матрёшка,Петрушка 雪と氷のマトリョーシカ、死に踊るペトルーシュカ


 彼女の名前はタチヤーナ・ニコラエヴナ・ドルゴラプチェヴァ。

 中央ツェントルにおける暗号名は魔女ヴェディマ、最も優秀な工作員にして暗殺者。


 私がその上長でありはしたが、

 彼女ターニャは唯一の友人でもあった。



 私と会う彼女ターニャの変幻なる容姿は美しかった。

 るときは、幼気いたいけない少女のようであった。

 るときは、妖婉ようえんなる毒婦のようであった。


 大抵たいていは黒髪であるのを好み、長いときも短いときもあった。

 大抵たいていは喪服めいた黒を好み、女性的あったり中性的なよそおい。

 は猫めいた翡翠ひすい、或るいは鋼鉄めいた薄い氷色こおりいろであった。



 小柄でもなく大柄でもなくて強くしなやか、

 男女問わずいかなる姿にも為り変われた。


 欧米は彼女ターニャをドッペルゲンガーと呼んだ。

 るいは、夢魔ナイトメア死神グリムリーパーともささやき交わす。




 世界の情勢は予断を許さず、

 彼女ターニャはそれを安定さすべく、

 休むことなく暗躍し続けた。




 はたしてそれがただしかったのかどうか。

 もはやいまとなっては分からなくなった。


 何もかもすべていつわりにすぎなかったのか。



 我らは何故なにゆえに戦うのだろう。


 思想も信仰も疫病えきびょうのように、

 ただ憎悪をらすのみ。




 権力と猜疑にとりかれた男が、

 我が祖国にて支配の座に就いた。


 男の名はピョートル・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ。


 対立した私は解任されて拘束、

 粛清しゅくせいの嵐は収まること知らず。




 彼女ターニャによる私の救出、

 収容施設の爆破炎上。



 私達はすたれた工場に身を隠す。


 軍用の単車製造だったらしい。


 細長い工場左側通路の窓際。

 漆黒の自動二輪モータスィクルが整列する。


 それは撃ち落とされたからすのよう。

 薄っすらと白くほこりを被っていた。



 木枯しの吹きすさ小径こみち

 寒気さむげ外套がいとうえりを立て、

 枯葉を踏むせた中年。


 猫背気味の貧相な姿は、

 鎮魂曲レクイエムを依頼しに来た、

 死神のようだなと想う。



 副官であったグーセフがいう。



「どうか、逃げてください。


 彼女とかかわり合うことは、

 あなたのためになりません」






 ジュガシヴィリはその存在を危険視し、

 魔女ヴェディマへの処刑命令を下した。




 私は亡命をくわだてる、

 せめて彼女ターニャだけでも…。



 けれど………こばまれた。



「命じられるまま、おおくの命をうばって来た。

 もう、どれだけころしたかなんてわすれたわ。


 いまそのむくいとか受けるときが来たかも。

 ただそれだけの本当ほんとどうだっていいこと。


 だから…おわらせよう、それが最後の仕事しごと



 ひそりと静かでおだやかな、

 やさしい鈴音すずねのような声。



「死ぬ……死ぬつもりなの」


 胸ぐらをつかんでさぶる。



「この心臓しんぞうね、きっといしよ。

 たぶん人の心なんてない。


 だからなない。

 ただこわれるだけ。



 おわらなきゃとまれない。

 ずっとおどつづけるよ。


 ターニャも、あのジュガシヴィリも」



 黒い前髪が垂れかかり、

 猫目石の瞳をかげらせる。





「お願い、貴女ヤロスラーヴァは生きて。

 生きて人民をたすけて」



 歩み去ろうとするその背。



「ターニャ、あんたの心臓それが石なら、

 きっと綺麗な孔雀石なんだわ」



 私が叫ぶと彼女ターニャの口もとが、

 ほんのかすか笑った気がした。





 立てつづけな側近暗殺に、

 いたるところの反乱暴動。


 炎の背後で踊る魔女ヴェデマの影。



 誰をも信じられぬジュガシヴィリは、

 クレムリンの奥に閉じ込もった。


 脳髄に巣喰すくむしんでいく狂気、

 心臓を切り刻む恐怖にかれ。



   ☁ ☁ ☁


 闇色な暗い月夜つきよのさなか、

 厳重な警備がやぶられ、

 兵はすべて殺しつくされた。



   ☁ ☁ ☂


 ふと男は目覚めた、

 余りにも静寂な故。


 遠い通路からの足音に、

 硬い軍靴の重さはない。


 それは小さな子供が、

 濡れそぼった裸足で、


 歩いているような…。



 扉がノックされる。

 拳銃を手にし誰何すいか


 応答なく解錠の音。

 掛金が外れて落る。


 ゆっくりと扉が…。



 拳銃を乱射する。

 乱射、乱射する。



 硝煙の匂いが、

 闇に立ち込め、


 驟雨しゅううのやんだ後に似た、

 弾の空になった銃の音。



 ゆっくりとゆっくりと…、

 扉が…開いてゆく…………。




   ☁ ☂ ☽


 いつのまに月をおお叢雲むらくもが消えたのか、

 窓にかるカーテンから月光が差込む。



 皓々こうこうたる月灯璃つきあかりの中、

 ゆるやかに波打ちつつ、


 頸筋くびすじかり更にくるぶしまで、

 つややかにたおやかに流れ落る、


 黒髪だけを身にまとってたたずむ、

 月虹色げっこういろの瞳をした裸の少女。

 


 髪の分かれめからのぞく、

 少しせてみえる肩先かたさき


 薄い微かな乳房、

 淡く色づく乳首。



 雪花膏せっかこうのように白い肌、

 めらかな白堊はくあの太腿。


 内腿の薄い皮膚に、

 透けて視える静脈。



 白い小鳩のように幻めいて、

 華奢なすあしあしうらで押印される、


 黒ずみべたつく血塗ちまみれのあしあと



 扉向こうにわだかまる、

 暗闇からただよう、


 鉄錆てつさびじみた血溜ちだまりのにおい、

 垂流たれながした糞尿ふんにょう臓物ぞうもつにおい。



 にもかかわらず……、

 それらに入り混じる、


 きよらかなようでありながら、

 何処どことなく淫靡いんびあまにおい。



 その自我を溶解ようかいさせ、

 官能のわなからめ取る、


 かぐぐ者を眩惑げんわく酩酊めいていおとしいれる酒のよう、

 どくふくんだ美しい花のみつのような匂い。




 拳銃トカレフ TT-33が手から滑り落ちる。




   肉 ……果肉


柘榴ざくろ…………血の味



          聖体礼儀


       血と肉



生命の水ズィズネーニャ・ワダ


   ……火酒ウオトカ




 蹌踉よろめきながら少女へと……。




    吸血鬼ウイプリ ………水妖ルサルカ



  金銀花スイカズラ 花蜜


       ……赤い実カリンカ



    禁断ザプリエートヌイー木の実プロート




 くずおれるようにひざまづく。


 少女の股間のにおいをぐかのように、

 顔をめようとして意識が途切れた。




   ☁ ☁ ☼


 ようやく一夜が明け、

 異変を察したらしい。



 兵士達が踏み込んだとき、

 少女と一晩中踊らされた、


 ジュガシヴィリはもはや、

 形をとどめていなかった。



 おびただしい血の絨毯じゅうたんひろがり、

 がれがれている生皮。


 わずかばかりの肉片と骨片、

 喰い千切られた臓器の切端きれはし



 おぞましい苦悶の形相ぎょうそうに歪んだ首が、

 はだかで座った少女のひざの上にある。


 真朱まっかな少女の口が、

 弓のように笑った。




 彼女ターニャは何ら抵抗せず、

 あっさりと囚われた。


 凌辱拷問を受けたすえ

 はだかままで銃殺される。



 その場で兵士達が全員自殺。

 魔女ヴェディマによる精神汚染だった。


 凌辱と処刑の映像記録だけが残されて、

 彼女ターニャの死体は発見されなかったという。




 ジュガシヴィリの病死が報じられ、

 暗殺の事実は隠蔽された。


 彼女ターニャが本当に死んだなんて…………、

 いつか、私の前に姿を見せ…………。



 ………………………………いつか。





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