言で黙らせてしまうことになる。

「【虚空索引リズ・スキャルフ】、【防護障壁バリア】」

 小さな呟きと同時に、ハルミの右目に紺碧の輝きが宿った。そして同時に、

「坊主の言うことは正しい。旦那も一緒に殺されたんだ」

 突如としてハルミの肩にクロハラが現れて、ハルミの言葉を肯定した。

 ハルミの異能【愚者の天秤ウロボロス・ロウ】は、契約を交わしたシグナルの死後に、その力を相続する力だ。それが機能しているという事実が、とりもなおさずティアと【防護障壁バリア】の死を明確にしていた。何故ハルミが片目だけしか【虚空索引リズ・スキャルフ】を相続していないのか。それはティアの死という確実な真実に比べれば、些末な問題に過ぎなかった。

 例え未来を知ることができようと、予知すら意味をなさないほどの数の暴力を前にしては意味がない。ティアの異能を、世界連合の執念が上回った結果だった。

「これは、嬢ちゃんと旦那が望んだ結末なんだ」

 本来【虚空索引リズ・スキャルフ】の予知能力は、逃げに徹すれば誰も手出しができないほどに強力なものだ。しかしティアは、レジスタンスが数を減らそうと、最後の最後まで世界に反抗することを決めていた。例えその身を犠牲にしようとも、悲しい目に遭うシグナルを一人でも減らせればそれでよかったのだった。

「仕方ないわねえ。私達全員、最初から覚悟していたことだしねえ」

 ブラストが柔和な笑みを浮かべて立ち上がる。

「こうなりゃトコトンだ。派手な花火を咲かしてやろうじゃねえの」

 ビルドが不敵な笑みを浮かべて立ち上がる。

「仕方ありませんわね。ティア、すぐに行くわ。少しだけ待っていて頂戴」

 スミスが優雅な笑みを浮かべて立ち上がる。

「恐れることはない。我々の決死の抗いこそがシグナルの未来を築くのだ」

 シフトが威厳ある笑みを浮かべて立ち上がる。

「やっぱそうなるよねー。まっ、最後まで付き合うけどさ♪」

 ラインが締まりのない笑みを浮かべて立ち上がる。

「ぼ、ぼくも――!」

 声を上げたハルミに対して、五人全員が否定した。

「貴方はまだお若いのですから。巻き込むわけにはいかないものねえ」

「糞ガキ、てめえはそこでお寝んねしてろ。運が良けりゃまた会える」

「その気概だけは褒めてあげますわ。だから、気概だけでよろしくてよ」

「貴殿の役割を違えるな。アリスティアに与えられた生を全うすることだ」

「君を生かす”ってのがティアの遺言だからさー。ということで我慢してね」

「ぼくだってみんなと――」

「いいや、坊主はここで大人しくしていてくだせえ」

 五人の後をついていこうとしたハルミを、水色の壁、クロハラの防護障壁バリアが遮った。

「クロハラさん! ぼくだって戦えるんだ!」

「これは、今は居ない旦那の願いでもあるんだ。全部終わるまで生き残って貰いますぜ」


 あれから何日が経ったのだろうか。洞窟の中では外の様子を伺うことはできない。そしてハルミは、防護障壁バリアによって行動を制限されている。

 せめてもの配慮なのだろう、台所や風呂場、トイレなどの生活に関わる場所への行き来は自由に行うことができた。そこで在って無いような日々を過ごし、

 唐突に全てが終わったことを知った。

「【衝撃放射ブラスト】、【部分強化ビルド】、【金属生成スミス】、【動作付与シフト】、【直線爆破ライン】……」

 ハルミは上の空のようにそれらの名前を口ずさむ。その度に、見覚えのある現象がハルミによって生じた。ティアと【守護者バリア】だけではない、他の五人も全員――

「旦那、これからどうするんで?」

「クロハラさん、その呼び方は」

「さん付けはやめてくれ。わしゃあくまでも仕える身だ。今の旦那はハルミさんですな」

「これからどうする、か……」

「ああ、前の旦那との約束も果たした。だったら後は旦那の自由だろうよ」

 クロハラの問いに、ハルミはただ一言だけ言った。

「世界連合と戦う」

「気持ちは分かる。しかし旦那、もうじき暗夜戦争は終わるんですぜ。嬢ちゃんが死んで、レジスタンスは瓦解した。旦那が今からやろうとしてることは、全くの無意味なんだ」

「無意味でいい。ただ、ぼくは――俺は、俺から奪ったやつらを許さない」

 ハルミの目は暗く濁ってゆく。

 今まで何度も奪われてきた。そうして奪われることには慣れていたはずだったのに、どうしてこの喪失は、格別に辛くて悲しくて、こんなにも許せないものなんだろうか。

「……ああ」

 ハルミは理解した。奪われたものが、あまりにも大きかったのだと。

(俺は、ティアのことが……こんなにも好きだったんだ)

 今この瞬間、人から何かを奪うことを良しとしない、穏やかで優しいハルミは死んだ。

 代わりに、今ここに――敵対する世界連合のシグナルを殺して回り、後に【災厄指定レッド】を受けるまでに甚大な被害を齎すこととなる、暗夜戦争末期の亡霊ゴーストが生まれた。


 +++++


「……走馬灯ってやつもここで終わりか」

 立ち尽くすハルミの目の前で、幼き日の情景が早送りになってゆく。

 暗夜戦争が完全に終結し、ハルミは生きる意味を失った。そこでクロハラが、かつての同僚である情報屋“ヴァンダル”と話し合い、ハルミに偽の身分証明や住処を与えさせた。

 それらのやり取りに当人であるハルミは全く関与しておらず、気がついたらアパートで一人暮らしをしていたという有様だった。

 そこでは何不自由ない怠惰で退屈な日々を送っていた。一度ハルミはその生活を不必要だったと切り捨てた。しかし、ハルミが負け、全てが終わった今なら分かる。

「ごめんクロハラ。実は俺も、楽しかったんだ」

 誰もいない虚無の空間だからこそ、ハルミは本当の気持ちを言うことができた。

 そして夜空を眺めている時に、たまたま高度数万メートル上空を落下するリットを目撃し、居ても立ってもいられずに家を飛び出した。

 そこからは濃厚な時間だった。かつての仲間たちの名を関した異能を用いてリットを救出し、スフィアと戦う。敵であるスフィアの命をなぜかリットが救い、仲間に迎えた。そうして隠れ家のマンションで僅かな団欒の一時を過ごし、直後に恐るべき刺客たちと連戦を繰り広げ、最後にディーと対面し――ハルミは殺された。

 それがハルミの一生だった。強大な力を持っていながら、何も成すことができなかった無価値な人生。結局誰も救うことができなかった、どうしようもなく無意味な行いで――

「――ていうか走馬灯長くないか!?」


「気付くのが遅いよ、ハルミ」


 懐かしい声がした。それはどこか拗ねているような幼い響きで以って、ハルミの脳髄を貫いた。決して聞き間違えるはずがない。その声はハルミに、とって大切な――

「アリスティア!? どうしてここにいるんだ!?」

「そうじゃない。ティア、でしょ?」

 ハルミの背後に立っていたのは、【星詠みの魔女】アリスティア・ローレライに他ならなかった。燃ゆる炎が如き鮮烈な赤髪。海を宿す紺碧の瞳。実に三年ぶりの再会であったが、

「えっと、ティア……背縮んだ?」

「貴方が伸びたの! もう、失礼しちゃう」

 思春期を経て成長したハルミと違い、かつてはハルミよりも少し背の高い“お姉さん”だったティアは、三年前と全く同じ幼い姿をしていた。

 自然とティアを見下ろす形になったハルミが、確信となった疑問を発する。

「なあティア、ここはどこで――お前は何なんだ」

「ここはディーの言う人類共通の深層心理、集合無意識【罪の海リグル・アビス】の中よ。それは【世界の記憶レコード】によって記録された人類の闇、負の側面……要は死後の地獄みたいなものね。簡単に言えば、悪い子はみんな【罪の海こっち】に来ちゃうのよ。私も、そして貴方も」

 ティアの言葉はシンプルでいて、そして絶望的だった。もしかしたら今も生きているんじゃないか、というハルミの希望を簡単にへし折ったのである。

「ティアは、ずっとこの何もない場所で過ごしてきたのか?」

「何を言ってるの? ここは【世界の記憶レコード】に記述された知識でしかなく、私に魂なんてものは存在しない。今もこうしてハルミと話している私の時間は、三年前の死を境に止まったまま。今ここに居る私は、三年前の私の幻影に過ぎないの」

「ティアの魂が、意思がないって言うなら、なんでこうして会話が成立してるんだ?」

「簡単ね――私は自分が死ぬ前に、三年後のこの時間に話す言葉を予め決めておいたの。私は一方的に話しているのよ? それがたまたま、会話が成立しているように見えるだけ」

「なんだそりゃ!?」

 あまりに途方もないティアの試みに、ハルミは軽い目眩を覚えた。今こうしてハルミと対話しているティアは、例えるならば三年前に録音した音声を垂れ流しているだけの存在に過ぎない。それなのに淀みのない会話が成立しているように見えるのは――まだ生きていた頃のティアが、三年後のハルミが話す言葉を一語一句予知していたことに他ならない。

 千里先を見渡し、百年先を見通すと称された予知能力【虚空索引リズ・スキャルフ】。

 それはまさしく、かつて世界を混沌に陥れた者に相応しい空前絶後の力であった。

「というか、なんでその力は俺に無いんだ? これ、目が良くなるだけなんだけど……」

 ハルミは少し申し訳なさそうに、自身の右目を指差して言う。ティアは小さく微笑んだ。

「ごめんね。私の【虚空索引リズ・スキャルフ】は二つで一つの力だったの。見えないものを見る左眼と、見えるものをより見る右眼。私には、ずっと昔から【世界の記憶レコード】が見えていた。この世界のあらゆる知識が記された【世界の記憶レコード】を両眼で覗き込んだ時、その先の未来を知ることができたんだ。それが私の未来予知の秘密……だから片眼だけを相続したハルミの【虚空索引リズ・スキャルフ】は不完全なんだよ」

「じゃあ、もう片方の左眼は……」

「うん、盗られちゃった。その相手が私を、そして貴方を殺したディーよ」

 結局、そこに帰結する。ここは死後の世界じみたものであり、ハルミはディーに敗北し、死亡した。リットを守ることができず、ただ無様な最後を晒してしまった。

「……ティアのだけじゃない。大切な人たちから貰った力なのに、俺は何も出来なかった」

「そんなことはないよ。例えば……そうね。“見えるものをより見る”その右眼があったから――ハルミはリットと出会えたわ」

 ティアの言葉に、ハルミは目を見開く。確かに、ハルミに【虚空索引リズ・スキャルフ】の力が無ければ、遥か彼方の夜空を落下するリットを見つけることなど叶わなかった。一連の事件において当事者となることもなく、ただの傍観者として冷めた目で騒動を眺めていた。それなのにハルミには見えてしまったから。そして、リットを助けたいと思ってしまったから――

「ティアは……どこまで知ってたんだ?」

「――今この瞬間に至るまでの全部。ハルミが私のために世界を敵に回して戦い、その末に戦いを止めて、もう一度守るべき相手を見つけて立ち上がり――最後に、殺されるまで」

「こうなると分かっていて、あの日俺の手を取ったっていうのか?」

「そうだよ」

「俺に言ってくれた言葉も、全部、全部嘘だったっていうのか」

「違う、違うよ。私は世界で一番ハルミを愛していた。ううん……今もずっと、愛してる」

「――おかしいだろ! どうしてだよ!?」

 あの頃と何一つ変わらない、ティアに純粋な好意に、ハルミは泣きそうな顔を浮かべた。

「俺のどこが、好きだって言うんだ!? ……何もしなかったんだ。力がありながら、ティアを守れなかった。その優しさに、甘えていた。あんな日々が、ずっと続くと思っていた」

 悔恨を募らせるハルミに対して、ティアはどこまでも微笑んでいた。

「……そうやって、笑わないでくれ。お願いだ、何も出来なかった俺を、心の底から憎んでくれ……俺はティアに貰ったものを、何一つ返せていないんだ……」

「ううん、私はたくさん貰ったよ? だってハルミは――この世界から居なくなった私のことを、こんなにもいっぱい、想っていてくれたんだから」

「――ッ!」

 それは、予知能力を備える彼女でしか、得ることのできない感情であった。

 ハルミは、生前のティアに何もできなかった。しかしその死後に、ハルミはあらん限りの――それこそ世界を敵に回すほどの――想いをティアへと向けた。それは本来、虚しいまでに一方通行の激情であるはずだった。何故なら、黙した死者に知る由は無いのだから。

 ――しかし、未来を知るティアだけは、溢れんばかりのハルミの想いを汲み取っていた。

「ごめんね、最初から知っていたの。“三年前のあの日に、私が死ぬ”ってことは。だから、足掻いて、足掻いて、そうして気付いたら【星詠みの魔女】だなんて呼ばれていたわね」

「…………」

「他者をどれだけ救っても、自分の運命は変わらなかった。他の誰もが【星詠みの魔女】としてしか、私を見てくれなかった。そうして、自分の役割に押し潰されそうな時に――ハルミのことを知ったの。……貴方と出会う前から、私はずっと、貴方を見ていたわ」

 幼い姿のティアは、少し気恥ずかしそうにはにかんだ。これまでも、これからも、ティアの想いは何一つ変わらない。

「彼らだってそうよ……バリア、ブラスト、ビルド、スミス、シフト、ライン、そしてクロハラ。皆、私に付いてきたらどうなるかなんて分かっているのに、それでも最後まで一緒に居てくれた。――そして居なくなった後も、こんなにもハルミが、私のことを想っていてくれる……ハルミには辛い思いをさせたのに……私はとても、嬉しかったんだ」

 全て、納得尽くだったのだのだろう。それでも、ハルミは疑問を投げかけてしまう。

「それでも、なんで、こんな死に方を選んだっていうんだ?」

「私はね、わがままな魔女だから、欲しいものは一つだけじゃないわ――あの子とハルミを繋ぐには、こうするしかなかったの……ハルミ、あれを見て」

 ティアが指差す方向に、ハルミは顔を向ける。そこで、初めて気がついた。

 小さな光が在った。光は徐々に弱まっている。そこから、声がした。


 ――ハルミ……戻ってきて、ハルミ……。


「……リット、なのか」

 ハルミはその光に、不思議な力を感じていた。理屈で説明することはできない。ただ、この光に飲み込まれた時、ここではないどこかに行くという予感だけがあった。

「ティアは、来ないのか? もしかしら、ティアだって……」

「不可能ね。私は死んでから時間が経ちすぎたから……それに私は、とても満足してるよ?じゅうぶん、これ以上ないくらい、幸せになれたの。だから次は、ハルミの番ね」

「俺の、番……?」

「ええ、そうよ。だって、今のハルミには――守りたい女の子がいるんでしょ?」

 ティアの問いかけに、ハルミはゆっくりと、しかし確かに頷いた。

「だったらハルミ、好きな女の子のために戦い、一度負けても再び立ち上がる、そんなヒーローになってみせてよ。私の素敵なハルミは亡霊ゴーストなんかじゃないんだから。今度は復讐のためじゃなくて、誰かを助けるために……もう一度、世界を敵に回してよ!」

 ティアの声援を受けて、ハルミの心が静かに凪いでゆく。あれだけ抱いていた復讐心が、当の本人にほだされてゆく。代わりに、リットを助けたいという純粋な気持ちが芽生えた。

「……分かった。行ってくるよ、ティア」

「もう、しばらくは帰ってこないでよね。……ディーに打ち勝って、幸せに暮らして、うんと年を取って、笑顔でリットとさよならをして――また、【罪の海じごく】で逢いましょう」

「なんかそれ……二股みたいで困るな」

「私は悪い魔女だから、忘れて、なんて言わないわ……ずっと、ずっと、覚えていてね」

「言われなくても……ティアを忘れることなんて出来ないな」

 ハルミは光に手を触れる。自身の肉体が分解されていく感覚を覚えながら、最後に言いたかったことを、今まで言えずにいた言葉をティアに告げた。 

「最後に言わせてほしい。俺は……ううん。ぼくは、ティアのことが好きだった――」

「――ありがとっ、ハルミソウスケ」


 +++++


「――実につまらない最後だった。これで君を取り巻く物語も終わりだよ、リット」

「ああ……」

 自身の背中から生える黒腕に組み伏せられ、リットは嗚咽を漏らすことしかできない。

 呼吸が苦しい。視界に何かが溢れ出て、目の前の光景がぐちゃぐちゃ映る。瞳に溢れるそれが、何なのかを勘ぐるまでもない。今まで知ることのなかった負の感情が荒れ狂う。

「そもそも君に悲しむ権利があるというのかい? 君の目の前で襲われていった罪のない一般人に対して、君はただ何もせずに、殺されるまで見過ごした」

 今ならばその理由も分かる。リットは自身が抱く力の大きさに怯えていた。これまで閉じ込められていた暗闇の中、【世界の記憶レコード】を通して見る世界は常に無機質だった。生きている人間も死んでいる人間も、等しく記録された数字でしかなかった。

「君にはそれをするだけの力があった。君の行使する強大な【光の等価交換ソーラー=システム】で敵を殺せば、その分だけ殺される誰かを救うことが出来た。なのに、君は力を振るわなかった」

 ――ハルミを知った。クロハラを知った。スフィアを知った。

 外に出て、世界を知り、人が生きていることを知った。数字でしか計ることのできなかったひとりひとりに、それぞれ違った生き方があることを理解してしまった。例えそれが敵であろうと、そんな誰かの生き方に触れて、干渉し、捻じ曲げることが怖かった。

「ならば、ゴーストの死も平然と傍観しているべきであろう? 人類を守護する存在として選ばれた“記録者”たる君が、命の価値に優劣をつけることなど許されない。等しくその死を見過ごすべきだ。悲観するなど論外だ。抗うことは罪深い。その涙は冒涜に値する」

 ディーの言葉は刃の如き鋭さで以って、リットの精神を苛む。事実その通り、ハルミの命が危うくなる段に至り、リットは己の【光の等価交換ソーラー=システム】を行使した。自身が誰かを傷つける恐怖を、ハルミを失う恐怖が上回った為だ。

 それが次第に、ハルミを失う恐怖を、ハルミを傷つけるディーに対する怒りが上回った――そして、自身の心に澱が生じた。

「【罪の海リグル・アビス】は心の闇を具現化する。君の背中から生じたその黒腕は、君が抱く怠惰と傲慢の証明だ。つまるところリット、君の心は汚れているのだよ。だからそんなにもがき苦しむんだ。心など無ければ、辛く思うことはない。そうだろう? さあ――壊れてしまえ」

 ディーの言葉と同時に、リットを組み伏せる黒腕が、霞が晴れるかのように霧散した。

「っぁ…………」

 それは心の闇が消失したことを表しているのではない。心の闇の拠り所となる、自我そのものが崩壊したことを示していた。

「それでいい――リット君の世界を知りたいというその願いを、ボクが引き継いであげよう。ボクの飽くなき探求を果たすための道具となるのだ。道具に感情など不必要だろう?」

 ――リットの目の前で罪なき一般人を、刺客たちが悪逆非道の限りを尽くして虐殺する。ディーの指示で行われたその悪行は、ハルミが抱く心の闇を増幅させるという目的も含まれていたが、その主目的はこうしてリットの心を崩壊させることにあった。そうすればリットの心が折れるということが、ディーには分かっていたのだ。

 ……ディーが【星詠みの魔女】から移植した左眼には、【世界の記憶レコード】を覗き見る力が存在する。そこには過去と現在の、ありとあらゆる知識が記されている。それはリットの心の内側も例外ではなかった。唯一、【世界の記憶レコード】に記されない情報があるとすれば、それは決まりきった“現在”という枠組みから外れた者――未来を変えうる存在に他ならない。

「未来を変えうる存在――【星詠みの魔女】の右眼を引き継いだシグナル、亡霊ゴースト。君は確かにボクの計画において想定外の存在だった。【世界の記憶レコード】の範疇から外れた不確定因子として、まず何よりも排除すべき脅威だった――しかしこうして、ゴーストは死んだ」

 ディーの言葉を受けてか否か、同時にリットの見る世界が暗転した。視覚だけではない。プツン、とリットの聴く世界から音が途絶えた。噛み締めた唇から滲み出た血の味も、冷たいコンクリートに倒れ伏す感触も、大切な誰かの死を想起させる死の香りも、その全てはリットから切り離された。次第に、リットの口から零れる吐息が小さくなってゆく。

 一五年もの歳月を培養槽の中で過ごしたリットは、本来人が持つ感覚や器官などを著しく退化させていた。失われたはずのそれらが機能していたのは、リット自身の“生きたい“という意思を汲み取った【光の等価交換ソーラー=システム】が肩代わりを果たしていたからに過ぎない。

 リットの生きようとする意思が薄れれば、それらが機能しなくなることは必然であった。

 生きる意思を放棄したリットを見下ろして、ディーは深い満足感を覚えた。

「いやはや死に体というのは困るな。持ち帰り次第呼吸器を取り付けるかね。ついでにその手足を切除し、持ち運び易くするとしよう……【星詠み】から眼球を移植した時は、右眼の力を取り損ねたからね。今度は失敗などしないよう、細心の注意を払おうではないか」

 ディーの言葉は、外界から隔絶されたリットに届かない。リットの心はもう此処には無い。リットはリットという一個人としての存在を喪失し、この世界を見渡す“記録者”としての定められた役割を演ずる装置となった。そうして記録者が己の存在意義を果たすように、リットは【世界の記憶レコード】へと己の精神を埋没させた。

 ……これではまるで、培養槽に沈められていた頃のリットと同じではないか。光一つない暗闇の中、何ら自我を持たないリットは、“世界を知る”という己に刻まれたプログラムに従い、ただ【世界の記憶レコード】を読み耽っていた。生けとし生ける者たちの脈動を、繰り返される生と死の歴史を、ただ冷めた目で見つめていた。リットにとってこの世界は無機質的な情報の羅列でしかなく、生命とは勝手に増減する数字でしかなかった。

 何年も何年も、リットはそういった記録を無心に読み続けていた。そのようなリットに、心など形作られるはずがなかった。誰かを慈しむ感情など芽生えるはずがなかった。


 ――やっと会えた……ううん、これは違うね――初めまして、リット。


 それがいつの日かは知らない。ただ、ある日突然、【世界の記憶レコード】に刻まれた記録が、リットへと話しかけてきた。明るく元気な、少女の声だった。

 そんなことは本来あり得ない。過去と現在の記録である【世界の記憶レコード】という存在自体、誰も知る由もない代物だ。それを俯瞰する記録者リットは、まさしく神にも等しい視点の持ち主である。神に話しかける人間など、どこにも居るわけがなかろう。

 ――あなたは、誰?

 生まれて始めて発したリットの言葉がそれだった。

 ――誰でもないよ。強いて言うなら、この世界の仕組みが生み出した時空の矛盾、ほつれバグみたいなものなのかもね。

 少女の声は、リットの言葉に対して明確に応答した。更に信じ難い出来事である。【世界の記憶レコード】とは言ってしまえば、四六億年の歴史を記した壮大な史書だ。史書がいきなり、読者に話しかけてくるはずがなかろう。ましてや読者と会話が成立するなど論外だ。

 ――ちなみに、私のことを調べようとしても無駄だからね? 【世界の記憶レコード】には私のこと、何にも載ってないから。

 今度は会話ですらない。リットの行おうとした検索行為を、少女の声が先回りした。それが意味することはすなわち、“声”はリットの精神を覗き見る力を持っているということ。

 ――あなたは何がしたい? 何を望む?

 リットは謎の声に動じることなく、ただ言葉を返した。神に話しかけてくる人間の目的など分かりきっている。あらゆる宗教が記す神話において、決まって人は神に力を欲した。この“声”もそういった類いのものなのだろうと、リットは認識していた。

 なのに――

 ――リット、あなたとお話がしたいの。

 ――どうして……。

 応答するその言葉が、僅かに詰まったことにリットは気づいていない。それが狼狽という感情の表出であることを、リットは知らない。

 ――似たもの同士、だからかな? 貴方と私は似ているの。

 ――それは、どのように?

 ――いっぱいあるよ。例えば、世界を脅かすほどの強大な力を秘めているところも、その未来が深く閉ざされいるところも、押し付けられた役割を無心で演じようとしているところも――同じ人を好きになるところも。

 ――好き? 好意という人間の感情。生殖を成すためのプログラム。それを、わたしが?

 ――ええ、生殖って……リットは意外と大胆ね。

 ――これは事実。当然のことを口述したまで。

 ――その通りなのかもしれない。けど、それだけじゃない“好き“だってあるんだよ?

 ――例えば、どのような?

 ――それを教えるのは、私じゃないかな。それにね、リット。“好き”だけじゃないよ。他にも、もっとたくさんの感情があるの。それは嬉しいだけじゃない、悲しいだけじゃない。嬉しいのに悲しいことだってあるんだよ?

 ――む……人の感情は難しい。

 ――その通りよ。私だって何にも分からないもの。じゃあ、難しい話はここまでにするね……そうだね、おやつの話でもしよっか。

 ――……?

 少女の声は気紛れに話題を変える。リットに更なる狼狽が齎されたのは言うまでもない。

 ――わけあって私は世界中を練り歩いているのだけど、その国独特のおやつを食べるってのがオツなものよ。当たりを引いた時は堪らないわ。たまに外れるのもまたオツね。

 ――オツ……?

 ――ちょっと前にスペインで食べたヒマワリの種なのだけれど、塩で茹でてカラッと揚げたらビールのおつまみにピッタリらしいの。まあ私お酒なんて飲めないし、当然のように口に合わなかったけどね……そしたらこの前、トルコで食べたヒマワリの種が当たりだったの! トルコのスイーツって何にでも砂糖まみれにしちゃうらしくて、勿論のことヒマワリの種も例外じゃなかったわね。砂糖で揚げたやつの美味しいこと、美味しいこと。思わず食べすぎちゃって、“嬢ちゃんの健康に良くねえ”って仲間に止められたの。まあその子も頬にたんまり詰めて言うものだから、まったく説得力が無かったけどね。あとでお互い仲良く叱られちゃった。“遊びで来ている訳ではないですわ”って。

 ――……………………。

 果たしてこれは、会話と言っていいものなのだろうか。思案するリットを傍らに、

 ――今日のところはここまでね。じゃあ、また今度。

 ――また?

 ――ええ、そうよ。必ず会いましょう。

 そう言って、少女の声は唐突に掻き消えた。精確に言うならば、【世界の記憶レコード】の記録がそこで途絶えたのだ。もう一度声を再生することは可能だが、会話を行うことはできない。

 ――……また、今度。

 それからだ。知識を読み解くだけのリットが、記述のどこかに少女の声を探すようになっていた。リットがどうしても話したいと思った時には、必ず少女の声が答えてくれる。

 その声は【世界の記憶レコード】という壮大な史書のページに、こっそりと挟まれた小さな付箋のように、唐突に現れてはリットに明るく元気な声を聴かせてくれた。

 ……そうして、リットが外の世界に出たあの時を境に、少女の声は現れなくなった。


 ……だからだろう。ディーに心を壊されて、自我を喪失してしまった今も、リットは少女の声を求めて【世界の記憶レコード】という膨大な情報の海を彷徨っていた。

 赤子が母親に手を伸ばすが如き自然な振る舞い。それは無意識に刻まれた、必然の欲求。心すら失った今でさえ、こうしてリットは、ぬくもりを求めて手を伸ばす。


(――お久しぶりね、リット)


 そんなリットの願いを、少女の声が汲み取った。ほんの数日前に別れたばかりなのに、少女の声が言う通り、まるで何年か越しの再会のように思えた。

 少女の声に吸い寄せられるように、ばらばらになったリットの心の欠片が集まってゆく。

(そうよリット、貴方は強いの。私の大好きなリットが、あれぐらいの揺さぶりで壊れるなんてあり得ないに決まってるわ)

 少女は確信を込めて言う。それに答えるように――

(……ありがとう)

 心を強固に再構築したリットが、確固とした意思を込めて少女の声に感謝した。

(感動の再会を喜びたいのだけど、ありていに言えば時間が無いわ。現状の再確認よ)

(外を飛び出した私を、ハルミが助けてくれた……そのハルミが、私のせいで殺された。だから私はハルミを助けたい――生き返らせたいけれど、それはできない。なぜならハルミの構成情報は……【世界の記憶レコード】のどこにも載っていないから)

 それはリットが真に絶望した理由であった。光を全てに変える力【光の等価交換ソーラー=システム】は、【世界の記憶レコード】に記載された情報を元に万物を生成する。しかし、どういう訳かハルミの情報は【世界の記憶レコード】に記載されていない。記載が無ければ、例えかすり傷一つですら、リットはハルミを治すことができないのだ。

 しかし、そんな事実をまるで一笑に付すかのように、少女の声は毅然と宣言した。

(それなら何の問題ないわ。ハルミのことはちゃんと【世界の記憶】に載っているもの)

 あまりにも当たり前のように言うものだから、リットは何度目めになるかも分からない検索を試みた。【世界の記憶レコード】にアクセスし、どこにも載っていないハルミの情報を――

(……あった)

 人類史の中でも、とりわけ罪深い者たちを記録する場所――【罪の海リグル・アビス】と呼ばれる領域に、“ハルミソウスケ”という一人の人間の情報が、余すこと無く記載されていた。

 記録に触れた瞬間、リットはハルミの全てを理解した。理解してしまったのだ。

 ――暗夜戦争末期の亡霊と呼ばれた【災厄指定レッド】シグナルである、ハルミの過去を。

(どうして……)

(そうね。【世界の記憶】はこの世界の過去と現在を余すこと無く記録する。けれどもそこに、“現在”という枠組みから外れた者――未来を変えうる存在は記録されない。そして、【災厄指定】シグナルである予知能力者【星詠みの魔女】の影響を最も強く受けたハルミは、同じく未来を変えうる存在となり、【世界の記憶レコード】の範疇から外れたの)

(でも、今は……)

(簡単なことよ。ハルミは死に、その未来は確定した。死という結末を受けて、未来を変えうる存在ではなくなったから、ハルミは【世界の記憶レコード】に記録されるようになったの。、だから、そこにある記録を元に【光の等価交換ソーラー=システム】を行使すれば――ハルミは生き返るわ)

(……ディーは、このことを知っている?)

(いいえ、彼は生あるモノにしか興味を向けない。死んだモノ、終わったモノ……自分の手で終わらせたモノには、一瞥すら寄越さない。それがディーという科学者の本質よ)

 声の言う通りにすれば――たとえ死者の蘇生が禁忌に触れる行為だとしても――ハルミを生き返らせることができる。

(辛い目に合わせてごめんね。でも、これしかなかったの。ディーの目を欺き、尚且つ、貴方たち二人が欠けることなく生きるためにはね。……これはね、徹底的に敗北し、未来が閉ざされることでしか得ることの出来ない、反撃のチャンスだよ)

(……どうしてあなたは……そこまで知っていた?)

(…………)

 リットの言葉には必ず返答していた声が、この瞬間、初めてリットに沈黙を貫いた。

 代わりにリットは、後ろ髪引かれる思いで、ハルミの記述に手を伸ばす。……すると、そのすぐ間近に、別の誰かの記述が載せられていることに気付いた。ハルミと同じく罪人として【罪の海リグル・アビス】に幽閉され、そして比翼連理のように、ハルミに寄り添うその誰かは……

(【星詠みの魔女】アリスティア・ローレライ……それが、あなたの名前)

(ティアでいいわ、リット)

(……どうやって? ティアは、どのようにしてわたしと話していた?)

(私は自分の予知能力を意図的に消すことができるの。そうすることで、こうして任意のタイミングで【世界の記憶レコード】に写り込んできたわ。それを、あなたが見ていてくれた)

 ――暗く閉ざされた水底の中、リットに話しかけてくれた大切な誰か。リットが幾ら【世界の記憶レコード】を探しても見つからないでいた“あの人”の記述が、確かに此処にある。

(……でも、今のティアは……)

 しかし【世界の記憶レコード】が、揺るぎない過去と現在を記録するものであるならば、ハルミと同じように、そこに彼女の一生が記されているということは、

(もうすぐ、私の未来は閉ざされる――ここから先の世界を、私は知らない。だからね、正直に言うと……貴方たちがディーに勝てるかどうかなんて分からないわ)

 少しおどけるように、ティアはさらりと、とんでもないことを言ってのけた。つまるところ、ティアの未来予知能力は、ここから先の光景を映していない。誰にも分からない未知数の世界。それでもティアは、まるでそれが当たり前だとでも言うように宣言した。

(でもね、リット。私は信じているの。ここから先の世界で、ハルミとリットが幸せに生きているってことを)

(でもティアは、そこに居ない……)

 ハルミのはっきりとした記述に比べて、ティアの記述はあまりにも欠落していた。リットがどれだけ力を尽くしたところで、ティアを生き返らせることは不可能だろう。

 自分が死ぬと分かっていて、その未来が深く閉ざされることを知っていて、それなのに自分ではなく、ハルミとリットの幸せを願えるのか。

(ティアは、どうしてこんなことを)

(――ハルミもリットも、こんなにも私を好きでいてくれた。だから私は、私の大好きな二人に幸せになってほしいの。ただそれだけよ)

 それは因果の逆転した関係。数年もの捻れた時空が生み出した、純粋なる想い。未来を見通すティアにとって、どちらが最初に好きになったなど、さしたる問題に過ぎないのだ。

 ……何をするべきかは理解した。しかし、リットは行動に移せずにいる。ディーの言う通り、己の願いでハルミだけを生き返らせることは、酷く歪なことのように思えたからだ。

(……何を躊躇っているの? リットは――ハルミのことが好きなんでしょう?)

 そんな迷いを、ティアはたった一言で吹き飛ばす。しかし、もう一つの懸念は――

(それに、ここを出れば……ティアにもう会えない)

 振り絞るかのようなリットの声に、ティアは優しく、諭すように返した。

(いいえ、リット。私はここにいる。貴方が私を思う限り、私はずっと、貴方の心の中にいる。だから――その先の未来に、私を連れて行ってね)

(――うん)

 今この瞬間を以って、【世界の記憶レコード】という世界の仕組みが生み出した時空の矛盾、ほつれバグは正された。ティアとリットの、時間と空間を超えた奇妙な邂逅はここで終わりを告げる。


 ――けれども、ここから先の未来はまだ終わっていない。


 +++++


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 ディーにとっては突然の出来事だった。心を壊し、傀儡と化したはずのリットが、あらん限りの叫び声を上げていた。

「いきなりなんだね。黙りたまえ」

 リットが意思を取り戻したと見るべきだろう。ならば同時に、心の闇を再び抱えたということになる。するとリットの内から“心の闇”を具現化した黒腕が出現するはずで――

「……ふむ」

 ディーの呼びかけに、黒腕は応えない。それはすなわち、リットから心の闇が取り払われたことを意味している。

 その間にも、リットはハルミをしかと見つめる。たとえその姿がぼろ切れのような死体であろうと、リットは決して目を逸らさない。

 ――無数もの光の粒子が現れ、揺らめくようにハルミの下へと集まってゆく。

「どういうことだ……」

 目の前の光景は、眩いまでの光に満ち溢れている。これほどまでの光が、いったいどこに存在していたというのか。ディーは小細工が通じぬように、予めリットが作成した照明や高架橋の街灯といったものは破壊してある。

 星空が消えた世界で、この宵闇を照らす光源は月明かりしか存在しないというのに――

「なによ、これ……きれい」

 緊張感に欠ける呟きを発したのは、他ならぬスフィアであった。

 黒腕で拘束しておいたはずなのに、今やスフィアを縛るものは見当たらない。そんなスフィアが、いつの間にか夜空を見上げて、呆然と立ち尽くしている。

 釣られるように、ディーは視線を天空へと掲げた。

「な――ッ!」


 ――見渡す限りの暗夜に、失われたはずの星々の煌めきが瞬いている。


 まるで、世界を覆う真っ黒なカーテンが取り払われたかのように、夜空は満天の星明かりに包まれていた。地平線を覆う星々の輝きは光の粒子となり、天の川が零れ落ちるかのように、ハルミの下へと降り注いでゆく。

 千切れたハルミの四肢が、急速に再生を果たしてゆく。胸元にぽっかりと空いた空洞が、次第に塞がってゆく。失われたはずの心臓が、新たに生み出されようとしていた。

 ――【光の等価交換ソーラー=システム】は光を消費することで何かを形作る。光が消費された末に残るものは純粋なる闇。その闇を“黒い腕”として具現化することのできるディーにとって、リットとの相性は絶対的に有利であったはずだ。

「ッ……」

 連続して現れる光の粒子が、生じた闇を即座にかき消す。ありていに言ってしまえば、取り戻された星空の光は、ディーの想定する許容量を遥かに超越していたのだ。

「させるものか」

 代わりにディーは足元から黒腕を生み出し、ハルミの下へと詰め寄らせる。たった一撃を、無防備なハルミに入れるだけで良い。それだけで決着が付く話だが――

 ――ハルミの胸元から突如として伸び出た黒腕が、ディーのけしかけた黒腕と衝突した。

 ディーの意思とは無関係に生じた黒腕は、まるで少女のようにか細いものであった。

 当然の如く、ディーが使役する丸太のような黒腕に力負けし、粉々に砕け散る。

 しかし、それだけで十分だった。僅かな時間稼ぎが、ハルミとリットの命運を分けた。

「――ありがとう、ティア」

 死の一撃が到達するよりも早く完全回復を果たしたハルミが、黒腕とすれ違うように交錯する。そして義手ではなく、元通りとなった手で倒れ伏すリットを抱え上げた。そのまま即座に後方への撤退という判断を取ると、クロハラ、スフィアとの合流を果たした。

「……旦那ぁ、よくぞご無事で……旦那にまで置いて行かれたら、わしは、わしは……!」

 クロハラはハルミの顔面に飛びつくが、手加減ができていないのか、クロハラの爪がハルミの皮膚に食い込んでいる。しかし、ハルミはクロハラを引き剥がすことは無かった。

「悪い、調子に乗って殺された。本当に、本当にごめん」

「リットちゃん、これマジの星空? アタシも二人のことで悲しかったんだけどさ、いや、本当だよ? でも、それよりも興奮の方が勝っちゃって……これって夢の世界かな?」

 早口でまくし立て、ついには自分の頬を抓りだすスフィア。そんな赤く腫れたスフィアの頬を、背伸びをしたリットがそっと触れる。癒やしの光を生み出しながら、優しく諭す。

「これはあなたの見ていた夢の光景……でも、大丈夫。これは現実だから」

「でもよ嬢ちゃん、いったいどうしてこんなことが……?」

「わたしが外の世界に出た時点で“記録者“が持つ機能も十全に取り戻していた。こうして星空が元に戻らなかったのは、ただわたしが、自分の責任と向き合わなかっただけ」

 ――三人と一匹の邂逅を、ディーはただ指を咥えて眺めていたわけではない。

 ディーはハルミに念じていたのである。その心の闇を顕現せよ、と。

 暗夜戦争で時間が止まったままの亡霊。更にはハルミにとってディーは、大切な人を手に掛けた仇でもある。復讐心に我を忘れて、ディーに怒りを向けるのも無理はなかろう。

 そしてその負の想念が在る限り、ハルミは決してディーに勝てない。であるはずが――

「闇が、消えただと……ゴースト、君はボクを、心の底から憎んでいるのではないのかね」

 ディーの意思に黒腕は呼応しない。黒腕の媒体となる心の闇が、ハルミから無くなっているというのだ。ディーの挑発に、ハルミは引っかかることはなかった。

「憎んでいたよ。……けど、当の本人に幸せだって言われたから――」

 思い出されるのは、ティアの言葉。

 ――守りたい女の子がいるんでしょ?

 青の輝きを秘めた右眼でリットを見る。

「――俺だけ、過去に囚われ続けるわけにもいかないよな」

 小さく微笑んだハルミの心は不思議なほど穏やかで、その瞳は澄んでいた。

「……二人の心変わりといい、ゴーストから現れたあの黒い腕……。死してなお、ボクの道を阻むのか――星詠みィ!!」

 左眼に青の輝きを宿すディーが歯噛みすると、星空に向かって吠える。

「いや、あいつはもう此処に居ない――お前の道を阻むのは、今を生きている俺の役目だ」

「……いいえ、ハルミ。わたしも――そして、ティアも居る。貴方とわたしの、此処に」

 そう言って、リットは自身の胸元に手をかざす。

「リット……あいつを知っているのか?」

「うん。暗闇に閉じ込められていたわたしに、優しく話しかけてくれた人……何も分からなかったわたしに、色んなものをくれた人」

 ハルミにとって大切な人が、リットの大切な人でもある。そして、共通点を持つ二人が、こうして肩を並べている。……決して、偶然ではないのだろう。

「これが、ティアの望んだ未来なのか……。だったら尚更、負けるわけにはいかねえよな」

「……うん。絶対に、勝ってみせる」

「ちょいとお二方。良い雰囲気のところすまねえが、わしを忘れて貰っては困りますぜ。ティアとリットの嬢ちゃん方に、旦那とわしで四対一……あれ、一人忘れているような」

「ちょっと待って!? おいネズミ! アタシは!?」

「分かってるさ。スフィアが居たから、ここまでこれた――だからこれで、五対一だッ!」

 そう言ってハルミは、自分たちの未来に立ち塞がるディーへと、激しく啖呵を切った。

「まあいいだろう――【罪の海リグル・アビス】、全域解放だ。この世界に蓄積された全ての嘆きと怨嗟で以って、ゴーストを正しく亡き者へと還そう。君たちの未来を、希望を尽く失墜させる」

 ディーの静かなる激情に呼応して、周囲に無数もの亀裂が生じた。前後左右のありとあらゆる空間が黒く裂け、引きずり出すかのような音と共に、おぞましい黒腕が表出する。

 一度はリットに不覚を取ったディーであるが、【罪の海リグル・アビス】の全域解放を果たした今、リットの【光の等価交換ソーラー=システム】でディーに攻撃を加えることは能わない。たとえ星空が蘇ろうとも、人類史に刻まれた底知れぬ“闇”が、リットの生み出す光の粒子を掻き消してしまう。

「できれば、この力は使いたくなかったがね」

 ディーの手足を、黒い腕がしかと掴んでいる。それだけではない。いつの間にか、ディーの皮膚表面に、刺青のような黒い手が刻まれていた。それらは絶えず脈動し、ディーの中心地である心臓へと手を伸ばそうとしていた。ディーにとってのこれは諸刃の剣である。

 深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗き返している――此処に在ってはならないはずのあの世の力を借りたが故に、ディーもまたあの世へと引きずり込まれようとしているのだ。

「……なあ旦那、お相手さんだいぶイッちまってますぜ」

「あれはヤバイな。俺の手持ちの異能じゃ、本体まで攻撃を届かせるのは難しい」

「わたしの力でも、あれにダメージを与えることは……できないかもしれない」

「あれだけ威勢よく喧嘩吹っかけといてソレ!?」

 呆れ返るスフィアを、ハルミはじっと見つめた。リットも、クロハラも同じく見つめる。

 それはまるで、一縷の希望をスフィアに託すかのような眼差しで、

「な、何よ……化け物同士アンタたちの戦いに、凡人のアタシが出来ることは何もないわよ」

「いいえ、そんなことはない」

「俺たちが勝つためには、スフィアの力が必要なんだ」

「――別れの言葉は済ませたかね」

 無数に犇めく黒腕が、ハルミたちの元へと振るわれる。ハルミが空中に退避すると、そのほとんどがハルミへと追従した。

 あくまでも、ディーにとっての最大の脅威はハルミなのだ。リットの【光の等価交換ソーラー=システム】はディーと極めて相性が悪い。クロハラの防護障壁は攻撃に適さない。

 そしてスフィアの【嘆きの氷樹グレイシアル・グレーター】はディーに通用しない――と、思われているはずだ。

 けれども、ハルミは知っている。この一連の事件において、最も強烈な一撃とは何か。

 ――それは遥か上空を飛行する輸送機を撃墜させた、途方もないまでに巨大な“氷の槍”だ。満月から落とされたかの如き氷槍は、ただ墜落しているだけで夜空を鳴動させ、海面へと着水した際は都市全域に衝撃波が伝播したほどだ。【災厄指定レッド】クラスのその一撃を正面から防ぐことはハルミでさえ不可能であり、スフィアとの交戦において放たれた時は、スフィア本体を攻撃することで何とか無効化するしか無かったような規格外の代物である。

 スフィアの【嘆きの氷樹グレイシアル・グレーター】は、スフィア自身が“円と視認できるもの“を底面として氷槍を放つ異能だ。基準となる円の底面積に応じて氷槍のサイズと強度が変動し、それが最も強力なものとなる瞬間が――一ヶ月に一度だけ夜空に浮かぶ――満月を見つめた時だ。

 もしあの一撃をディーに向けて、今一度放つことができるとしたら、勝機はそこにある。

(……というわけだ。スフィア、助けてくれ)

(と、旦那がお願いしてますぜ)

 黒腕と応戦するハルミは、心の中で繋がったクロハラとのパスを通じて、そう念じた。

 ――何簡単に言ってくれてんのよ!? アレ一発撃つだけで死ぬほど持ってかれるのよ! それに今夜はもう満月じゃないわ!

 スフィアの言うことは最もだ。昨夜が満月であったならば、今宵の月は僅かに欠けた十六夜いざよい。そしてその真円が欠けている限り、【嘆きの氷樹グレイシアル・グレーター】を発動することができない。

 ――大丈夫、わたしがいる。

 そんな事実を、リットは力強く否定する。

 ――リットちゃんが、あれを満月にしてみせるっていうの?

 ――いいえ、わたしの【光の等価交換ソーラー=システム】は対象本来の“在るべき姿”を生成する。この夜に浮かぶ十六夜は、間違いなく今宵の“在るべき姿”。それに手を加えるは出来ない。

 ――出来ないなら、どうしようもないじゃない。

 ――改変は不可能。しかし、新たに創造することは可能。ゆえにわたしは――この夜空にもう一つの月を浮かべてみせる。だからお願い、スフィア。わたしたちを助けて。

 ――普通そっちの方が無理でしょ!? ……まあいいわ。こうして星空を見れた時点で、アタシの夢はとっくに叶ってんの。リットちゃんが叶えてくれたの。それにアンタ……

ハルミだってアタシを生かしてくれた。そこのネズミにも感謝してる――だったら今度はアタシの番よ。こんなお安い命でよければ、アンタたちの夢に託してあげるわ。

 それはハルミにとって数奇な出来事だった。一度ハルミが手を下そうとしたスフィアに、この場にいる全員の生存が掛かっているというのだから。

 あの時ハルミは、確かにスフィアを殺そうとしていた。煮え滾らせた復讐心を抜きにしても、それはあの場において最も間違いのない選択なのだったのだと思う。

 しかし、スフィアの心胆とその善性を見抜いたリットが、スフィアを生かすという選択を取った。それが正しいという確証はどこにもない。ただリットは、自らに正しくあろうとした。冷徹に物事を判断するハルミには無い考え方だ。そしてその正しくあろうとする気持ちが、結果的に可能性の芽を残した。それは、ハルミ一人では至らない領域であった。

 暗夜戦争末期から今に至るまでのハルミは、自分一人で何でも出来ると思いこんでいた。借り物の力を復讐の名の下に振るい、敵を圧倒することで得た虚しい全能感だ。

 けれどもハルミは、無力を知った。自分にはない考え方が、尊いものであると理解した。

 可能性とは、闇からではなく、光から出ずるものである。光に触れた、今なら分かる。


 ――轟、と周囲に烈風が吹き荒れた。


「何かね」

 突然の強風を受けて、ディーは視線をハルミへと向ける。しかし、ハルミにそのような現象を起こす異能は存在しない。スフィアにも当然無い。残るはリットであるが、この地上で【光の等価交換ソーラー=システム】を起動することは不可能である。【罪の海リグル・アビス】の全域解放を行っているこの状況において、リットの操る光の粒子はその全てが闇に飲み込まれる。そしてそもそもとして、光から生まれた物質は、ディーの操る闇に触れただけで削り取られてしまう。

 依然として、風は吹き続けている。それも局所的な現象ではない。今宵の戦場となった高架橋だけでなく、眼下に広がる海原の、水平線のその先まで波が荒れている。

 風に揺られる水面では星の光が散乱し、悠然と月が浮かぶ。十六夜と――もう一つ。

「……ほう」

 夜空を見上げたディーの視界に、二つの月が映る。今宵に在るべき十六夜と、在りえないはずの月。リットが生成する、偽物の浮かぶ影。

「【嘆きの氷樹グレイシアル・グレーター】。ボクの切り捨てたソレが、君たちに残された可能性というわけか」

 吹き荒れるこの風の正体は、二つめの月が突如として地球外縁に現れたが故に生した現象だ。本来の月の引力とはまた別の引力が突如として発生し、風と波を引き起こしている。

 ディーはそのからくりを理解する。星空から零れ落ちる光の粒子が、地上にではなく、更なる天空へと昇りつめているというのだ。宇宙空間での【光の等価交換ソーラー=システム】の行使は、さしものディーにも干渉することはできない。しかし遠距離での発動と、生成する対象のあまりの大きさから、まだ月の形はリットの思い描く満月へと至っていない。

 それは移ろう暦の如く、偽物の月は肉付くように質量を増し、姿形を変えてゆく。新月から三日月に、そして夕月、弦月へと、次第に満月の形へと近づいて――。

「いやはや見事な光景だね……それをボクが許すとでも」

 空中のハルミを追う黒腕たちが、その矛先を地上へと向ける。

 真っ先に伸びゆく黒腕が、リットを隠すように立つスフィアを毒牙に掛けようとした。

「――忘れんじゃねえ! 誰かを守る為にわしは居る!」

 ほの青い防護障壁バリアが宙空に生じ、迫り来る黒腕を弾き飛ばした。

 出鼻をくじかれた黒腕に損傷は見当たらない。防護障壁バリアに攻撃や反撃といった手段は無く、防がれたところでまた襲えばいい。故に、再び黒腕は防護障壁バリアへと手を伸ばし、

「よそ見すんな。お前の相手はこの俺だ」

 鋭い風の鳴き声と共に、複数の黒腕が真っ二つに両断された。

 ハルミが持つ二つの異能、【金属生成スミス】と【動作付与シフト】を組み合わせた繊維ワイヤーによる切断“踊る刃”だ。ハルミは攻撃を繰り出しつつ、リットたちの眼前に降り立った。

「得意のお空に逃げないのかね?」

 ハルミは【衝撃放射ブラスト】による空中機動での遊撃ではなく、地上で踏み留まる迎撃戦を選んだ。回避を捨てたハルミにとって、【罪の海リグル・アビス】による黒腕の物量攻撃は致命的なものだ。 

 なのに、負けると分かりきった勝負に、ハルミは単身で挑む――自分の力を過信して、仲間の力を信じなかったハルミには、このような選択を取ることはできなかっただろう。

「俺はお前に勝てないよ。だから、時間稼ぎぐらいさせてくれ」

「くだらない戯言だ。罪人達よ、構わず蹂躙したまえ」

 ディーの号令と共に、高架橋を覆わんばかりの黒腕がハルミの元へと殺到する。それら洪水の如き無数の黒腕を、ハルミは右眼の【虚空索引リズ・スキャルフ】で腕一本余すことなく認識した。

(避けるな、受けとめろ。逃げるな、向かい討て)

 自身の置かれた状況を正確無比に把握し、適時“踊る刃“を黒腕の弱点たる関節に差し込んで切り離してゆく。ハルミから距離の離れた黒腕には、刃で傷を刻みつけた後、”線を描いた対象を爆破する“という【直線爆破ライン】の条件を満たして爆破処理してゆく。

(これじゃ足りない)

 自身を通り過ぎようとする黒腕の空間座標を把握し、その横腹に【衝撃放射ブラスト】を叩き込む。本来【衝撃放射ブラスト】の運用は、その強大な反動を空中に逃がすことを前提としている。しかし、地上で戦うことを決めたハルミにとって、【衝撃放射ブラスト】の反動はもろにハルミの体内へとダメージを与えてしまうこととなる。肉が張り裂ける。骨が歪に軋む。内臓に衝撃が行き渡る。口から血反吐を吐き散らしながらも、ハルミは地を覆う黒腕を捌いてゆく。

(もっとだ。まだいけるだろ)

 衝撃波を放ちながら、【部分強化ビルド】で手足の膂力を高め、黒腕を殴り飛ばす。蹴り倒す。黒腕からは粘性を帯びた黒い血が噴き出し、ハルミに纏わりく。それは徐々にハルミから体の自由を奪ってゆく。やがて自由が効かなくなったハルミの左腕を、一本の黒腕が掴みかからんとした。これを対処することはできる。しかしそれを行えば、後方が手薄になる。クロハラが張る防護障壁バリアの許容量を超えた黒腕を、みすみす見逃すことになる。

(あともう少しだ。今だけ耐えればいい)

 ハルミは左腕の防御を解くことを選んだ。無防備となったハルミの左腕を、黒腕が掴み取り、力任せに引っ張ると、ハルミの左腕は呆気なく根本から引き千切れた。

(そのために全部使え――ッ)

 血風が飛び散ると同時――奪われたハルミの左腕が閃光を発する。空間が戦慄き、次いで轟音と衝撃が吹き荒れた。それはハルミによる自爆行為だった。

 ハルミは瞬時にして、左腕に“踊る刃”で傷を刻んでいた。そしてその傷を媒体に、【直線爆破ライン】を起動する。自分を守ることよりも、防御を捨てた方がより黒腕を殲滅できると判断した結果であった。

 欠損した左腕に代わり、【金属生成スミス】で義手を作成する。今日、ハルミは同じことをした。刺客と戦い、不要となった自身の四肢を躊躇うことなく切除した。それが最も効率的だと判断した為である。その時のハルミは、何の痛みも感じなかった。湛えた殺意と燃え盛る復讐心で心を酷く麻痺させていたハルミにとって、痛みとは無縁のものであった。

 暗夜戦争末期の亡霊ゴーストに痛覚は不必要だ。彼の者に必要な想念は静かなる憤怒、ただ一つ。

 でも――今は違う。

(熱ぃッ! なんだよこれ! ……死にそうだ……死にたくねえよッ!)

 切り口が焼きごてを押し付けられたように熱い。切り離したはずなのに、左腕の幻痛を脳が訴える。視界がチカチカと点滅し、こみ上げてくる死の予感に恐怖する。

 ハルミに取り憑いていた亡霊は、もう此処には居ない。今此処に居るのは、思春期相応の心を持ち合わせたハルミという人間だけだ。痛みはできれば避けたいものだ。死ぬなんて論外で。戦わずに済むならそれを選ぶ。それでも――自分の惚れた女の子を助けたい。

 一度負け、己の無力を知ったから。【星詠みの魔女】に願いを託されたから。リットと一緒に生きたいと、そう思ってしまったから。ハルミは心を麻痺させることなく、全ての苦痛を受け止めて、死にたくないと叫びながら、生きるために全身全霊を賭している。

 【虚空索引リズ・スキャルフ】、【衝撃放射ブラスト】、【部分強化ビルド】、【金属生成スミス】、【動作付与シフト】、【直線爆破ライン】――。ハルミの持てる全ての力を投じた奮闘も……そろそろ終わりを告げようとしていた。

「ハァ、ハァ、ハァ――」

 数分間、ハルミはたった一人で【罪の海リグル・アビス】から這い出る黒腕の群れに対抗した。全身に刻まれた打撲痕と熱傷がその代償を物語る。体内では骨が数え切れないほど折損し、代わりに【金属生成スミス】で補強しているような状況だ。吐血量から察するに、内臓も幾つか損傷していることだろう。鼓膜が破れて音は途絶え、額から流す血糊が瞳を塗り潰している。 “見えるものをより見る“魔眼の力で、何とか外界を把握できている状況だ。

 そうして一瞬の立ち眩みを覚えた瞬間、黒腕の一つがハルミの右足をもぎ取った。バランスを崩したハルミは、その体勢を立て直すこともできずに、呆気なく地面へと倒れ込む。

「君はここまでだ、ゴースト」

 その攻撃を皮切りにして、無数もの黒腕が後に続く。まるでダムが決壊するかのように、蠢く黒の群れがハルミの頭上を通り過ぎながら、その背後の防護障壁バリアへと殺到してゆく。

 達成感は無い。無力感も無い。ハルミはただ無心に、祈っていた。

(――間に合いましたぜ、旦那)

 頭上をひた走る黒き洪水の隙間から、ハルミは二つの月を垣間見た。十六夜と、満月を。

「完成した。これがあなたの臨む真円」

「ゼンブ持っていきな! 【嘆きの氷樹グレイシアル・グレーター】ッ!」


 ――鐘の音が響き渡るかのように、夜空の奥深くで鳴動が生じた。


 その日、その時、その瞬間、誰もが再び夜空を仰ぎ見ることとなる。

 その光景を例えるならば、夜空に現れた青きバベルの巨塔。あるいは、より鮮明にその光景を目撃した者ならば、巨大な氷柱つららが満月から垂れ落ちるかのように見えたことだろう。

 ――突如として高度数万メートル上空に出現した青き巨塔は、煌めく夜空の星々を引き裂いて静かに滑り落ちる。

 遠近感をまるで無視したかのような氷槍は、その恐るべき速度で以って、あっという間に地上への墜落を果たそうとしていた。

 対して無数の黒腕は、幾つかクロハラの防護障壁バリアを粉砕したところで、その全ての矛先を夜空へと向けた。多重展開された防護障壁バリアを全て貫通しスフィアを獲るよりも、氷槍がディーの下へと落下する速度が早い。

「詰まらない脇役は、舞台から退場願おうか」

 スフィアが齎した渾身の一撃を、ディーは悠然とした微笑みを浮かべて迎え討つ。

 見上げど全貌を見渡すことが叶わない氷槍の、その先端を、幾重にも積み重なる黒腕が受け止める。それは個対全の闘争だった。

 轟音が夜空に響き渡る。まるで亡者の呻き声を束ねたかのような耳を劈く絶叫音が、互いの衝突部から発せられる。

 絶対的な質量と速度を兼ね備えた氷の槍に対するは、地獄の底たる【罪の海リグル・アビス】から這い寄る黒腕の群れ。例えその一本一本が幾つ消し飛ばされようと、果てが無いように湧き出る黒腕が加勢する。氷槍の速度は少しずつではあるが、確実にその勢いを落としてゆく。

「……うそ、だろ……」

 ――そしてついに、ディーの上空で氷槍は完全静止した。

 失速した氷槍を、黒腕たちが貪るように食らい付いてゆく。やがてハルミたちの眼前で、氷槍は粉々に砕け散った。宙空に散乱する破片は、溶け消えるかのように虚空へと散る。

「確かに、満月を底面とした【嘆きの氷樹グレイシアル・グレーター】は、ボクにとって驚異足りうる――けれども、分かっていたさ。ボクが一撃目ならば防げることも、君に二撃目が撃てないこともね」

 “見えないものを見る”青き魔眼【虚空索引リズ・スキャルフ】を左眼に宿すディーは、【世界の記憶レコード】を通じてそれらの情報を把握していた。故に、これは必然の結末である。

 絶望に侵されゆくハルミ、リット、クロハラ――その面々に、スフィアは居ない。

「――あははっ」

 スフィアの笑い声は、絶望から生じたものではない。

 意図せずして正解を見つけたがゆえの、呆気なさから来る乾いた笑みだ。

「……なにがおかしい?」

「どうせアンタなら、これからアタシがどうするのかわかっているんでしょ?」

「あぁ――気でも触れたかね?」

 これよりスフィアの取る愚行とも呼べるその行動を、確かにディーは見切っていた。だが彼女がなぜその行動を取るのか、理由までは分からない。――何故ならそれはハルミに直結する情報であるからだ。そしてハルミに関する情報は【世界の記憶レコード】に記録されない。

「夢も叶って、少しの間だけれど、楽しい時間を過ごせたの。だから、とっても満足よ」

「……スフィア?」

「いったい、何を……」

 だからだろうか。ディーは勿論、リットもクロハラもスフィアの意図が分からない中、

「――やめろ! スフィアッ!!」

 ハルミだけが、彼女の覚悟に気づくことができたのは。


「――負けたら承知しないわよ!」


 そう言ってスフィアは、自身の異能【嘆きの氷樹グレイシアル・グレーター】を起動した。

 今のスフィアに、ディーをして驚異と言わしめた“あの一撃”を放つ余力は、残っていない。故に氷槍は、満月からではなく、スフィアの近くを滞空する浮遊球体から生じた。

 ディーは動じなかった。その氷槍の矛先が、自身に向いていないと分かっていたからだ。

「愚かな」

 ディーの侮蔑を込めた眼光がスフィアに向けられるも、しかし彼女は、そんなものには構うことなく、最後に優しげな微笑みをハルミへと向けて、

 ――なんでアンタが、泣きそうな顔してるのよ。

 己の胸部めがけて、氷槍を放った。

 グサリ、と。恐ろしいほど呆気なく、氷槍は彼女の胸を深く穿った。

 心臓を貫かれたスフィアは、一瞬だけ痙攣したあと、大きく体勢を崩す。

「待って……! スフィア! 置いていかないで……!!」

 地面へと倒れ伏す前に、リットが抱き止めた。押し付けた頬に、涙と血が等しく流れる。

 その姿を見て、ディーの笑みが愉悦によって深く歪んだ。

「前々からどうにも知能が低い駒だと思っていたが、まさかここまでとは。ふふふふふっ、何も為せない、哀れな脇役に相応しい無駄死にだ」

「……無駄、なんかじゃない……」

 ハルミは死に体の躰に鞭を打ち、ゆっくりと立ち上がる。

「おお、すっかり忘れていたよ。後回しにしてすまないね、ゴースト。自殺して戦いから逃げ果せた誰かさんとは違って、君は最後まで、ボクの相手をしてくれるんだろうね?」

「違う……お前の相手は、俺だけじゃない――なあ、そうだろ! 【嘆きの氷樹スフィア】ッ!」


 ――瞬間、遥か上空に、凍えんばかりの冷気が集約する。

 その異能を行使したのは、スフィアではない。しかし同様に、その現象は引き起こされた。満月を底面とした巨大な氷の槍が夜空に生まれ――そして急速に、墜落を開始する。

「な、に――ッ!?」

 事態を把握したディーは、【罪の海リグル・アビス】から呼び出した無数の黒腕で防御を図る。しかし、防御する前からディーは知っていた。【災厄指定レッド】クラスの威力を誇るその二撃めを、【罪の海リグル・アビス】で防ぐことはできないと。事実その通り、氷槍の速度を完全に落としきることは叶わず、途方もない轟音を立てて、高架橋にその先端が突き刺さった。

 その瞬間に威力を失った氷槍は、前回と同様、空間に溶け消えてしまう。

 しかし前回と違い、ディーに拭いきれないダメージを与えることには成功した。

 壊れた高架橋の上で、ディーは血塗れとなってひれ伏す。黒腕の防御を貫通した所為で、その姿はボロ布のようにやつれている。割れた単眼鏡モノクルの奥、青い左眼でハルミを見上げた。

「――なぜ貴様が、その異能を……」

「……」

 ディーの問いに、ハルミが答えることはなかった。ただ自身の内側に、確かなスフィアの存在を感じ取っていた。ハルミの頬を、血に混じり、一筋の涙滴が零れ落ちる。

 最初は殺そうとした相手なのに。なし崩しで仲間に入れただけなのに。それが、僅かな日常を経て、身を粉にして献身するスフィアの姿を見て――ハルミは、絆されていたのだ。

 ……このような所業を可能たらしめたのは、ハルミが持つ異能【愚者の天秤ウロボロス・ロウ】によるものだ。それはシグナルと生前に契約を交わすことで、死後にそのシグナルの異能を引き継ぐ。この力によって、スフィアから引き継がれた【嘆きの氷樹グレイシアル・グレーター】を、ハルミが行使した。

 それは、命のバトンとも言うべきものだった。覚悟を決めてスフィアが差し出したそれを、ハルミは確かに受け取った。ならば、するべきことは一つだけ。

 ――戦いの幕を、ここで下ろす。

「もう一度応えてくれ、【嘆きの氷樹スフィア】」

 ハルミの静かな懇願に呼応するかのように、夜空に鳴動が響き渡る。

 ――そして地上を、巨大な影が覆い尽くす。

「罪人達よ! 余すことなくボクを守れッ!」

 ディーの表情から微笑みが消し飛んだ。限界を超えて【罪の海リグル・アビス】の力を引き出そうとする。反動でその身が無限の黒に蝕まれようとも、ディーはただ一心に生存へと手を伸ばす。

「ボクにはまだ知るべきことがあるのだ! 貴様ら如きに阻まれてなるものかァ!」

 その魂の叫びに共鳴した黒腕たちが、氷槍を受け止めんと上空へと手を伸ばす。

「こんなところでッ――」

 けれども、ディーは知っていた。自身を襲うその三撃めを防ぐことは不可能であると。

 氷槍の先端は幾重もの黒腕を削り飛ばし、その先端がディーへと到達する。

「――終わるはずが――」

 己を守る全ての黒腕を消し飛ばされたディーは、生への願望を表すかのように、自身の両腕を天へと掲げた。氷槍は、そんな行為を全て無に帰すかのようにディーを飲み込んだ。

 氷槍は呆気なく高架橋を貫通し、眼下の海面へと着水する。

 巻き上がる莫大な水飛沫と、吹き荒ぶ衝撃波の嵐。

 奇しくもそれは、この一連の事件の始まりである昨晩と、全く同じ光景であった。

 違うところがあるとすれば、浮かぶ月は二つで、今宵は星空が瞬き、

「……ティア、スフィア……終わったよ」

 ハルミの両眼が、等しく青の輝きを湛えていた。



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