第19話 ハートのエース⑨

 そのあと、ひとしきり遊んだ。

 自分で言うのもなんだけど、中々に良いデートだったと思う。

 服を着替えてからは夏澄も楽しんでくれていたし、そこに噓はなかったと信じたい。


「──夜光さま。……そろそろ、着くよ」

「ああ、ありがとう。俺の方は起きている」


 ベルが運転するタクシーの後部座席から、車窓を眺める。

 外はもうすっかり真っ暗で、きれいな星々が夜景とともに後ろへ流れていく。


「……夏澄の方は、まだ眠っているけどな」


 振り向くと、肩には充電が切れたみたいに眠る夏澄の頭がよりかかっている。

 女の子の生々しい温かさと香りにどきどきするけれど、それよりも、少しでも休んでほしいという慈しみの気持ちが大きかった。


「信頼されてるね。……今日のデート、なしでも全然いけたかも?」

「いや。絶対に必要な時間だったよ」


 慈しむように、俺は夏澄の頭を撫でた。


「こうして野球以外で幸せになる方法もあるって、夏澄にはちゃんと知ってほしかったんだ」

「……結局最後は、あそこに行くのに?」

「解法はあればあるほどいいんだよ。大事なのはそんなことじゃない」


 結局、人間の問題に唯一解なんてありはしない。

 それが分かった上で、あえて俺が『正しい解法』を定義するのなら──。


「答えは自分で選ぶ。そして選んだからには、正解にするために生きていく。それだけだよ」

「……そうだね。夜光さま、着いたよ」

「分かった。俺に掛ける魔法は?」

「もう終わってる。そのまま決めてきて」


 ぐっ、と親指を立てるベルに礼を言い、俺は夏澄の肩を優しく揺すった。


「夏澄。起きてくれ」

「…………ん、ぁ? ………っ、ご、ごめんなさい。……夜光くん。ここ、どこ?」


 俺は隠しておいた道具類を夏澄に手渡し、微笑む。


「元の世界だ」





 ナイターの白い光に、その場所は照らされている。

 星蘭高校女子野球部の練習グラウンドに、俺たちは二人きりだった。

 グラブとボールを持って、俺はホームベース近くのキャッチャーの位置に立つ。


「夏澄──……」


 準備できたぞと呼びかけるはずの声が、尻切れになった。

 しばらくそのまま、見ていたくて。


「──────────────────」


 マウンド上の夏澄は、黙って背中を向けている。

 歩いてきた道のりを振り返るように、遠くを見つめている。

 夏澄が着ているのは、今日買った新しい服のままだ。

 だけど彼女がただそこに立っているだけで、その背に負ってきた背番号『1』が。

 ただひとりその場所で戦い続けてきた生き様が。

 俺には、はっきりと見えた気がした。


「……こんな格好でマウンドに立つなって、昔のあたしが見たら怒るだろうなー」


 夏澄が振り返って、胸の前でグラブを開け閉じする。

 俺は促されるままにボールを投げるが、制球が乱れて少し高くなってしまう。

 だけど夏澄は元気な犬みたいに、楽しそうに飛びついてキャッチした。


「あははっ。へたくそ」

「うるさいなあ。届くだけいいだろ」


 軽口と一緒に、しばらくキャッチボールをする。

 ぱしん。ぱしん。ぱしん。無言に心地良いグラブの音。

 ばしん──俺がギアを上げて、口を開いた。


「どうだった? 『もしも藤川夏澄に野球がなかったら』の世界は」

「つまんなかった」


 夏澄がボールを投げ返す、


「……って、言うつもりだったのになー」


 フリをした。

 腕を振ったが、ボールは持ったままだ。


「おのれ。すっごく、楽しかった。特別な一日になっちゃったじゃん」

「……そうか。それなら良かった」

「『普通』なんて、ないんだね。あたし知らないうちに見下してた。ヤなやつだった」


 夏澄は両腰に手を当てて、まるで決め球が打たれたみたいに苦笑する。


「夜光くん。あたしね、世界を変える夢があったの」

「夢?」

「うん。160キロをぶん投げて、完全試合をしまくる夢」


 にっ! と夏澄は強く笑う。


「そしたらみんな、あたしに注目するでしょ? 人気の無い女子野球でも興味を持ってくれるでしょ? そこからやってみたいって子が沢山出てきて、女子野球は一躍人気になるの」

「なるほど。それは世界が変わるなあ」

「うん。だからやってやろうって思ったの。絶対できるって思ってたし、その通りになってたんだよ? ……でもね」


 夏澄の表情から、笑顔が消える。


「最近、コケちゃって、さ」

「……うん」

「大好きだった野球が、すっごく、しんどい。……打たれるたびに、消えたくなって。こうやって野球から離れると、ほっとしてる自分がいて」


 それから、と夏澄の目が潤む。


「夜光くんといると、たのしくて。……もう、全部いいかなあって、思っちゃって」


 握ったボールに目を落とす。

 その爪先は、可愛いピンク色に塗られている。


「ほんとは分かってたんだ。あたしが『特別』に思ってるのはとっても小さな世界で、みんな女子野球なんて知らないで楽しく生きてるんだーって。あたしが『天才』であろうとなかろうと、世界はぐるぐる回っちゃうんだって」

「……そうだな」

「……あたし、野球忘れた方が、幸せになれるね」


 俺は深く、目を閉じた。

 そうか。そうなったか。だけどそれが、夏澄の選んだ答えだって言うんなら。

 俺は全てを受け入れて、彼女を抱きしめよう──。


「──でもね」


 空気の揺らぎを感じて、俺ははっと目を開く。

 ワインドアップモーション──祈るように合わせた夏澄の両手が振り上げられて、

 次の瞬間には、俺のグラブは後方に吹っ飛ばされていた。

 本当に投げたのか、分からなくなるぐらい速かった。

 だけど凄まじい速球が投げられたことを、俺は確かに思い出すんだ。

 何度も見惚れてきた、全力を投じた後のそのフォームで。


「──あたし、思い出しちゃいました。夜光さん」


 ポーカーフェイスのエースが笑う。

 どんな闇でも吞み込んで、それでも藤川夏澄はマウンドに立って投げるのだ。


「やっぱり、忘れられません。あたしが一番好きなのは、野球なんです」

「……お前を不幸にする、悪い奴だぞ?」

「そうですね。夜光さんと付き合った方が、絶対幸せになれると思います」

「なら──」

「──だけど、ここにいるほどドキドキしない」


 ぐっ、と心臓を掴んで。

 夏澄は自分の答えを示すように、晴れやかに笑った。


「野球のないあたしなんて、ありえません。ここがあたしの場所なんです」

「……そうか」


 夏澄は答えを選んだ。だからここからは、俺の出番だ。

 ──必ず助け出してやる。


「夏澄。今からもう一度、俺と勝負してくれないか?」

「え……?」

「俺が負けたら、夏澄のことは潔く諦める。もう二度と付き合えなんて言わないよ」

「……あたしが負けたら?」

「潔く野球を辞めて、俺と付き合ってくれ」


 まさに真剣を抜くように、最後の勝負を持ちかける。

 もう、後ろには戻れない。


「素人の俺に打たれるようじゃ、夏澄は終わりだ。見切りを付けて幸せになれ」

「………………分かりました」


 強い風が、砂埃を巻き上げる。


「──その勝負、受けて立ちます」


 ひりついた空気が、夜を満たしていた。

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