第20話 ハートのエース⑩

投球練習はなかった。


 静かな闘志を宿して、夏澄はマウンドで構えている。

 俺もまた、無言でバッターボックスに入る。

 ただし──入るのは前回の勝負とは違う、左打席だ。


「……え……?」

「──行くぞ、夏澄。乗り越えて見せろ」


 魔法に掛けられた俺の身体が、その動きをなぞる。

 下からバットを大回しした後に、弓を引くようにバットを立てて構えるルーティン──。

 夏澄の心を壊した元凶である、由川さんのルーティーンだ。

 これは単なる猿真似じゃない。ベルの魔法による完全能力コピーだ。

 理屈だと、こんなことは絶対に起こりえない。

 だけど超一流の投手である夏澄の身体は、感覚で理解してしまうのだ。


「……っ、う、ぁ……っ……」


 夏澄の顔色はみるみる土気色になり、まだ一球も投げていないのに汗が流れ出す。

 狙い通り、イップスの症状が顔を出した。

 しかし夏澄は時間を使って何とか息を整えて、ワインドアップモーションへ──。

 しならせた腕が、弾丸のようにボールを放った。


「──しッ!」


 ボール球に外れていく。

 制球難じゃない。夏澄がただ、怯えて逃げただけだ。

 だけど俺は容赦しない。外れた球でも無理矢理踏み込み、


「──────────────」


 すうっと、バットを振り抜いた。

 達人が刀で斬ったみたいだった。鋭く静かで、重さがない。

 しかし確実に殺している。

 美しい放物線を描いたボールが、フェンスを悠々と超えていった。


「…………外れたか。ファールだから、ノーカウントだな」


 打球は風に巻かれ、ライト線のフェアゾーンから切れていった。

 全てが計算通りの挙動。ベルが仕込んだ魔法のバットに間違いはない。

 ──夏澄が逃げようとしたら、こいつは全てを残酷な形でカットする。


「次を投げろ。夏澄」

「……あ、ぁ、ぁ……っ」

「ストライクを全力で投げてこいっ! じゃないとお前は、ここで終わりなんだぞ!」


 自分の全てを賭けたボールが、打ち砕かれるかもしれない場所。

 そこへ踏み込んだ全力を投げられるようにならない限り、夏澄の問題は解決しない!


「ぅ、ぁ、ぁ、あ、ぁああああ──────っ!」


 何球も何球も、暴れるようにボールを投げる。

 だけど見当違いのところに外れる。俺が届く範囲なら残酷にカットされる。

 それがいつまでも繰り返される、地獄のような時間が続く。

 過呼吸気味になった夏澄の息は荒く、瞳孔は開いている。マウンドで溺れているようだ。

 それでも手は貸さない。嚙み締めた唇から血の味が滲んでも、絶対に何も言わない。

 ただ、黙って待つ。信じて待ち続ける──。


「──あ……!?」


 夏澄の指先からボールが離れた瞬間、肌が剝がれたような悲鳴がした。

 凶弾が、俺の身体へ一直線──。


「避けてっ!!」


 避けなかった。微動だにせず、目をかっ開いたまま受け止めた。

 肉の抉れるような音と衝撃が、右肩を貫く。

 耐えがたい鈍痛に肩を押さえ、俺は声もなくその場に座り込んでしまった。


「夜光くんっ!」


 弾かれたようにマウンドから駆け寄ろうとする夏澄。


「──降りるなぁっ!」


 それを俺は、睨み付けて吼えた。


「……降りるんじゃない。降りたら、負けだぞ!」


 鈍磨していた痛みが、焼けるような熱を伴って強くなっていく。

 全身に脂汗が滲み出てきて、呻いて倒れたくなる。

 だけど──それがどうした。


「こんなもの、夏澄の痛みに比べれば何てことない!」

「……っ。夜光、くん……」

「怖いか? 逃げたいか? ……それでいいんだよ。それが戦うってことなんだ。夏澄が知らなかっただけで、本当はこういうもんなんだよ!」


 夏澄はまだ、天衣無縫だった頃の夢を見ている。

 だからいつまでも息苦しい。だけど俺は思うんだ。


「──それが分からないぐらい、今まで夏澄のレベルが低かったんだよ!」


 馬鹿の山で有頂天になって、絶望の谷の深さを知らない愚か者。

 それは無敵のエースとは言わない。単なるお山の大将だ。


「夏澄はイップスなんかじゃない。不調の本当の原因は、単なるお前のヘタクソだっ!」

「……っ!」


 火の玉ストレートを投げてやる。

 それを夏澄は、


「──そんなの、もう分かってるよ!」


 逃げずに真っ正面から、受け止めてくれた。


「それでもあたし、辞めないから!」

「……なら、這いつくばってでも次を投げろよ。天才」


 俺はにやりと笑い、バットを彼女に突きつける。


「戦って勝ち取れ。さもなきゃその場所、俺が奪うぞ!」

「……うん。あげない」


 心の在処を確かめるように、夏澄は胸の前で両手を合わせる。

 そして自分が今から全身全霊で投げる真っ直ぐの握りを見せつけて、にやりと笑った。


「──ここは、あたしの場所だ!」

「……来い!」


 夏澄が美しいフォームで振りかぶる。

 見るまでもないと、俺は微笑んで目を瞑った。

 目蓋に焼き付いたナイターの光で、夢が見える。

 舞台は超満員のスタジアム。

 マウンドに立つ投手の背中には『FUJIKAWA』の名前と、小さなポニーテール。

 エースナンバーである背番号『1』を翻し、彼女が投げると──、


【160km/h】


 世界が変わる。

 そんな美しい夢を見た。

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