7.森

 夢を踏みゆく足取りで、老狼は西の森へと分け入っていく。木立を縫い、優しく流れる子守歌に似た不可視の香りに導かれて。

 彼はなかば目を瞑り、だらしなく開いた顎からは絶え間なしに涎を垂らしていたが、もはや威厳は必要なかった。理性はほんのひとかけら。意識のほとんどは、記憶と夢想の入り交じった幻想の森を歩んでいた。時折、何かが彼のあやふやな琴線に触れると、霞んだ自我をつかのま現実へ引き戻すだけ。そして瞬き瞬き、無我へと帰る。

 彼の夢見る大地は白銀——陽光を乱反射する鏡の草むらが繁茂して、丸々と肥えた白銀斑の鹿たちが大群をなす。満腹した彼の家族は被毛に星の色を遊ばせつつ、平安な午後のひとときを微睡んでいる。

 それは輝かしかった過去への懐旧であり、幼心にしみついた、頼もしい大人たちの夢だった。安心の色であり、幸福の色であり、食べ物の――美しい、おぞましい、彼を惹きつけてやまぬ血肉の色。鹿の血、狼の血、鴉の血……。

 一瞬、鎌首をもたげた鋭い飢えの衝動は、すぐさま呼び声に抑制され、霧散する――もう必要ない、もうなのだと。

 先端まで乾ききった白い鼻を持ちあげて、彼は疲れてつまずきがちな脚に鞭打ち、先へと進む。森の奥へ、その先の呼び声の麓へと。道すじは、今や草原の獣道より明確だった。ただ折に触れ、何かの啓示のように五感が息を吹き返すと、無意識に捉えた森の景色がどうしてか脚を躓かせるのだった。

 呼び声を受け入れるまでは、ただ暗く禍々しく、近づくべきでないと忌避した死の森の内部。義務を果たし終えた身になってみると、なぜか懐かしいような、ひどく好ましいものに思えてくるのはなぜだろう——それは呼び声に惹起される衝動とは、また別の感情のようで、そのちぐはぐな印象は彼を少しだけ混乱させた。

 森の外ではありえない、多種多様な草花と樹木の形。その枝振りにも葉にも、彼の愛する銀色はほとんど見えない。木々の樹肌は深みのある黒から焦げ茶色で、葉や草や苔の色は、彼がその名を知りようもない様々な色味の緑をしていた。稀には華やかな銀色が、植物体のそこかしこに小さくこびりつくこともあった。しかし不思議にも彼は今、その輝きが葉や幹へ作り出す模様について、以前とはまったく逆の心象を抱くのだった。

 癒やしがたい病や毒による、ただれや疥癬かいせん。どこか肉体の奥深く、知られざる太古の記憶の底から警告される、危険と忌避。

 奇妙だ、奇妙だ——彼は思う。銀色は至福の色、満腹の色のはずでは? だのに、この恐怖はどうしたことか。まるで己の心が、真っ二つに裂かれてしまったかのよう……。

 ふと彼は立ち止まり、今や矛盾した印象を与える銀のまだら模様を持つ木の葉を眺めた。ぎざぎざの縁を白銀色に飾られた葉は、輝きの強い部分から脆くなり、ちょうどちりちりと崩れてゆくところだった。別の枝葉には朝露よりもきららかな銀の腫瘤しゅりゅうが無数に細かく噴き出でている。その近くに、彼が初めて目にする六本脚の生き物がいた。

 木の幹と同じ濃い色、光沢のある外骨格。細かく震える触覚の動きで、彼はそれを生き物と判じたが、甲虫という種類までは知るよしもない。虫はせっせと木の葉の緑の部分を囓っており、勢いのまま銀の腫瘤も食べ始める。そしてほどなく緩慢に動きを止め、ぽとりと土に転げ落ちた。鼻先を近づけるともう死んでいた。

 ギャアッと警告があり彼の耳先を羽ばたきがかすめ、頭を引いたときには鴉が虫の死骸を摘まんで飛び去っていた。彼は歩みを再開した。

 森は深まるにつれ、むしろ木立はまばらになっていくようだった。かわりに奇岩の林立が、時々彼の行く手を塞いだ。何本もの組まれた棒が捻れたり、ひしゃげたり、あるいは傷だらけの薄い硬壁が、反対側から破裂したように崩れ、倒れている。草原の玉座を連想させる怪岩群は、次第に数も種類も増していったが、それらはもはや彼の関心の埒外らちがいだった。

 周囲の世界は彼にとり、もう無意味なものになった。ますます濃厚になる呼び声が、根源に近づきつつある香りがもたらすのは、理性をとろかすひたすらな多幸感だけだ。

 心の求めるまま彼は歩を進め、やがて前方に月光めいた薄青い光が射してくる。森の終わりから一歩を踏み出す瞬間にだけ、彼は胸の深い場所から寂しいような、淡い感傷が立ち上るのを感じた。振り向いた鼻先を、柔らかな草葉の青臭さ、朽ちた木々の複雑な香りが優しく包み込んでくる。いかなる激しい輝きもない暗い森の中にこそ、どうしようもなく懐かしい何かがある気がするのだが……。

 けれどそのとき前方から、そよ風が吹き付ける。彼の迷いを察したように。呼び声は教えていた——何も疑うことはないのだと。おまえの肉体も知っているはず。呼び声に約束された快楽も、おまえのけして知り得ぬ過去、細胞のひとつひとつに刻まれた野生の形質と違いはないのだ……。

 それはまだ目も開かぬ幼い日、母の熱く張った乳房の上でまどろんだ巣穴の安息。腹を満たした一族と、暖かな陽射しの下で身を寄せ合って過ごした安穏。あるいは伴侶となった雌と戯れ、互いに顔を舐め合った親愛の熱情……。

 銀の幻想が帰ってくる。

 歩む彼の爪先が、固い地面を掻いてカチャカチャと鳴った。いつしか大地は潔癖なほど平坦で、完璧に正方形の切石が灰色に敷き詰められた場所と変わっていた。雑草の一本も生える隙のない地面は広大に森の閑地を占有し、その中央、朝霧の彼方にぼんやりと巨大な構造物の影を霞ませている。

 もしここに正気の獣がいたならば、恐れて逃げ出したことだろう。未明の淡い光の下、景色を曖昧に滲ませる霧のそこかしこに、気配を感じさせぬ静かな獣たちの長い行列が浮かび上がっていた。濃淡の差こそあれ、彼らはみな大地の白銀を被毛に宿した老獣たちだ。息をあえがせ、身体をひきずり、必死に這い、体液を垂れ、大気に太い本流となった濃厚な呼び声を無心に辿っている。

 獣たちは森の各方位から放射状の列をなし、上空には老鴉ろうあの群れが蚊柱めいた渦を作って旋回していた。次第に羽ばたきを弱める鴉たちがぽとり、ぽとりと落ちていくのは、閑地中央に聳える構造物の内部である。せ返るほどの呼び声に導かれるまま、老狼も他の獣と前後して構造物を目指していった。狼、鹿、鴉。同じ使命、同じ約束、同じ運命を持つ、たった三種類のこの地の獣。

 やがて間近に迫った構造物の外観は敷石同様に灰色で、どんな角度も造形も、単純な直線と平面で成り立っていた。正面に切り抜かれた入口もまた潔い四角形だ。開け放たれた内部からは、清潔な白色光が皓々と溢れている。

 老狼は扉の向こうへ足を踏み入れてゆく。全ての思考をかされながら。呼び声の濃密な甘さが彼を優しく抱き入れて、ついに狼は、この地の最後の約束へと辿り着いた。

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