3.雨
草は、食われたそばから伸びる。
冬枯れの季節はこない。太陽の軌道が傾いて大気が冷えこむ気配を見せると、ひと回り小さな太陽の妹が補うように共に天を巡り始めるからだ。同様に夜は双子の月が草原に光熱を注ぐ。霜は氷と化すことはなく、花は散っては咲き、種子を結び、水はぬるく——大地には終わらぬ夏が続く。
だから鹿はひっきりなしに仔を孕む。
幼獣はひと月で成熟し、妊娠二十日足らずで五、六頭の仔を産んだ。彼らは、次つぎ産むために顔をあげる間も惜しんで草を食む。食わねばすぐ乳が枯れるので力の限り、命ある限り、寝る間も惜しんで食っている。
狼の群れでも雌は一度に十数頭の仔を産むが、獲物は無造作に増えるから飢える心配はなかった。食物連鎖の頂点に立つ彼らの脅威は二つだけ。まず一つ――仲間を殺し、縄張りを奪う同族の群れ。より恐ろしいのは二つ目だった。時折の雨期が連れてくる敵、どう抗おうとも防ぎようのない奇妙な病である。
雨期の訪れに周期はない。つまり予見して逃れることもできない。わずかな予兆として、まれに天高く蜂の巣状のグリッドが閃くことがあるが、狼の眼にそれは映らない。この雨には特徴があり、空が広く晴れ渡り、重く湿った雨雲がどこにも見えずとも、一度降り出せば数日のあいだは間断なく降り続く。
実はかつて丘陵地帯には、三つの異なる狼の群れがあった。雲のない雨が降るたびに、彼らは災厄に見舞われて数を減らしてきた。草穂の種が一斉に腐り、鹿が飢えて死に絶えたことがある。あるいは鹿たちが病に倒れ、姿を消したこともあった。病死した鹿を食えるのは老いて道理も掟も忘れはてた狂狼だけだ。そんなとき狼は縄張りを捨て、雨に濡れずにすんだ他の土地を決死の覚悟で侵略するしかない。
だが、それもまだしもと言える。不吉の雨が狼自身を狙ったとき、彼らには戦いようがなかった。
これは彼が経験した、幾度目の雨期だったろうか——火花を散らすごとく銀の草原を燦めかせた雨がやみ、死神は遅れてやってきた。
最初に倒れたのは、ようやく乳離れしたばかりの幼児たちだ。赤ん坊は元来みな虚弱で、大人の半分ほどの体重に育つまで獲物の血に負けてすら死にやすい。まだ産まれてもいない胎児などは論外だ。妊娠していた母親たちは全頭が体調を崩して死産した。
流れ堕ちた子供は無残だった。目鼻口も見分けられぬほど未熟な個体はともかく、ある程度身体のできかけた胎児はみな激しい奇形を患っていた。頭や脚や尾が複数あるもの。反対に目玉が一つしかないもの。身体の各部位の長さがめちゃくちゃなもの。ただの肉塊となり、針金状に伸びた毛で同腹の兄弟姉妹を絡め殺したもの。
病が触手を伸ばすのは、そうした異形を産み堕とした悲劇の母親だけにとどまらない。つい前日まで活発に駆け回っていた極めて頑健な若者たちさえ、突然に脱毛して吐血し、弱々しく呻いて地に伏せた。比較的、軽症で済んだのは王をはじめとした老狼が四頭だけだった。
狼にとって数は力だ。日々の糧を狩る上でも、縄張りを固持する戦力の上でも。王はいよいよ老いていたが、彼の家族への愛と忠誠は揺るぎないものだった。関節の痛みに脚を引きずり、時折白んだように霞む厄介な視界に悩まされながらも、彼は同輩を率いて鹿を狩った。腹いっぱいに血肉を詰め込み、強靱な顎で獲物を巣へ引きずって帰って一族に食べさせた。
彼の吐き戻しに鹿の血のにおいを嗅ぎ、なんとか舌を伸ばす息子や娘たち。毎日、彼らの汚れた顔や痙攣する脚を舐めてやり、王は一族を励まし続けた。この苦難は長くは続かない。歳経た彼はそれを知っていたから。
雨がもたらす病は一時的だ。幼児や胎児は死に絶え、大人たちも身体の弱いものから順々に死んでゆくが、その対価のように生き残った者は以前よりも輝かしい存在になれる——つまり、肉体が大地の銀色を多く宿せるようになるのだ。
銀は命の色であり、狼一族には力の象徴。残念ながら老いすぎたものはその恩恵に預かれないが、この災いを乗り越えた暁には文字通り、群れはかつての銀輝の時代を取り戻すだろう。
でなければ、きっと峡谷の群れが草原を奪いに来る。
最悪の事態を防ぐため、王は重い身体に鞭打って必死に鹿を運び続けた。死の呼び声から、可能な限り一族を遠ざけようと躍起になったのだ。
けれども彼の努力も虚しく、倒れ伏した家族の多くが呼び声を嗅いでしまった。
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