4.呼び声

 呼び声。それはこの地ではありふれた香りのひとつである。

 透明な細糸で紡がれた巨大な蜘蛛の網のように、梢を揺らす風の中、小川にくゆる川霧の底、草原を渡る気脈の道に常に薄くたなびいている。

 嗅ぎとれば甘くかんばしいが、その底流には何か無情な、背中の毛をぞっと逆立たせる虚ろなものも潜ませている。だから狼たちは、呼び声の出所である西の黒い森にはけして近づかない。

 それは狼だけでなく、鹿や鳥たちも同様だ。森は呼び声に逆らえぬほど弱ったもの、老いたものだけが死に場所を探して還る場所。香りに呼ばれた生き物は、呆けたように森を目指すようになる。いや、自我を保てぬほど衰弱するから、呼ばれるまま香りを辿るのかもしれない。

 老いたりとはいえ王はまだ、そこまでの夢遊状態に至ったことがないからわからない。仲間の制止や警告で我に返るなら見込みはあるが——だが、今度の雨で病みついたものの多くは錯乱し、家族にさえ牙を剥いた。そして自力で歩けなくなる前に、森へと旅立ってしまった。

 なかでも悲惨なのは、ある母親だった。

 彼女は群れで二番目に若かった母親。先の夏に生まれ草原の一族に加わった外来の雌で、王の息子とまぐわって初めての仔を宿した。けれどもともと放浪中に、牡鹿おじかの角に突かれた傷を持っていたらしい。そのせいで普通より弱りやすく、また心にも小さくない不安を抱えていたのだろう。

 彼女の堕とした子供は全部が奇形だった。しかも複数頭が融合し、あるべきでない場所に生えた歯列や突出した骨が、産道を下る際に母体をひどく傷つけた。暗い巣穴の奥に堕ちた未熟児たちは母の血に塗れていた。

 光の届かぬ暗闇で、狭い産室に充満した血のにおいに溺れ、嘆き尽くせぬ悲嘆に打ちのめされた彼女は人知れず狂ってしまったのだろう。

 彼女は堕胎した自らの仔を喰った。本来ならば草地に放置し、屍肉喰らいの鴉どもに任せねばならなかったものを。

 一度血に狂い、仲間に食指を向けたものはけして群れには置いておけない。喰った相手が血の繋がった肉親ならばなおさらだ。それは喧嘩や縄張り争いや、配偶者、順位を巡る戦いとは根本的に異なっている。

 血は、似ているのだ——本質的には変わらない。狼の血も、鹿の血も。

 その華やかな輝きと芳香、舌を痺れさす喜悦の甘みに気づいてしまえば、見境がつかなくなる。獲物と間違え、同胞を襲うようになってしまう。

 王は躊躇する仲間の先頭に立ち、憐れな母親に制裁を加えた。

 病み衰え、絶望した雌は最後まで正気を取り戻すことはなかった。狂った狼に怖れはない。己の倍以上も巨躯の王へ向かって飛びかかり、運命への憎しみなのか飢えなのか、彼女は分別のない怒りを乗せた牙を彼へ突き立てた。

 攻撃は王の分厚い被毛に跳ね返されて無為に終わり、王は軽く雌を押さえつけて首筋に警告の牙を当てた——そのつもりだった。かすった歯先が彼女の皮膚を裂いたのは、ほんの偶然にすぎなかった。この母親は、あまりに若かったのだ。被毛は灰色と茶の混じった暗い柄で、皮膚の柔らかさも子供同然。王の硬質化した銀の鎧とはまるで別物。

 雌はヒステリックな悲鳴を上げ、身を捩って群れから逃げ出した。痩せ細った身体からは想像もつかぬ速さで駆けだし、闇雲に逃げ惑うようでいて、その進路は確実に西へ西へと向かっていた。そして突然立ち止まると、草地に転げこみ慌ただしく己の胸元を舐めだした。

 見守っていた王と仲間たちはぞっとしたものだ。彼女はもはや、首から流れ出た自身の血にさえも欲望を刺激されていた。

 やがて雌は立ち上がり、草穂の奥へと姿を消した。その足取りはふらふら、よたよたと、例の夢遊状態にあるのは明らかで、王は見送りを打ち切った。対峙した最中、ずっと焦点の合わなかった彼女の目つきを振り払うように。彼女のまとっていた死の狂気が感染するのを恐れるように。

 一族が病に襲われてこの方、忘れていた恐れが彼の胸の内に鎌首をもたげていた。

 彼の銀毛はいよいよ重く、太く、過ごした月日を樹木の年輪のように凝集ぎょうしゅうさせて、一本一本が磨いた針金のごとく剛直に硬化していた。関節はすっかり凝り固まり、眼光は鈍い鉛色に、鼻はまだかろうじて湿っていたが若いころの鋭敏さは半分も失っていた。

 なにより時折、彼自身、呼び声を強く嗅ぎ取るようにもなっていた。

 ただ駆け跳ねるのが楽しく、野心と活力に溢れていたころは気にも留めなかったものを、王は最近ふと気がつくと、あの香りを一心に嗅いで陶酔している己を見いだした。風の加減で濃厚に香る日などは、気脈の根源——西の森——を探し求めてあたりを不機嫌に徘徊し、仲間たちを恐れさせたり、不審がらせたりもしたのだ。

 森は、逃れられぬ狼の運命。いや狼のみならず、この地に生きる鹿や鴉、すべての生命に約束された終焉の土地だ。しかし、まだ早い——呼び声に素直に身を委ね、約束された安穏に至るには、まだ王は救わねばならぬ家族への深い愛情を背負っていた。

 それに、彼には狩猟があった。鹿狩りが、いまだ彼を草原を統べる王の地位にとどまらせてくれた。

 獲物の動きを読み、攻めどきと退きどきを知り尽くした彼の采配は、他の誰にもまねできるものではなかったから。もっとも重要なのは鹿の血の鮮やかな芳香だ。狩りのたび、それが王に以前の食欲と自信、尊厳と確信を取り戻させてくれた。

 牙立てた心臓から溢れる鮮血の熱さが、狩り、食い、仔を増やすという狼の天性を思い出させてくれる。家族を守る責任、子孫を養う誇り。獲物を狩り、肉を食らって血を飲みほし、風と競って野を駆けること。太古の時代から受け継いだ本能、細胞のひとつひとつに刻まれた狼の命の燃やしかたを——生きる喜びを。

 だが、どうしても……。

 血が甘いのだ。

 狂った雌の見送りを終え、巣穴の丘へ戻った王は、いつもの玉座へどっと倒れ込むように寝そべった。硬化した己の毛先が岩とこすれあって嫌な音を立てても、彼の意識は別のところにあった。彼はじっと耐えている。閉じた顎の内側で、先ほど偶然に牙にかけてしまった雌の血がしっとり溶けてゆくのを。

 彼にとって仲間の血は嫌悪すべきものでしかない。微細な差だが、鹿の血とは明確に違うのだ。においも味も、輝きさえ。狼の血には、理由のないおぞましさがあった。ねっとりと舌に絡み、金臭い以上に癖のある刺激臭がツンと鼻腔を抜けて、喉を下るさいには灼けるような道筋を残す。

 耐えがたい、耐えがたい……。

 無意識のうち王は鼻に皺寄せ、低く恐ろしい唸りを漏らした。心配した弟が岩の下から顔を見せ、彼の脚を鼻で小突くと王は反射的に苛立ちのひと吠えを浴びせた。すると跳ね起きた拍子に溜まっていた唾液が顎から零れ落ちた。我知らず、彼は慌てて岩上へ転々と散ったそれを舐め取ろうと舌を伸ばした。

 と、そのときに気がついた——はじめから、吐き出してしまえばよかったのだと。

 愕然と王は凍りついた。だが直後、病に伏せていた家族の一頭が悲痛な叫びを上げたので、彼はさっと岩を飛び下り看病へ駆けつけた。仲間を心配するその瞳には、先ほど血を味わっていた狂おしい光はなく、弟狼を脅えさせた理不尽な癇癪の気配も消え去っていた。

 だから、もしこのまま何事もなければ、王はあと一、二世代は己の子孫を残せたかもしれない。

 けれども彼の群れが再び力を取り戻し、一族が新たな命の産声を聞くよりも先に、峡谷に棲まう狼の群れが草原の覇権を奪うために攻めてきた。

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