第9話 百姫夜行⑨
それからしばらく、意識を失っていた。
窓から夕陽が差し込むぐらいになって、ようやく目覚めることができた。
「あ……! よ、良かった。起きた……!」
「……ベル」
保健室のベッド側の丸椅子に座って、ベルは今にも泣きそうな顔をしていた。
スマホの時計を見ると、既に夕方の五時前。
俺はベッドから身体を起こし、項垂れるように頭を下げた。
「ごめんな。こんな時間まで看させて」
「い、いい。それより、大丈夫……?」
ベルの声音は弱々しい。彼女をこんな風にさせてしまう自分が、ひどく情けなかった。
「大丈夫だ。初めてじゃないから」
「え……?」
「……性行為にトラウマがあるんだ。以来そういうことに近くなると、意識が落ちる」
ベルがはっと息を吞む。
俺は空気を和らげようと笑うことしかできない。
「なあベル。男の下半身は別の生き物と揶揄する言葉があるんだけど、知ってるか?」
「ん……」
「……俺もそうなんだよ。逆の意味だけど」
俺は自分の下半身に視線を落とす。
間違いなく人生で一番淫靡な出来事に遭遇したのに、血が通う気配は全くなかった。
「……俺はもう長いこと、男性として不能なんだ……」
情けなさすぎて消えたくなる。本当はこんなこと知られたくない。
だけど今や、全てを打ち明けることだけが、ベルに捧げられる唯一の誠実だった。
「これで分かっただろ。【百姫夜行】は、俺だと物理的に無理なんだ」
三つ指を突いて、俺はベッドの上で土下座する。
「本当に申し訳ない。どうか契約を解除して、誰か他の人間を騎士に選び直してほしい」
深々と下げた頭を、おそるおそる上げる。
とても優しい顔でベルが微笑んでいた。
「絶っ対やだ」
☽☽☽
「やだじゃないんだよ! 契約を解除しろっ!!」
「やだ」
下校中も、ベルは俺を離してくれなかった。
あのあと校内に停めていた自転車で逃亡を図ったのだが、例の如く裏門を越えた瞬間荷台にベルが乗っていた。もはや何も驚かなくなった。
しかもどんな魔法を使ったのか、重さが十倍ぐらいになってまともに漕げない。仕方なく俺は自転車を降り、ふくれっ面のベルを荷台に載せたまま自転車を押していく。
帰路は野球部が練習しているグラウンドが近く、金属バットの音がよく響いていた。
「何で分かってくれないんだ……。俺と契約してても未来はないのに……」
「全然ある。大体夜光さま、色々誤解してる」
「誤解? 何が?」
「まずわたくしのこと、夜光さまの身体目当ての痴女か何かと思ってる」
むっ、とベルは唇を尖らせる。
「勘違いしないでほしい。わたくしは本来、下ネタ嫌いの清楚魔女」
こいつ今日一日の記憶がないのか?
「ただ、夜光さまと一緒にいるときは本能のブレーキがきかなくなるの。好きすぎて頭おかしくなってる特別な状態」
「……っ、そ、それ聞かされて俺は何て言えばいいんだ」
「つまり本来のわたくしは、えっちがなくても全然かまわない女だと言いたい」
ぴたり、と自転車を押すのを止める。
澄んだサファイアの瞳が俺を見ていた。
「夜光さまと一緒にいられるだけでも、十分幸せ。そんなので契約解除とか、絶対ない」
ストレートな愛情表現に慣れることはなく、俺は一瞬でかーっと赤くなる。
死ぬほど嬉しい。それって最上級の愛の言葉だ。
「い……いや、でもダメだろ! 俺が行為をできない以上、その……〈姫〉だっけ? 女の子を化物から救ってやることができないんだぞ。命がかかっている以上、なあなあには──」
「それがもうひとつの誤解。夜光さま、女の子とハグはできるでしょ?」
「え? ……そりゃあもちろん平気だけど」
現に今日はほとんど一日、ベルに抱きつかれていたわけだしな。
「じゃあ、【百姫夜行】はできる。百人抱くだけなんだから」
「……えっ?」
静寂が訪れる。かきーんと金属バットの音が響き、あほー、あほーとカラスが鳴いた。
「待て。もしかして、百人抱くって………………ハグのこと、なのか?」
「そう。恋に落としてから、強くハグして心の光を活性化。〈影魔女〉を追い出すの」
俺はチャリを地面に叩き付けた。
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