5. 盲人の憂鬱

 目は覚めているはずだ。

 埃っぽい匂いと、学院の男子更衣室のような匂いがしっかりと感じられた。

 目脂を擦り落として、瞼を擦ってみたところ、眼球は収まっているはずだった。

 夜中なのだろうか。

 尿意を感じて、便所へ行こうと思うのだが、ベッドから出て歩こうとすると、いつものようにうまく歩けなかった。

 足を踏み出した時テーブルに足をぶつけてしまい、バランスを崩して転倒した。

 すると部屋の外から慌ただしく走ってくる音が聞こえた。

 ドアを開ける大きな音がして誰かが飛び込んできたようだ。

「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」

 若い男の声だった。

 その男は自分の体を起こそうと、手を貸してくれた。

「大丈夫だと…、えっ?」

 自分で話しているはずだが、声がまるで女の声だった。

 男は自分を担ぎ上げてベッドに戻そうとしているようだった。

「えっと、あああ、あのお手洗いに行きたいのですが…」

「すみません、案内します」

 男は丁寧に案内してくれて、ようやく一人になれた。

 この家に照明はないのだろうか。

 手探りで便器を探して股間に手を伸ばした。

 無かった。

 何処をどう触っても無い。

「は? え? ええええええ?」

 何事かと便所の扉を開けて誰かが入ってきた。

「大丈夫ですか?」

 今度は女の声だった。

 あまりの出来事で、気づいたら失禁していた。

 声の主は尿で濡れた足を綺麗に拭いてくれた。

 そして部屋に連れて行ってくれて、服を取り替えてくれた。

 もう一度股間に手を伸ばした。

 確かに無かった。

 胸に手をやると、膨らみがあった。

 何で女になっているんだ?


 どれくらい時間が経ったのだろうか。

 ずっとベッドに腰掛けていた。

 いつまで経っても、夜が明けない。

 近くに人の気配はあった。

「すみません、灯りをつけてくれませんか?」

 その人はこちらに歩み寄ってきた。

「今は、お昼です。貴方は視力を失ってしまったんです」

 聞いたことのある女の声だった。

 何が起こったのか把握しようと、記憶を辿った。

 あの夜天文院に忍び込んでリーデル先生と隠し通路を見つけた。

 光る壁を見つけて、そこに触れた。

 そして気づいたらここにいた。

「ここは何処ですか?」

「天文院の休憩室です。貴方は巨岩の丘陵で倒れていたそうです。天文学者のカシウスさんがそれを見つけてここに運んで、治癒師の私を呼びました。私はカティアと言います」

 カティアはゆっくりと聞き取りやすい口調で話してくれた。

「今日の日付は分かりますか?」

「今日は五の月の14日です」

「何年の?」

「アタナシウス帝の七年です」

「え?」

 思わず声が出た。

 歴史書を読んでいる時よく目にした名で、確か魔導大戦末期の幼帝の名だ。

「からかってます?」

「何言ってるんですか? そんな冗談言いませんよ」

 女はやや不機嫌そうな声で言った。

「戦争の話は何か聞いていますか?」

「酷いもんですよ。第三軍はほぼ壊滅したそうです。西部は膠着状態らしいですが、東部は押されてるそうです。あまり大きな声じゃ言えませんけどね。治癒師が足らないみたいで、私にもお呼びがかかるかも知れません」

 間違いなさそうだ。

 戦線が崩壊して東部属州の三分の一を失うのだ。

 どうも自分は今過去にいて、女になっているらしい。

 夢であったら良いのだが。

「私を助けて下さった方にお話を聞かせて貰えないでしょうか?」

 カティアは分かりましたと言って、カシウスを呼びに行った。

 暫くすると足音が近づいてきた。

 何かを引きずる音がした。

「カシウスです。分かりますか?」

 分かる?

 何を?

「何をですか?」

「あ、いえ、何でもありません。何か話があると聞いたのですが」

「丘陵で何があったのでしょうか?」

 カシウスはゆっくりと話し始めた。

 昨夜カシウスは同僚と共に観測に出かける予定だった。

 自分は機材を忘れたため天文院に取りに戻り、丘陵に向かう道に出た時、雷を見た。

 珍しい雷で、地上から天に向かって木の根が一斉に広がって行くかのような雷だったという。

 同僚が心配になって丘を駆け上がると、同僚が倒れていたそうだ。

 同僚はイリアという名だった。

 イリアという名の天文学者の記憶などあるはずもない。

 自分が覚えている名はエイノルだ。

 しかしこの時代のことは書物でしか知らない。

 視力もない上に戦時中だ。

 知る限り、末期は食糧難が一層酷くなる時期だ。

 どうやって生きれば良いというのだろう。

 ひとまず記憶がないことを伝えるしかない。

 嘘はついていない。

「すみません。何も覚えていないんです」

「そうですか…、あなたの学説も覚えていないんですか?」

 また妙な話になった。

「どんな学説ですか?」

 人の顔を伺う必要がないというのは案外気楽かも知れないとふと思い、思わず笑いそうになって口を覆った。

「貴方はこの大地と『惑星』の運行について新説を提唱していて、私と二人で論文を書いていたんです」

「申し訳ありません。その論文は貴方の名前で完成させて下さい。私は目も見えず、何も思い出せません。どう生きていけば良いかも分からず困惑しています」

「お察しします。治癒師の話では、目の見えない状態で生活するための訓練が必要だそうです。僕も協力しますから、もしかしたら記憶も戻るかも知れませんから」

「ありがとう」

 素直に礼を言った。


 リハビリ生活が始まった。

 イリアの自宅は街の北側にある大学のそばにあった。

 幸いイリアの私物は残っていたので、身分証や金は何とかなった。

 治療費についても天文院が負担することを受け入れてくれたし、当面の療養費や生活費も面倒を見てくれることになった。

 カシウスが院長に掛け合ってくれたようだ。

 当面イリアとして生きる他なかった。

 他人の助けがなければ生きられないのだ。

 できるだけ早く、一人でやれるように訓練しなくてはならない。

 盲人の一人暮らしは困難の連続だった。

 更に記憶もないのだから、自宅といっても他人の家同然で、何処に何があるのか把握するのに一苦労だった。

 全て歩幅で覚えた。

 移動する時は常に壁に手を触れていないと、何処にいるかすら分からないため、壁際にいることが多くなった。

 食事はカシウスとカティアが助けてくれた。

 一度慣れたいからやらせて欲しいと頼んだが、火が服の袖に引火して、無理だと悟った。

 それ以来彼らに頼り切りで、一人の時は蓄えたパンを食べた。

 匂いには敏感になったため、カビにはすぐに気づくことができる。

 家から出ない日が続いた。

 家から出たら戻って来れる保証がどこにもないのだ。

 何もしないでただ座っていると、どうしようもない不安に襲われることがある。

 特に夜間がひどかった。

 無音が怖いのだ。

 自分の前には闇だけが広がっていた。

 孤独感に押しつぶされそうになるのだ。

 以前はなんとも感じなかった虫の音や鳥の囀り、雨が地を叩く音、風が雨樋を揺らす音、街の雑踏、それら全ての雑音が、自分には愛おしかった。

 孤独を薄めてくれて、世界を与えてくれた。

 自分以外の存在を教えてくれていた。

 どんなに救われたか。

 しかしそれでも眠れない夜はあった。

 そんな時は学院の体術訓練を思い出した。

 筋力の鍛錬と、リウィアに教わった体術の型をゆっくりと呼吸しながら行った。

 それが毎夜の日課になった。

 そんなことを繰り返していると、自分の体の変化に気づいた。

 筋肉が増え、動きも迷いがなくなった。

 四肢の長さや歩幅に馴染んだのだろう。

 イリアの体は元のものに比べると、筋肉のつき方や性別の違いもあって違和感があったのだ。

 最大の違和感は月経だった。

 これには耐えられなかった。

 最初に体験したときはずっとベッドにいたが、痛みが酷くて寝ることもできなかったほどだ。

 一月に数日間何もできないのは、不便で仕方がなかった。

 しかしながら、以前に比べれば随分進歩したと実感できた。

 カティアに最近逞しくなったと言われたのだ。

 妙に嬉しかった。

 そろそろ試しても良い頃かも知れない。

 魔導を試すのだ。

 ある日の朝、朝食を持ってきてくれたカティアに自分が倒れていた丘に連れて行ってほしいと頼むと、彼女は快諾してくれた。

 途中回復薬を二つ購入して、鞄に入れた。

 丘に到着すると、昼過ぎに迎えに来て欲しいと頼むと、了承して戻って行った。

 今自分は丘の小道から一番近い巨岩に触れていた。

 巨岩に背を向けて、十歩程歩くと振り返った。

 手をかざし大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。

「フラマ」

 術は発動した。

 岩にぶつかる懐かしい音も聞こえた。

 大丈夫、やれそうだ。

 幾度も幾度も繰り返し術を放った。

 もうどれくらい放ったのか分からなくなってしまったが、少し疲労を感じたため切り上げることにした。

 あまり追い込んで倒れても面倒だからだ。

 薬を飲もうとして鞄から取り出したが、思い直した。

 懐かしい香りがしたからだ。

 膝をついて手を広げ、アルテミシアを探した。

 葉が手に触れた。

 そしてその場所に鼻を寄せて大きく吸い込んだ。

 間違いない、アルテミシアだった。

 その時不思議な感覚を覚えた。

 胸にマナが広がったように感じたのだ。

 もう一度試すと、やはり間違いではない。

 吸気でマナを取り込んでいる。

 気づかなかっただけで、これまでもあったのだろうか。

 アルテミシアを摘んで手で覆い、いつものように呼吸した。

 大丈夫だった。

 いつもと同じように補給できる。

 しかし新たな発見だった。

 ふと何かの音が聞こえた。

 小動物が鼻を鳴らす音のようだ。

 その音に向かって這って進んだ。

 子犬だろうか、そんな音だった。

 声がだいぶ近くなると、音が変わって息が荒くなった。

 怯えているのだろうか。

 だが伸ばした手を噛んでくる様子も、逃げる様子もない。

 怪我をしているのかも知れない。

 効果があるか分からないが、掌に回復薬を満たして、声のする方に差し出してやると、小さな舌が手を舐めた。

 薬草の香りを知っていたのかも知れない。

 少しくすぐったかったが、舐めるのをやめるまでそのままにさせた。

 もうなくなってしまいそうだったので、もう少し足してやろうと手を引いた時、その子がこちらに寄ってくるのがわかった。

 その時の音が少しぎこちない拍子だった。

 怪我をしたのだろう。

 ゆっくりとその子を抱き抱えると、膝の上に乗せてやり、また同じように薬を与えた。

 そっと足を撫でて行くと、右の後ろ足に触れた時に痛そうに声を上げた。

 出血があるようだ。

 どんな傷かもわからないので、せめてマナを送ってやろうとそっと手を当てた。

 嫌がる様子もないようだ。

 喉が渇いていたのか、結局一瓶飲んでしまった。

 カティアが迎えに来てくれるまでこうしておこうと思い、小さな生き物を抱いていた。

「キュラレ」

 治癒の術だ。

 気休めかも知れないが、術を使った。

 腹も膨れたのか、小さな子の息が落ち着いた。

 髪が風に流されて頬を撫でた。

 邪魔だと感じた。

 結んでおいた方が良いかも知れない。

 ゆっくりと時間が流れていた。

 不思議なものだ。

 自分以外の熱を感じるだけで、孤独感が消えたのだ。

 家に連れて帰りたいが、親が探しているかも知れない。

 そんな折に、喉を鳴らして唸る声が聞こえた。

 恐らく犬か狼だろう。

 この子の親かも知れない。

 気付いたようで、目を覚ましたようだ。

「イリアさーん」

 間の悪い時に迎えが来たらしい。

「カティアさんそこで止まってください!」

 大きな声で伝えた。

 カティアは何のことかわからず、イリアを見たが、その先にいる獣が視界に入ると思わず叫んだ。

「カティアさん落ち着いてください」

 落ち着けと言われても無理だろう。

 かなり大きな狼だったのだ。

 カティアはその場から背を向けて逃げ出してしまった。

 それを狼が追おうとしていた。

「ヴェントゥス」

 狼の手前に軽い風を送って足を止めた。

 そして膝の上の小さな子を下ろしてやると、帰るようにそっと尻を押してやった。

 歩く音はまだぎこちない様子だった。

 狼は襲ってくる様子はなかった。

 そしてゆっくりと歩き出してやがて音は聞こえなくなった。

 カティアを探さなくては。

 声のした方に歩いてゆくと、麓から何人かが駆け上がってきた。

「イリアさん大丈夫ですか?」

 息を切らせながらカシウスが言った。

「大丈夫です。ありがとう」

 そう言って事情を説明してやると、絶句していた。

「近頃森から獣が降りてくるんですよ。あの場所も使いにくくなってしまいました」

 大戦初期から中期にかけての頃に、突如帝国領の中央の南北に広大な森が発生した。

 元は貴族の領地で、果樹の栽培などを営んでいたのだが、ある時から樹木が異常に生育し、それがどんどん広がってゆき、僅か数年で深い森に変貌したのだ。

 伐採しようと試みたようだが、食べ物が豊富だったため各地から野生動物が集まってきたらしく、伐採に行った者たちは皆襲われて食われたのだ。

 辛うじて生きて戻った者の話では、見たこともないくらい大きな狼の群れで、なんの抵抗もできなかったと言うのだ。

 さらに時が経つと、周囲の畑の収穫量が急激に減少したのだ。

 土地が痩せてしまったようだった。

 このせいで、帝国領は東西に二分されることになり、東西戦線の連絡や物資の移動に異常をきたした。

 さらに広大な農地が荒地に変貌し、食糧不足に陥った。

 その範囲は広く、三人の貴族が領有する土地が手のつけられないことになり、結局彼らは破産してしまった。

 更に時が経つと、東部三国や西部でも同様の森が出現し、西部ではエランドルの西に隣接するバロールが、一国丸ごと森に飲み込まれて消滅した。

 周辺国でも農作物の不作と、バロールの難民問題が重なって、それぞれの国は更に戦争を加速させた。

 残り少ない農地の奪い合いで、兵には難民が充てられた。

 盗賊になる者も増えて、治安の悪化はひどくなる一方だった。

 近頃では森で増えすぎた獣が街に出てくるようになって、各所で被害が出ていた。

 しかしながら、その対応には元老院も四苦八苦していた。

 獣の討伐に割けるような余裕はなかったのだ。

 丘を流れる風はまだ暖かかったが、やがて冷たさを増してゆき、人々の生活はさらに困窮してゆくだろう。

 そして魔導大戦は最も過酷な終盤を迎えるのだ。

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