1. 失われた書物
日も暮れて、街灯に灯がともる頃、あたりの熱を打ち消すように吹く風が、暑さでとろけそうだった身体を心地よく引き締めてくれた。
この日は新月で、いつもより星が明るく見えた。
天文院には弱々しくも、まだ灯りが漏れていて、人がいるようだ。
物好きにも夜空を見上げるのが仕事なので、この時間に人がいることも納得ではある。
天文学者の活動時間は夜なのだから。
時間を誤ったか。
昼間に来るべきだったかもしれない。
そう思って二階の窓を見ていると、その灯りが動き始めた。
部屋から漏れる灯りが消えたところを見ると、部屋の主は移動し始めたらしい。
街路樹の影から見ていると、不意に正面の扉が開けられて、灯りが漏れた。
ようやくお帰りかと思い注視していると、その人物は玄関に施錠もしないまま真っ直ぐ歩き出した。
なんとありがたいことか。
侵入する手間が省けた。
天文学者らしき男は、何か大掛かりな荷物を背負っていた。
観測にでも向かうのだろう。
暫くは戻ってこないはずだ。
職員が視界から消えると、正面玄関から堂々と侵入した。
室内は照明が落ちている。
何とも不用心なことだ。
「リュクス」
光を灯す術だ。
光量を抑えて、外に漏れないようにした。
何とも殺風景な室内だった。
装飾品などは一切ない。
盗られるものなどないのだろう。
知らない者には価値がわからない。
分からなければ盗みもしない。
入ってすぐに開けた広間があり、正面に二階に上がる階段が見えた。
通路が左右に伸びていて、まずは一階の部屋から見てまわることにした。
通路を左へ進むと扉があった。
突き当たりはまだ先にあり、壁には色のついたガラス細工があった。
天体図の図案だろうか、中央に太陽があり、その周りに十三の星座が記されていた。
扉を開けて中に入った。
壁一面に書棚があり、びっしりと本が詰まっていた。
四つほどテーブルが置かれていて、そこにも本と書類が山積みになっていた。
どのテーブルも同じような有様だ。
床に敷物はなく、板張りの床にはあからさまな切れ目などはなさそうだった。
部屋中を歩き回りながら、靴底で床を軽く叩きながら、音の違いを聞いた。
特に変化はない。
次に書棚だ。
書棚が隠し通路を塞ぐ扉になっていることも考えられるが、この本の多さでは調べるのは骨が折れる。
ガラス細工があった通路は突き当たりだったから、外側の壁だろうと思うが、念のため確認することにした。
ガラス細工は窓のようであったが、色付きガラスに加え、厚みにムラがあるせいか、外の景色が歪んで見えた。
仕方なく指先の灯りを窓に寄せて外の様子を伺ったが、この部屋の左側の壁の奥には部屋はなさそうだった。
右側の壁の向こう側は、玄関に入ってすぐの広間のはずだ。
壁の厚みがどの程度かは不明だが、確認すべきではある。
部屋の扉の前から、右壁の書棚までの歩数を測った。
七歩程度だ。
通路側も調べると、九歩と半分ほどだ。
二歩半分の差があるが、書棚がある。
書棚の奥行きは自分の靴より少し長い程度で、半歩以下。
通路を作るには十分な幅がある。
問題は通路の有無をどう確認するかだ。
まさか本を全て出すわけにはいかない。
考えあぐねていると、玄関の扉が開く音がして、人が入ってきた。
先ほどの職員だろうか。
扉の隙間から、通路に灯りが灯されたのがわかった。
指先の灯りを消して、部屋の一番奥のテーブルの下に潜り込んだ。
片側は板で塞がれていたから、運が良ければ見つからない。
この部屋にはこないことを祈った。
だが、足音はこちらに向かってきていて、扉が開けられた音がした。
部屋の明かりが灯され、荷を下ろす音が聞こえた。
足音が先ほどまで調べていた書棚の方に向かって、音が止んだ。
咄嗟に気づいた。
書棚の奥行きを見た時、いくつか本を取り出して、戻していなかったのだ。
気づかれただろう。
足音はゆっくりと部屋の周りを回り始めた。
床板がしなる音と靴の音が、近づいてきて、今自分がいるテーブルの前で止まった。
「出てきなさい」
落ち着いているが、やや怒りのこもった声だった。
仕方なくテーブルから出て行くと、安堵と呆れの混ざったため息が漏れた。
「貴方ですか、エイノル」
ルベールさんだった。
彼は図書館の司書も務めていて、過去に図書館である本を探していて見つかったことがあったのだ。
「またあの本を探しにきたのですか?」
「はい…、そうです」
「こんなところにはありませんよ。あったら私たちが気づいてるはずでしょう」
「確かにそうなんですが…」
エイノルは頭を掻きながら続けた。
「歴史書を調べてみると、賢人に最初に出会ったのは天文学者のイデアでした。彼と旅をしたのもイデア、賢人について最も詳細な記述を残しているのもイデアでしたから…、もしかすると禁書はこっちにあるんじゃないかな、と思いまして…」
「全く、君のその熱意には感服するがね、流石に泥棒まがいのことはするもんじゃないよ」
ルーベルはやや呆れながら頭を掻き、手近の椅子に腰掛けた。
「で、そんなに読みたいのかい?」
エイノルは頷いた。
「どうして?」
「先生は予言を聞いたことはありますか? 十三の月の新月に生まれた者の予言」
「あるよ。それがどうかしたかい?」
「俺が生まれたのが、ちょうどその日なんです」
「なるほど。それは興味深いね」
ルーベルはエイノルの目をじっと見た。
少年の目は真剣そのもので、情熱的だった。
何かを求めているのだろうと予想はついたから、彼の思いを台無しにしてしまうのも少し気が引けた。
「予言があるという言い伝えは、みんな知ってるけれど、予言が本当にあるかどうかは誰も知らないんだよ。当然僕も知らないしね。知ってる人がいたとしても、これまでも誰一人として見た人はいないんだ。だから十三の月の新月の話も、本当に記述があるのかは誰も知らないんだよ」
「そう。だから探してるんです。俺は平民で財もない。それでも何か人と違う生き方がしたくて、その何かを探しているんです」
「どう生きるか、何をしたら良いか、迷ってるのかい?」
少年は頷いた。
「好きなことや特技はある?」
少年は少し視線を逸らして考えていた。
「体を動かすのは得意ですし、好きなのですが、一番になったことはありません」
「そうか。だけど君には並外れた行動力があるね。賢人の資料も自分で調べたんだろう?」
エイノルは頷いた。
「十分過ぎる長所だよ。関心のあることに積極的に取り組むことができるのは、君の長所だと思うよ。向こう見ずではあるけどね」
「先生はどうして天文学者になったんですか?」
リーデルは少し思い出しながら、照れくさそうに言った。
「僕は西部の田舎の出身でね。あの辺りは本当に何もなくてね。夜になるともう何もすることがないんだ。だから外に出て、寝っ転がってずっと星を見ていたんだよ。そんなことをしてると色んな疑問が湧いてね、それで学者の道を選んだんだよ」
少年は俯いて考えている様子だった。
「案外向いてるかもよ」
エイノルは顔を上げて、驚いたようにリーデルの目を覗き込んだ。
「天文学者に?」
リーデルは声を出して笑った。
「いやいやそうじゃなくて、例えば歴史、とかね。興味のあることを素直に取り組んだら良いよ」
「それはそうだけど、ところで先生、この建物っていつからあるんですか?」
「ここかい? そうだなぁ…」
リーデルは顎に手をやって思案した。
「実はここは魔導学院ができる前からあったんだよ。あの魔導大戦の時も学院は倒壊しなかったから、昔とほとんど変わってないんだよ」
「そんなに古くからあったんですか? あのガラス細工も?」
「あぁ、あれは後世にできたものだよ。何度か改築して手入れはされてるけど、基礎はほとんど変わっていないと思うよ」
「それじゃ研究資料なんかはとんでもない量があったんでしょうね」
「そうだね。今は図書館の一部に保管しているけど、昔は…、昔…、地下に保管してたらしい…」
二人は顔を見合わせた。
「地下ですか…」
リーデルは頷いた。
「それは、何処から行けるんですか?」
少年の瞳は熱を帯びていた。
リーデルもやや興奮気味に答えた。
「いや、ない。地下に行く階段なんて見たこともない」
少年の瞳の熱量が上がったように感じた。
「改装されて潰されたのかも?」
「いや、見た通り、ここの基礎は石積みなんだ。潰すとなると基礎からやり直す羽目になるから、隠したのかも知れない」
「設計図って、残ってるんですか?」
「ここにはないはずだよ。あるとすれば図書館か、公文書館だね」
「実は先生、この壁、中に通路があるかもしれないんです」
「測ったのかい?」
「はい、俺の歩幅で二歩半分の厚みがあるんです」
「てことは、この書棚の裏に?」
エイノルは頷いた。
リーデルは無言で書棚に視線をやって、書棚の前を行き来しながら考え込んでいた。
書棚は木製で、天井までびっしりと据えられていた。
幾つかの書棚が組み付けて据えられたようで、同様の形状が繰り返し使われていた。
ただちょうど真ん中あたりの上下二つの書棚だけが、他のものと比べて半分ほどの幅しかなかった。
リーデルは試しに幾つか本を抜いてみた。
下側の書棚の最下段の左端の本を抜くと、僅かにコツリと音がした。
二人は顔を見合わせて、書棚を押したり引いたりしてみたが、動く気配はなかった。
エイノルは最下段右端の本を抜いてみると、同じような音がした。
何故か二つの本は同じ本で、星座の成り立ち三巻と四巻だった。
エイノルは一巻と二巻を探し、それらも抜いた。
すると書棚がコトコトと音を立てて引き込間れて行くではないか。
壁一面の書棚にぽっかりと穴が空いて、その奥に空間があった。
真っ暗な空間だ。
「リュクス」
エイノルは指先に灯りを灯すと、真っ暗な空間に指を向けた。
石積みの壁に、勝手に動いた書棚だけがあった。
足元の床は石畳になっていて、そこに二本の金属製のレールが敷かれていた。
黒い石は綺麗に研磨され、隙間なく積まれていた。
それぞれの石の大きさは不揃いなのに、一定の形になるように組まれていた。
書棚を潜って中に入ってみると、壁に沿って左側に、人ひとりがようやく入れるほどの通路があった。
二人は灯りを頼りに、先へと進んだ。
ちょうど部屋の奥の壁の辺りで通路は終わっていて、右側にやや幅の広い下階段があった。
恐らく天文院の入り口広間にあった、二階へ上がる階段の下なのだろう。
天井が低く、体を少し屈めながら降ると、すぐに右に曲がり、その先は真っ直ぐ下に降る階段になっていた。
降った先は行き止まりで、左に曲がる通路になっていた。
その通路は天井も十分に高く、通路の幅も広かった。
リーデルも灯りを灯して、石積みの壁を隈なく調べた。
花崗岩でできていた。
表面は風化してやや崩れているものもあったが、緻密な作業で作られているのが分かった。
石と石の間にほとんど隙間がなく、それぞれ大きさの異なる石を使いながらも、緻密に組まれていた。
壁沿いに歩いてみたものの、通路の先は行き止まりで、塞がれたような形跡も見当たらず、閉じた通路だった。
「残念だけど、部屋はないようだね」
リーデルはエイノルに声をかけたが、返事はなかった。
不思議に思い、エイノルを見ると、彼は通路の真ん中あたりの壁の前でただ立っていた。
不思議に思い彼の方に歩いてゆくと、彼が見つめている壁を照らして調べてみた。
何の変わりもない石の壁だ。
エイノルの目は驚いたように見開かれ、壁の一点を見つめている。
「どうしたんだい?何かあるのかい?」
リーデルはそう尋ねると、エイノルは壁に向かってゆっくりと手を伸ばした。
そして壁に手が触れたその時、エイノルの体がまるで糸が切れた操り人形うのように床に崩れ落ちた。
「おい、大丈夫か!? エイノル!」
リーデル彼の肩を掴み、揺すりながら彼の名を幾度も呼んだ。
リーデルは首に指を添えた。
頸動脈が脈打つのが感じられた。
彼は生きている。
もしかしたら何か有毒なガスが出ているのかも知れないと思い、彼の体を引きずりながら階段を上がった。
ここにいては危険だ。
リーデルは必死の形相で少年を引き上げて、部屋に戻ると、仕掛け扉のような書棚を引っ張って、元の位置に戻した。
はあはあと息を荒げ、床に座り込んだ。
治癒師を呼ばなくては。
リーデルはそうしたかったが、疲れ果ててしまって、体を持ち上げることもできず、床に仰向けに寝転がってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます