4. 壁の向こう側

 リーデルに見つかった日の翌る日、エイノルは再び図書館に向かい、先生を探した。

 しかし先生の姿はなく、他の司書に尋ねると、今日はおそらく研究室にいるらしいことが分かった。

 エイノルはリーデルの職場を訪ねることにした。

 リーデルは天文院に所属する天文学者だ。

 主な仕事は毎年の暦の作成である。

 それで夜空を観測し、日中は観測記録を編纂していた。

 天文院は図書館とは目と鼻の先にある。

 図書館よりも古い建物で、巨石の丘陵の辺りは天体観測に適していたから、昔からここにあったのだ。

 そもそも、丘陵の十三の巨岩自体が黄道の十三の星座に見立てたもので、太古の天文観測所の遺跡だというのが大学の考古学教室の主張する説だ。

 巨岩はほぼ真円に並べられているが、円周上の巨岩の間隔は一定ではなく、星座同士の距離に見立てて作られていると考えられた。

 恐らく正しいのだろう。

 巨岩の輪から少し離れた位置に置かれた直方体の黒い岩は、完全な真西に置かれていて、春分と秋分の日没に太陽はこの岩の真ん中を通って沈むことが知られていた。

 遥か昔から人々は星を見上げてきたのだ。

 そんな遺跡に向かって、学生たちは術を放っているのだから、考古学者が見たら顔を赤くして怒るに違いない。

 エイノルは図書館を出て天文院に向かう道すがら、偶然リーデルに出会した。

「君か」

 リーデルが声をかけた。

「昨夜は申し訳ありませんでした」

「もう過ぎたことだよ。もうしないと約束して欲しい」

 エイノルはしないと言った。

「今日はその話かい?」

「いいえ、イデアの本について聞きたかったんです」

「なるほど、君もなかなかしぶといね」

 リーデルは皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「先生は何故あの本に興味を?」

「うん、実はあの本には天文学についてある重要な考察が書かれていたらしいんだ」

「どんな話ですか?」

 リーデルは少し長くなるかも知れないと言って、座って話そうと促した。

 二人は図書館前の広場にあるベンチに腰を下ろした。

 広場では球技で遊ぶものや、寝そべって本を読む者など様々だった。

 自分たちの学院のように殺伐とした雰囲気ではなく、妙に場違いな感じがした。

「詳しくは分からないのだけど、我々の大地と天体の運行についての話だよ」

 リーデルの目はとても楽しそうな眼をしていた。

「この大地といくつかの星が太陽の周りをまわっていると提唱していたそうです」

 エイノルはそれがどういうことか理解できず、ただ話を聞いていた。

「我々天文学者は天体の運行を常に観測しています。この大地から空を観測していると、太陽や月、星々が、まるで一定の周期でこの大地の周りをまわっているように見えます。ですがそうではなく、この大地が太陽を中心にして、自身もコマのように回りながら円運動をしているということを主張していたのです。このことはずっと夜空を見てきた我々にとっては、観測記録と一致する部分が多いのです」

 リーデルはさらに続けた。

「星を見ていると、ほかの多くの星とは異なる奇妙な動きをする星があります。現在そういった星は四つ確認されています。それらも我々の大地と同じように、太陽の周りをまわっていると考えたほうが辻褄が合うのですよ。そしてそれだけではなく、太陽ですら他の星々とともにより大きな渦の中の一つだと指摘しているそうです。さらに、この大地や星々がまるで生き物のように活動していると主張しているのです。なんと興味深いことか」

 大地が生きているという考察は不思議だったが、ただひとつ、思い当たる点があった。

 生命が持つマナは、いったいどこから生まれてくるのかという疑問があった。

 この広大な大地そのものが生物なのだとしたら、マナの循環も説明できるのかもしれない。

 そしてかの賢人は、あらゆるものからマナを得られると主張し、そのための訓練方法まで記したとされる。

 全て繋がっているのかもしれない、エイノルはそう思った。

「この説は学者の間でも議論が分かれる問題です。この説に至った根拠が示されているなら、是非読んでみたい。そう願っているのですよ」

「でも、誰もその本の存在を知らないんですね」

「そうなんです。本の内容は言い伝えとして残っているものの、その本を見た者はいない。不思議じゃないですか? イデアの著書が世に出たとき、その写本を作らなかったのか、写本ではなくとも何かに書き写したものがあったかもしれない。僕なら間違いなくそうします。学者にとってはそれだけ興味深い説です。そうした人間は必ずいたはずなんです。しかしそれも残っていない。誰にそんなことができるのでしょう」

 リーデルはエイノルの顔をじっと見つめた。

「一度世に出たものを消すというのは、大変なことなんですよ。それが現実に起きているのだとしたら…」

 リーデルが言いたいことは、エイノルにもなんとなく理解できた。

 消すことができる者がいた、ということだ。

「少し怖い話ですね」

 リーデルは笑いながら言った。

「そうですね、更にね、もう一つ不思議な話があるんです」

 エイノルはリーデルの目を見て先を促した。

「賢人は盲目だったといわれています」

「盲目? ではどうやって彼はそれらのことを知ったのですか?」

「そうなんですよ。そこが奇妙なのです。彼は偉大な魔導士でした。もしかしたら観測以外の方法でそれに気づいたのかもしれません。もしかしたら、君の得意な分野で」

 リーデルは笑っていた。

 エイノルは確信めいたものを感じた。

 マナだと。

 マナを追えば、核心に迫れるのではないかと。

 リーデルは少年の顔を見て、彼が何かに気づいたのだろうと悟った。

 そして仕事の準備に取り掛かると言って、天文院へと帰っていった。

 去り際に彼はエイノルの肩を叩いた。


 その後、エイノルは時間があれば図書館に篭り、魔導大戦の歴史を調べた。

 賢人が現れたのは魔導大戦末期、今からおよそ百年前の頃だ。

 彼が頭角を表す前の経歴は全く記録がない。

 唐突に偉大な魔導士として戦争に介入し、わずか数年で戦を収めてしまったと言われている。

 魔導士なのであれば学院にその記録があってもおかしくないが、そんな記録は見つからないのだ。

 一方で魔導大戦についてはかなり細かく記録が残されていた。

 特に学院の記録が参考にされていた。

 当時のフィルモア王国は、魔導士育成に多大な資金を投入していた。

 他国が軍需物資の確保や練兵に投資していたのとは対照的で、学院を設立して、広く平民にも教育を与えて人材発掘を行なった。

 そして大規模な魔導兵団を構築し、この兵団が他国の軍を圧倒したのだ。

 魔導の射程距離は一般的な弓兵のそれとは段違いの長さをもち、敵軍は予想だにしない距離から攻撃を受け、あっという間に陣が壊滅させられた。

 フィルモア王国は当時の基本的な軍事戦略を尽く破壊したのである。

 周辺の国家を次々と破り、その国の王家をも家臣に取り込み、征服した王家との婚姻関係で結束して帝国を築き上げた。

 帝国に隣接する国々は戦慄した。

 どの国も帝国の魔導兵団に太刀打ちできるような軍団を擁していなかったからだ。

 それなのに、ある時突然西部の五カ国が団結して軍を送り出すのだ。

 それが発端となり大戦が始まった。

 西部五カ国はどのようにして帝国と渡り合うほどの魔導兵団を得たのか。

 更に数年後には東部の三カ国もこれに呼応するのだ。

 こうして戦線が拡大していったのだ。

 何か突破口を見出したのだろうと考えられた。

 それは、学院の資料から明らかになっていた。

 ある特殊な魔導具が広まったためだ。

 それは西方の隣国エランドルから広がった。

 その魔導具は特殊な石と木材や金属で作られた杖だった。

 仕組みは不明ながら、膨大なマナを保有しており、枯渇することがないのだと記されていた。

 エイノルはこの記述には懐疑的だった。

 枯渇しないマナなどあり得るのか?

 アルテミシアを身に付けて術を発動した経験から、その魔導具はあらゆるものからマナを得る機構が施されていたのではないかとエイノルは考えた。

 ではいったい誰がその魔導具を開発したのかという疑問が生じた。

 当時、ある魔導士が不思議な道具を開発したという記録があった。

 軍事とは関わりのない農業分野での発明だった。

 どのようなものだったのか、詳細な記録は残されていないのだが、その道具を同心円上に複数配置すると、周囲の農作物の育成速度と収穫量が格段に上がるというものだった。

 その魔導士は魔導学院の生徒で、農村出身の若干十四歳の少年だったという。

 彼は盲目ながら、魔導の才能に秀でており、学院にも特待生として、国費負担で入学していた。

 そんな優秀だった少年が、その後の足取りがパッタリと消えてしまうのだ。

 盲人であったのも気になるところで、賢人も盲人だったとリーデル先生から聞いている。

 同一人物なのだろうか。

 しかし時代が合わないのだ。

 賢人とこの少年の出現時期には百年ほどの隔たりがある。

 人の寿命ではあり得ないのではないか。

 エイノルは盲目の少年に惹かれた。

 名はエステル。

 デプレス近郊の農村トカラの生まれだった。


 学院での課題の合間を縫って、エイノルは多くのことを調べた。

 講義で教わった時には全く関心の持てなかった歴史を、こんなにも掘り下げて調べることになるとは思いもしなかったが、この作業は不覚にも楽しかった。

 学院での成績はそこそこで、二年目には『砲台組』と言われる魔導課程ではなく、特魔課へと進んだ。

 特魔課とは特殊魔導課程の略称で、端的に言えば魔導騎士への道が開かれたということだ。

 リウィアは別の課程に進んだ。

 そこはただ専門課程と呼ばれ、貴族の子息令嬢が進む課程だ。

 そのため彼女とは別の教室となり、仕事がやりにくくなった。

 しかし彼女の体術訓練における数々の武勇伝は学院中に広まっていたから、彼女に手をあげようなどと考える不届きものは、将来にわたって無いだろうと思った。

 それは最も『恩恵』を受けた自分が身をもってよく理解していた。

 彼女は弓以外の武術を使いこなした。

 その相手をしてきたお陰で、体術訓練では彼女に次ぐ成績で終えられたのだ。

 誰に教わったのかと、彼女に尋ねたことがあったが、エイノルは聞かなかったことにした。

 自分の父親だったのだ。

 まさか父の孫弟子になるとは思いもしなかった。

 少々腹立たしかったが、気にしたところで仕方ないと、忘れることにしたのだ。

 特魔課の授業は苦ではなかった。

 リウィアのお陰か、どんな実習もこなすことができた。

 しかし魔導騎兵になりたかったのかと自問することが増えた。

 どちらかと言うと歴史研究と自分だけの研究課題を探求する方が遥かに楽しかったのだ。

 そんなある日ベッドに横たわりながらふと思い当たった。

 イデアも天文学者だったのだと。

 ならば、隠すとしたら、図書館に隠すだろうか?

 エイノルは天文院に行くべきだと思った。

 それで、夜半に寮を抜け出したのだ。


 壁の裏の通路はやけにひんやりしていた。

 いつの間にかリーデル先生が自分の前を歩いていた。

 不思議な壁だ。

 不揃いな石が組み合わされて積まれているのに、隙間一つなく実に頑丈なのだ。

 そして三百年は経過しているだろうに、ほとんど風化の跡が見られない上に、カビも生えていない。

 非常に澄んだ空気をしている。

 リーデル先生は興味深そうに通路の奥まで壁を調べていた。

 何故そんなところを見ているのか、理解できなかった。

 エイノルは数メルテ先の壁から、紫色の閃光が弾けているのが見えた。

 雷のようなギザギザとした光が、円を成している。

 恐る恐る光に近づいて、真正面に立った。

 その円は両手を目一杯広げたほどの大きさがあった。

 紫色の閃光に手を伸ばしてみると、手に吸い寄せられるように周囲の閃光が手のひらに集まってきて、体の周りを駆け巡った。

 痛みはなかった。

 妙に皮膚がざわつく感じがして、鳥肌がたった。

 マナが流れてくる感覚と似ていた。

 しかしこれは流れ込んでくるのではなく、覆い尽くしている感覚だった。

 エイノルが壁に向かって更に手を伸ばした時、自分を呼ぶ声がぼんやりと聞こえた。

 指先が壁に触れた時、壁として見えていたものはもう見えなかった。

 そこにあったのは明かりのない通路だった。

 床や壁、天井全てから紫色の閃光が走っていた。

 エイノルはそこを進んだ。

 自分を呼ぶ声がまだうっすらと聞こえた。

 先生にはこれが見えないのだろうか?

 どれだけ進んだのかわからないが少し先に開けた空間があるようだった。

 そこまで進むと、そこは大きな空間だった。

 床も天井も黒い石でできていた。

 左右に石の柱が立っていて、それが奥までずっと続いている。

 部屋にある石全てが、紫色の閃光を放っていた。

 奥に一際大きな光があった。

 どうやら紫色の閃光はそこから発せられているようだった。

 エイノルはゆっくりとその光に向かって歩いた。

 眩い光だ。

 近づくにつれて、体を覆う閃光が大きくなって行くように感じた。

 そして目の前が光で溢れ、呑み込まれた瞬間上下左右の間隔が一切なくなった。

 何かの周りを回っているような、妙な感覚だった。

 周りは紫色の閃光が犇いていて、よく見えない。

 何が起きているのか把握したくて、ここから少し離れたいと思った。

 ここは眩しくて何も見えないのだ。

 そう願っていると、どうやら抜け出したようだ。

 そこは無数の閃光が無数に集まって、球体のようになっていて、よく見るとそれらは皆ぐるぐると目まぐるしく回っていた。

 これは一体なんなのだろうか?

 そもそも何処にいるのか、体すら見当たらないのはどういうわけなのか、理解が及ばなかった。

 不意に何かに吸い寄せられたような感覚があった。

 自分の意思とは無関係に動いているようだった。

『大丈夫、向こうでまた会おう』

 何処からかそんな声が聞こえた気がした。

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