第8話
カウンターで英雄は一人、自分のボトルのウイスキーをロックにして飲んでいた。それまで我慢していたウイスキーをここで飲んだ。ウイスキーは自分が本当に落ち着いた空間や雰囲気、または心からの安心感がなければ飲まないようにしていた。酒に強くない英雄は酩酊してしまう恐れが心配だった。
飲んでいると何だか無性に明子に対して恋しさが増してきた。人恋しさという感情だ。先ほど妻には電話しておいた。「遅くなるから先に寝ていなさい」と。そう言わないと彼女はいつも英雄が帰るまで起きている。彼には、結婚当初もその前もずっと尽くしてくれている良い妻だ。
そんな妻がいるのにも関わらず急に、明子にメールをしたくなった。人の感情は、何かが後押ししてくれると加速度的に普段できないような突飛な行動ができてしまう。これも酒の所為だとは知りつつも、止める事は出来なかった。この日の英雄は正にそうだった。
それでも、思考回路を極限までに働かせて、怪しまれないようなメールの文章を考えて打ち間違いないように目を見開いて打った。
『今日は本当に楽しかったです。何だか高校時代の仲間との時間は心の支えになりました。明日の朝も公園で? 無理をしないようにして下さいネ。おやすみなさい』
この時も打つ指が震えて心臓が張り裂けそうになるほど、バクバクだった。四十歳という年齢になっても相変わらず、自分の小心者さに失笑していた。器が小さかったからこそ、たいした問題も起こさずに、ここまで生きて来たと思っていた。
ブルブルブルブルブルル……。
スマホのバイブレーションの音がカウンターの上で鳴り響いた。感情が一瞬で緊張状態になり血圧が上がっている実感がした。スマホを取る手が震えていた。その振動が静かな店内に鳴り響きメールを確認した。
『私も今日は楽しかったよ。昔から今の事まで沢山話せて良かったよね。明日も当然走るよ。だって走るのが生甲斐だもん(^-^)v 岩崎君は何だか疲れているみたいだったね。偉くなるのも大変だよね。けど、そこまで昇り詰めて行ったのだから見える景色も私たちとは違うんじゃない? 心から応援しています。おやすみなさい。明子』彼女らしい爽やかな大人の返信メールだった。
酒を飲みながら英雄は考え込んでいた。
「俺は明子と男女の関係になりたいのだろうか?明子と俺は不倫をしたいのだろうか?そんな事はない。ただ、屈託のない笑顔が素敵で、高校時代と何ら変わらずキラキラ輝いて、一所懸命にひたむきに、誠実に今も尚、生きている彼女に恋をしているだけなのかもしれない。自分が失ってしまった何かを持っている彼女に惹かれているだけだ」
そんな事を思いながら夜は深まっていった。一時間ほどで居心地の良い店を後にした。昭和の面影を残しつつ終焉を迎える一歩手前の街並みは味わい深く、趣を見せていた。英雄はこの街の人たちには悪いが、このようなセピア色になった古めかしい雰囲気が好きだった。
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