5.闘争
新月。だが下界は闇ではない。
太陽の妹同様、月の双子の片方が毎晩違わぬ道筋で世界を淡く照らすからだ。満ち欠けも沈みもしない
鹿たちは大気を緊張させる闘争の気配を敏感に察して、すでに今夜の食卓を遠い場所へと移していた。耳障りな声で啼きかわし、仲間を呼ぶのは
草原の狼と峡谷の狼、二つの派閥の群狼は、ちょうど縄張りの境界にある小さな谷の斜面に相対していた。日の入りに、若者どうしの小競りあいからはじまった喧嘩は、もはや避けようもない群れどうしの巨大な衝突を予感していた。
遅かれ早かれ、いつかはぶつかる運命だったのだ――草原の王たる彼は今、呼び声からは遠く離れて、自らが守るべき仲間たちの中心にしっかりと立っていた。
縄張りは群れの胃袋にして絆。敗北すれば一族の離散と、彼ら一頭一頭の死を含む先の見えない受難が待っている。なんとしても勝たねばならない。本能が駆り立てるから――怒れ、許すな、お前の領土を奪おうとするものたちを。噛み裂き、組み伏せ、徹底的に脅威を見せつけろ――獲物を奪う愚かものども、家族を殺そうとする敵どもに!
病によって草原の群れは数を減らしていたが、それでも大人たちの半分は生き残った。一方峡谷の群れは数を増やしたものの、谷に育つ草はか細く獲物は少なく、縄張りを広げようにも二つの壁に阻まれて長く不可能だった。草原には大きな群れがおり、北側にはこの地の全周を囲う高くそびえた壁がある。総勢で五十を超える二つの群れの頭数は拮抗していた。
単なる睨み合い、警告の喚き合いに終始していた前座が徐々に熱を帯びてゆく。苛立ちを含んだ仲間への鼓舞、耳に不快な相手への嘲笑。敵味方の唸りと咆哮が絡み合い、耐えきれなくなった一頭が駆け出せば、あとは一気に火がついた。
老いたりとはいえ草原の王は歴代最強の王だった。尾を振り立て、視線を合わせるだけで怖気づく峡谷の若造たちを蹴散らし、跳ね飛ばし、脅えた顔で歯向かってきた雄の肩を容赦なく噛み裂く。身体は重く、走りは鈍くとも、この戦争に追うべき獲物はいない。敵は自ら彼に挑みかかり、銀針の鎧と化した厚い被毛に跳ね返されては、他愛なく悲鳴をあげて逃げだしていった。
一度だけ、王はこずるい奇襲者に後脚のひかがみを強く咬まれたが、仲間の果敢な援護のおかげで大した傷は受けなかった。実はこのとき彼を救ったのは、乱闘にまぎれて手助けに入ったいつかの黒い放浪雄だ。だが王は気づかなかった。ちょうど興奮した狼たちの混沌の渦をかき割るように、峡谷側の王狼が彼めがけて突進してきたからだ。
侮れぬ勢いだった。峡谷の王は彼より小柄ではあったが、吊り上がった
激突。草原の王は脚をよろめかせ、峡谷の王は強い銀毛に口蓋を突き刺されて血を流した。跳びちがい、次には容易に踏みこむ機を見いだせず、二頭の王は対峙したままぐるぐると円を描いた。二つの群れの狼が叫び合い、脅し合い、くんずほづれつする台風の目。群れ同士は互角のようだ。ならば王の戦いで帰趨が決まる。
草原の王は喉奥からの唸りを増し、耳と尾を示威的に立ちあげた。最初の体当たりでどこかの関節に異音がしたが、まるで痛みは感じていない。爆発寸前の火球のごとく長毛を限界まで逆立てれば、彼の体躯は二回りも巨大な化け狼となる。
峡谷の王も跳ね散った血が般若の顔面を彩って、細長く尖った顔つきにいっそうの残忍さを与えていた。底光りする黄色い両眼は瞬きを知らず、炎を噴いて激しい殺意をほとばしらせている。腹底から轟く凄まじい唸り合いの数秒。二王は地を蹴り、疾風となって再度衝突した。
牙と牙がぶつかりあう。二頭の視界に火花が散った。
峡谷の王は草原の王にのしかかり、顔を齧ろうと牙をがちがち鳴らした。草原の王は激しく身をくねらせ、相手の柔軟な前脚を逃れて後脚だけで立ち上がる。伸び上がって顎を最大に開き、敵をふりほどくや頭上から逆襲した。
背側から首に食らいつく。思いのほか厚い敵のたてがみ。だが獲物の血を何層にも塗り重ね、磨きこんだ老王の牙は
信じがたい筋肉の反発が、敵の肩と背に盛りあがった。刹那、力任せの激しい揺さぶり。老王は牙を抜かれてはね除られ、思い切り振り飛ばされる。キャンキャンと甲高い悲鳴は巻き添えを食った他の愚かものだ。慌てふためき逃げようとするそいつの動きに邪魔されて、草原の王は一呼吸の間、体勢を整え損ねた。ああ、呪わしいこの関節! 強張って動かず、彼は無様にもつれ倒れる。まずい。危険を感じた直後、凶牙を並べた敵の大口が目前に殺到していた。
避けようもなかった。仰向けのまま、老王は四つ脚を延ばして相手を迎えた。疾駆の速度と重力まで乗せた壮絶な突撃。重みに肋が軋み、音のない悲鳴となって肺から空気が押し出される。だが、ただでやられたりはするものか! 喉笛に食らいつかれると同時に草原の王も弾かれたように首を捻り、相手の顔面半分に齧りついていた。
体当たりの勢いは激烈だった。二頭は喰らいあったまま、ごろごろと大地を跳ね転がる。相手の上になり、下になりするうち地面の傾斜がきつくなった。坂を転げ落ちている。だが二頭とも絶対に敵を解放したりはしなかった。
相手の下敷きになるたび、尖った小石や岩が草原の王の老体を痛めつける。彼の牙の隙間から血泡となって空気が漏れた。苦しい――目眩とともに、老王は初めて生々しい恐怖を感じていた。視界が暗くなった気がする。まさか窒息しかけているのか? 顎を今すぐ開け放し、急いで呼吸をしなければ! しかし——
明滅する世界の中で彼は必死に衝動を噛み殺した。己が分かっていたからだ――ひとたび口を開けたが最後、この喉から絞り出されるのは、敗北者の哀れな悲鳴だろう!
全身全霊を込めて抗った。血を
ふいに、敵の頭がわずかに横ずれした。これまでとは異なる
銀色、銀色――全ての思考が無に還る。
不可解な白熱。しかしこれはよく知っている、馴染みぶかい、原初の、根源の、もっとも純粋なる衝動。いやそうではない。これは新奇で、情理に反し、掟には無く、相反する、おぞましい擬態——
いずれにせよ無意識。
欲望。渇き。快楽。飢え。異常な力が顎にみなぎる。
ようやく落下の止まった谷底で、彼は呼吸も忘れて仇敵を咥え込んだ。ぎしり、ぎしり、口内に不気味な音が響く。異常な咬力に屈しゆく、分厚いはずの敵の頭蓋。
知らぬうちに離れていた峡谷の王の口吻が、弱弱しい命乞いを奏でていた。甲高い懇願は震えながら音を失い、やがて哀泣に似た、か細い鼻声へと——。
いつしか、あらゆる物音は夜のしじまに呑まれていた。
あたりは月弟の静謐な光が、また淡く空間を掃きはじめていた。敗北を悟った峡谷の狼が、一頭また一頭と、身を翻して北の岩陰へ消えていく。
狼たちの存亡を賭けた戦争が、ここに終結していた。
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