第二章「終夜に続く宴 / Hunting of the Ghost」

 とあるマンションの一室にて。

「……とりあえず尋問するか」

 腕を組んだハルミが何でもないような気軽さで言い放つと――両手両足を鉄枷で戒められたスフィアは顔面を蒼白にさせた。スフィアは芋虫のようにフローリングを這うと、部屋の中央で何故か正座しているリットの背に隠れようとした。

 しかしながら、発育が行き届いていない小柄なリットとは正反対に、スフィアはモデル顔向けのプロポーションを誇っている。全く隠れきれていない。

「そんなことしなくても全部話すって言ってるでしょ! もう元居た組織は裏切ったし、未練だって何もないんだから! 今のアタシは何でもペラペラ自白するカナリアよ!」

「……ほう、だったらお前さんはさぞかしいい声で鳴いてくれるだろうな。なあ旦那。この無駄にでかい脂肪の塊とか、随分といたぶり甲斐があるんじゃないですかい?」

 クロハラがスフィアの胸部を揶揄して、ドスの利いた声で脅しかけている。ちなみにクロハラは現在、リットの手の平に生成されるひまわりの種を、酒のツマミのようにボリボリと齧っている最中である。

「何言ってんのよこの肥満中年エロネズミ!」

「旦那! 遠慮はいらねえ! このアマ揉み殺せ!」

 ハルミの健全な成長を見守ると宣った口はどこへやら、気が立ったクロハラは即座にハルミをけしかける。ハルミは小さく頷いた。

「体は正直だからな」

「……旦那、マジですか?」

「え、嘘、本気? アタシまだ――」

 ハルミが両手を開き、冷酷な眼差しをスフィアへと向けたその時。

「――待って、ハルミ」

 正座のまま無言を保っていたリットが、小さな一声を差し込んだ。

 たったそれだけで、ハルミの険しい顔つきがあっけなく崩れた。まるで親に叱られた子どものように、ばつの悪そうな表情を浮かべてしまう。心を深く閉ざし、情を捨て、冷酷であろうとしているはずなのに、余計な感情が邪魔をする。

 真っ直ぐに向けられたリットの赤い瞳を見ると、ハルミの心臓が早鐘を打った。

「……っ」

 そんなリットが、ハルミに何かを言おうとしている。ハルミはそれを無視することはできない。リットに命運を握られているスフィアもそうだ。両者は固唾を飲んで見守り――

「……足が、痺れた。動けない」

 ハルミとスフィアの首が、勢い良くガクンと傾いた。

 リットは顔つきにこそ感情を表さないが、折りたたんだ両足をプルプルと震わせる様がその辛さを物語る。

「なんで正座してるのよ」

「日本人は常にこの姿勢を保ち、和の心を養うという。それはTHE 禅」

「若干ニュアンスを間違えている気がするんだが」

「もうだめ。【世界の記憶レコード】へと接続――索引対象“足の痺れ”“その対処法”」

「なんちゅう力の使い方を……」

 リットが目を閉じたのも束の間、再び目を見開くと、一目散にハルミを見やる。よほど堪えているのだろうか、リットは思考の過程をすっ飛ばし、結論だけを述べる。痺れのせいか、顎を上へと向けて、どこか扇情的な表情を浮かべて、

「揉んで」

「どこを!?」

「足でしょ」

 先程の会話もあってか狼狽えるハルミに、スフィアが半眼になって突っ込む。

「……お願い、ハルミ」

 足の痺れからか、真紅の瞳に涙を讃えて上目遣いを送るリット。ハルミに抗うことなどできるはずもなかった。

「わかった」

 ハルミはおそるおそるといった様子で、リットの折りたたまれた足へと手を伸ばす。か細くて、しかし確かな肉付きを感じさせる片足を握ると、ゆっくりと揉み始めた。

「――んっ」

 痺れた足に振動が伝わったのか、リットが切なげに吐息を漏らす。ハルミはおっかなびっくり手を離すが、リットが逃さないように催促する。

「はやく……」

「お、おう」

 ハルミは自身の頬が紅潮する気配を感じながらも、黙々とリットの太ももを揉みしだく。

「こうか?」

「うん、気持ちいい」

「あのー、なーに二人の世界入っちゃってるんですかねー」

 つい先程貞操の危機に瀕したスフィアは、ハルミのあまりの対応の違いに若干不貞腐れているようだ。抗議しようにも身動きすら取れず、完全に蚊帳の外だった。

「本当に、いったい何をやってるんだか……」

 この時ばかりは、クロハラもスフィアに同意見だった、

 これは争いの間に訪れた束の間の休息――経緯は昨夜に由来する。


 +++++


 ――穴だらけになったスフィアの肉体が元通りになってゆく。光の粒子がスフィアの傷口に入り込み、血肉へと生まれ変わる。そのような奇跡的な光景を――リットがスフィアを治癒する姿を、ハルミはただ呆然と眺めていた。

 そうしているうちに、スフィアは完治したようだ。丘の上に寝転がったまま、元通りになった手で顔を覆う。スフィアが隠そうとした表情は、くつくつと堪えきれないような――微笑みだ。どういうことか、敵意を捨て去り、年相応の少女のようにはにかんでいる。

「……いいよ、アタシはリットちゃん側に付く。アンタが――ハルミって名前だっけ? ――言ってた異能の契約とやらにもこの場で合意する。アンタがアタシをどう使おうが、アタシはそれを受け入れる」

 ハルミとクロハラは、スフィアの変容に驚いていた。それは、ハルミの異能に由来する。

 ――俺はシグナルと生前に契約を交わすことで、死後にそのシグナルの異能を引き継ぐことができる……それが俺の持つ力だ――

 ハルミが持つこの【契約】の力は、双方の合意無くしては成立し得ないものだ。故に、先程スフィアがハルミの契約を断った時点で、この話は無かったことになる筈であった。

 しかしながら、たった今ハルミとスフィアとの間に目に見えない“小径パス”が繋がり、確かなる【契約】が結ばれた。……つまり、スフィアの心変わりを示す何よりの証左である。

「さっきまで切った張ったをしておいて、お前さんのその心変わりはいったいなんだい?」

「アタシのたった一つの願い――“星空をまた見てみたい”って夢を、リットちゃんは叶えてくれるかもしれない……だったらアタシは、なんだってするよ」

 スフィアは晴れ晴れとした笑みを、ハルミは嘘だと断じることはできなかった。

「これがわたしとスフィア(ナフィーサ)との契約。ナフィーサはわたしの仲間となる」

「ええ、アタシは今からリットちゃんの駒になるわ。信用してもらえるか分からないけど」

「大丈夫。願いを叶えたいナフィーサが、願いに繋がるわたしを害するする理由はない」

「それはそうだけど……えっと、ナフィーサって呼ぶのやめてくれない?」

「いいえ、これはあなたの本当の名前」

「だから捨てたの。アタシには、もう要らないから」

「……わかった、スフィア」

「ありがと、リットちゃん」

 そのようなやり取りを、ハルミは呆然と眺めていた。ハルミとスフィアの命のやり取りなど存在しなかったかのように、二人はすんなりと語らっている。守るべき者と殺すべき敵が同在していることは、ハルミにとって度し難いものである――はずだった。

「旦那、どうしたってんで?」

「……」

 心配そうなクロハラの問いかけに、ハルミは答えることができない。

 つい先程まで濃厚に立ち込めていた、あの鋭い殺気はどこにいったのだろうか。

 ハルミの理性は眼前の敵、スフィアを殺せと叫んでいる。そのような都合のいい改心があるものか、信用の根拠はどこにある。不確定要素を味方にすることなどできやしない。

 しかし、ハルミの本能がそれに否を訴えかける。殺意を鈍らせ、スフィアへ向けたその手を留め置く。心なしか能面のように酷く無表情だった顔つきが、元へと戻っている。

「ハルミ、スフィアのことは問題ない。きっと味方になりうる人――だから、殺さないで」

「…………ああ」

 リットの願いに、ハルミは是と答えてしまった。自分が狙われているにも関わらず、何の見返りもないのに、スフィアの命を救ったリットの言葉が、行動が、その思いが、ハルミの心を揺り動かしたからである。もはやハルミは、リットの願いを無碍にはできない。

 リットを初めて目にした時からだ。高度数万メートルの夜空を滑り落ちながらも、毅然と地上を見下ろす少女の瞳を――地上に居たハルミが、【虚空索引リズ・スキャルフ】の右眼で覗き込んでしまった時、どうしようもなく胸を焦がされた。そしてハルミにとっての恋心は、リットがスフィアを助けたあの瞬間に、決定的なものとなった。

 自身の危険を省みず、見返りもなく、救いの手を差し伸べるその姿勢。姿形は違えど、かつてハルミが恋をした青い瞳の彼女――【星詠みの魔女】と、面影を重ねてしまうのだ。

「……それでいいの? 言っとくけどアタシ、さっきまでアンタを殺そうとしてたのよ?」

「別にお前に気を許したわけじゃない……必要最低限の担保は取らせてもらうぞ」

「アタシは構わないよ。一度は殺されたようなものだから」

「――【愚者の天秤ウロボロス・ロウ】」

 ハルミは間髪入れずに呟くと、地面に蹲るスフィアの首を右手で鷲掴みにした。

「ひっ!」

「ハルミ」

 小さな悲鳴をあげるスフィアと、それを止めようとするリット。クロハラが割って入る。

「嬢ちゃん、安心してくだせえ。これは旦那のもう一つの【契約】ですぜ」

 覚悟はできているといったスフィアであるが、死という本能的な恐怖に対して抗うことなどできない。そのまま絞め殺されると思ったのか、ギュッと目を閉じている。

「こっちを見ろ。別に殺したりはしない――お前次第ではあるけどな」

「……なによこれ」

 目を見開いたスフィアはハルミの右腕を――そこにぐるぐると巻き付いている蛇を見た。

「これが今からお前の中に入る」

「こんなの突っ込まれたら死んじゃうんだけど」

「この蛇は俺とお前だけに見える概念的な存在だ。噛まれても痛みすら感じない――ただし、お前が【契約】を破った時、この蛇はお前の体内で具現化し、即座に心臓を食い破る」

「……ああ、そういうチカラってわけね。いったい幾つの異能を持ってるのよ」

 シグナルとしてのハルミの異常性に、心底引いた笑みを浮かべるスフィア。己が何をすべきか悟ったのか、ハルミに促されるまでもなく、スフィアは約束を契った。

「アタシはアンタらに一切の危害を加えないし、また危害を誘発し得る行動も取らない。また、アンタらの試みに対して全面的に協力する――これでいい?」

 スフィアの首へと噛みついた蛇が体内へと吸い込まれていく光景を、ハルミは見届けた。

 敵を殺さないで、生かす。ハルミにとっては予期せぬことであるが、決して状況に流されてしまったという訳ではない。リットの毅然とした意思が、ハルミにそう決定させたのだ。この選択が良いか悪いかなど分からない。確かめる術はない。前に、進むしか無い。

 ハルミはスフィアへと手を伸ばす。また何かをされると思ったのか、スフィアはビクリと肩を震わせる。しかし、ハルミの手はスフィアに届く前に静止した。

「……立てよ、ほら」

「あ、ありがと」

 恐る恐る差し伸べられたスフィアの手を、ハルミは遠慮なく引き上げる。予想外に温かな感触がハルミに伝わった。それが、彼女も同じ人間だということをハルミに感じさせた。

「……しっかし、これには驚くほかないですな。そこのあんさんの心変わりに加えて、旦那まで殺意の臭いが消えちまった」

『あの“亡霊ゴースト”が敵を殺さずに生かす……なんて興味深いのかしら』

「嬢ちゃんが、二人を変えちまったんだ……こりゃあ、とんでもないのを拾いましたな」

『ならばワタクシも、少しばかりは助力してあげないこともないわ』

「――いやいやアンタ誰よ!?」

 突如現れては当たり前のようにクロハラと話す声に、スフィアは辺りを見渡した。

 ――ハルミに撃ち落とされた浮遊球体から、ジジジジというノイズと共に甲高い音声が流れている。おそらくハルミが撃ち漏らしたものであろう。そして訝しげに浮遊球体を見やるスフィアの反応を見る限り、通信相手がスフィアの仲間ではないということは明白だ。

「覗き見か……趣味が悪いぞ」

『あらあら、言い方っってものがあるでしょう? むしろ感謝してくださいませ。ワタクシがこの機械――浮遊球体というのかしら――の制御権を奪ってなければ、先程のやり取りは全てお相手様に筒抜けでしたもの……全く、“亡霊ゴースト”ともあろうお方が衰えましたわね』

「だからアンタいったい誰よ」

『申し遅れましたわ。ワタクシのことは“電子海路の案内人ヴァンダル”とだけ言っておきますわ』

「あなたはハルミにとっての何?」

『ワタクシは何者でもありません。ご安心くださいませ、フロイライン。先の大戦では、ゴースト――そこのゴーストとよくお取り引きさせて頂きましたの』

「……で、何をしてるんだ」

 ハルミは浮遊球体越しに向かって話す。心なしか言葉から険が取れているようだ。

『ワタクシのセリフですわね。クロハラさんが嘆願するものだから、最後のサービスとして、【災厄指定レッドシグナル】である貴方が普通の生活を過ごせるよう戸籍に住民票にパスポートにと誂えてあげましたのに……それが今では追われる身。ワタクシの苦労を返してくださる?』

「わしゃいつかこうなると薄々思ってましたがな」

「ヴァンダルとクロハラには、本当に申し訳ないことをしたと思っている。……でも、これは俺が決めたことだから、もう迷惑は掛けないつもりだ」

『あら、言う言葉が違うくて?』

「旦那、ここは逆だろうに……」

『どう考えてもきな臭い事件に自分から首を突っ込み、どう見ても【災厄指定レッド】シグナルの女の子を後先考えずに助けて、連合側の相手にたった一人で喧嘩を売って、どうやって逃げ切るかも考えているなんて、流石はゴースト。ちっとも衰えていないものね』

「すいません助けてくださいお願いします!」

『この貸しは高く付きましてよ』

 ハルミの懇願にヴァンダルは――暗夜戦争当時、かつてハルミと同じくレジスタンスの一員であった共犯者は、快く返事を返した。

「……何だろ、あんなに強かったアイツが急に弱く見えるわ」

「人の二面性は興味深い」

「とりあえず足が必要だな。嬢ちゃん、車って作れるか?」

「何簡単にとんでもないこと言ってるのよ」

「わかった……ハルミ、聞いて」

 振り返ると、リットはハルミへと小さな手を突き出す。

 その背後には、星の消えた真っ黒な夜。

「わたしは、この世界のことをもっと知りたい。色んな国に行って、色んな景色を見て、色んな人と出会いたい。だからハルミ、わたしをどこでもない場所に連れて行って」

「‥…ああ」

 ハルミは差し出されたリットの手を、少しだけ躊躇いながらも、確かに握り返した。


 +++++


 あっという間の逃走劇だった。

 自動車で整備されていない道を突き抜けたかと思えば、それを乗り捨てて下水道をひたすらに突き進む。不眠不休で道なき道を踏破して、やっとの思いで辿り着いたこのマンションの一室で、ハルミたちは泥のように眠った。そうして、一夜が過ぎ去って、今に至るというわけだ。

「ハルミ、傷はどうしたの? 私の力では、治せなかった、のに……」

「昨日戦った時のか? ああ、俺の異能の一つに、“肉体を部分的に強化する”というのがあるんだ。それで、傷回りの自然治癒力を強化した」

「アンタほんっとに何でもアリなのね……」

「あともう一つ、ヴァンダルはどこ?」

「あいつは昔からすぐ居なくなるよ。仕事をする時しか、顔を出さないタイプなんだよな」

「まあ、何の気まぐれか昨夜は助けてくれやしたがね……さてさて仕切り直しだ。まずは何をすべきかって話ですぜ」

 リットの手の平でくつろぐクロハラは、ひまわりの種を肴に突付きながら切り出した。

「太るぞクロハラ」

「どこかの誰かさんのやんちゃで相当溜まってるんでな。こうでもしないとやってられないってもんですぜ」

 そう言われたら、ハルミは言い返すことができない。

「大丈夫。味はそのままに、カロリーは控えめにしている」

「え、なになに――ブフッ! まっず!」

 スフィアが噴き出したひまわりの種を、クロハラはつい目で追う。

「もったいねえ!」

「リット……スフィアを躾けてやってくれ」

「心得た。わたしが拾ったからには、最後まで面倒を見る」

「アタシは捨て猫かっての……」

 苦笑いを浮かべるスフィアに、リットの手が突き出される。その中にあるものは同じくひまわりの種であるが、どうやら芳しい香りが漂っている。

「あ、これ美味しい」

「メープルとシナモンで味付けした。こうすればお菓子としても食用可能」

「ちと甘ったるいがこれもオツなものですな」

 リットは手からひょいひょいとひまわりの種を口の中に運ぶスフィア。ご覧の通り、現在スフィアの拘束は解かれている。【愚者の天秤ウロボロス・ロウ】による【契約】が機能している以上、拘束は不必要だ……そうリットに諭されたため、しぶしぶハルミは戒めを解いたわけである。

「……」

 ハルミは呆れながら目の前の状況を見やった。正座をやめて、ぺたんと太ももを床につけて座るリット。無限にひまわりの種が生み出される手の平に居座るクロハラ。リットの横で足を投げ出してけらけらと笑うスフィア。そして、ヴァンダルはハルミに隠れ家であるマンションへの逃走経路を教えると、去り際に不穏な一言を残して音信不通となった。

 ――一応ここに至るまでの電子的な足取りは抹消しておいたわ。ただし、相手が相手だけに、いつまでも持つとは思わないでちょうだい。

 ヴァンダルの言う通り、ずっとここに留まるというわけにはいかないのだ。故に、これからの行動指針を早急に定める必要があるのだが――

「ハルミもどうぞ」

「お、けっこう癖になるな――じゃなくて! どうしてこんなに寛げるんだよ!」

「旦那と二人で過ごしていたが、こうやって騒がしい空気に身を置くのも新鮮ですな」

「リットちゃんおかわり!」

「食べ過ぎは体によくない。あとはこれだけ」

 クロハラは既に絆されており、スフィアとリットに至ってはまるで友達同士のような距離感である。リットを守るためにスフィアと戦ったハルミとしては、その落差にもやもやとした感情を抱えるハメになる。

「旦那、嫉妬はよくねえですぜ」

「嫉妬じゃねえよ! このままじゃ話が進まないし……とりあえず尋問するか」

「八つ当たりしてるじゃねえか!」

「話戻ってない!? アタシ別にそういう趣味ないから!」

「ハルミ、スフィアをいじめないで」

 リットにそう言われれば、ハルミはこれ以上スフィアに突っかかることはできない。ただし、スフィアに用があるのは本当のことだった。

「真面目な話をするぞ……お前にしかできないことはなんだと思う?」

 生かされた意味を証明するべきだと、ハルミは鋭い目つきでスフィアを見つめる。

 ハルミの中で答えは決まっている。それは今すぐに、裏切った組織の情報を洗いざらい吐くことだ。全知に近しいリットなら知っているのかもしれないが、実際にその場に居た人物の口から聞けるに越したことはない。しかしスフィアの提案は想像の斜め上を行った。

「えーっと、リットちゃんをお風呂に入れること?」

「は……え?」

「なんたってリットちゃん、生まれてから一度もお風呂に入ったことないんだよね」

 スフィアがあまりにも自然に言うものだから、ハルミは呆気に取られていた。そしてそれがどういう意味かを聞き直そうとする前に、他でもないリットが肯定した。

「それは正しい。わたしはこれまでの生涯を光一つない培養槽で過ごしてきた。しかし液体に浸かっているという点において、わたしの一五年間はお風呂生活だったとも言える」

「自分で言ってて悲しくならないですかい?」

 リットが何でもないように言う言葉に、ハルミは愕然とした。何らかの事情を抱えていることは分かっていたが、それが想像以上に深いものであると思い知らされたのだ。

 リットの髪や肌の白さ、瞳の赤さは、一切の光に当たらないが故に、色素が欠け落ちたことに由来する。その身体的特徴は、何も見えない暗闇の中で長年を過ごしてきた証だった。

「でもな、うーん……」

「いいじゃん別に風呂ぐらい。リットちゃんけっこう臭うよ」

「リットはいい匂いだろうが!」

「キレるところが間違ってますな」

「褒められたのに嬉しさを感じない」

 ただでさえ睡眠によって貴重な時間を失ってしまったのに、この差し迫った現状で風呂に費やしている暇があるのか。……しかしそもそも、だ。ハルミはいったい誰のために戦い、誰のためにここまで逃げてきたのか――自ずと答えは決まっていた。

「よし、スフィアはリットを風呂に入れてくれ――ただしクロハラも一緒だ!」

「なんでわしなんだ!?」

「わたしは別に構わない」

「じゃあその方向で」

「待て待て待てなぜ話が進む! わしゃ男ですぜ!」

「アンタ雄でしょ」

「はったおすぞ乳アマ! ともかくわしゃ絶対お断りですからな!」

「考えてみてくれ。もし誰かが襲ってきたら、こいつだけでリットを守れる保証がない」

「馬鹿にしないでくれる!? アンタには負けたけど、これでもそこそこ強いのよ!」

「……分かった。ならばハルミが一緒に入る?」

「あ、すいません無理です」

「声ちっさ」


 +++++


「ハルミとクロハラは結局何がしたかった?」

「リットちゃん意外と毒舌よね。まあ男には色々あるんでしょ多分」

 湯気の沸き立つバスルームにて、二つの人影があった。

 桶にちょこんと座る小さな人影と、その背後に膝立ちで佇む人影。

「しっかし長いわね」

「生まれてから、そのまま」

「そりゃそうか……痒いとことかない?」

「……ここ? うん、そこ、なんだか気持ちがいい」

「はいはい」

 スフィアがリットの髪を洗っているのである。

 まずスフィアは、自分の体を洗ったことがないリットに、丁寧な指導を施した。おっかなびっくりの慣れない手つきでタオルを扱うリットを、決して急かすこと無く見守った。

 そして洗髪の段に差し掛かって、スフィアが手を貸したのだ。

「……しかし、こんなにすんなりと要求が通っちゃうなんてアタシびっくりよ。捕虜の実感忘れちゃうわね」

「いいえ、スフィアは仲間。仲間には公平に接するべき」

「あーあ、リットちゃんお人好しすぎて将来が心配だわ……」

 どこか眉を顰めて苦笑いを浮かべるスフィアの表情を、リットは鏡越しに捉えた。

「それは“苦虫を噛み潰したような顔”、不満や不快を示す言外の表現……わたしのせい?」

「これは自分に対してよ……あのさ、これでもアタシは【暗夜戦争】でそれなりに悪いことしてきたつもりなの」

「知っている」

 リットは当然のように相槌を打つ。

「まあ、そんなアタシが救われようだなんてこれっぽっちも思っちゃいなかった。あいつに殺されるのだって当然の報い。なのにこうして生きていて、良くしてくれて……なんだか嫌な気分になってしまうわ。嬉しくて、だから嬉しくない、みたいな?」

「意味がわからない」

「アタシみたいな悪人に、過剰な幸福は毒ってものよ。そんなだから、アイツに敵意剥き出しで扱われると逆に安心するのよね」

「……スフィアはマゾヒスト?」

「違うわよ!」

 幸福でいることに嫌悪を感じ、ハルミのぞんざいな態度に救われる。そのようにあべこべなスフィアの心情をリットは想像してみようとしたが、全く考えが及ばない。たとえ感情の種類を知っていても、その身で体感したことがなければ、知識は暗雲が掛かったかのように茫洋としたものとなる。リットには分からない感情だらけだった。

 ハルミだってそうだ。なぜリットを救ってくれたのか。なぜこうも自分に尽くしてくれるのか。そしてなぜ――そのように優しいハルミが、あんなにも冷酷な表情を見せるのか。

 この話はやめやめとでも言うように、スフィアはリットの洗髪を終える。髪を手早く纏めると、リットをお湯の張った浴槽へと促した。

 リットはつま先をお湯へと触れさせる。じんわりとした温かさが、足から体へと流れ込んでいくような感慨を覚えた。はてさて、この温かさをもっと感じたいと思ったのか。

 ざぷん、とリットは勢い良く飛び込んだ。

「……これが、いい気持ち?」

 澄み切ったお湯の中で、リットはちょこんと膝を丸めて首を傾げる。

 浴槽の水温は、昨日までリットが沈められていた培養槽と同じくらいだろう。それなのに、こうも何かが満たされたように感じてしまうのは、どうしてなのだろうか。また一つ、リットに分からないことが増えた。

「もう、濡れるわよ」

 リットの後ろを陣取ったスフィアが、苦笑いを浮かべてリットの髪を結い直す。

「リットちゃんを見てると、なんだか妹を思い出すわ……元気にしてるかしら?」

 おそらくスフィアは、独り言のつもりでそう言ったのだろう。

「“イゼル・ランティーエ”。砂漠において羊の遊牧に従事し、同じ集落の青年と結婚して、その身に赤子を孕んでいる。現地の生活水準に照らし合わせても不足はない」

 スフィアは眉根を寄せて黙り込む。リットが述べた言葉の意味を計り兼ねていたのか。

「……ああ、あっちじゃもうそんな年か。幸せにやってるなら、それでいいわ」

 スフィアに意味を考える必要などなかったのだ。【世界の記憶レコード】の閲覧権を有するリットの言葉は、その全てが疑うことのない真実なのだから。

「……あのさ、あの時リットちゃんは、どうしてアタシを助けてくれたの?」

「それは――」

 リットは追憶する。【世界の記憶レコード】を辿り、知識を元にして脳内に情景を構築した。


 “スフィアの故郷は、一面が砂漠に覆われた国だった。不毛の土地故か、誰もが清貧な暮らしを送っている。そのような国で生まれたスフィアは、子どもであろうと労働者の一つとして数えられていた。羊の世話や井戸汲みに追われる生活の中で、スフィアの数少ない趣味と言えば、星空を見ることだ。

 ――ちょうどその時、その瞬間、スフィアは砂漠の夜風に煽られながら星空を見ていた。スフィアにとっての全てが消えた、幼き日の情景。まるで世界が真っ暗なカーテンに覆われたかのように、一斉に星明りが消えていく光景を。そこに抱いた途方もない喪失感を。散りばめられた宝石の夜空は、何の前触れもなく、たった一色の黒で塗りたくられていった。

 スフィアは幼き頃に焼き付いた満天の原風景を、もう一度見てみたいだけなのだ。その掛け替えのない夢のためなら、自分がどうなってもいいとすら思えるほどに“


 記憶の再生が途切れる。そしてリットは思いを起こす。

 目の前で誰かが死ぬのは嫌だ、という気持ちを抱えたことは確かだ。

 けれども、実際の思いはもっと能動的で強固なものだった。

 そんなことを、今はもうここにはいないあの人が気づかせてくれたのだ。


 ――いい、リット? 大切なのは、何をすべきかを自分で考えることなの。


 リットの答えは簡単だった。奇しくもそれは、ハルミと同じ答えだった。

「――助けたいと、そう思ったから」


 +++++


 一方その頃、残されたハルミたちはと言えば、

「どうしたもんだか……」

「やっこさんのことで、まだ迷ってますな」

 リットを助けるのは大前提だ。その為に力が必要ならば、何だってするつもりだ。

 それでも……スフィアに関しては、どうしても心にしこりが残ってしまう。【愚者の天秤ウロボロス・ロウ】を施して契約した手前、もう手に掛けようとは思わないものの、仲間であるという事実に対して未だに踏ん切りが付かないでいる。なぜならかつて、ハルミはレジスタンス側の人間で、スフィアはそれに敵対する世界連合側の人間だったのだから。

「どうしても、昔のことを思い出してしまうんだ」

「……レジスタンス(わしら)のリーダー、【星詠みの魔女】が討伐されてからのことですかい?」

 それは三年前に終戦した、かの暗夜戦争の記憶である。

 有象無象の集まりであるレジスタンス勢力が、数のかけ離れた世界連合と述べ一〇年数もの間均衡を保っていたのは、絶大な未来予知能力を誇る【星詠みの魔女】が常に先手を打ち、その場その時において最適解とも呼べる作戦行動を取っていたからに他ならない。

 故に、戦略の中枢たる彼女が討たれたならば、連合の圧倒的物量を前に、為す術もなく敗走していくのは必然であった。

 【星詠みの魔女】討伐から暗夜戦争終結までの間に、世界連合によるレジスタンス勢力の残党狩りが行われた。その戦場は惨禍を極め、俗に“末期”と呼ばれたのであった。

「ちょうど三年前になりますな……確かに、やっこさんは連合あっち側のシグナルだった」

「もしスフィアが、俺の知る誰かを殺していたとしたら……スフィアを許せる自信がない」

「わしゃ、もう過去はどうだっていいですがな」

「……クロハラは、なんとも思わないのか」

 ハルミの言った言葉は、同じくクロハラにも当てはまることだ。

「ただでさえこんなナリだ、人間臭いしがらみなんて持ってて何の得にもなりゃしねえ……何も旦那の哲学を否定するつもりはないですぜ。それでも、今生きている者に何が出来るのか、何をしたいのか。未来について考える方が建設的ではありますな」

 枯れきったように語るクロハラは、ハルミの肩をよじ登ると、まるで慰めるかのようにその小さな手でぽんぽんと肩を叩いた。

「何をしたいのか……」

 誰の為に安寧を捨て、誰の為に命がけでここまで来たのか。その為に、誰が必要なのか。

「仕方がねえから言いますぜ……旦那が抱く過去への気持ちは、未来に向かう気持ちよりも強いものなんですかい? だったらやっこさんを殺して、嬢ちゃんを囮にすればいい。わしゃどこまでも旦那の選択に従いやす。そうすればこの自堕落で平和だった三年間、旦那がずっと押し隠していた願い――世界連合への復讐が叶うかもしれませんな」


 +++++

 

「へえ、これがコーヒー牛乳ってやつなのね。なんで缶や紙パックじゃなくて瓶なの?」

「それはいわゆるお約束。日本人は古き文化を風習に残して形骸化を防ぐ。飲み方はこう、腰に手を当てて一気に――げほっ、げほっ!」

「嬢ちゃんにはちと早かったですな」

「違う、未知なる味覚に驚いただけ……ハルミはなぜ、正座をして壁と向き合っている?」

「これからどうするべきか考えごとをしている」

「べっぴんさん方の湯上がり姿に上がっているだけですぜ」

「へえ、アンタそういうのに弱いのね。じゃあほれほれ~、これ飲んでみる~?」

 風呂上がりの湯気を漂わすスフィアがしたり顔でハルミのそばにしゃがみ込むと、飲みかけのコーヒー牛乳を差し出す。ハルミのリアクションを期待するかのような意地の悪い笑みは、自らの身体付きにある程度の自覚があるからであろう。

 しかしハルミは迷うことなくスフィアを振り返り、ひょいとコーヒー牛乳を手に取る。

「ありがと、うまいなこれ……って、なんで黙り込むんだ?」

「おかしいでしょ! ちょっとは躊躇ってよ!」

「え、俺なんか悪いことした?」

「……わたしのコーヒー牛乳も飲んで」

 謎の対抗意識を燃やしたリットが、スフィアとは逆方向からハルミに近寄り傍に座る。すると先程とは一転して、ほのかな湯気を放つリットに対してハルミは露骨に狼狽えた。

「いや待って無理だって!」

「待たない。どうしてわたしのコーヒー牛乳は飲めない?」

「だって間接キスだろこれ!」

「スフィアが良くてわたしがダメな理由は何?」

「それはそれこれはこれ、ってさっきのも間接キスじゃねえか!」

「……ねえネズミ、アイツぶっ飛ばしていい?」

「気持ちは分からないでもねえが、旦那が惚れたのは嬢ちゃんだからな。……ところで、二人とも装いが変わりませんな。わしゃてっきり浴衣でも来てくるかと思いやしたが」 

リットは白のロングワンピースという令嬢然とした姿に、スフィアはホットパンツにタンクトップという開放的な服装だ。入浴前と全く同じ姿であるが、そこに傷や汚れは見当たらないのは、リットが同一の衣服を生成したからであろう。

「浴衣という日本の習わしは興味深い。しかしスフィアに止められた」

「いつ戦うことになるかは分からないからね。動きにくさは命取り……そうでしょ?」

 スフィアの声はハルミに掛けられたものだった。そしてハルミも、向き直って礼を言う。

「……そうだな、気を使ってくれて助かる」

 スフィアもまさかハルミから感謝の言葉が掛けられるとは思っていなかったのだろう。露骨に顔を顰めるスフィアは怪訝さを隠しもしない。

「もしかして精神操作系のシグナルに攻撃でも受けたんじゃ」

「殴っていいか」

「ああ、それでこそアンタね」

「……やっぱりマゾヒスト」

 心機一転しようとしたハルミは出鼻を挫かれた形だが、ここで止まっていては世話がない。リットとスフィアをソファに座るよう促すと、話を切り出した。

「待っている間、まず何をすべきかこの二人で話し合った」

「ハムスターは人?」

「わしゃ立派な日本男児だ!」

「いやアンタ雄でしょ」

「頼むから、話を腰を折らないでくれ……」

 好き放題に言い合う二人と一匹を前にして、ハルミは手で顔を覆うほかない。

「いいか、まずリットの話を聞きたい」

「スフィアじゃなくて、わたし? どうして?」

「え、えと……」

 湯上がり姿のリットに赤い瞳でじとりと見つめられ、ハルミはたじたじになってしまう。

「しょうがねえ旦那ですな……わしが代わりに言いやすと、嬢ちゃんの事情を知らなさすぎるってことに尽きますな。あんさんの話を聞くのは、土台を固めてからってこった」

「アタシとしてもリットちゃんのこと知りたいわ。こんな規格外のシグナル、初めて見たし。そんなリットちゃんの事情って……もしかしたらとんでもない秘密に触れちゃうかも」

 冗談めかして言うスフィアだが、

「わかった。最初から述べると、わたしは一五年前に生まれ――それと同時にシグナルという存在が世界中に伝播して、地球圏内から星空が観測不能となった」

 リットはまさに核心的な一言を投じたのであった。そのまま、静かに口火を切った。

「太陽系内の星々――わたしたちが観測する“この世界”には、四六億年の歴史が存在する。その歴史を記録してきたものが、【世界の記憶レコード】と呼ばれる記録媒体。この【世界の記憶レコード】の閲覧権は、地球上に存在する知的生命体のうちの一個体にのみ与えられ、その者は【記録者】と称される。【記録者】には同時に【光の等価交換ソーラー=システム】と呼ばれる権能が与えられ、“世界の終わり”を回避する義務が課せられる――ガンマ線バースト、大規模噴火、巨大隕石落下、砂漠化と氷河期、これらのイベントで生命体が絶滅しなかったのは、【記録者】が【世界の記憶レコード】によって“世界の終わり”を検知し、何らかの対策を図ったから。【記録者】に不老不死の力は無いが、その力は途絶えることなく常に存在している。近世においては【記録者】が死亡した時、最も近似するタイミングでこの地球上に誕生した人へと、【記録者】の役割が移譲されている……そして現在の【記録者】はわたし……分かった?」

 マシンガンのような言葉の連撃に、ハルミとスフィアは頭をクラクラとさせた。

「分からねー!」

「嬢ちゃんの言葉を信じるなら【世界の記憶レコード】とやらは何でも書いてる百科事典みたいなもので、それが読めるから嬢ちゃんは物知りってわけですな。その“閲覧権”と、嬢ちゃんが持つ“光を消費して何かを生み出す力”の二つをセットで持つ存在が【記録者】と呼ばれる。そして【記録者】は一子相伝のように誰かしらに受け継がれてきたって話かい」

「なんで分かるのよ! このネズミ頭おかしいんじゃないの!?」

「散々な言われようですな。嬢ちゃんの言葉はちと専門用語が多めですが、大まかな文脈を掴むことぐらいならできますぜ」

「スフィア、ハムスターが人の言葉を理解して喋ってるんだぞ……。その時点で何が起きてもおかしくないだろ」

「確かに……」

「二人は不服?」

「説明ばかりだとこの二人が参っちまう。ここからは質問形式にしてくだせえ」

「わかった、まずはハルミから」

「え、俺? ……じゃあえっと、リットはさっき“シグナルが現れてから、星空が消えた”って言ってたけど、それってどういう意味なんだ?」

「それはアタシも気になるところね」

 二人の疑問を受けて、リットは経緯を語りだした。

「【記録者】たるわたしは誕生と同時に、文字通り光一つ無い暗闇、培養槽へと隔離された。なぜそうなったのかは、わたしにも分からない。ただ一つ言えることは、その時点でわたしは――光を触媒とする――【光の等価交換ソーラー=システム】の権能を行使できなくなり、【記録者】としての力を失った。それから一五年間、わたしは【世界の記憶レコード】からこの世界を見ていた」

 リットは単調に語るが、ハルミたちは自ずと押し黙ってしまう。リットの“見ていた”という端的な言葉に、世俗から隔離された一五年もの時間の重みを想像したからだ。

「それが事の発端なんだな……続きは?」

「わたしは【記録者】としての機能を失ったが、しかし“この世界”はすぐさまに【記録者】の代替となる、不都合な歴史に対して一定の修正力を備える超常の存在を求めた。それが多種多様の“異能の力”であり、異能を与えられたものがシグナルとなった」

「またわけが分からなくなったわ」

「言い換えますと、嬢ちゃんは暗闇に閉じ込められていたせいで、“光を消費して何かを生み出す異能”【光の等価交換ソーラー=システム】を使えなくなった。それが“【記録者】としての機能を喪失した”って意味ですな。でも本来【記録者】ってのはこの世界を人知れず守る守護者みたいなもので、そいつが居なくなるとこの世界が困るって寸法だ。守護者が居ないと困るから――守護者の代わりとなるシグナルが生み出されたって訳ですな」

「……どういう意味なんだそれは?」

「さっきから言っている【光の等価交換ソーラー=システム】ってのは、嬢ちゃん由来の力じゃなく、言わばこの世界が嬢ちゃんに貸し与えている権能みたいなもんらしくてな。その権能を貸した先の嬢ちゃんが使えなくなるってんなら、“この世界に根付く何らかの意思”とやらが、誰に貸与するでもなく、自分で【光の等価交換ソーラー=システム】を使って嬢ちゃんの代わり……すなわちシグナルを作ろうとしたんだ。さしもの守護者の量産って寸歩か。確かにその理屈なら一五年前、嬢ちゃんが生まれたと同時にシグナルが蔓延したって説明が通りますな」

「イマイチぴんとこないのだけど……シグナルの数多すぎじゃない?」

「その理由はわたしにも不明。単に【記録者】一人に対して釣り合う力が、それだけのシグナルの数を要したか。それとも【記録者】の喪失というかつてないエラーに対して暴走的な反応を引き起こしてしたか。しかし結果として、【光の等価交換ソーラー=システム】は多数のシグナルを生み出した――その対価として、星の光が喪われた」

「クロハラ、最後の言葉」

「わしは翻訳機かいな。“光を消費して何かを生み出す異能”ってのは、言い換えると能力を使えば光が無くなるわけだ……それが世界規模で行われたらどうなると思いやす?」

 ハルミとスフィアは、ここで感づいたようだ。

太陽系ソーラーシステムの外側から差し込まれた光を全て消費した……その結果、星空が消えたとな」

 ハルミたちは、星の光が消えた原因を聞いて一様にぽかんと口を開けていた。

「これで理解した?」

「クロハラのお陰でなんとなく言ってることは分かるが……」

「こうやって説明した身だが、わしだって嬢ちゃんの言ってることは信じ難いですぜ」

「アタシもよく分からないのだけど……でも、それぐらいの大それた背景があるなら、星空が消えたってのも納得が行くわ」

 唯一話を受け入れたスフィアが、その次に発した言葉は容赦のないものであった。

「――じゃあなに、この世界がこんなのになったのは全部リットちゃんのせいってこと?」

 スフィアが投げ掛けた一言は、ある意味では的を得ていた。

「……そう」

「スフィア、お前なんてことを!」

 ハルミが怒気を発してスフィアを牽制しようとするが、

「アンタだってそうでしょ?」

 その一言に、ハルミは続く言葉を飲み込んでしまう。この怒りはスフィアに対してだけのものではない。シグナルというものが存在しなければ――暗夜戦争など起きなかった。ほんの僅かでも、そう思ってしまった自分への憤怒の方が遥かに大きかったのだ。

「……ッ!」

「なんか思い詰めたような顔させちゃってごめんね。……確かにいい人生だったとは言えないけど、別にリットちゃんは恨んでないよ。だって助けてくれたから。それに星空が消えたのだって、また見えるかもしれないし。ただ、事実を確認しておきたかっただけ」

「わしのこと言うと、単純に存在が異能の産物ですからな。シグナルが居なければわしゃこの世に居なかったんだ。ともすると、嬢ちゃんには感謝しないといけねえほどですぜ」

「俺は、俺は……ごめん。何も言えない」

「……アタシが人のこと言えないけど、別に無理しなくてもいいわよ」

 二人のようにリットを慰めることができず、あまつさえ逆に慰められてしまう始末だ。

「そもそも嬢ちゃんが気に病む必要なんてないんですぜ。例え嬢ちゃんが全ての引き金だったとしても――それを引いたのは嬢ちゃんじゃあない。何を思ってか知らねえが、嬢ちゃんを暗闇へと閉じ込めた誰か。他ならぬそいつこそが、事を引き起こした当人ですな」

「ああ、リットちゃんを閉じ込めたのは“ディー”じゃない?」

「おいおい、とんでもないことをさらっと言いますぜ」

「え、あれ? 全部悪いのってアレ?」

 意図せず核心を付くスフィアに、ハルミの眉間がぴくりと微動する。声を努めて沈め、冷静に次を促した。

「……スフィア、次はお前の話を聞かせてくれ」

「アタシの生い立ちとか事情はどうでもいいから、リットちゃんと関わる部分だけ言うわ」

「大丈夫。中東の砂漠生まれで、暗夜戦争末期に連合側と合流したのは把握している。ついでに故郷の家族構成から好き嫌いの対象まで」

「怖っ! ……リットちゃんの言う通り砂漠の集落で生まれたわ。本当に何も無かったの」

 スフィアは人差し指を顎に当てて、珍しく難しい顔付きを浮かべながら思想に耽る。

「五年ぐらい前だっけ、アタシは商隊キャラバンに紛れ込んで西に向かったわ。ヨーロッパに行きたかったの。難民として入れたら万々歳だし、何なら不法入国だってするつもりだったわ。まあ辿り着く付く以前に餓死しかけたり、追い剥ぎに襲われたりとかしたけど」

「いきなりアグレッシブな生い立ちだな」

「……消えた星空の手がかりを探すため?」

 敢えて理由をすっ飛ばしたであろうスフィアに、リットが問いかける。

「恥ずかしいからあんまり言いたくないんだけど、まあそんな感じよね。砂漠で過ごしていても何も分からなかったから、きっと先進国の“カガク”とやらがこの疑問に答えてくれると思ったの。今思えば計画性のない突拍子な思いつきね――でも、うまくいったわ」

「それが“ディー”とやらに繋がるんですかい?」

 スフィアは苦々しい微笑みを讃えて肯定した。

「都会のど真ん中に放り出され、途方に暮れていた田舎者のアタシに、ディーは手を差し伸べてくれたの。それからだわ、全てがトントン拍子に上手くいった。あの人の言う通りにしていれば、望むものが手に入る。そう思ってしまったの」

「なんだその信頼感は。洗脳でもされたのか?」

「もちろん正気だったわよ。でも実際、ディーの言うことは正しかった。……まるで、何でも知っているようだったわ。……既に【星詠みの魔女】は討たれていて、泥沼にもつれ込んでいた暗夜戦争に終わる兆しが見えた。アタシにとって、世界連合だとかレジスタンスってのはどうでもいい。ただ、星の光がどうして消えたのかなんて話を、戦時中に考えている余裕なんてないわよね――だから戦争を早く終わらせるために“狩る側”の連合勢力と合流して……対するレジスタンス勢力のシグナルを殺したわ」

 スフィアの言葉を受けて、“狩られるレジスタンス”であったハルミの目つきが険しくなる。しかし、今はそんな感情をぶつけている時ではない、と自分に言い聞かせて言葉を飲み込んだ。

「……コレに関しては何の弁明もしないわ。これからも一生、アタシはアタシのために人を殺した事実を否定しない」

「積もる話はまた落ち着いてからだ。今は続きを頼みますぜ」

「終戦後はレジスタンス残党の危険勢力を討伐しつつ、のらりくらりと日々を過ごしたわ。その過程でディーからリットちゃんの存在と、その奪還計画を聞かされたの」

「……奪還?」

 反応したのはリットだ。己が何者かに奪われるという意味がよく分からないのだろうか。

「そのディーとやらが、リットを閉じ込めた張本人じゃないのか? なのにそれを奪還というのは、いったいどういう意味なんだ?」

 スフィアはリットの方を見ながら、申し訳なさそうに頬を掻いた。

「あまり詳しい話は知らないのだけれど、元々リットちゃんはとある研究プロジェクトによって生まれたの。そのプロジェクトリーダーが“ディー”だった」

「言い方はよろしくねえが、嬢ちゃんはプロジェクトの研究成果でチームの共有財産ってことかい? ……で、ディーとやらが嬢ちゃんを独り占めしたいとでも企んだわけですな」

「そういうこと。そんな考えを実行に移すために、ディーはアタシ含む何人かのシグナルを引き抜いて組織を離反した。それがつい昨日までのアタシの立ち位置」

「ということは、今のあんさんは裏切り者のそのまた裏切り者かい」

「……三度目はないだろうな」

「ちょっと待ってもう裏切らないわ! アンタもそんな目で見ないでよ!」

「大丈夫、スフィアは“星空を見たい”という願望を行動理念にしている。その手がかりがわたしにある限り、わたしたちを裏切る心配はない」

「それはそうだけど……もうちょっと他にもあるわよ」

 スフィアが最後にぼやいた言葉は、ハルミとリットに聞こえなかったようだ。ただクロハラだけが、やれやれとでも言うように小さな肩をすくませたのだった。

「ここからが本題ね……ちょうど昨夜、特殊な超音速輸送機――これも研究の産物、現在のレーダー技術じゃ探知できないって代物よ――を使って、リットちゃんを別の研究施設に輸送する計画があったの。そのタイミングに乗じて、ディーは奪還計画を実行に移した」

 スフィアは顔を顰めながら、苦々しくも正直に告白する。

「その輸送経路は日本上空を通過することになっていた――そして昨日は、満月だった。奪還計画でのアタシの役割は、輸送機を撃墜させることよ」

「……それは昨日のように、月から氷の槍を降らしてか?」

「正確にはアタシの異能【嘆きの氷樹グレイシアル・グレーター】は“この目で円と視認したものから、氷の槍を生やす”力よ。円が大きければ大きいほど威力が増す。満月からの一撃がアタシの出せる最大出力ね。言っておくけど好き好んでやりたくないわ。一発だけでも力の消費が激しいのに、二発目は虚脱感で死ぬかと思ったわよ……まあその後アンタに殺されかけたけど」

「……その節は悪かったな」

 この事件の始まりである都市沖合に着水した氷槍と、丘の上での戦いにてスフィアが相打ち覚悟で放った氷槍。それらの威力だけならば、【災厄指定レッドシグナル】でもおかしくはないだろう。

「確かにあれなら空にも届くだろうが……ちと引っ掛かりますな。音速で飛行する探知不能の輸送機を、どうやって撃ち落とすんだい? 重ねて言うなら、奪還計画ってからには嬢ちゃんを傷つけずに撃墜しなきゃいけねえ。勿論のこと一回ぽっきりで失敗は無しだ。こんな無茶振り、曲芸の極みみたいな作戦がものの一発で成功するとは思いませんぜ」

 クロハラは暗にこう言っているのだ――その作戦が一回限りで成功するという何らかの確証があったんじゃないか、と。

「そんなことアタシに言われても知らないわよ。アタシはただディーの指示に従っただけ。満月からの氷槍をいつどこに撃つかも全部“浮遊球体デバイス”のプログラムで決まっていたわ……ちなみにもうアンタたちに話せることは無いわよ。知ってることは話したわ」

 言い逃れのようにしか聞こえないスフィアの言葉であるが、それらは全て真実である。

 ――現在スフィアには、ハルミによって対象に契約を科す異能【愚者の天秤ウロボロス・ロウ】が施されている。そこで“ハルミたちの試みに対して全面的に協力するという”という契約にスフィアが背けば、罰として体内に仕込まれた蛇の概念が具現化して、その心臓を食い破るはずだ。

 昨夜の経緯に関して、これ以上スフィアに問い詰めても意味がない。

「スフィアの話はこれで十分だ――リット、昨夜スフィアが何をしていたのか調べてくれ」

「わたし? わかった。【世界の記憶レコード】へとせつぞ――」

「――え、ちょっと待って! これってアタシが話す必要があった!? 最初からリットちゃんに全部聞けば良かったんじゃ……」

「ダブルチェックってやつですな。お二人のことは信じているつもりだが、ただでさえ未知の領域だ。どっちかの話を鵜呑みにするのは危ねえ。そこでだ、あんさんの話を聞いた上で、それが合っているのかを、物知りな嬢ちゃんの【世界の記憶レコード】で確かめてもらう。ここで二人が同じことを言っているのならば、その情報は真実ってわけですな」

 クロハラの説明を受けて、リットは小さく頷いた。瞑想を行うかのように目をつむる。

「【世界の記憶レコード】へと接続――索引対象“昨夜のスフィア”“その行動”」

 リットはすぐに目を開けると、ハルミの方を見やる。

「どうだった?」

「――分からない」

「へ?」

 リットが語る【世界の記憶レコード】の知識は実験で実証済みだ。更には、見たこともないスフィアの家族構成まで把握している。そのようなリットが、はっきり知らないと言うのだ。

「正しくは、スフィアの行動は把握できる。しかし、スフィアに指示を行った“ディー”という人物を検索しようとしても、弾かれる。情報が部分的に欠損している。まるでそこだけモザイクが掛けられたみたい……つまりわたしは“ディー”を知ることができない」

「どういうこと? リットちゃんは何でも知ってるんじゃなかったの?」

 リットを全知の存在とでも思っていたのか、スフィアが目を点にさせる。

 しかし、ハルミとクロハラには心当たりがあった。

 ――リットは最初、俺の名前を知らなかった。クロハラのことだってそうだ。あの時は確か、“【世界の記憶レコード】に載っていない”と言っていたぞ――

「旦那のときと同じですな。そのディーと旦那の間には、いったいどんな共通点かあるのやら……これはちと、嫌な予感がしますぜ」

『――クロハラさん、その予感は正しいですわ』

 唐突に女性の声が割り込んできた。リビングの端に設置されているテレビが、付けずとも勝手に鳴りだしたのである。それは昨夜ハルミたちを助け、この場所まで導いた存在だ。

「ヴァンダルが話に割り込むのは珍しいな。何があった?」

『……招かれざるお客様が二人、貴方達の居るマンションに侵入したわ』

「見つかったって、そりゃどういうことだい? 逃走時の痕跡は消してくれたんだろう」

「ヴァンダルの仕事ぶりは【世界の記憶レコード】でも確認した。何の落ち度もないはず」

『ええ。正攻法で貴方達を探すなら貴方達の手がかりは何も無いはずよ――正攻法ならね』

「時間がないみたいだ。クロハラ、リットを頼む」

 ハルミが一言言い放ち、皆の気を引き締めさせる。普段ならばこういった注意をするのはクロハラだろうが、こと戦闘に関してはハルミの方が経験豊富だ。

 ハルミは立ち上がると玄関を睨みつけた。十分な距離を取って、その前方を陣取る。

「……スフィア、一ついいか」

「何よ」

「お前の居た組織のシグナルは皆……レジスタンスのシグナルを殺した連中か」

「そこは気にしなくてもいいわ――アイツラ全員、人殺しが大好きなゲス共の集まりよ!」

 スフィアの返事によって、ハルミを縛るものは何もなくなった。

「わかった――承認しろ、【愚者の天秤ウロボロス・ロウ】」

 契約に則り、ハルミの体が七匹もの蛇の概念が抜け出してゆく。

 ハルミの纏う空気が一変する。【虚空索引リズ・スキャルフ】によって右目が青く輝き、玄関のその先――ドアノブに手を掛ける大男を透視した。ハルミのかざした両手の周囲に、乱気流が生じた。

「“射撃”」

 ハルミの言葉と同時に、三つの異能が同時に起動した。それぞれが【金属生成スミス】、【衝撃放射ブラスト】、【動作付与シフト】と呼ばれるものだ。これら三つの異能が、ハルミの発した “射撃”というキーワードを合図に組み合わされてゆく。

 現象は全てハルミの指先で生じた。“金属を生み出す力” 【金属生成スミス】、によって弾頭を形成し、“衝撃波を放つ力” 【衝撃放射ブラスト】によって放たれた衝撃波を収束させて射出する。そこで“運動エネルギーを与える力” 【動作付与シフト】で射出された弾頭を高速回転させることにより、弾道の安定性と殺傷力を高めるのである――すなわち、異能による銃撃だ。

 ハルミのそれは炸薬量を手加減しない分、威力も桁違いだ。そしてこれらの三工程はハルミの突き出した十本の指全てで、止まることなく連続して行われた。

 空気を切り裂く音が鳴り響くと同時、ドアが蜂の巣のように穴ぼことなる。ドアの破砕片と、どこからともなく生じた硝煙が密閉空間に充満した。

 普通の相手ならば、この攻撃を食らった時点で肉片と化す――しかし、ハルミの相手となる敵は普通ではない。唐突に吹いた烈風が煙を押し流した。

「何も痛くねえ。お前たち、まとめて殺す」

「いきなり細工師ミルを投入だなんて、ディーも容赦無いわね」

 上半身をさらけ出す野性的な大男――ミルが大斧を携えている。剥き出しの上半身には傷一つ付いていない。ミルは何事もなかったかのように室内へと足を進める。

「“散弾”、“大口径”、“対物弾頭”」

 ハルミは弾丸の種類を切り替えながら、正確にミルの頭部と心臓へと攻撃を放つ。しかし、ミルがダメージを負う様子は全く見られない。放たれた弾丸はどこにいったのか。

(物理攻撃が効かないのか?)

 常人の眼には弾丸が忽然と消失しているようにしか見えない光景であるが、【虚空索引リズ・スキャルフ】によって強化された右目ならば状況確認も容易い。当たる寸前まで間違いなく弾丸は直進している。しかしそれがミルの皮膚へと接触した瞬間、細かな粉末へと変化しているのだ。

「そいつの異能は“触れたものを変化させる”よ!」

 組織の内情を知るスフィアが、すかさず答えを寄越してくれる。ハルミは小さく頷いた。

(助かる――それにしてもコイツ、異能の発動が早い)

 ――ハルミの預かり知らぬことであるが、ディーの手駒であるシグナルは皆、異能の力を最大限引き出す為の技術拡張が施されている。ミルの異能【終末変転ボディアート】も例に漏れず、ミルの脳内に生体基盤バイオチップを埋め込むことによって“どれを何に変化させるか”という思考プロセスを省略し、接触と同時に異能を発動させることが可能となっている。

「……ハルミ。首飾りとあの斧、人だった頃の記憶がある」

 ミルの手に携えられたグロテスクな異彩を放つ大斧と、胸元に鎮座する精巧な首飾り。リットの言葉通り、それらは人を材料にしたものだろう。物理攻撃が効かないどころか、触れられただけで死に至る。近寄らせてはいけない相手だ。違う攻撃手段が必要だろう。

「“破線”」

 ミルを囲う壁面や天上を、オレンジ色の閃光がひた走る。そして、爆発が生じた。

 これらの仕込みは、事前に行われたものである。ハルミはこの隠れ家に来た段階で襲撃者を想定し、予めあちらこちらにナイフで傷を付けていたのである。これにより、“裂傷に沿って爆発を引き起こす力”【直線爆破ライン】の異能を起動しているのだ。

「ゴホッ……お前、なんでもありだな」

 しかしその不意打ちを以ってしても、ミルにダメージを与えることは叶わない。

(爆発すらも無力化させるのか……でも)

 ミルの息苦しそうな表情を、ハルミは見逃さなかった。つまり、呼吸を必要としているのだ。

「【小さき守護者クロハラ】、“火葬”だ」

「あいよ」

 クロハラが防護障壁バリアで囲うように展開する。ハルミにではない――ミルに対して、だ。

 ミルが周囲の防護障壁バリアを大斧で砕こうとするも、ちょっとやそっとではびくともしない。

「なんだ、これ」

「お前さんの棺桶さ」

 声はミルのすぐ傍で聞こえてくる。ミルが振り向くと、肩にクロハラが留まっていた。そこでミルの視界が潰える。クロハラから光が生じ、爆発が視界を埋め尽くしたのだ。 

「効かねえ!」

「一回だけじゃあない」

 今度はミルの足元からクロハラの声がした。振り払う前に、またもや爆発する。

「お前さんがくたばるまで、何度でもだ」

 ――異能には制限が存在する。できることとできないことが明確に規定されているものだ。【金属生成スミス】は自身が接触した状態でしか金属を生み出せず、【直線爆破ライン】は自分で傷付けた裂傷の線が無ければ機能しない。総じて条件を達成しない限り機能しない異能である。しかしハルミは、複数の異能を組み合わせることでそれらの制限をある程度突破できるのだ。

 例えば異能の一つ【守護者】は、クロハラの複製コピーを近隣に召喚させることを可能とする。そこでクロハラを介して、“接触することで作用する異能”を遠隔発動することができるのだ。今の使い方では、【金属生成スミス】の生成範囲を拡張している。そして展開した防護障壁バリアに、【金属生成スミス】で絶え間ない裂傷を与えることにより、連続して爆発を行使できている。

防護障壁バリアで隔離した上で、クロハラを介した遠隔爆破――酸素欠乏に追い込む)

 ミルの表情に苦悶が浮かぶ。燃焼による爆発はその場の酸素を消費するため、その分だけ呼吸に必要な酸素を奪われるからだ。そこでもしミルが“触れたものを変化させる”異能で酸素を生み出したとしても、その酸素は爆発の燃焼に取り込まれて呼吸にまで至れない。逃げようともクロハラと防護障壁バリアが一緒に付いて来る――つまり、ここで詰みなのだ。

「あ、うぐ……」

 爆発に揉まれる最中、ミルは白眼を剥くと気絶し倒れ伏した。意識喪失中も作用する異能なのか、未だ爆発は無効化されしまう。しかしここに至ると関係ないことだ。酸素欠乏によって生命活動が停止するまで、防護障壁バリアの中で爆発を繰り返すのみである。

「ハルミ、まっ――」

「待たない。俺はコイツを殺す」

「……嬢ちゃんよ、スフィアのあんさんとは話が違えんだ。わしには分かる、目の前のこれは救い難い外道の臭いをぷんぷん漂わせてやがる。生かしてはおけねえってもんですぜ」

 スフィアは何も言えず、ただ複雑そうな表情を浮かべている。今やかつての同僚に未練はないだろう。しかし、少しでも選択肢を外していれば同じようになっていたのだろうか。

 やがて爆発がミルの肉体に作用した。絶命によって異能の効力を失ったからか。もはや原型を留めなくなったミルを振り返ることなく、ハルミは玄関から外の状況を確認した。

「アンタどうして立ち止まってるのよ、ってうわっ」

 ハルミの後を追うスフィアは、状況を垣間見て思わず顔を顰めた。

「「「うう、ううう……」」」

 青白い表情を浮かべた人たちが、こちらに向かってのそりのそりと歩んでいる。その光景はさながらゾンビの行進だった。瞳は赤く充血しており、口角からはだらしなく涎を垂らしている。そんな彼らが、壊れたスピーカーのようにしわがれた声を吐き出してゆく。

「ヒトゴロシノ、ボウレイ!」

「オマエハ、イテイハイケナイ!」

「……あんさんよ、これはいったいなんなんだ?」

「“操り人形ジャック”の異能ね。体液を流し込んだ人を“感染者”にして操るの。操られた人が別の誰かに噛み付けば、そいつも感染者になる。暗夜戦争の時はゲリラ鎮圧によく投入されたシロモノだわ……こうなったらもうどうしようもないわよ」

 ハルミは【虚空索引リズ・スキャルフ】の青い右目で彼らを一瞥すると、おもむろに腕を掲げた。

「ハルミ、彼らを殺すの?」

「放っておけば、この街の人間全員が感染者になる」

「臭いから察するに彼らはもう死んでますな。生命活動に必要な機関が動いてないにも関わらず、別の何かで無理やり動かしているように見える。楽にしてやるのが情けだろうよ」

「……ソウヤッテ、カンタンニヒトヲ、コロス!」

 感染者を経由してジャックから放たれる言葉に、ハルミは一切反応しない。しかし、感情を臭いで推し量ることができるクロハラだけは、僅かな心の揺らぎを察していた。

 ハルミは指先に異能の力を込め、感染者の急所目掛けて“射撃”を実行しようとする。

 ――それをリットが、ハルミの右手を包み込むようにして攻撃を留めた。

「いいえ、まだ出来ることはある――【世界の記憶レコード】へと接続」

 他の誰もが匙を投げるが、リットだけは希望を諦めない。

「今分かった情報……ジャックの異能【弔う幽鬼サテラ・サイト】は感染者を仮死状態にして操る異能」

「え、そうなの? 初耳なんだけど」

 元同僚のスフィアですら知り得ない異能の子細を、リットは【世界の記憶レコード】で検索して直接知り得ることができるのだ。

「どうすればいい?」

「感染から六時間以内ならば、まだ仮死状態からの自然蘇生が可能。それまでに感染者と異能の接続を途切れさせる――原因たるシグナルを殺して」

 肌に触れるリットの手が、ハルミには強張っているように思えた。ハルミのように、リットは大を生かすために小を殺すような思想を持ち合わせていない。しかし、その“小”が、手の施しようがない悪と限定されるのであれば、躊躇うべき事柄ではないのだと……。

「ちなみにジャックは感染者に紛れて侵入するのが趣味の変態だから注意して!」

 階下を覗けば感染者の群れがこちらへと押し寄せている最中だ。

「分かった。そっちのクロハラはリットを頼む――“強化”」

 いつの間にか分身したクロハラを肩に乗せ、ハルミは“肉体を部分的に強化、あるいは硬化させる異能” 【部分強化ビルド】を起動した。次いで【衝撃放射ブラスト】を行使する。

 ――ドン! と背後から噴き出した衝撃波によって、ハルミは空中へと推進した。ハルミが最も多用する異能【衝撃放射ブラスト】は衝撃波を移動手段として用いることができるが、それは自身に掛かる肉体負荷を度外視した運用でもある。しかし、ハルミは【部分強化ビルド】と並列起動することで、肉体負荷を無視した高速機動を獲得したのだ。

 ハルミは七階の廊下から乗り出すと、躊躇うことなく推進力を階下へと向けた。

「旦那、この階ですぜ!」

 途中で空中に防護障壁バリアを設置し、三階へと転がり込む。勢いを殺すことなく、蠢く感染者の群れを走り抜け――その内の一人に確信を以って“刀”を突き刺した。

「……うぐ……どうしてボクだと、分かった……?」

 青白い顔つきと赤い瞳――を模した精巧なマスクが剥がれ、異国の青年ジャックが顔を覗かせる。その表情は、寸前まで浮かべていたであろう歪んだ笑みのまま固まっている。

「たとえ姿形を隠したところで、その外道の臭いは隠し消れませんな」

「死ね」

 ジャックの胸を貫いた刃に、【動作付与シフト】による回転運動が与えられ、心臓を刳り取った。

 ――ジャックの死と同時に、感染者全員がその場に倒れ込む。彼らは解放されたのだ。


 +++++


「リット、敵は捕捉できたか?」

「え、ちょっと待って!? もしかして、もう倒して戻ってきたっていうの?」

「ああ」

「……いやいやいやいや。物質を作り変えて触れたら死ぬ相手に、人間をゾンビ化させて操る相手よ。普通に考えて、そんなにサクサク勝てないわよ!」

「確かに、一手でも取るべき手を間違えたら敗北に繋がる相手でしたな」

 かくいうクロハラは、言葉とは裏腹に普段通り飄々としている。

「というかいっぱい異能持ってて、やることが銃撃ってどうよ。派手なのとか無いの?」

「それが一番効率的な方法だからな。大抵のシグナルは、遠距離からの不意の銃撃に対応できない。やり方次第では、一般人でも十分勝てる……だから暗夜戦争で負けたんだ」

 淡々と語るハルミの姿に、スフィアは僅かな怖気を覚えたようだ。

「それに、お前が思うほど俺は異能をたくさん持っていない。全部で八個だ。

 ――一つめに【愚者の天秤ウロボロス・ロウ】。これは契約に関する異能だ。

 ――二つめの【虚空索引リズ・スキャルフ】。視覚に関する能力が備わっている。背後の視認は勿論、遠視や透視。後は未来予知ほどではないが、物体の軌道をある程度予測できたりする。

 ――三つめ、【守護者クロハラ】。俺が敵の攻撃を認識できなくても、危機察知能力に長けたクロハラが代わりに防護障壁バリアを張ってくれる。それに何より、俺よりかしこいからな。

 ――四つめは【衝撃放射ブラスト】。皮膚表面から衝撃波を放つ力だ。お前との戦いでの多用してた通り、一番シンプルに強く使いやすい。

 ――五つめは【部分強化ビルド】。肉体の一部分を強化、硬化させる。これが無ければ戦えない。

 ――六つめは【金属生成スミス】。固有の金属を任意の形で生み出す。これは他の異能と組み合わせることで真価を発揮する。

 ――七つめは【動作付与シフト】。触れた無機物に任意の運動エネルギーを付与することができる。扱いは難しいが、一番応用の効く異能だ。

 ――八つめは【直線爆破ライン】。裂傷を付けることで、その傷跡に沿って爆発を引き起こす。傷の深浅や長短で威力は変わるが、俺の手持ちの異能だと最も攻撃に転用しやすい。

 ……長くなったが以上八個、【愚者の天秤ウロボロス・ロウ】を除くと七個が戦闘に関する異能だ」

 紛れもなく、ハルミが持つ力の全てだった。それをハルミは、自分から打ち明けたのだ。

「あんさんや、口を開けてどうしたんだい? 旦那の長話で眠くなっちまいましたか?」

「それアンタの手の内なんでしょ? いいの、アタシなんかに明かしちゃって」

「もう仲間だろ? だったら、問題ない」

 スフィアの言葉に思うことがあったのか、ハルミもスフィアから視線を背けた。。

「話を戻すぞ。リット、さっきの話だが、ディーとやらは捕捉できたか?」

「いいえ。個人を認識した状況なら、ジャックのように【世界の記憶レコード】を通して知ることが出来る。けれども、曖昧な状況から情報を知ることは出来ない」

「要は相手が誰か分からねえと調べようがないってこった」

『またお話の最中に悪いのだけれど、新たな刺客が迫っているわ……一般人に危害を加えながら、このマンションへと近づいてきている』

 携帯電話越しに通信するヴァンダルが、新たなる危機の来場を告げる。

「敵がどう出るかが分からねえってのに次から次へと、いったいどうすりゃいいんだ」

「……一つだけ、確実な方法がある」

「なにがあるんだ?」

「――わたしが捕まれば、この一連の事体は解決する」

 リットは倒れ伏した元感染者の者たちを見渡した。一度仮死状態に陥った身だ。自然蘇生を果たしたとして、どのような後遺症を負ってもおかしくはない。他にもある。無頼漢の大男ミルによって、マンションの警備員は殺されて大斧へと姿かたちを変えられた。そして新たな刺客は、一般人を無差別に傷つけながらこちらへと近づいている。

 彼らは今の今まで争いとは無縁で、平和に暮らしていたはずなのに。きっかけは何だろうか――きっかけは誰だろうか。

「わたしが暗闇から出てこなければ、大人しく捕まっていれば、こんなことにはならなかった……わたしのせいで、みんなが傷つく」

「リット、それは違う。リットのせいで、誰かが傷つくんじゃない。傷つける敵がいるから、傷つく誰かが生まれるんだ。そこにリットは何の関係もない」

 他の誰もが黙り込む中、リットの言葉をハルミだけが明確に否定した。

「あいつらはいつもそうだ。自分たちが刃を振り下ろしておきながら、その刃を罪のない誰かに押し付けて握らせる。お前のせいでこうなったんだと、そう言って貶めるんだ」

「でも、わたしが捕まれば――」

「リットが俺に言った言葉を、俺は覚えている。絶対に忘れない。あれは嘘じゃない」

 昨夜の言葉だ。それはリットが暗夜を背に、ハルミに手を差し出して語った願い。

 ――わたしは、この世界のことをもっと知りたい。だからハルミ、わたしをどこでもない場所に連れて行って――

 リットにとっては何でもない言葉だったのかもしれない。けれども、ハルミにとって、その言葉は救いに等しかった。昨日までのハルミは、何をするでもなくクロハラと共に自堕落な日々を過ごしていた。クロハラにとってはその日々こそが幸せだと言う。ハルミにとってもそうだったかもしれない。しかし、退屈な日々の中でハルミはどこか空虚で、いつも何かに飢えていた。ハルミ自身ですら、その空虚さの理由を掴むことはできなかった。

 けれども、リットと出会い、リットを助けて、ハルミは生きる活力とも言うべきものを取り戻した。ハルミは自分が何をしたいのか、リットに何をしてあげたいのか、未だにはっきりと分からずにいる。だが、リットを失いたくないことだけは確かだった。

「お願いだリット……自分が犠牲になるだなんて、もう言わないでくれ……」

 ハルミは自身の口から零れ出た言葉に愕然とする。リットを励まそうとしていたはずなのに、何故自分が情けない声を上げて懇願しているのか。さっきまで敵を相手に冷静な思考を繰り広げていたハルミは霧散した。今ここにいるのは、何でもない一人の少年だった。

「……青い顔して、大丈夫?」

 リットですら、ハルミの懇願にどう反応していいか分からずにこちらを気にかけている。

(リットを励ますつもりが、これじゃ逆じゃないか……)

(何やってるんだい旦那。かっこつけきれてないじゃないですかい)

 心の中にクロハラの声が響く。実はクロハラと意思疎通するために会話する必要など無いのだが、普段クロハラ側がそのパスを閉じているのだ。そのパスが今久々に開かれている。

(ダメだ。俺の代わりにクロハラが言ってくれ……)

(いくら旦那の頼みでも、それだけは受けられないですな。それにわしが言っても仕方がないですぜ。旦那が言うからこそ、意味があるんだ。さ、とっとと言っちまいな)

 クロハラに励まされ、ハルミは言えずにいた言葉を振り絞る。

「あの時、リットが言った言葉を覚えている。リットの本当の気持ちを信じてる。だから信じてくれ。何があっても、世界を敵に回してでも、俺は絶対にリットを助ける」

「……わたしは、生きたい。どこでもない場所に行きたい。それは本当の願い。偽りのない気持ち。でも、わたしのために誰かが傷つくのはいや……」

 リットが言っているのは、今も無差別に破壊を振り撒く刺客に対してであろう。

「だったら俺が行って、そいつらを止めてくる……ここで二手に別れよう。先にクロハラと逃げてくれ。後から必ず追いつく。ヴァンダル、もう一度逃走経路の案内を頼めるか?」

『構わないわよ。リットさんの要望に合わせて、被害を最小限に抑えることを約束するわ』

「クロハラ、防護障壁バリアを全てリットの防衛に割り振ってくれ。俺は一人で何とかする」

「あいよ。達者でな」

「じゃ、お互いに健闘を祈る!」

「アタシには何もないの!? ていうかアタシを除け者にしないでよ!」

「ああすまん。スフィアは全力でリットを守ってくれ。お前は強いよ、頼りにしてる」

「ちゃんと分かってるじゃない。任せなさいよ……アンタも頑張ってよね」


 +++++


「ぎゃはは、人がゴミのようだ! ……オレ、一回言ってみたかったんだよね♪」

 パンキッシュな軽装を纏い、髪を赤と青で染めた少女が、甲高い声を上げて笑う。

「貴方がばっかり壊しすぎですわ。アタクシにも楽しませて下さいな」

 もう一人の少女は格式高いワンピースに身を包み、片手には雨傘を掲げている。

 二人の少女は道路を堂々と闊歩しており――周囲には爆炎を上げる車両や、動かなくなった人影が佇んでいる。隣接する建物のガラスは砕かれ、壁には大穴が幾つも空いている。そこには悲鳴を上げるものはいない。悲鳴をあげたものから少女たちに殺されるからだ

(前者が不退転キャスター、後者が水の奏者レイニーで間違いないですな。いやはや、凄まじい暴れっぷりだ)

 パスを介したクロハラが遠隔地から、スフィアが齎した情報をハルミへと流す。

(気を付けるべきはキャスターですな。異能は“運動エネルギーの速度維持”。石を投げたら、その石は前方の障害物を物ともせずに貫通する。いわゆる“無敵”の力ってか)

(だが、あくまでも”無敵”なのは正面だけだ……もう一人の、あれはなんだ?)

 レイニーの横には何らかの液体で構成された赤色の手が、空中にゆらゆらと漂っている。

(……血液のようですぜ。それも何十人もの新鮮な血液がごちゃ混ぜになってやがる。レイニーの異能は液体の操作らしいですが、これまた悪趣味ですな)

(ここに来るまでにも、殺しを重ねてきたのか)

「そんなとこで突っ立ってねーで!」

「アタクシたちと遊びませんこと?」

 二人の攻撃は苛烈だった。キャスターが礫を飛ばし、レイニーが赤い手を無数に伸ばして追いかけてくる。最も注意すべきなのは絶対の威力を誇るキャスターだが、だからといって赤い手に触れられるわけにもいかない。ハルミは【衝撃放射ブラスト】による空中機動でそれらを掻い潜るしかなかった。

「“銃撃”」

「効かねーよバーカ」

 間隙を縫って異能の銃撃を放つが、レイニーを庇うように前に出たキャスターが攻撃を無効化する。キャスターの背後を狙おうにも、そこにはレイニーが待ち伏せている。

 今のところ戦力は拮抗しているが、ハルミにとってのそれは、敗北に等しかった。ハルミがここで気を取られているほど、手隙になったリット側に危険が迫ることになるからだ。

「――墜ちて下さいまし」

 焦りから攻撃に転じようとしたハルミの眼下で、マンホールの蓋が弾け飛ぶ。そこから下水で構成された手が飛び出したのだ。赤い手にしか注意を向けていなかったハルミにとって、それは紛うことなき不意打ちだった。もはや衝撃波による転換は間に合わない。

「“盾”」

 足元に【金属生成スミス】の盾を敷き、汚泥の手を遮ろうとして――その行動は無駄になった。

 汚泥の手は盾など構わずに突き進み、そのままハルミの右足へと迫っていた。金属製の盾が手形のまま刳り貫かれていることに気づいた時には、汚泥の手はハルミのつま先を消し飛ばし、そのままハルミごと取り込もうとしていた。

「切断ッ」

 咄嗟の判断で、ハルミは汚泥の手で触れられるよりも早く、自身の足首を切り離した。切断面から血が吹き出すよりも早く、ハルミは金属製の足首を生成し無理やり接着させた。 

 体勢の崩れたまま空中に留まることを不可能と判断したハルミは、やむなく地上に降り立った。まだ直立することが出来ている。ただそれだけで、ハルミは全てを良しとした。

「なにコイツ、自分で足千切ってくっつけてるんだけど」

「まるで野蛮人ね。早急に駆除してさしあげないと」

(旦那、大丈夫……じゃないですな?)

(それはいい。所でさっきの攻撃だが)

(ああ、間違いねえ。あの汚泥の手は間違いなく“無敵”でしたぜ)

 キャスターの異能である運動エネルギーの速度維持……“無敵”の性質が、どういう訳かレイニーが操る水にも備わっている。もはや正面から、水の攻撃を防ぐことは不可能だ。

(そんなことがありえるのか?)

「あはは、びっくりしてるよね? どうしてなのって」

「死にゆく者への手向けとして教えてあげましょう」

「オレたちの頭の中によく分かんない装置が埋め込まれてて、意識を共有してんだよね」

「同調装置とでも呼びましょうか。つまるところ、アタクシたちは二人で一人なのです」

 ――キャスターとレイニーは、二人で一つの作品だった。片や絶大なる出力を誇るが応用の効かないシグナル・キャスター。もう一方は応用性に富むが肝心の出力が乏しいシグナル・レイニー。フラタニティ・サイエンスの元開発部門担当であった“ディー”は、これら二人の脳内に同調装置を埋め込むことで、二人の異能を一つにしたのである。

「ねえねえ、さっさと終わりにしない?」

「ええ。では空を泣かせるとしましょう」

 レイニーが傘を天へと差すと同時、しとしとと雨が降り出した。――ただの雨ではない。その一粒一粒が“無敵”の性質が付与された、遮ることのできない必殺の一撃だ。

 それは容赦のない絨毯爆撃であった。雨は降りしくるもの全てに風穴を開けながら――まだ生きていたであろう人々の息の根を尽く止めながら――ハルミの下へとにじり寄る。

 ――分かりやすい攻撃だ。この程度の修羅場など、ハルミは暗夜戦争末期に幾度となく切り抜けてきた。真正面から付き合わずとも、間隙を突いて勝てばいいのである。

 しかし、だ。もし攻撃を避けようとするならば、この二人はハルミを殺すまで街一帯に死の雨を降らせるだろう。巻き込まれるのは一般人だ。そうなれば、リットが悲しむ。

(……何のために一人でここに来た? 決まってるだろ)

 ハルミにとって、その理由が全てだった。

「見ろ、全部だ」

 ハルミの右目に、青の輝きが溢れた。肉体の一部分を強化させる異能【部分強化ビルド】の力の全てを、右目の一点に注ぎ込んだのだ。副作用で血の涙が流れ出るが、何も構いはしない。【虚空索引リズ・スキャルフ】――かつて【星詠みの魔女】から引き継いだ魔眼の力を発揮して、ハルミは降りしくる雨粒の全てを認識した。

 今のハルミには、それら一粒一粒の様子やその軌跡が手に取るように分かっていた。これらの雨粒にはあらゆるものを貫通して突き進む“無敵”の性質が備わっており、正面から防ぐ手立ては存在しない……ならば答えは簡単だ。側面から、背面から抉り取るまで。

 始めに、【金属生成スミス】で極細の繊維ワイヤーを形成した。一つではない、無数にだ。そしてそれら全てに【動作付与シフト】の力を用いて、任意の運動エネルギーを与える。力を得た繊維ワイヤーは各々が生き物のように暴れ狂い、切断の嵐を振りまいた。

「――“踊る刃”」

 夜空を切り裂く音がして、同時に降り注ぐ雨は止んだ。異能の発動者が死亡したからだ。繊維ワイヤーによって弾かれた雨粒がレイニーへと降り注ぎ、その姿を肉片へと変えた。

「てめえ、よくもッ!」

 無傷だったキャスターが我を忘れてハルミの下へと走り込む。単純な突進ですら、ハルミは防ぐことはできない。最も、防ぐ必要はなかったが。

(誘導の手間が省けた)

 無防備なキャスターの背後――その足元から爆発が生じた。ハルミの異能【直線爆破ライン】によるものだ。裂傷に沿って爆発を引き起こすこの力は、ハルミ自身がその手で直接刻まなくても機能する。“踊る刃”で地面を深々と切り裂くことで、刻まれた“斬撃痕”そのものを、爆弾へと仕立て上げたのである。キャスターは道路に跳ねて倒れ伏した。

 ハルミは右目の血を拭うと、ふと周囲を見渡した。そこは死屍累々だった。破壊された街は、復興によって姿を取り戻すだろう。しかし、一度死んでしまった生命は二度と戻ることはない。少なくとも、死の雨が降り注いだ場所に生存者は存在しない。元凶たる二人は死んだが、果たしてその死が、この惨状に釣り合うなど到底思える筈がなかった。

(……クロハラ、ヴァンダル伝にここの救援を早めるよう頼めるか?)

(了解ですぜ。ただこっちは、姿の見えない刺客から狙撃を受けてる最中でして。防護障壁バリアがいつまで持つか分からねえ。それにあいつら、無関係の一般人も狙ってやがる)

(ああ、分かってる。今からケリをつけてくる)

 ハルミは衝撃波で飛び上がると、周囲で一番高い建物へと足を下ろす。金属の義足が接地し、足首を失った右足を衝撃が貫く。しかし、まるで痛みを感じていない様子だった。

 なぜならハルミの内部で渦巻く敵意、殺意が痛覚を鈍化させているからだ。その怒りはさながら静かに燃える青い炎のようだ。罪無き者の命を理不尽に狩る敵の姿に、ハルミは何かを重ね合わせていた。

(全員殺す)

 ハルミは右目に青の輝きを宿すと、【虚空索引リズ・スキャルフ】で遠視を行う。

「……三匹か」

 数キロメートル先、高層ビル屋上に狙撃銃を構える敵影を見つけた。


 +++++


 着地の衝撃で足元を瓦礫へと変えたハルミは、何事も無かったかのように屋上を歩む。

衝撃放射ブラスト】を連続使用することによる内臓への負担と、着地に際しての激突は【部分強化ビルド】で肉体を補強することでカバーできている。左足の金属義足は【動作付与シフト】による操作で不自由なく動かせている。ハルミは万全の状態であった。

(旦那、今度は三人ですな)

(すぐに終わらせる)

 ハルミは右手を掲げて、三本の指をそれぞれに向ける。言葉を交わす必要などない。

「“射撃”」

 ――しかし、ハルミの意思に反して、異能の銃撃が起動することは無かった。

「……貴方がかの悪名高きゴーストであられますか。お目にかかることができ光栄です」

 長身の男が、スフィアが言っていたラージという人物だろう。ならば太った男がミディアムで、小男がスモールか。曰く、彼らの異能はスフィアですらも把握していないものだ。ハルミは相手の言葉を無視して、確認を取ろうとした。

(クロハラ、聞こえるか。コイツラについてだが……)

 ハルミは心の中で呼びかけてみるが、返答が返ってくる様子はない。

(通じない?)

 つい先程まで確かにクロハラとのパスが繋がっていた。敵の注意を引きつけたこのタイミングで、クロハラが言葉を残すことなく攻撃によって消滅したとは考えにくい。

「おやおや、無視とは悲しいですね。私は貴方との対話を心待ちにしていたというのに。言葉でも――そして肉体でも」

 ラージが両の拳を突き合わせると、彼の身に纏う気配が一変した。獣が牙を剥き出しにするかのような凄まじい闘気を撒き散らすと同時、ラージが身に着けていた衣服が肉体の隆起によって引き千切れていく。そして身体工学の粋を凝らした肉体防護服プロテクターが顕となった。

(単純な身体強化だろう。それだけなら楽な相手だ。でも――)

 こうして相手が話している間にも、ハルミは何度も異能による銃撃を遂行しようとした。けれども一向に現象が現れずに空打ちに終わる。異能が使えないのだ。それはつまり、

「……異能無効化のシグナルか」

「せ、正解なんだな! 沢山力を持っていても、使えなかったら意味がないんだな!」

「おやおや、初耳といった顔をしていますね」

「シグナルの異能を封じた上でなぶり殺す――そんな隠し玉を公言する馬鹿はどこにもいないんだな! お前は兄者に甚振られるといいんだな!」

(一旦離れて形勢を立て直すか?)

 ハルミは周囲をさっと一望するが、そこでビル屋上が封鎖されていることに気づく。直径ミクロン単位の細かな繊維ワイヤーが、虫あみのように屋上全体に張り巡らされている。

「キシシシ、兄貴に敵わないなら逃げるのも手の内だぜェ?」

 そう言うスモールの背中へと、屋上を覆う繊維ワイヤーが収束している。それらは電導性を有しており、致死域の高電圧を帯びている。触れればハルミですらも命の保証は無い。

 ――異能を封じられ、逃げ場のない状況で、身体強化のシグナルと戦うというのか。

「もう始まっていますので」

 一足飛びで踏み込んできたラージが拳を振り下ろす。咄嗟の反応でハルミは退避すると、目の前を烈風が吹き荒れる。ハルミが【衝撃放射ブラスト】を使いビル屋上へと落下した時と同等か、あるいはそれ以上の衝撃が駆け抜けていった。

 対してハルミは、生じた逆に衝撃のエネルギーを利用した。勢いに背中を預けるように脚力を込めて地を蹴り、ミディアムの元へと駆け抜ける。

(一番面倒なのはお前だ)

 ハルミは一目散に、異能無効化のシグナルであるミディアムへと迫った。予め生成しておいたナイフを懐から取り出し――ミディアムの周囲に、月光を照り返す何かが煌めいた。

「チッ、アンタ目がいいなァ。普通は見えないのによォ」

 立ち止まったハルミに対して、スモールが恨めしそうに呟く。あやとりのように動かすスモールの指先に呼応するかのように、高電圧を帯びた極細の繊維ワイヤーが蠢いた。それはミディアムを守るかのようにとぐろを巻いている。それだけでなく、繊維ワイヤーは逃げ道を塞ぐかのようにハルミの進路を覆っている。

「貴方の相手は私ですよ?」

 ラージがハルミの元へと詰め寄る。左右と後方は高電圧の繊維ワイヤーで塞がれている。【衝撃放射ブラスト】が封じられた今、上方へと退避することも不可能だ。

(――本当に異能が封じられているのか?)

 クロハラとのパスが途絶えている今、ハルミは己へと純然に問いかけた。

 相手はシグナルだ。つまるところ、異能を無効化する異能であることには違いない。異能であるならば、“出来ること”と“出来ないこと”は存在する。

 ――ならば考えろ。可能と不可能を切り分けて、その間隙を突け。活路はそこにある。

 出力規模はどうだ? それに関してはスモールが高電圧の繊維ワイヤーでビル屋上を覆って逃げ場を無くしていることから、無効化に範囲が存在することを示唆している。

 出力条件はどうだ? スモールの繊維ワイヤー操作は科学技術によるものだろうが、桁違いな高電圧は間違いなく異能に由来するものだ。ラージの身体強化は言うまでも無い。

 つまりスモールの異能は、無効化する相手をハルミだけに限定することができるのか? 

 ……いや、違う。ハルミの右目は【虚空索引リズ・スキャルフ】によって視覚補強がなされたままであり、右の金属義足は【動作付与シフト】によって不自由なく動かせている。そもそも無効化であるならば、【金属生成スミス】によって生み出された義足は、発動と同時に消え失せているはずだ。

 では、何が無効化されているのか? ハルミの“銃撃“が機能しなかった時点で、弾丸を作り出す【金属生成スミス】は無効化されている――そしてここで矛盾が生じることとなる。

 なぜ弾丸を作り出す【金属生成スミス】は無効化されたのに、同じ【金属生成スミス】による金属義足は無効化されないのだろうか? その答えは単純である。金属義足は、ここに来る前に生成したものであるからだ。つまり、既に発動している異能を打ち消すことはできない。

 そしてもう一つ、金属義足を動かすための【動作付与シフト】が今も機能していることから、肉体内部、あるいは肉体と定義される箇所内部で生じる異能も打ち消すことはできない。

 ――つまるところ、ミディアムの“異能を無効化する”異能は、既に発動している異能、又は肉体内部で発動する異能を無効化することはできないのだ。

「無口な方だ。せめて断末魔だけでも聞かせて下さい」

 ハルミへと近接したラージが、右足を大きく振り被って回し蹴りを放つ。逃げ場などどこにもない――逃げるつもりはない。ハルミは左腕を掲げ、二つの異能を同時に起動する。

「“槍”と“強化“」

 ハルミは【金属生成スミス】を起動し、金属の槍を左腕の中に生成した。肉体内部で生成された異物は、左肘を貫通すると、そのまま地面へと突き刺さる。衝撃を受け止めるために、腕を地面に固定したのだ。そして万全を期す為に、左腕を【部分強化ビルド】で強固にする。

 ラージの表情に懸念の感情が走る。しかしもう遅い。コンクリートをも砕く必殺の回し蹴りが、槍で補強されたハルミの左腕を揺さぶった。地面へと突き刺した金属槍が、蹴りの威力で半ば折れる。それほどのまでに強力な一撃であったが、止めることには成功した。

 肉を切らせて骨も断たせた。ならば代わりに、

「命を寄越せ」

「何を――」

 渾身の回し蹴りを受け止められたことで僅かに硬直したラージに、ハルミはボロボロになった左腕を突き出す。手の平を分厚い胸板へと押し当てて、【衝撃放射ブラスト】を発動させた。

 左手内部で最大出力の衝撃波を放つ。己の血肉を引き千切るまでに荒れ狂うエネルギーの奔流が、ラージの胸部を打ち貫き、その先にある心臓を木っ端微塵に破裂させた。

 衝撃波の反作用によって、ハルミの左手は激しく仰け反ることとなる。

「ゴ……バッ……」

「兄貴が死んだァ? 信じらんねェ!」

 悲痛な表情とは裏腹に、スモールは冷静に指先を手繰る。高電圧を纏う繊維ワイヤーを操作し、ハルミへと叩き込もうとした。

 対してハルミの取った行動はただ一つ。無傷な右手の人差し指をスモールへと向けて、

「“射撃”」

 ――ばづん、と乾いた“銃撃”音が響いた。

「なん、でッ……てめェ異能をォ……」

 疑問を抱いたスモールが、すぐ横を見やる。ミディアムの頭部に、折れた金属槍が突き刺さっていることに気づいた時には、二発目の銃撃がスモールの頭部に風穴を開けていた。

 ……決着は一手前には付いていた。

 背後をも見渡す【虚空索引リズ・スキャルフ】でミディアムの空間座標を把握しておく。

 後はラージに衝撃波を放つと同時、反作用で左腕は跳ね返る。その勢いで左腕の中から飛び出した金属槍が、正確無比にミディアムの頭部を貫いたのであった。

 ミディアムが死亡したことで無効化の異能は効力を失い、ハルミは “射撃”を行使する。

 ――そして、三人はほぼ同時に死亡した。それはまさしく一瞬の攻防である。

 ハルミは使い物にならなくなった左腕を突き出すと、肘から先を金属繊維で切断した。即座に【金属生成スミス】で義手を生み出し、【動作付与シフト】によって命を注ぎ込む。

 金属製の五指が滑らかに動くのを確認し、ほんの一瞬、思考を巡らす。戦いについてだ。

(ああ……)

 彼らの対シグナルに特化したその連携は見事なものであった。レジスタンスとして暗夜戦争当時を戦い抜いたハルミの経験からも、強敵であったことには間違いない。加えて先の戦いの少女二人、マンションに襲撃してきた男二人も比類ない強さだったと言えよう。

 それでも、どうしても思ってしまう。

(……こんなものか)

 ハルミ自身、終戦から三年間の空白期間ブランクがあった。何一つ目的のない、“ただ生きているだけ”の自堕落な生活を送り、ぬるま湯に浸かるような怠惰な日々を過ごした。その代償がこの右足と左腕。三年前の自分ならこんな失態を犯すことなど無かっただろう。しかしそれも終わりだ。強敵との連戦を経て、ハルミはかつての感覚を取り戻しつつあった。

 それは連合側のシグナルを恐怖に陥れた、正体不明の【災厄指定レッドシグナル】、亡霊ゴーストとしてのものだ。

 状況確認を図るために、閉じていたクロハラとのパスを繋げる。

(旦那、無事ですかい?)

(左腕を失っただけだ。そっちはどうだ?)

(……だけ、じゃねえだろうよ。まあ、狙撃は止みましたな。しかしもう一人、こっちにへばり付いてきてやすぜ。わしの防護障壁バリアとやっこさんの氷槍で何とか持ちこたえてるが)

(分かった。すぐに行く)

(……旦那)

(なんだ?)

(わしらの上がりは、嬢ちゃんを逃がすことだ。生まれてからずっと暗闇に閉じ込められていた嬢ちゃんを生かすことだ。嬢ちゃんは何でも知っている。でも何にも分かっちゃいねえ。だから色んなことや、幸せってやつを教える必要がある……旦那の役目なんだ)

 先ほどまでパスは閉じていたというのに、クロハラはハルミの心の中で燻る炎に気づいていた。そこに理屈はない。ただそれだけの日々を、クロハラはハルミと過ごしてきたのだ。

(お願いですから、目的を違えないでくだせえ)

 ハルミはクロハラの言葉に何も返すこと無く、高層ビル屋上から飛び降りた。

 【衝撃放射ブラスト】を繰り、縦横無尽に空中を疾駆する。無限の視力を誇る青き右目には、追われているリットの姿ではなく、リットを追う敵影だけが映っていた。

(――これは続きだ。まだ終わっていない)

 リットを助けたい。それがハルミの本望であることに違いはない。であればこそ、それゆえに、リットの妨げとなる一切の敵を殺すべきだ。その理屈は正しいだろう。しかし、手段であるはずのそれが目的へとすり替わっていることにハルミが気づくことはなかった。

 自堕落で怠惰だと切り捨てた三年間だってそうだ。何の生産性もない引き篭もり生活であったが、それでもハルミは笑っていた。クロハラはいつも呆れていたが、実のところハルミが笑えていればそれで良かった。ぬるま湯の日々を、悪くないと、確かに思っていた。


 ――そんな感情を、ハルミは忘れていた。


 +++++


「あーもー! 忙しすぎるわよ!」

 スフィアは今運転席に収まっている。前方を見て車両を操縦しながらも、周囲に随行させた“浮遊球体”から氷槍を放ち敵の攻撃に対抗している。

 敵はアスリートのような出で立ちをしており、綺麗なフォームを維持しながら素足で車両速度に追いついている。どういう理屈かは分からないが、道路の瓦礫片や電灯が一人でに浮き上がり、猛烈な速度で車両へと飛来してくるのである。

 現在、スフィア一行は宵闇に包まれた夜の高架橋を、電灯と月明かりを頼りに走行している。これはなるべく周囲の被害を最小限に抑えた上での逃走ルートだ。しかしそれでも、敵の攻撃に巻き込まれて横転する車両はどうしても発生してしまう。そして察するに、

「お相手さんは、わざと周囲を巻き込んでいるように見受けられますな」

「そうみたいね。カタギに手を出すのはアタシとしても気分が悪いわ」

 スフィアの“円を底面として氷の槍を生み出す”異能【嘆きの氷樹グレイシアル・グレーター】の基準媒体となる一二個の浮遊球体は、それぞれが独自の探査センサーを備えている。仕入れた情報を脳内に組み込んだ生体基盤バイオチップで演算処理することで、スフィアの視覚補強を担っているのだ。

 フラタニティ・サイエンスを裏切ることを前提でディーの改造手術を受けたスフィアに、自爆装置や発信機の類いは仕込まれておらず、それだけは僥倖だったと言えよう。そして本来ならば浮遊球体は全てハルミに破壊されたはずであったが――

 ――これ、いる?

 なんと出発前にリットが“生成”してくれたのだ。おまけにどういう理屈か、新たな浮遊球体はスフィアの脳内生体基盤バイオチップと接続済みであり、思うがままに操作することができた。

(リットちゃんほんっとに規格外ね……そりゃ狙われるわよ)

 もしかしなくても、リットはスフィアより強いのだろう。異能としての格が違うのだ。

(というかぶっちゃけアタシの異能そんなに強くないんだって!)

 今も必死に敵の攻撃――というよりもスフィアにとっては元同僚だが――を氷槍で迎撃しているが、そのほとんどが逆に押し返される有様だ。一二個の浮遊球体を備えることで【嘆きの氷樹グレイシアル・グレーター】はある種の万能性を有しているが、射出される氷槍の威力や強度は別段優れたものではない。それでも暗夜戦争において負け無しのスフィアであったが、バケモノのような強さを誇る元同僚の異能群と比べると器用貧乏といった方が正しいだろう。

 唯一、満月を底面として夜空から巨大な氷槍を降らす一撃だけは【災厄指定レッド】に匹敵する破壊力を誇っており、その一芸突破の性能のみでディーの計画に組み込まれたのである。

 ――つまるところ、昨日輸送機を撃墜した時点でスフィアは用済みなのだ。

 計画において、感情や意思といったものを備えていないリットを、童女レヴィリスが使役する“銀ガラス”で苦もなく回収されるはずであった。しかし計画に支障が生じ、リットは自らの意思で銀ガラスを迎撃し、あまつさえ進路方向を山間部へと変更してみせた。

 その際に斥候として投入されたのがスフィアである。ディーにとってはそのままリットを捕獲すれば言うことなし、殺されても情報を入手することができるといった算段だったのだろう。そしてその通りにスフィアはハルミに殺されかけ――リットに命を救われた。

 リットは加害者であるスフィアを助けたばかりか、あまつさえ“仲間になるならば、星空をもう一度見たい、というあなたの夢を手伝う”と、契約さえ持ち掛けてきたのだ。

 役割を終え、死に向かう運命だったスフィアに、リットは新たな存在理由を吹き込んだ。

 そんなリットは今、助手席にちょこんと座り込み、ただじっと後ろを見つめている。

 正直言って、リットが何を考えているのかは分からない。戦おうと思えば誰よりも強い力を持っておきながら、その力を戦闘では頑なに行使しようとしない。それでも――

(ひまわりの種、あんな食べ方あるんだ。なかなか美味しかったわ)

 リットの異能は、誰かを傷つけるためではなく、そういったことに使われるべきものなのだろう。少なくともハルミの考えはそうだろうし、そこにはスフィアも賛成だ。

「……やっこさん、意外と良いやつですな」

 クロハラは感情を臭いで把握できる存在だ。不本意に悟られてスフィアは赤面する。

「急に人の心を読まないでよ! ともかく、汚れ仕事はアタシたちでやるわ」

「……ごめんなさい」

「嬢ちゃんが謝るこたあねえよ。でも、どうしても嬢ちゃんの力で誰かを傷付ける必要があるのかもしれねえ。どうしようもない時ってやつだ。その時は覚悟してくだせえ」

「ていうかネズミ! アイツはまだ来ないの!?」

 今のところ車両の走行速度に加えて、スフィアとクロハラの攻防もあって何とか凌げている有様だ。しかし、どうやらその拮抗も崩れようとしていた。

「あんさん前! 前!」

 後方に一瞬だけ注意を向けたスフィアが、前方へと意識を戻す。

 先ほどまで何もなかったはずの正面に、いつの間にか人影が佇んでいた。夜に紛れるかのような漆黒の修道服を着た神父が、真っ白な聖書を掲げている。ページが風で捲れゆく。

「神よ、御言葉をここに」

 浮遊球体で視覚を補強していたスフィアだけがその光景のおかしさに気づいていた。風に吹かれて捲れたページが、忽然と消失しているのだ。そして思い出す。彼の異能は――

「マズ――ッ!」

 スフィアは慌てて進路変更を試みたが、まるで空振るかのようなハンドルの感触に寒気を覚えた。聖書のページが一枚、ハンドル幹に挟まっていた。

 神父の異能は物質の空間転移だ。物質が転移する際、転移先の物質を押し退ける形で出現する。例えどのような硬度の物質であろうと、紙一枚の転移で容易く切断されてしまうのだ。神父の持つ聖書はその一ページ一ページに極小の認知タグが埋め込まれており、脳内の生体基盤バイオチップと連動することで複数の空間座標へと同時に転移させることができた。

 聖書の紙片は四つのタイヤ軸を切断し、前後左右の車両フレームに丁寧な切り込みを入れ、エンジンを断絶させ――クロハラの小さな首を切り離した。

「クロハラ……」

 霞のように掻き消えたクロハラに、無傷のリットが確かめるように呟く。

 スフィアが生きているのはたまたまだ。急な進路変更を行おうとした際に姿勢が乱れ、ページがスフィアの首から逸れたのだ。

 一瞬で解体された車両から二人が投げ飛ばされる。このような状況で頼りになるクロハラもういない。スフィアにこの状況を打破できる器用さはない。だとすれば――

「――死なせたくない」

 リットの周囲に幽かな光が集まる。この闇夜では月明かりと電灯の光源しか存しない。それでも、光粒子を対価とした任意形成能力【光の等価交換ソーラー=システム】の起動には十分だった。

 二人の進路上に半透明の球体、エアバックのようなものが生み出される。エアバックはスフィアとリットを弾くことなく全ての勢いを相殺すると、役割を終えて音もなく破裂した。宙空のスフィアはリットを抱え上げると、襲撃者を見据えるように地面へと着地した。

 ただしスフィアの目つきに覇気はない。この絶体絶命の状況を自分では打破できないことを知っているのだ。黙り込むスフィアに代わり、リットが懇願した。

「わたしを、あなたたちに委ねる。だからスフィアを――」

「それはなりません。裏切り者はここで死ぬ定めなのです」

 神父は有無を言わせず聖書を掲げ、言葉を発しようとする。

「ならばわたしが、あなたをこの手で……」

「いいわよリットちゃん、無理しなくても」

 死の予感に苛まれてもスフィアは絶望しない。今まで夢のためにシグナルを殺してきたスフィアに、そのような権利は無いと自覚しているのだ。ただかつて己が手を下してきたシグナルのように、今度は自分が手を下される番なのだと理解できた。

 ――なのに、どうしてだろう。スフィアの心のなかで何かが燻っていた。暗夜戦争当時のスフィアは死を恐れなかった。昨日までがそうだった。それなのに、一度死にかけ、命を救われ、夢への希望を与えられた。そのせいだろうか、ほんの少し思ってしまった。

(もったいないわね)

 ――悪い、遅くなった。

 声が聞こえたような気がした――その次の瞬間には、とてつもない轟音が生じた。

 それはまるで、目の前に雷が落ちてきたかのような衝撃だった。

 夜空から高速で飛来してきた何かが、敵影へと落下し、瓦礫片と砂煙を巻き上げる。耳を劈くような破壊音の後に静寂が訪れた。何が起きたのかは分からない。ただ一つ確かなことは、二人の敵影が姿を見せないということだけだ。スフィアはおぼろげながらに悟る。

 どんなに強力な異能を持っていようと、不意の一撃で即死してしまえば意味がないのだ。

 降りしくる欠片の音に紛れて、砂煙から一人の影が歩み出てきた。リットが小さく呼ぶ。

「――ハルミ」


 +++++


「……アンタ、他の相手はどうしたのよ。アイツら逃げても逃げてもしつこいわよ」

「心配ない。最初の二人、ここに来るまでに五人、さっきの二人――全員死んだ」

「ハア!? この短時間で!? 何よそれ、アタシが束になっても敵わない相手を……」

 連戦を経て呼吸一つ乱れていないハルミの声色に、スフィアは呆れるほかなかった。

「どうしたんだ? へたりこんで……お前足でもやられたのか?」

「ちょっと気が抜けてるだけよ。ほっといて」

 ぺたんと道路に座り込むスフィアを気遣うように、リットその背中を擦る。

「わたしたちは大丈夫。でもクロハラが……」

「わしがどうかしやしたかい?」

 ハルミの肩からにゅっと顔を突き出したクロハラが、とぼけたように声をあげた。

防護障壁バリアが砕かれてもまた生み出されるように、旦那が死なない限り、わしも死なねえ」

「心配して損したじゃない」

「クロハラ、ありがとう。これをどうぞ」

「ほう、砂糖で揚げたヒマワリの種とな。こりゃ格別の労いですぜ」

「ネズミだけずるいわよ! アタシも頑張ったんだから」

「うん、スフィアも。あなたたちが居なければ、わたしはここに居ることが出来なかった」

 リットがヒマワリの種を乗せた両手を突き出す。死闘を終えて緊張の糸が切れたからか、二人は貪るようにそれを口内に取り入れていく。

「なんだか辛いものが欲しいわね。ほら、酒と一緒につまむやつ」

「あんさん気が抜けすぎですぜ。あとわしも塩で揚げたのがいいですな」

「二人共くつろぎすぎだろ……まあ、少しだけならいいけど。その間は俺が見張っておく」

「ハルミ――その右足と左手は、どうしたの?」

 クロハラの死という懸念を解消したリットが、次に尋ねた言葉はハルミの安否だった。

 リットの言葉に釣られてスフィアが目を向ける。そこで初めて気づいたようだ。

「ていうか血がベッタリなんだけど」

「言っとくけど俺の血じゃないぞ? これでさっきのやつら殴ったからな」

 誤魔化すように嘯くハルミに、リットは言葉を曲げることはない。

「……そういうことではない。あなたは右足と左手を欠損している……見せて」

 こびり着いた鮮血に怯むことなく、リットはそれらの部位に触れる。

「――【世界の記憶レコード】へと接続――索引対象【欠損部位】……やっぱり、だめ」

 光の粒子がハルミの義手義足に吸い込まれたかと思えば、触れた瞬間に弾けて消える。

 リットの力はこの世界に存在する“知識”を、【世界の記憶レコード】から引き出して再現するものだ。しかし、どういうわけかハルミの存在は【世界の記憶レコード】に記述されていないという。「知らないものは、生み出せない」

「リットが気にする必要はない。これは俺の不策、至らなさが招いた罰だ。それにこうやって問題なく動かせるんだ。まだ俺は戦える。だったら、何の問題もないだろ」

「鎮痛剤だけでも」

「今はいい。感覚が麻痺すると動きが鈍る」

「……そう」

 何かを言おうとしたのだろうリットは、しかし何も言えずにいた。その出自から己の感情に疎いリットには、ハルミに対するもやもやとしたものが何なのか分からなかった。

 唯一、感情を嗅ぎ取れるクロハラだけがその機微に気づいていた。リットは、ハルミの“変容”を薄々察しているのだ。穏やかな日常を続けるための手段としての戦闘が、目的へとすり替わってしまっている。今のハルミは、戦うことだけが全てだった。

 そしてクロハラに言わせれば、ハルミは元々そういう性質なのだと。暗夜戦争終結から三年間の日常生活で普通へと“矯正”されていったハルミが、元に戻ったに過ぎない。

 しかし、クロハラはそんなハルミを咎めはしなかった。この現状を打破するためには、そのようなハルミの力が必要だ。それゆえに、ハルミの心の闇に見て見ぬ振りをした。

「さて、団欒の時間はおしめぇだ――新手のお出ましですぜ」

 クロハラの言葉に三人が一斉に夜空を仰ぎ見る。

 ――カア! カア! カア! 

「……銀色のカラス」

 月明かりを照り返す銀ガラスの群れが、不吉な鳴き声を絶えず上げている。

「群れの上に誰か乗ってるな。見えるか?」

「はしゃいでいる幼女と、学者風の出で立ちがおりますな」

「幼女はカラス使いの調教者レヴィリス。男が件の博士ディーよ」

「……ハルミ、逃げる? それとも」

「決まってる――承認しろ、【愚者の天秤ウロボロス・ロウ】」

 ハルミの全身を誰にも見えない総計七匹の蛇が抜け出してゆく。

「アンタに良いニュースよ。ディーが元いた組織を裏切って連れ出した人員は、アタシを含めて一一人。アンタが倒した数を差し引きすれば――あの二人を倒せば終わりよ」

「まあ元いた組織ってのが出張ってくる可能性も大いにありやすが、それは後で考えることですな――旦那、戦いは今日限りだ。あの緩やかで惚けた日常に帰りましょうぜ、旦那」

「……ああ」

 万感の思いを込めたクロハラの言葉に、ハルミは心ここにあらずといった空返事を返す。その断絶についぞ触れることなく、銀ガラスは高架橋へと降り立った。

 ――戦いが、始まる。


 +++++


 銀ガラスの絨毯から降り立ったディーは、先陣に立つハルミを見つけるや否や、歓喜を浮かべるかのように頬を緩ませた。レヴィリスを差し置くと、左目の単眼鏡モノクルを調整し、悠然とハルミたちの元へと歩み寄る。自身の手駒が尽く討ち取られたにも関わらず、その余裕は何なのか。いいや、そのような些事、ハルミにとって知る必要すらない。

「ねーねーディー、あれがゴーストって人?」

「まさしくね……しかし驚いたよ。まさかボクの部下を一晩で皆殺しにするとは……ともかく、レヴィ君は奥で待っているといい。……一通り楽しんだら、すぐに終わらせるよ」

「――御託はいい、終わるのはお前だ」

 有無を言わせずにハルミは異能による銃撃、それも一切慈悲のない乱射を行使した。通常の銃弾よりも遥かに高速で飛来するそれらは、ディーを蜂の巣にすべく殺到し――

「なんだい、実につまらないな」

 ――ズゾゾッ……

 何かを無理やり引く抜くかのような、不気味な低音を響かせると共に、ディーの足元で複数の亀裂が生じた。地面がひび割れたとも言うべきそれらの陥穽から、真っ黒な腕が無尽に這い出てきたのである。それはまるで地獄へと誘う亡者のようであった。

(足元から黒い“腕”。今までの刺客とは趣が違うみたいだな)

 腕の大きさはまばらだった。子供のように小さい手もあれば、老人のように折れ曲がった手もある。しかしそれらは一様に、同様の速度にて振るわれた。

 地面から生え出た無数の黒腕は、音速を凌駕する弾丸を余すことなく掴み取ると、恐るべき握力で以って握りつぶした。

 ――ギリギリと、圧力を受けた金属が悲鳴を上げて粉微塵となる。

(黒い手を生み出す異能。銃弾に対応する反応速度と、金属を破砕するほどの力)

 全ての銃撃を無力化されて尚、ハルミに戦意に一切の揺らぎはない。元よりこれまでのほとんどの敵は射撃に対応して見せた。であるならば、これは敵を試す試金石に過ぎない。

 射撃と同時に、【衝撃放射ブラスト】による空中機動でハルミはディーへと接近していた。最後まで近づくことなく、一定の距離、攻撃範囲の射程へと収めた瞬間に次なる一手を放つ。

「“踊る刃”」

 【金属生成スミス】によって極細の繊維ワイヤーを作成し、【動作付与シフト】による運動エネルギーで打ち振るう。ハルミの持つ異能の中でも対群能力に優れた攻撃だ。繊維ワイヤーはハルミの意思に呼応して、風を鳴かせて、蠢く無数の黒腕に切断の嵐を振り撒く。

「こんなものかね」

 確かに、ハルミの思惑通りに黒腕を切り裂くことには成功した。しかし、黒腕の強度が想定以上に優れているのか、深浅問わずに傷を付けるに留まった黒腕が幾つも見受けられた。次いで傷口からどす黒く粘性の高い液体が噴き出し、繊維ワイヤーを絡め取る。

 残った黒腕が繊維ワイヤーを掴み取ると、指が張り裂けるのも構わずにそれを引き千切った。全ての繊維ワイヤーを処理した黒腕は、癇癪を起こしたかのように身を震わせる。まるで黒腕の一本一本が感情を備え、同胞が討たれたことに怒りを抱いているかの光景だ。

 反撃はこれからだ、と言っているかのように黒腕の全てはハルミへと向く。

 しかし、攻撃を失敗に終えて尚、ハルミは進行方向を違えない。ただ一言、命じた。

「まだだ、“破線”」

 ディーを取り巻く黒腕の群れが、一斉にその身に光を湛える。黒腕の外皮、ハルミが繊維ワイヤーによって傷つけた切断創を這うように、オレンジ色の光が一瞬で駆け抜け――

 ――キンッ。

 僅かな無音の後に、高架橋を揺るがすほどの爆発音がこだました。

 ……爆発は、ハルミが持つ異能の一つ【直線爆破ライン】によるものだ。“裂傷を付ける”ことで“傷跡に沿って爆発を引き起こす”というこの異能は、本来ならば扱いの難しい部類である。なぜなら一般的な常識としてシグナルは異能を一つしか携えておらず、“裂傷を付ける”という発動条件を自力で達成しなければならないためだ。しかしハルミは複数の異能を行使することで、この条件を容易にクリアすることができる。

 そして“踊る刃”は二段構えの攻撃だ。繊維ワイヤーによる切断が防がれたとしても、傷つけた切断創を【直線爆破ライン】で爆破することで、高威力の追撃を即座に放てるのである。

 爆破による衝撃をハルミは捉え、それに乗ることで宙空への急上昇を果たした。

 硝煙渦巻く地上を、青色を湛えた右目で見つめる。ディーを囲う黒腕ごと爆破したがゆえに、通常ならばディーの損傷は免れ得ないはずであるが――

(……しぶといな)

 新たに地面から出現したであろう黒腕の群れが、ディーを爆破から守るかのようにドーム状に盛り上がっている。対して、その周囲には千切れ飛んだ黒腕が犇めいていた。コントロールを失った黒腕は狂ったようにのたうち回ると、やがて霞むように消失した。飛び散った黒い液体も同様に姿を失ってゆく。

 現状、どういう原理なのかは分からない。ただ、ダメージが通っていることは確かだ。

「“落ちる大槍”」

 【金属生成スミス】を起動し、ハルミは足元に強大な鉄の杭を生み出した。突然空中に建築物が生み出されたかのような、規格外のサイズを誇る金属塊だ。地上で蠢く黒腕を先端に捉えた金属塊は、生成と同時に落下を開始する。そこにハルミは足蹴にするかのように渾身の【衝撃放射ブラスト】を放ち、更には【動作付与シフト】で落下速度をかさ増しする。

 超重量の物体が高速で落下する。それはさながら質量兵器とも呼べる代物だった。

 上空の脅威に備えてか、新たにひび割れた地面から黒腕が援軍の如く現れる。

(させるか)

 しかし、金属塊よりも早く落下したハルミが、出現する黒腕の尽くを“踊る刃”で切り離していった。黒腕の硬度は大したものだ。しかし、どんなに異形の姿を見せつけていようと、それが手で在るならば弱点たる関節は確かに存在する。全てを見通す魔眼【虚空索引リズ・スキャルフ】を有するハルミは、切るべき場所を精確に把握できていた。

 まるで螺旋を描くかのような変則機動で空中を落下し、道すがらに見つけた黒腕を尽く切り苛んでゆく。そうして援軍を失った黒腕の群れに、巨大な杭の如き金属塊が落下した。

 ――ゴウウウウン!

 鐘の音を響かせるような重低音が辺り一面にこだまする。流石に敵わないと思ったか、黒腕は体勢を変え、金属塊を受け止めるのではなく、その矛先を逸らすように仕向けた。

 真横へと逸れた金属塊は高架橋を呆気なく貫通し、真下の海中へと飲み込まれていった。

「……ほう、今のは少しばかしヒヤリとしたね」

 金属塊の攻撃を受けて抉れた黒腕を、ディーは脱皮するかのようにその場に脱ぎ捨てた。

 瞬間、地面から生え出た次なる黒腕が現れて、ディーの周囲に揺らめいた。

 削れど削れど、新しい黒腕が生み出される。どのような異能かは知らないが、黒腕を剥がさない限りディーに攻撃が届かないことは確かだった――その布石は、既に打っている。

「しかし君、いつまでこんな無策で無意味な削り合いを続けるのかい?」

「何を言ってる? お前の負けだ――“照らせ”」

 ハルミがそう告げた瞬間――太陽が落ちてきたかの如き光が宵闇を切り裂いた。

 それと同時に、ディーの周囲を揺らめく黒腕がかき消えるかのように消失する。

 己を守護する全ての黒腕を失ったことで、ディーの表情に陰りが差した。

「……ふむ」

 突如としてあらゆる方向から生じた光源が、その輝きを余すこと無くディーへと向けている。宙を舞う光源の正体は、照明器具を載せて漂う“浮遊球体”である。照明自体はリットが“創造”したものであり、そこに何ら特別な効用は存在しない。しかし――

「観察して分かったことだ。お前が使役する“腕”は、全てお前の影から生じている」

(逆に言えば、影が無ければ“腕”を出せないわけですな)

 そもそもこの戦いが始まる前からハルミの有利は決まっていた。こちらには情報に内通する裏切り者のスフィアがおり、ディーのおおまかな能力についても聞かされていたのだ。

 曰く“黒い手を伸ばす能力”であると。

 今日の戦闘だけでもスフィアの情報に間違いは無かった。それでもハルミは念には念を入れ、全ての戦闘において先ずは相手の異能がどのようなものかという観察を行っていた。

 ディーとの戦いでもそうだ。ハルミは自身の引き出しの多さを利用して、常に攻撃の一撃一撃で相手の出方を調べてきた。 “目に見えるものであれば余さず拾い取る”魔眼の力【虚空索引リズ・スキャルフ】を利用して短時間の内に、黒腕の強度、特性、出現法則を解してゆく。

 そして先刻の【直線爆破ライン】による起爆攻撃にて、ハルミは黒腕の性質を見極めた。起爆攻撃はある程度のダメージを黒腕に齎している。その瞬間を【虚空索引リズ・スキャルフ】で視認していたからこそ、ハルミには分かる。黒腕は爆風によってダメージを負ったのではなく、それよりも前に生じた爆発の閃光を浴びて掻き消えたのだと。

 ハルミが爆風に乗ってディーの真上に飛翔したタイミングで、 “黒腕は影から伸びている”、“黒腕は光を浴びると消失する”という条件を確定させていたのである。

 次いで、パスを通じてクロハラに指示を送る。

 ――どんな手段でもいい。あいつに光を当てて影を無くしてくれ。

 ハルミは意図すら伝えていない。しかし、クロハラにはそれだけで十分だった。後はクロハラを通じてリットが【光の等価交換ソーラー=システム】を行使し、照明器具を“創造”する。そして照明器具をスフィアが操る浮遊球体へと搭載し、ディーの周囲へと散開させる。その僅かな時間を、ハルミは殺陣を演じることで稼ぐ――これは四人によって成し遂げた王手だった。

「あなたの相手はハルミだけではない」

「裏切り者に負ける気分はどうよ?」

 ハルミに抜かりはない。宙を漂う無数の光源は、ディーだけでなくハルミたち全員をくまなく照らし、彼らの陰影を拭い去っている。反撃すら許さずに、終わりを告げる。

「――“踊る刃”」

 無力化されたディーの周囲を、極細の繊維ワイヤーが包囲する。風切り音をかき鳴らし、不可視の斬撃がディーの元へと収束してゆく。そして――

「゙オォ、ゴブ……ッ!」

 正体不明の苦痛がハルミを貫き、大量の血塊を口から吐き出した。

 痛みの発信源である胸部に触れようとた時、身に覚えのない感触がハルミを困惑させた。

(全ての影を消し去り、その異能を封じた。なのに――)

 ――ハルミの腹部から黒い腕が伸びている。それがどこから生じたものかも分からない。ただ、その腕がハルミの臓腑に著しいダメージを与えたことは確かだった。唐突に命が削れてゆく感覚に、ハルミの視界は暗く濁ってゆく。

 責め苦はそれだけに終わらない。ハルミの背中を突き破って伸びだした二つの黒腕が、右手と左足を掴み取る。そしてハルミの意思を一切無視して、あらぬ方向へと手足を捻じ曲げていった。骨は皮膚から突き出て、筋肉は引き千切れ、神経は混迷を来たしてゆく。

「グッ……ァァァァ!」

 苦痛でのたうち回るハルミの視界に、“踊る刃”を難なく退けたディーの姿が映り込む。

「惜しい、実に惜しい。影――すなわち闇の具現化という君の推測は正しいのだよ」

 蠢く無数の黒腕を従えて、ディーは悠然と言い放つ。

「――であるならばこの【罪の海リグル・アビス】は、心の闇をも具現化する」

 許容量を遥かに超えた痛みで混濁したハルミの思考に、ディーの言葉が差し込まれる。

 それはハルミにとって全く意味不明の論理だった。

「ところで君、集合無意識という言葉を知っているかね? 全人類の意識というものは遠い深層で互いに繋がっているのだ。そこでは遥か昔から人類が経験してきた正と負――言い換えるならば光と闇の歴史が蓄積されてきた。その一方、闇の顕現こそが【罪の海リグル・アビス】だ」

「何を……言って、るんだ。お前は……」

「【罪の海リグル・アビス】はボクの異能ではないと言っているのだ。これは集合無意識に蓄積された負の人類史、積もり積もった怨嗟の澱、果てのない奈落の深淵。では、それはどこに在るというのか……答えは君の傍に居た。記録者リットが記す知識の根源たる【世界の記憶レコード】だ。そして──【星詠みの魔女】から奪ったこの左目は──【世界の記憶】を覗き込むことができるのだよ」

 ディーの言葉を理解することはできない。ただ、最後の言葉だけは確かに聞こえた。

 単眼鏡モノクルの奥から覗き込むディーの左目が、見間違えようのない青の輝きを放っている。

 それは、ハルミが探し求めた答えであった。

 ……かつて三年前、ハルミがレジスタンスとなり、たった一人で世界を敵に回して、【災厄指定レッド】を受けるほどに罪を重ねてきた意味。暗夜戦争末期の亡霊ゴーストと恐れられたその理由は、紺碧の両眼を有する【星詠みの魔女】を殺した誰かに、復讐を果たすためだった。

 ――その宿敵が、目の前にいる。


「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 どこにそんな力が残っているというのか、死の淵へと手を掛けていたハルミが、今までにない絶叫を上げた。その声には未だかつてないほどの怒気が篭っている。ハルミは両目を見開き、自身を陵辱する黒腕を無視して、気迫だけでディーの元へと這い寄ろうとする。

「お前が! お前がぁ! 殺す! お前だけは! お前だけは俺が殺してやる!」

「ああ、実に濃厚な負の想念……もっとだ。君が闇を湛えるほどに、闇は君を苛んでゆく」

 ハルミの全身を突き破って這い出した黒腕が、ハルミにあらん限りの苦悶を齎す。

「許さない! お前だけは! お前だけはァ! 俺が殺す! 必ず殺す!」

「しかしケダモノよ、人の言葉で話してくれたまえ。まるで意味が分からんな」

 倦厭するディーの意思に呼応するかのように、一本の黒腕がハルミの喉を突き破って現れ、完膚なきまでに声帯を破壊した。

「――――――――ッ!!」

 しかし声を奪われて尚、ハルミは呼気だけで叫び続ける。血が吹き出すのも構わずに、今この刹那の間に怒りを発する為だけに、猛烈な勢いで自らの命を削り取ってゆく。

「怒り……心理学的に理解はできても、ボクには分からない感情だね」

「――ッざけんないでよ!」

 後方から叫び声と共に、氷槍がディーの元へと飛来する。

「旦那から離れろッ!」

 そしてハルミの傍に出現したクロハラが、ハルミに取り付く黒腕を一本一本防護障壁バリアで隔離しようとする。

 つい先ほどまで、リットとスフィアは、クロハラの防護障壁バリア内で保護されていた。“何があっても外に出すな”というハルミの命令を、クロハラは今の今まで遵守していたのだ。

 ハルミにとっては味方を守りながら戦う方が勝算が薄くなるという判断なのだろうが、事ここに至りハルミに勝ち目は無くなった。故に主人を思う己の想念のみで、本来不可能なはずの命令違反を決行し、使役される存在という枠組みから無理矢理に抜け出した。

「スフィア君の働きはボクの想像を超えて見せた。そこにおいては賞賛を送るとしよう」

「ンなもの要らないわよ! 死ね!」

 スフィアの浮遊球体から放たれる氷槍を、黒腕は赤子の手を払うかのように迎え撃つ。

 動き出したスフィアとクロハラに揺り動かされるように、リットも決意を固めていた。

「……やめて。お願いだから、やめて……これ以上、ハルミを傷つけないで!」

「ほう。リット、君が意思を持つか。面白い、その力でボクをどうしたいと言うのだね?」

 リットはかつてないまでの底冷えのする瞳で――見るものの息を止めかねないほどの暗い美しさを放ち――ディーをじっと見つめた。確固たる敵意を秘めて、言葉を放つ。

「わたしが、あなたを倒す――あなたを殺す」

 リットが初めて覚えた静かな怒りに呼応するかのように、光の粒子が幾重にも散開する。

「人の狩猟は進化する。それは戦争――在るべきものは不可避の業火、飛翔する爆弾」

 ――【世界の記憶レコード】へと接続――索引対象【飛翔する爆弾】――必要条件を入力――検索結果【直接攻撃誘導弾“HYDRA-70(ハイドラ・セブンティ)”】――任意形成を開始――量産へと移行――

 横一文字に光の珠が弾けると、そこには無数もの“ロケット弾頭”が横列を成しているい。生物的本能を扇動するかのようなアラート音を響かせ、全ての先端がディーへと向く。

発射ファイア

 迷いなく放たれたリットの号令により、ロケット弾頭は推進剤を起爆させ、驚異的な瞬間加速を果たした。蛇が獲物に飛びつくが如き飛翔軌道を描いてディーへと殺到する。

 リットには怒りの感情がどのようなものかは分からない。ただ、ここにある衝動だけが全てだった。今この場でハルミを傷つける誰かを滅ぼせるなら、その為なら……。

 そうしてリットの抱くディーへの敵意が、ハルミを守りたいという気持ちを勝り――

「――反転したね」

 ――リットの眼前を黒い腕が埋め尽くした。

 突如として、全てのロケット弾頭を根にして、黒い腕が生え出てきた。それらの黒腕は好き勝手に踊り狂い、隣接する各々のロケット弾頭を、爆発すら生じさせずに削り取った。

「これじゃだめ――強く」

 ――【空対空誘導弾“SIDEWINDER(サイドワインダー)”】――任意形成を開始――量産へと移行――任意形成を開始――量産へと移行――

 光の粒子が弾けると――ロケット弾頭よりも二回りも大きい――ミサイル弾頭を辺り一面に展開した。人一人に向けるものとしてはあまりに過剰な戦力だった。

 リットは自身の抱いた澱んだ想い気づかぬまま、ディーへと死の行軍を告げる。

発射ファイア

「しかし無意味だ」

 リットが号令を掛けると同時、ミサイル弾頭から生え出た黒腕が、リットの生み出した兵器を片っ端から無力化してゆく。

「どうして……」

「リット君、君の光を全てに変える力【光の等価交換ソーラー=システム】は、対価としてそれ相応の光を消費する。ともすれば、光が消えた後に残るものは極めて純粋なる“闇”。【罪の海リグル・アビス】は、そういった“闇”から生じる力だ――つまるところ、君ではボクに勝てないのだよ」

  リットが光を何かに変えた時、ディーはそれと同じだけの“闇”を用いて相殺する。例え【光の等価交換ソーラー=システム】がどれほど規格外の力であろうと、【罪の海リグル・アビス】の前では無力であった。

「そこで少し大人しくしていたまえ」

 ディーの命令と同時にリットの背中から生じた黒腕が、リットを地面へと押し込んだ。

「これは、なに……」

「それはたった今君が抱いた内なる闇だ――そして、しかと見るがいい。幾度となく積み重ねてきた己の闇に殺される、哀れなる亡霊の末路を」

「だめ――!」


 +++++


 ――リットが表情をぐしゃぐしゃにして、ハルミへと手を伸ばしている。黒腕に蹂躙され組み伏せられたハルミは、ただその光景を眺めていた。

 黒腕に全身を苛まれ、貫かれ、破り取られ、その意識は既に風前の灯火であった。にも関わらず、その時だけは明瞭な思考を浮かべることができていた。

 それはまるで、消え掛けた火が風に吹かれて僅かに燃え盛るように。

(……俺は、何を……)

 怒りがあった。憤怒があった。殺意だけがハルミを突き動かしていた。なのに、ただ一心にハルミを思うリットを見て、ハルミの中を渦巻いていた激情が白く抜けてゆく。

(そうだ。俺は、)

 ハルミはリットへと手を伸ばす。

(何のために、戦って……)

 気づいた時には、後悔するよりも早く、

「――君の闇が、君の心を殺すんだ」

 ハルミの頭部から生じた黒腕が、ハルミの心臓を握り潰していた。


 ――ハルミの意識は奈落の底へと堕ちてゆく。

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