ペテン師と傀儡

「まだ着かないの?」


 大田区・菖蒲橋へ向かっている一郎のセダンの車内。

 美波は助手席で逸はやる気持ちを抑えきれずにいた。

「今、家を出たばかりだろ」

 隣でハンドルを握る一郎が困惑気味に返す。


「お子さんを落ち着かせた方がい」

 後部座席に座る筧が唐突に言った。

 美波が振り返る。一郎はドアミラーの中の筧に目をやった。

「落ち着かせる?」

美波が神妙に聞いた。

「ええ」

筧はそう言い頷いた。

「でも・・・・”お兄ちゃんが一緒だから

大丈夫”って言ってましたけどー」

美波が怪訝な表情で筧に異を唱えた。

「今は興奮状態なんですよ。極度のストレスから解放されて。 その”お兄ちゃん”てのが一緒で

心強いってのも興奮状態に 一役買ってると

思います」

「興奮状態?」

「ええ。お子さんは誘拐された時、とても

怖かったでしょう。 とてつもないストレス

だったろう事は、優に考えられる」

 筧の言葉に美波は顔を歪めた。

 一郎は無言で前を見つめていた。


「人間てのは、防衛本能が備わってる。今の自分を包んでいる 環境が辛ければ辛いほど、心がそれを拒絶しようとする。 当然、ストレスが溜まる。で、そこから急に解放されると興奮状態が大きく訪れる。でも、それが落ち着くとー」


「・・・・どうなるんです?」

 美波が息を呑んで聞いた。


「一気に鬱状態になる。何もかも無気力になり、 事ある毎に、当時の恐怖によるフラッシュバックで 錯乱状態に陥ったり、身体が震えたり眠れなくなったりする」


「!!!」

 美波は”今のは聞かなかった事”と言わんばかりに 振り向き様、両手を口に当てただフロント

ガラスの向こうを 黙って見据えた。


  セダンの車内を無音がしばしの間支配した。


「興奮状態が長ければ長いほど、ソレが切れた時の 鬱状態が激しくなる。だから今はとにかく平静さを 努めさせた方がいいんです」


 美波と一郎は互いを見た。

 そして一郎が静かに頷く。

「・・・・では、どうすれば?」

 改めて筧に目をやった美波が聞いた。



『賢と一緒にいてくれてる方へ。 賢の母です。

お願いがあります。 私たちが到着するまで賢を

あまり動かさずに 落ち着かせていただける

でしょうか? あと、飲み物でも与えて頂けると

助かります。 不躾なお願いですがよろしくお願いいたします。』



「これでいいですか?」 美波は夫のスマホに打ち込んだメッセージを筧に見せた。

「これは”踏み絵”です」

筧が言った。

「”踏み絵”?」

  美波が怪訝な表情で聞く。

 が、筧はそれには答えず、 送信ボタンを

押すよう促した。

 ・・・・やがて、美波はそれに従った。



くくく。バカどもが。 誘拐されたガキが解放

された途端、興奮状態? んな訳あるか。


 一郎の嫁が聞いた”どうなるんです?”の後、

言った事が基本だ。 俺が説明した”PTSD”てのは

暗く陰惨なモノだ。


  あのメールを読めば、あの若いのは ガキを

置いて飲み物を買いに行かざるをえない。

そしたら後はキヨが。。。


  筧は俯いた。


 この夫婦は”元刑事の俺”が言ったから さっきの話に信憑性があるように捉え、俺の意のままに

メールを打った。


 他者に抱かせる個人の先入観、もしくは

イメージってのは そいつらを意のままに

操れるんだ。


 筧は俯いたまま、口の端を小さく歪ませた。

夫婦に見えない様に。



 ナビの音声ガイドの声が車内に響いた。

「まもなく目的地周辺です」

 セダンの目の前、賢が言っていた橋が迫る。

  だが、人の姿はない。

「賢は!?どこ!!?」

 美波はフロントガラス越しに橋上を凝視した。 「止めて!」

 セダンは橋上に停車した。


 美波はセダンを降り、辺りを見回した。

「賢!賢!!」

 一郎もセダンを降り、美波と一緒に周囲を

見回し 賢を探した。

 セダンの後部座席から筧が降りたつ。


 必死に息子を探す2人を見て笑いたくなるのを 堪えた時、一郎のスマホが鳴った。


 美波が慌てて駆け寄ると、一郎は通話ボタンを ONにした。

「もしもし?」

 一郎の声に返事はない。

「もしもし?」

 一郎は一度目より強く言った。

 荒い息遣いの後、

ー・・・・もしもしー

昼間掛けてきた若い男の声だった。

一郎は傍で聞き耳を立てていた美波と

顔を見合わせた。


ーこ、子供はもらったー


「!?」 美波は目を剥き、両手で口を塞いだ。


ー・・・・金額を倍にするー


「なんだと!?」

 一郎が声を荒げた。


 ー1億用意しろー


「!!?そんなに無理だ!1億なんてー」


ー急いで用意しろ。金の受け渡しに ついてはまた連絡するー

通話が切れた。


「どういう事!?」

 美波が錯乱気味に言った。

「どうもこうも、また攫われたんだよ!」

  一郎もヤケクソでしか美波の問いに

応えられない。


「賢が言ってた“お兄ちゃん”て人はなんだったの!?」

「知るかよ!」

 一郎は助けを求める様に、 いつの間にか傍に

いた筧に目をやった。

「“お兄ちゃん”てのが、今の電話の主だ。欲を

出したのかもな」

「え!!?」

「これが、さっき言った”踏み絵”ですよ」

「どういう事だ?」

 一郎が聞いた。

「”飲み物を買って欲しい”ってお願いしましたよね? 本当に、息子さんの味方ならそうしてる。

だが、今は・・・・」


 筧は無人の橋に目をやった。


「そのお兄ちゃんてのが、ホシの内の一人

だった。 朝、金をおろす電話も彼が担っていた。 でもそいつは仲間を裏切り、出し抜くために息子さんを安心させた 上で監禁場所から脱出させ

改めて誘拐した。身代金を独り占めする為に」


 筧の言葉に美波の表情は真っ青になっていた。

 一郎も唖然とする。

「でも、電話させてくれたのに?」

 美波の言葉に筧は黙って首を横に振る。

「遊んでるんですよ、そいつは」

 美波はそれ以上言葉が出なかった。

  哀しい表情だった。



「しまった、ヤバい」

 筧が緊張感のある声色で言った。

「何がだ?」

  一郎が聞いた。

「どこかで”お兄ちゃん”が見てるかもしれない。 俺の存在を知られるのはヤバい」

 筧の言葉に一郎と美波が絶句した。

「今更かもしれないが、やれる事はやる。

すぐ離れよう。金を頼むぞ」

 筧が一郎に言った。

「しかし、倍額だと・・・・」

 一郎は戸惑うばかり。

「おい、子供の命が掛かってるんだぞ!?」

 筧は強く言った。

 そう言われた一郎が視線を感じ、目をやると

美波がジッと 見つめていた。

「・・・・わかったよ」

  一郎は吐き捨てる様に言った。


「俺は1人でここを離れる。お前達も早くここを離れろ」

 筧はそう言うと、素早くその場を離れた。

一郎も美波を促すと、共にセダンに乗り込んだ。



 筧は歩きながら笑った。

 ・・・・で、ふと考える。


 あの若いのは、ガキにとってPTSDを抱えない

ぐらいの 頼もしさを持っているらしい。

て事は余程信頼されている。


 それは逆もしかり。若いのもガキの事を大事に思ってるだろう。


 だからこそ、若いのは使える。俺の思うままに。 筧は大声で笑った。

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