やるべき事
美波はリビングでテレビに目を留めていた。
ニュース番組が今日の昼間に起きたバスでの
騒動を伝えている。
騒動が起きたのは渋谷発、阿佐ヶ谷駅行のバスだと女性キャスターが伝えていた。
夫が取引の際、乗ったバスだ。
車内カメラが映し出された。2人の男が
揉み合い、 やがてバスが急停車し車内が
パニック、それに乗じて非常口からバスを
飛び降りていく男の姿を捉えていた。
?
男を見て美波が眉を潜めた時、表に面した
リビングの窓の向こうに気配を感じた。
勇次は遠藤家の前に立っていた。
空腹と足の痛みを堪え吉祥寺の駅まで歩き、
昼間買い物をした大型スーパーを 見つけ、
そこからは昼間の記憶を頼りにここまで
歩いてきた。
このまま逃げ続けるなんて無理だ。
いずれは警察に捕まる。時間の問題だ。
でも、その前にやらなきゃいけないことが
あった。だから今、賢君の家の前まで
やってきた。
・・・・来てはみたモノの、、、
どうすればい?
玄関に向け、一歩踏み出す。 ちょっと待った! お父さんがいたら?俺の事を完全に疑ってた。
お母さんだって、疑うに決まってる。
勇次は迷った挙句、気持ちを落ち着かせるべく一旦踵を返した。
その時ー
『ガチャリ』
背後で玄関ドアの開く音がした。
反射的に振り返ってしまった勇次の視線の先、 美波が驚いた表情でこちらを見ていた。 「!・・・・あ、あの・・・・」
勇次が言葉を絞り出そうとした時、
パトカーのサイレンが響いた。
勇次は、美波に頭を下げ駆け出した。
「待って!」
「!?」
勇次は恐る恐るまた振り返った。
勇次は遠藤家の階段を上がっていた。 「・・・・あの、どうしてですか?」
先に階段を上がっていく美波の背中に
遠慮気味に言葉を投げる。
「あなたを招き入れた事? 昼間会ったじゃない。知らない人じゃないし」
美波は振り返らず言葉を返した。
「・・・・て、だけですか?そんな事だけでー」 「賢に会いに来てくれた、
『お兄ちゃん』でしょ?」
美波の言葉が勇次の言葉を遮った。
「え!?な、なんで分かるんですか?」
「なんでだろう?」
美波は肩を竦めるだけだった。
二人は階段を上がり切ってすぐの 賢の部屋の前に立った。
「あの子と仲良くしてくれてありがとう」
ドアノブに手を掛けた美波が言った。
「え?」
「帰ってきた時、あの子が言ってたの。
優しいお兄ちゃんが一緒だったから怖くなかったって。 だから今、ぐっすり眠ってられてるわ」
美波がドアを開け、勇次は部屋の中を窺う。
室内の灯りは点いておらず、廊下の灯りが微かに 漏れ入った室内の奥、ベッドの上に眠る賢の姿があった。
勇次は、心の底から安堵した。
「そうだ。あの子さっきまで“お兄ちゃんの本が
読みたい”って 言ってたんだけど
分かるかしら?」
美波の問いに勇次は慌てて肩に掛けていた
トートバッグから冊子を取り出し、
彼女に差し出した。
「・・・・これですかね?」
「絵本だって言ってたから、多分そう。 あの子、途中まで読んだんですって」
受け取った冊子を見ながら美波が言った。
読んでくれてたんだ。勇次は胸に 幸せを感じ、思わず微笑んだ。
勇次は美波から冊子を返してもらうと、 そっとベッドの傍らに行き、眠っている賢の枕元に
冊子を置いた。
『ありがとう』。そう思いながら。
所在なさげにリビングのソファに座る勇次の
目の前に、3つのサンドイッチが載った皿と
温かいコーヒーの入ったカップが置かれた。 「え?」
勇次は、自分とテーブルを挟んだ ソファに
腰掛けた美波に驚きの表情を向けた。
「お腹、空いてそうに見えたから。
出来合いで申し訳ないけど」
「・・・・頂きます!」
勇次はサンドイッチを手に取ると、勢いよく
齧りついた。こんがり焼けたベーコン、
新鮮なレタスとトマトを使ったBLTサンド
だった。
朝食以来の食事。美味い。 空腹というのを
差し引いても今食べている サンドイッチはとても美味かった。
無我夢中で食べる勇次を美波はしばらく黙って見つめていた。
勇次が1枚目を食べ終えた時、
「事情はよく分からないけど、本当の犯人に無理やりやらされたんじゃない?」
美波が言った。
「!?」
「ある人は、『お兄ちゃん』て人がお金を
独り占めする為に仲間を裏切り、 賢を攫ったって言ってたけど、あなたが賢の言う『お兄ちゃん』なら・・・・」
ある人、、、もしや、、、、。
一旦、この場は思考を止める。
勇次にとって今はそれ以上に、美波の言葉が
嬉しかったから。
やがて少し俯き、苦渋の表情で口を開く。 「・・・・でも、その証拠は無いし、誰も信じてはくれません」
「・・・・」
「でも、賢君にだけは信じて欲しくて。
だからここまで来ちゃいました・・・・」
そう。それがやりたかった事だった。
勇次はサンドイッチを無心に齧った。
勇次はカップのコーヒーを一口飲み、 気持ちを落ち着かせようと努めると
美波を真っすぐに見つめた。
「あの、聞いてもいいですか?」
「なに?」
「昼間、どうして助けてくれたんですか? あんな大金を、知り合いでもない俺に」
「え?私、ああいうの大嫌いなの」
美波は小さく笑った。
「え?」
「私の家、昔は貧しくてね。父が愛人作って 家を出てってから、お母さんと私2人で生きてきたの」
「・・・・」
「愛人だけでも許せないのに、借金まで作ってね。 しょっちゅう取り立てが来てたわ」
過去を思い出しながら言う美波の 顔は辛さに
満ちていた。
「あの時急いでたんだけど、あなた達の事見てたら 昔を思い出しちゃって我慢できなくなってね」 「・・・・お金は、必ず返しますから」
勇次はそう言うと、深々と頭を下げた。
「お金を稼ぐってのは大変よね」
美波は優しい笑みを浮かべ、言った。
「私も今では料理研究家なんていってお金を稼げてるけど、 それまで色んな仕事をやったわ」 「色々ですか」
「そう。大学も行けなくて、学歴も無かったから贅沢言ってられなかった。 やりたい仕事があっても就けずに、何度も悔しい思いをしたわ。
当然生活は大変だったから、安くても
ネットオークションで 私物を売ってお金に換えたりね」
勇次はポカンとした表情で美波を見ていた。 「?どうしたの?」
「あ、すみません。そんな風に見えなかったんで」
我に返った勇次は言った。
「人なんて、見た目やイメージじゃ
分からないモノよ」
「・・・・でも、」
「?」
「なんでそんなに頑張れたんですか?」
「そんなの単純。”絶対、幸せになってやる”。
そう決めてたから」
「・・・・」
「絶対、浮気しない男性と結婚して、2人で
たくさんお金を稼いで子供には昔の私みたいに
不自由な思いを絶対させない。そんな幸せな 家庭を絶対作ってやるって」
「・・・・賢君とお父さんは幸せですね」
心に引っかかりはあったが、勇次は美波に
優しく言った。
「どうかな。決意と現実は違うもの」
美波は顔を曇らせ言った。
「?」
「最初の主人とは、賢が赤ん坊の頃離婚したの」 「え?」
「他所に女の人作ってね。父親と一緒。それからは 軌道に乗りかけてた今の仕事にのめり込んだわ」
「・・・・」
「で、今の主人と出会ったんだけど・・・・
ほんと、私は男の人を見る目が無いみたい」
最後の言葉を聞いた勇次の脳裏に 昼間の出来事ー心の引っかかりーが蘇った。
お父さんが人気女優に問いつめられてる姿が。
「あ、ごめんなさい。変な事言って」
美波はそう言って小さく頭を下げた。
「いえ・・・・」
「でも、お金には苦労しなくなったけど、 その分賢の気持ちを考えてあげることが出来なくなってた」
「・・・・」
「昨日も喧嘩しちゃってたから、さっき謝ったの」
勇次は微笑み、頷いた。
その時、玄関が開く音が聞こえた。
「!主人だわ」
立ち上がり、慌てふためいた勇次を 美波が
リビング隣の和室に促すべく襖を開けた。
「こっちに」
勇次は言われるまま、電気の点いていない和室に飛び込んだ。
「主人がリビングに来たら、タイミングを見て
そこから出なさい」
美波は勇次の左手にある、玄関に通じる廊下に 面したもう一つの襖を指すと襖を閉めリビングに戻った。
勇次は息を潜め、襖の向こうに耳を澄ました。 ―お帰りなさいー 何事も無かった様な、
落ち着いた美波の声が まず聞こえた。
―筧が犯人に逃げられたー
苛立ちを抱えた父親の声が続いた。
―バスの件、知ってるか?ー
―ええ。ニュースで見たわー
やっぱニュースになってるんだ。
勇次はギュッと唇を噛んだ。
―バスのカメラに犯人の姿が映ってるから、
捕まえるのは早い筈だ。絶対、許さないー
一郎の言葉に勇次は息を呑んだ。早くココを
出なきゃ。 廊下に面した襖にそっと近づき、
静かに襖を開けた。 廊下に足を踏み出す。
“ギシッ”
緊張のあまり足に力が入り過ぎていた為、
板張りの廊下が音を立てた。
勇次は息を止め、フリーズした。
聞こえたか?いや、大丈夫じゃないか?
そう思案していると、背後の襖が開いた。
振り返った勇次を見て、一郎が驚きと怪訝な
表情を浮かべる。そして、
「お前、バスにいたー」
そう言うと、一郎は勇次に飛び掛かった。
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