6.銀色
逃げ帰る敗者たちを、得意げに尾を振り回しながら草原の一族が追っていく。
若者たちは敵をしつこく追い打ちし、縄張りを越えた奥までまとわりついて行きそうだった。浮かれる彼らの中には、黒毛のはぐれ雄の姿も混じっていた。
放浪中に彼なりの試練を乗り越えたのだろうか。体躯は以前よりも格段にしっかりと肉付き、濡れた鼻面は精悍に光を弾いている。ぴんと立てた三角の耳の先まで、この激しい乱戦でも傷一つ負わず、彼は若い雌と肩を並べて勝利の喜びに酔いしれていた。
共に領土を守った同胞として、今度こそ群れへ加えてもらえるはずだ! 彼は少し遠くへ行きすぎてから、谷の斜面へ駆け戻った。同年代の狼たちとはとっくに打ち解けているのだ。王に幾度邪険にされても、姿勢を低くし、寝転がって腹をみせ、忠誠を示す覚悟はできていた。
だが、戻った先に待っていたのは思いもかけない奇妙な光景だった。
一足先に集合していた草原の狼たち。勝利の遠吠えを喚き、沸いているはずの彼らがなぜか水を打ったように静まり返っている。訝しみながら寄っていくと、皆一様にこちらへ背を向け、凍りついて谷を見下ろしているのだった。
上空では、再び鴉たちが啼き戻っていた。忌々しい、嫌われものの鴉たち――白銀の翼、白銀の
死の使者はそこかしこに息絶えた狼の屍に群がっていたが、どうやら谷底にだけは近寄れないでいるらしい。鳥は降りかけてはまた舞い上がり、ギャアギャアとやかましく不満を訴えていた。
いったい何があるというのか? 黒毛の雄は仲間に割り込み、
暗い谷底に見えたのは、峡谷の王の死骸だ。だが真に恐ろしいのは、その傍らにうずくまる影だった。屍肉を独占し、近寄る鴉に怒りながらそれを貪る血みどろの草原の王……。
恐怖が群れを支配していた。誰もが声を発せず、動くことができなかった。頭上で鴉の罵りが交錯し、下からは不機嫌な唸り声と、ぶつぶつ肉を断つ、ぞっとする咀嚼音だけが届いていた。
ふいに一族の後背、斜面の上から肌寒い風が吹き降ろしてきた。呼ばれたように老王が顔を上げる。半開きの口、長い牙から糸を引いて銀のしずくが滴り落ちた。
融けた鏡にも似た銀滴——峡谷の王の心臓から溢れ、その潰れた片目から止めどなく流れる銀色の鮮血。
草原の王の虚ろな両目が、立ち尽くす一族を捉えたとき、彼の心に生じた変化は、同じ死にゆくものにしか理解できなかっただろう。
なんにせよ王は狂気に堕ちていた。彼は唐突な咆哮を轟かせると、意味不明な憤怒を剥き出しにして、一族めがけて稲妻のごとく斜面を駆け登ったのだ。
恐怖に駆られ、ちりぢりに逃げ出す群れの仲間たち。だがただ一頭、若い黒毛の放浪雄だけが頑としてその場にとどまっていた。彼は毛を逆立て足を踏ん張り、決闘の咆え声を勢いよく放った。もう背を向けて逃げる気はなかった。先の戦いの勝利、そして多くの仲間と共闘した興奮が、彼の自信を揺るぎないものに高めていたから。
勝負は、たった一瞬。下から駆け登る王が弾丸となって跳躍し、上で待ち構えた若雄が身を乗り出して下方へ踏み切る。地の利を得たものの勝ちだった。斜面の小石に足をとられた鈍重な王の牙は空振りし、敏捷な若雄の体躯は宿命を負って王を弾き倒していた。
二頭の狼は斜面を滑り、谷底まで砂煙が追っていった。揉み合いの攻防もわずかの間。大地に組み伏せられた自分が、老王には信じられないようだった。
尊大な唸りでどけと命じ、王はもがいて起き上がろうとする。しかし若雄の身体は微動もせず、疲弊した王の老体に彼自身の銀毛は重すぎた。長く虚しい抵抗のあと、とうとう王は鼻声を漏らした。機敏な挙動で、若雄がその場を退く。
老王は立ち上がろうとして三度も失敗し、ようやく成功したさいにも、ふらついて腰を落とした。正気を取り戻した王の目に移ったのは、遠巻きにした一族の、よそよそしい態度だった。
それから、死骸も。
彼が殺した、峡谷の王の死体。破れたぼろ布さながらの残骸を視界の端に捉えたとき、王の身体は再び奇妙な身震いに襲われた。銀血に誘いだされる強烈な飢餓がある。だが同時に、それを押し返すほど強く、舌に絡みつく味への不気味な違和感、不快感。
ねっとり、血はざらついてえぐみが深く、苦く、嘔吐しかけるほど激しい金属的な刺激があった。飢えを満たそうとする、あえぐような渇望、憧れ。約束された快楽への期待。そうした精神から来る衝動と、舌が、肉体が訴える猛烈な嫌悪が矛盾して分裂する。
血とは、これほど不快だったか? ――いや、獣の血の味はみな一緒だ。
同族の血だからなのか?――いや、銀血こそ狼の飢えを癒す
傍らの唸りにはっとして、老王は三度落ちかけていた意識の混濁から自我を引き戻した。
睨みをきかせている黒い新王。先代王――老いた銀狼は家族を見渡した。己が何をしたのか、すでに過去は混乱の彼方へ埋没し、はっきりとは憶えていなかったが、自分が玉座を賭けた決闘に負けたことだけは理解していた。
縄張り争いを共に戦った若雄を、群れはとうに受け入れているようだった。一族には頼れる新王が、若い娘には伴侶が必要だ。否応なく、彼にも玉座を退く時期が来ていたのだ。
風が吹いてくる。斜面の上から。夜明けを迎えようとする空の反対側、静かに闇を納めゆく西の黒い森から。深い木立の奥から誘ってくる、あの呼び声が届いていた。
カチリ。彼の頭のどこかでスイッチが入れ替わる。彼のけして知りえぬ過去、細胞のひとつひとつに設計された緻密で狡猾なスイッチが。
王座を追われた老狼は、くるりと背を向けた。儀式めいた遠吠えをするでもなく、遺しゆく家族を振り向きもせずに。
だが群れのほうはしばらくのあいだ、びっこを引き引き去って行く彼を名残惜しげに見守っていた。血と泥で汚れきり、みすぼらしくもなお猛々しく月光を乱反射する彼の背中。燦めきは銀の星炎のようだ。勇壮だった、彼の生きざまそのものを表して。
この大地を、己の爪牙だけで確かに戦い抜いた彼の威容。二年という寿命のうち、一度も生え換わりなしに伸び続け、太り続けた彼の長毛。毛先は地を擦らんばかりだった、あれほどの美事な、特異な、奇怪な毛皮。
黒毛の新王は、ふと不安を抱いた。彼ほど常識はずれの巨狼なら、いずれ体力を取り戻し、草原に戻る日も来るのでは? なぜ自分は、彼が峡谷の王を殺したように、先代王の息の根を止めてしまわなかったのだろう?
だが新王の思案はそこで止まる。これから伴侶となる雌が、ご機嫌取りに寄り添ってきたのだ。
新王は仲間たちの歓迎を受け、領土への帰途についた。根から茎、葉、穂先まで、ぎらつく銀色に染め抜かれた眩い豊穣の草原へと。
駆ける新王の心には、すでに先ほどの疑問は跡形もない。そもそも彼は答えを知っている気がしていた。ほとんど意識に上らぬだけで、彼のような若い狼にも、風に紛れた呼び声は、いつでも嗅ぎとることができたから。
幾筋もの細い風脈に溶け込み、それは常に大気に流されている。乳児や若者は気にも留めず、死に近いものだけが惹かれる香り。それが老王に死期を悟らせ、新王に殺しを止めさせていた。
獣たちには約束がある。
この大地に生を受けた、彼らだけに開かれる扉がある。
狼、鹿、鴉たちと大地に蔓延る植物でさえ、何者も素質を備え、何者にも使命があった。
答えは呼び声が示唆している。
甘やかな呼び声は、この地に生きる命たちの最期の旅の道標なのだ。
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