第17話 ハートのエース⑦

──イップス。


 何かのトラウマのせいで身体が上手く動かなくなり、プレイに影響が出てしまうこと。

 いわゆる心の怪我のことを、スポーツの世界ではそう呼ぶ。

 ではなぜ、夏澄がそのイップスに陥ってしまったのか?

 それは調査で、既に明らかだ。

 ──新たな天才である由川さんに完璧に打ち砕かれ、それがトラウマになってしまった。


 彼女に恋してもらうのは別として、この問題を解決してあげるのが俺のゴールだ。

 とりあえず一番シンプルな少年漫画的解決法は、すぐに浮かぶ。

 イップスの原因となった由川さんを、今度は夏澄が完璧に打ち取ればいい。……が。


 これは不可能とは言わないが、現実的ではない。

 それも今日の練習を見ていれば残酷なぐらい分かる。由川さんは格が違いすぎる。

 仮にn打席に一度夏澄が打ち取れたところで、イップスの根治には繫がらないだろう。

 魔法でズルして勝たせまくる、というのも同様にダメだ。対症療法にしかならない。


 となれば考えられる解法は…………今のところ、二つかな。

 そのどちらを選ぶかは、夏澄次第だろう。

 俺だけ考えていても仕方がないと、練習解散後に夏澄と話しにいくことにした。


 宵闇の中、夏澄はベンチで一人、ぽつんとグラブを磨いている。

 表情は虚ろで、捨てられた犬みたいに切なそうだ。見ているだけで胸が痛くなる。

 俺如きに一体何が言えるだろうと、考えても分からない。

 だけど側で話しかけてあげることだけが、唯一の正解であることは分かっていた。


「……お疲れ様。夏澄」


 ベンチの隣におそるおそる腰掛けると、夏澄がこちらを振り向く。

 その表情は、


「──お疲れ様ですっ、夜光さん!」


 教室で居るときと見分けが付かない、輝くような笑顔だった。

 ……ああ。この子はただの、元気で明るい子なんかじゃない。

 弱味を見せないポーカーフェイス──。

 マウンドを降りても、藤川夏澄は無敵のエースなんだ。


「……ど、どうしたんですか? 泣きそうな顔して。あたしで良ければ話聞きますよっ?」

「な、んでもない……ッ」


 こみあげるものを、辛うじてこらえた。

 頑張らないと。このポーカーフェイスを崩してあげない限り、夏澄はずっと抱え込む。


「夏澄は、いつも一人だな。みんなと寄り道したりしないのか?」

「うーん、しませんねー。時間がもったいないので」

「……もったいない」

「はいっ。このあと練習したり、研究したりしたいので。野球以外のことに使う時間は、もったいないです!」

「……なるほどなあ」


 夏澄の側には誰もいない。

 それは圧倒的な実力と実績で近づきがたいというのもあるし、彼女の気質のせいでもある。


「仲間から得られるものは、ないか?」

「ないとは言いませんけど、結局マウンドではひとりですから。ピンチに『誰か助けて』ってみんなに言っても、代わりに投げてくれるわけじゃない。結局頼りになるのは自分ですよ」

「でも普段仲良くしていたら、思わぬ助言とかくれるかもしれないぞ?」

「……どうですかねー。あたしより野球が上手い人からなら、聞くかもしれませんけど」


 ──うーん。やっぱり我が強い。

 糖衣で包むように敬語を使ったり、教室では明るい一面ばかり見えるから分かりにくいけれど、野球が絡むと俺様な部分が浮き彫りになってくる。

 そういう部分が、全て悪だとは言わない。

 この我があったからこそ、夏澄はこんな高みまで登ってこられた。

 だけどこの我があるからこそ、コケたときに誰の手も貸りられない。全ては表裏一体だ。


「自分の課題は、自分でどうにかするんです……。今までだってずっとそうしてきたんです。だからこれからもそうしていきます。……大丈夫です。あたしは、大丈夫」

 だって、と夏澄はいつものように笑おうとする。

「あたしは、天才なんですから……」


 だけど、無敵のエースも疲れには勝てないんだろう。

 普段の笑顔との違いがはっきりと分かるほど、夏澄は憔悴しきっていた。

 ……さあ、仕掛けるか。

 心が痛むけど、彼女を打ち崩せるとしたら今しかない。


「夏澄は、自分がそんな『天才』のままでいいと思ってるのか?」


 夏澄は変わらぬ笑顔を貼り付けた。


「はいっ。もちろんです。同じ天才ですし、夜光さんなら分かってくれますよね?」

「いや。悪いが全く理解できない」


 俺はずばりと斬り込んだ。

 夏澄が啞然としている。だけど俺も腹を決めた以上は、中途半端にためらわない。


「俺は、そのままでいいわけないと思う。夏澄は変わらなきゃいけないよ」

「……え。な、何を……」

「だって現状、全然上手くいってないじゃないか? このままじゃ夏澄、終わっちゃうぞ」


 強い言葉で突き刺すと、彼女の肺から生々しい息が漏れた。

 外野の分際で何様のつもりだと内なる自分が言う。だけどそれを抑えてでも、俺は言う。


「イップス、なんだろ?」

「──っ、違うっ!! あたしは、イップスなんかじゃないっ!」


 グラブを地面に叩き付け、夏澄が弾かれたように立ち上がる。

 普段道具を大切にする彼女がそうすることが、図星を物語っていた。


「あたしが……っ。天才のあたしが、そんなものになるわけない!」


 夏澄が強く俺の肩を掴む。

 死体みたいに開かれた瞳孔には、光がなかった。


「これだから素人は困るんです。ちょっと打たれて見えたからって! ……いいですか? 最近打たれているのはわざとです。色々と研究しているだけなんです。配球やフォームを変えたり、新しい試みにチャレンジしているから最初は上手くいかなくて当たり前なんです。あたしはイップスなんかじゃない。花希に打たれたからって何も変わってない、何も、おかしくない、打たれれば打たれるだけ前に進んでるし、それは成長なんです、失敗の分だけ前に進んでるんです。あたしは変わってない。イップスじゃない。ちがう、ちがう、ちがう……!」


 言葉を突き刺した傷口から、汚泥のような闇が溢れ出てくる。

 だけど望むところだった。全て受け止めてあげたかった。

 一度膿を出し切らないと、夏澄は前へと進めない。


「──聞いてるんですか、夜光さんっ!?」

「聞いてるよ。でも響かない。それは本当に、夏澄が心から思ってることなのか?」

「……っ」


 夏澄が俺の両肩を掴んでいるように、俺も夏澄の両肩を掴み返した。

 がっぷり四つだ。向き合ってやる……!


「変化を否定するのは、怖いから。新しいことを覚える苦労がイヤだから。違うか?」

「全然違うっ! あたしは野球上手くなるためなら、何も怖くないもん!」

「本当か? 逃げないか?」

「当たり前でしょ! あたしが逃げるわけないじゃん!」

「じゃあ俺が提案する『変わるための特訓』に、逃げずに取り組めるか?」


 きょとんとする夏澄に、俺は畳みかける。


「天才の俺が考えた特別メニューだ。それで夏澄が変われたら俺も嬉しいし、やっぱり合わないなと思ったら、やった後に忘れてしまえばいい」


 だけど、と最後に一押しする。


「やるからには、言い訳なしの全力で取り組んでほしい。どうだろう?」

「い……いいですよっ!? そこまで言うんなら、やってやろうじゃないですかっ!」


 がつん、と夏澄がおでこに頭突きをしてくる。


「だれが逃げますかーっ! あたしは天才なんですよっ!?」


 ……バカだなあ。すーぐ熱くなって勝負する。

 だからこんな痛い目に遭って──だからこそ、エースなんだ。


「それで、特訓って何するんですか?」

「うん。そ……それなんだが」


 俺は深呼吸を何度もしてから、顔を真っ赤にして叫ぶ。


「こ……今週の日曜、俺とデートしてもらおうっ!」

「はぃいい──────っ!? デェトっ!?」

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