6. 不遇の天才
帝都デプレスの北西にある小さな農村トカラは、ブレアリス家の所領だった。
土地が肥えていて、不作になることは滅多になく、農民の生活も安定していた。
しかし税は重く、贅沢はできなかった。
飢えることはなかったから、なんとか暮らしているという者ばかりだった。
エステルはそんな農家の次男として生まれた。
産まれた頃は玉のように美しい我が子を、両親は可愛がって喜んだものだが、暫く経つと異常に気づいた。
この子はものを目で追っていない。
産まれた頃は視力が弱くぼんやりとしか見えていないようだが、数ヶ月もすれば少しずつ見えるようになるという。
しかしこの子は一年経っても変化が見られなかった。
治癒師によると、全盲だという。
両親は落胆したが、初めは甲斐甲斐しく世話をした。
しかし、大きくなるにつれて手間もかかり、やがて手をかけなくなった。
エステルの面倒は兄のデネルが見た。
身の回りのあらゆることができなかったから、一つ一つ教えた。
両親はエステルを無駄飯ぐらいだと言っていたが、兄はそう思っていなかった。
たった一人の可愛い弟だったし、何より弟は不思議な力があることに気づいていた。
デネルはエステルより四つ年上だった。
エステルが4歳になった頃、デネルは干し草で馬の人形を作ってやった。
エステルは拙い手つきでその馬を弄んでいたが、弟は馬を知らない。
唐突に人形を浮かべて遊び出したのだ。
驚愕した。
馬の人形は上下にふわふわと浮いて、弟はケラケラと笑いながら遊んでいた。
「エステル楽しいか?」
「うん」
満面の笑みだった。
デネルは不安を覚えた。
視力の代わりに弟は力を持って生まれてきた。
これが人に知れたら弟はどうなってしまうのだろうと。
「なぁエステル、その遊びは兄ちゃんと二人だけの時な。誰かの前ではやっちゃダメだぞ」
「分かった」
デネルは弟の頭を撫でた。
「兄ちゃん悲しいの?」
「え?」
不意に言われた言葉に驚きを隠せなかった。
「そんなことないよ。どうしてそう思うんだ?」
「そんな感じがしたから。兄ちゃん悲しい時のが出てた」
「何が出てるんだ?」
「分かんないよ」
何のことかわからなかった。
感じ取る力が強いのだろうと思った。
それからも何度か感情を見透かされたような発言があった。
その度に底知れぬ恐怖が染み出してきた。
八歳になると、弟は一人で外を出歩くようになった。
帰り道がわからなくなるから、いつも弟を探して回った。
どういうわけか、村外れの銀杏の木の下で寝転がっていることが多かった。
どうやってあそこまで一人で行ったのかわからないが、いつも背負って家に連れて帰った。
家の周りには、エステルと歳の近い子供もいたが、彼らは目の見えない弟を虐める。
それが嫌なのか、いつも村の外れにいた。
家に帰れば、母親がヒステリー気味に弟にあたるので、庇ってやるのだ。
それが毎日続いた。
ある日、村で騒ぎが起こった。
子供が突き飛ばされて腕の骨を折った。
親たちが集まってきて怒鳴り合いが始まった。
子供達はエステルが悪い、あいつがやったんだと口々に言った。
エステルが吹き飛ばしたと言うのだ。
デネルは弟を起こしてやると、服についた泥を落としてやった。
家に帰ると母親の癇癪がいつも以上で、エステルを棒で叩き始めた。
エステルは身を屈めて頭を抱えて蹲った。
母は辞める気配がなく、デネルは覆い被さってエステルを守った。
「穀潰しが人様を傷つけやがって!」
怪我をした少年の親にこっぴどく言われたらしく、何時もよりも癇癪がひどかった。
母はデネルを引き剥がすと、エステルを蹴った。
エステルはやめてと連呼して、泣いていた。
その刹那、母が壁に向かって吹き飛んでいくのが見えた。
バンッ、と大きな音がして、家の壁が吹き飛んで、母は外の瓦礫の中に投げ飛ばされて気を失っていた。
柱を失って軋みながら傾いて行くのをみて、デネルは弟を守ろうと覆い被さった。
ドーンッと大きな音と砂煙を上げて、破壊された壁の方に屋根が崩れた。
何事かと村中の者たちが集まってきて、倒壊した家を見ると唖然としていた。
翌朝、村長の報告を受けた領主の部下が、人を引き連れてやってきた。
村長は事情を話してエステルを指さすと、隊長らしき男がエステルを抱え上げ、部下に手渡して馬に跨った。
それを見てデネルは駆け出した。
「弟を返して!」
彼らは聞き入れず、立ち去ろうとしていた。
デネルは走って追った。
弟の名を呼び続けた。
馬上で次第に兄の声が小さくなって行くのが分かった。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
エステルはずっと兄を呼んだ。
声はもう届かなかった。
巨岩の丘陵が大好きだった。
この場所は大地からマナが天に向かって勢いよく吹き出していて、とても美しいからだ。
学院に入学したての頃にこの場所で術を使い続けろと言われて、ずっと放ち続けたことがあった。
仕方なくずっと打ち続けていると、周りの子がどんどん倒れていって、蹲ってうめき声をあげていた。
しばらくするともういいと言われた。
自分以外全員が、丘の上で倒れていた。
視たところ、あまり良い状態じゃない。
苦しいはずだと思った。
皆自分の中の光をどんどん捨てているのだから。
光が薄くなっていくと、みな倒れてしまう。
僕は生まれつき目が見えなかったけれど、周りのものすべてが輝いて『視えて』いた。
小さい頃は真っ暗だったのだけれど、大きくなると光の粒がたくさん視えるようになった。
他の人は見えないみたいだ。
その輝きはゆらめいて、時々色が変わる。
色というのがどういうモノかわからなかったけど、世界は様々な色の光にあふれて見えていた。
優しく暖かい色、冷たそうな色、あまり好きじゃない暗い色、いろんな光が視えていた。
皆は僕を目が見えないと言うけれど、そんなことはなくて、周りの人はみな様々な色を放っているのが視えていた。
ある声の人はいつも元気そうな色が視えたし、何時も嫌なことを言ってくる人はとても嫌な色をしていた。
沢山ある色の中で、兄ちゃんの色が一番大好きだった。
色んなことを教えてくれて、助けてくれた優しい兄ちゃんだった。
会えなくなってしまったけれど、高いところに上って、ずっと遠くを視ていると、遠くに兄ちゃんの色が視えて、とても安心した。
でもある時から兄ちゃんの光が見つけられなくなってしまって、とても悲しくて泣いた。
ずっと泣いていた。
何をそんなに泣いているのか、とマーサおばさんが見に来てくれた。
この人は別の所に来てからよく面倒を見てくれるようになった人だ。
あたたかな人だったけれど、時々とても悲しそうな色をしていた。
そういう時は、暖かい光を送る。
伝わらないかもしれない。
兄ちゃんはいろんなことを教えてくれた。
草や木、石、土、動物たち。
お前は見えないから触って覚えるんだって言われたけど、ちゃんとわかっていた。
動物たちは人間のようにいろんな色を放っている。
怒ったり喜んだり、悲しんだりしている。
僕にはそれがちゃんと視える。
草も木も、土も、みんな光を放っている。
実は地面は明るいんだ。
いつも強い光が溢れている。
その光はずっと遠くまで続いていて、どんどん光が湧き出してくる。
草や木はその光をたくさん吸い込んで、少しずつ空に放っている。
僕はその光を分けてもらっている。
母さんはあまりご飯をくれなかったけど、僕は沢山もらっていたから平気だった。
それをマナと呼ぶと、マーサおばさんが教えてくれた。
マーサおばさんからもいろんなことを教わった。
言葉や数の数え方、計算の仕方、色々だ。
とても楽しかったけど、マーサおばさんは時々とても悲しそうだった。
「どうしたの?」
と聞くといつも、何でもないよ、と答えるだけだった。
でも僕は耳が良い。
旦那様と呼ばれている人が、マーサおばさんをよく叱っていた。
「アレにそんなものは教えなくてよい。命じたときに術が放てれば十分だ。よく躾けて私の指示に従うように教えろ」
アレというのは僕のことだろう。
旦那様と呼ばれる人はとても冷たい人だ。
僕はあの色は好きじゃない。
僕を虐めた人たちや母さんよりもっとひどい色だった。
ある日旦那様が僕を連れて出かけた。
馬車に乗せられて遠くまで出かけた。
馬車から外を視ていると、光がたくさんあふれている場所に向かっていた。
とても沢山の人がいるようだ。
馬車から降ろされて、しばらく歩かされると、待っていろと言われた。
僕はこの人の言うことは聞くようにしていた。
そうじゃないとマーサおばさんが叱られるからだ。
旦那様は誰かと話をしているようだった。
話を終えた旦那様が、こっちへ来るように呼んでいた。
僕は石畳の上を歩いた。
石や金属はマナをため込んであまり外に出さないから、すぐにわかる。
「ここに的がある、元居た場所からこれを全力で破壊しろ」
そう言われたので、的に触ってみた。
木でできた的だ。
木はマナをよく通すから、これもわかる。
石が蓄えたマナをこの的が吸い上げて、的の上がモヤモヤしている。
僕は石の壁のそばまで歩いて行って、モヤモヤに向かってイメージした。
風を起こすように、石に貯められたマナを天に開放する。
腰をかがめて、両手を大きく広げ、一気に立ち上がりながら両手を閉じて、パンと叩いてずっと高いところに放り上げてやった。
竜巻が起こった。
周りが騒がしかった。
何人かが巻き込まれて吹き飛ばされたらしい。
「よくやった」
旦那様はそう言ったが、いつも通り冷たい色だった。
驚嘆の声をあげて喜ぶ人、ただ息をのんで恐れる人、いろんな人がいた。
そんな人達が僕は皆嫌いだった。
彼らは皆マナの使い方を間違えている。
動物も植物も、自分の光を輝かせるためにマナを使う。
それは自分のためであると同時に他の生き物たちのためでもある。
生き物は食べたり食べられたりして循環している。
あの人たちはそれがわからない。
こんな意味のないことに喜んだり恐れたりする。
そしてまた僕に悪態をつきに来る。
兄ちゃんに会いたかった。
エステルの寮は他の生徒とは別の棟にあった。
彼の場合他の学生とは違って生きて行くために助けが要ると認められたからだ。
実技試験での彼の並外れた能力は学院の教員全員が知るところとなり、特別待遇でも彼を養うことは学院の将来に大きく寄与するという打算があったからに他ならない。
職員用宿舎を使わせ、彼の世話をしてきたという治癒師に面倒を見させた。
マーサと言うブレアリス家の職を解かれた初老の女だった。
彼女との再会をエステルは喜んだ。
マーサも喜んでいた。
彼女はエステルの力を軍になど使わせたくなかった。
だからマーサは魔導人形として彼を育てることなどできなかったから、心を込めて接した。
ブレアリス家当主のレグリスはそれが気に入らず、マーサから引き離そうと、魔導学院に入れてマーサを解雇したのだ。
しかし彼女は彼の世話を学院に頼み込んで職を得た。
この子が常人とは全く違う世界を見ていることは知っていたし、それは授かりものなのだと信じていた。
立派に育てると誓ったのだ。
しかし彼と暮らすのはなかなか骨が折れた。
エステルはさほど手間は掛からないのだが、彼は命が危ない小さな命を目敏く拾ってきて、育て始めるのだ。
どうやって見つけるのか尋ねたことがあった。
「視えるから」
少年はそう言っていた。
自分も治癒師として生きてきたから、病気や怪我で苦しむ人を助けたいと思い仕事をしてきた。
彼にとっては人も動物も変わらないのだろうと思った。
ある時、二人で歩いていると、苦しそうにしゃがみ込む老人がいた。
力を貸してあげようかとエステルに言うと、彼は首を振って答えた。
「人間はいいんだ」
その言葉は衝撃だった。
この子は人が嫌いなのだと知った。
とても悲しかった。
偉大なことを成せる力があるのに、この子は人と関わることを避けている。
エステルの寮には仔犬と仔猫とカラスの雛がいた。
餌は彼も与えられたが、困るのは糞だ。
鳥はところ構わずする。
不思議なことに、エステルの肩で糞はしないのだ。
でもこの子にありがとうと言われると、疲れなど何処かへ飛んでいってしまうのだった。
忙しくも平穏な日々は、あまり続かなかった。
ここに来て二年が経ったある日、ブレアリス家の執事が尋ねてきた。
あの子に付きまとうのはやめろと警告してきたのだ。
マーサはエステルから離れる気はなかった。
あの子があの子を大切に思ってくれる人に出会い、人の優しさに触れることができる日まで、そばにいて人の愛を教えてやりたかった。
私は子を成せなかった。
主人は戦場で死んだ。
それでもここまで生かしてもらった。
残りの時間はこの子に使おうと決めていた。
マーサはきっぱりと断った。
これがいけなかったのだ。
ある日の昼のことだ。
この辺りは職員の宿舎であるせいか、講義や訓練の時間になるとパッタリと人気がなくなるのだが、その日は家の周りを走り回る音が聞こえた。
はたと気づいて窓から身を乗り出して見ると、数人の学院の制服を着た者が集まって走り去って行くのが見えた。
何かが燃える匂いがして、一階を見に降りると、既に火に呑まれていた。
どうしようかと考えて二階に戻ると、そこにももう火が回っていた。
一階では犬が泣き叫んでいた。
烏はもう逃げただろう。
周りを見渡して花瓶を見つけると、花を抜いて、中の水を頭からかぶった。
誰かが助けてくれるかも知れない。
エステル!
心の中で叫んだ。
エステルは教室で講義を受けていた。
魔導の属性の講義だ。
馬鹿げた話だと思った。
マナに属性なんてないのに。
炎や水や風はマナのひとつの表現でしかない。
水だって爆発するし、炎だって急激に反応させたら風で皆切り刻める。
何故わからないのだろう。
そんな時嫌な胸騒ぎがして、周りを視た。
ちょうど自分の家の方でものすごい熱が発しているように見えた。
エステルは教室を飛び出した。
急いで家へ走った。
家にはあの子達とマーサがいる。
無事でいて欲しいと祈った。
家に近づくにつれて、熱の源が自分の家だとはっきりと分かった。
不意に目の前に嫌な雰囲気の者たちが行手を塞いだ。
「はっはっは、お前にはこれでもくれてやる。大事にするんだな、バケモノ!」
そう言って何かを投げて寄越した。
それは自分の胸に当たって地に転がった。
エステルは跪いてそれを探した。
手を広げてそれを探した。
投げられたものからはもう光は感じられなかったから。
何かが手に当たった。
これはあの子の嘴だ。
エステルは骸を抱き抱えて、哀れな子の姿を触れて確かめた。
焼けた匂いがした。
僕の肩で髪を整えるのが好きだった。
よく喋る子だった。
ご飯は食べたばかりなのに、エステルハラヘッタが口癖だった。
涙が溢れた。
「君たちがやったの?」
ケラケラと笑いながら、そうだよと彼らは言った。
彼らの名は覚えていない。
でも声は覚えていた。
いつも陰口を言い、叩いたり蹴ったりする人たちだ。
でも、無意味なことすら満足にできない哀れな人たちだから、放っておいた。
「でも…、もう許さない」
存在そのものを消してやる。
エステルは左の掌を薄汚い色の何かに向けると、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。
「はっはっは何やってんだコイツ、マジ笑える」
彼らは笑っていた。
しかし突然体の変調に気づいた。
そして気づいた時はもう手遅れだった。
彼らは急速にマナを奪われたのだ。
膝が崩れ、横たわると、視界が暗くなり、そして意識が飛んだ。
最後まで行こうかとも思ったが、息絶えるまでそのままでいてもらうことにした。
人数人分のアニマ(魂)の一部を完全に濃縮したら何ができるのか、興味があったが、今その答えが出た。
彼の右手には大きな結晶があった。
真紅に染まる拳ほどの宝玉だった。
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