第5話 分析・考察
第一節……「多氏系氏族伝承の分析と考察」
さて、前二章で多氏系氏族と春日和珥氏系氏族の概要を述べた。ここからは、その前二章で述べた概要を元にこの二氏の同族系譜伝承を三節に区切って分析と考察を二節に区切って、各々分析と考察を行う。そして、最後の節で総括を行う。当然ながら、先学諸氏の見識も参考にしていく。
ここでは多氏系氏族の系譜伝承について、先学諸氏の見識を参考にして、その分布と特徴とを論じていく。
阿部猛は、『記』多氏系氏族十九氏の系譜伝承形成されたのが壬申の乱以後だという通説に対して、「他の場合にも言えることであろうが」と断ったうえで「忽卒に天武朝に至って新たに系譜を作為する」と考えるのは「いささか無理があると」思われており、以前からその結びつきを持ち、「『記』に定着したと見る方が自然のように思われる」と述べていた。
太田亮(13)は、多氏系氏族の分布とその特徴について、大和より東西に分かれ、一は九州に、一は奥州に達しており、その区域の広いことは「皇別氏中一、二と言っても」良いと見なしていた。その中でも「最も古く且最も有力であった」と推定している地域は、九州北部で肥には火氏、阿蘇氏、豊には大分氏、筑紫には三家連があることを挙げ、また「大分から海を越えた伊豫国造」も多氏であると述べていた。また東に向かうこの氏族の分布は、伊勢、尾張と進んで東海道を下り、安房、上総、下総、常陸、磐城に「蔓延って」いることは注目に値すると述べていた。
西郷信綱(14)は、『三代実録』の貞観五年九月五日の条の記事を取り上げている。そして『体源抄』の「多氏系図」を参照して、有名な宮廷伶人の家柄で多臣自然麻呂なる者の一族の伝承と、信濃国諏訪郡の土豪である金刺舎人貞長の一族を『記』の科野(信濃)国造の記述を例に挙げて、特に『記』の多氏系氏族の系譜伝承について「血縁関係のある」ものではなくて、信濃の地に中央の多氏またはその関係勢力が系譜伝承に記載されている氏族の本貫地に来る等して、「部民的関係」を形成されるほどの影響があったため、『記』に見られる同族系譜が形成されたのだ、と考えていた。
このことを信綱氏は、「中央の多氏」を頂点とする「非合理にして未熟な奴隷制である部民制」が紛れもなく表出され、この系譜が意図する「血縁性の神話的虚構」を「現実的に支えていること」を知ることができるであろう、と述べていた。
田中卓は、『記』の多氏系氏族と記されている「阿蘇君」(15)と記載されている古代阿蘇氏の考察をしていた。その中で、『異本阿蘇氏系図』(16)を参考にして、祖は神八井耳命であり、その本貫は恐らく畿内であり、或いは山城国に関連を持つ氏族であり、それが崇神天皇の治世に九州方面即ち阿蘇へ移住したらしく、その中心人物が「速瓶玉命」と考えている。そして景行天皇の九州親征の際、帰順した、と述べていた。
また、『記』に記されている、伊勢船木直(17)について、「神八井耳命の当時」にその一族が伊勢地方に進出したのではなく、その「当時より以後」の時期に、子孫が進出して伊勢船木直を名乗ったと認められる場合があると、述べていた。
そして、『姓氏録』の多氏系氏族の記述については、『記』では意富臣以下十九氏を挙げているのに『紀』は「多臣等」としか書いていないのは、『姓氏録』での記述は多朝臣以外のほとんどが、多朝臣と「同祖」と記されているところを理由に挙げていた。
山上伊豆母は、系譜成立にある程度の造作性が存するとしても、太朝臣安麻呂等の史官や編史時代宮廷の特定の氏族たちのみで、恣意的に系譜が編述されうるとは考えられない。やはり編史事業を遡る相当の以前から十九氏の間には、同種の性格・職掌・伝承・信仰等の共通性・類似性という何らかの擬制的同族関係を有することによって、同祖伝承が作り上げられたものと想定している。
また多氏系氏族が神八井耳命を祖としていることに対しては、三輪山系神話を中心とし、「山神、水神、小子型竜雷神(雷童)」の伝承や信仰も関連し、『記・紀』共に「神八井」と表記していることは、「神聖なる八つの井泉の霊威」という性格を「示しているのではないか」と推定していた。
以上、先学の論説を踏まえると、多氏系氏族の同族系譜の伝承は全てが血縁関係にあるものではないことはもちろんである。しかし、大和の多氏の子孫または臣下等の「血縁関係」のない関係勢力が特に『記』と『姓氏録』に記載されている地域に進出し、そこの土豪を放逐または婚姻や盟約での関係構築を行ってきたことによって形成されてきたものであるということになる。
第二節「春日ワニ氏系氏族の分析と考察」
ここでは春日ワニ氏系氏族の系譜伝承について、先学諸氏の見識を参考にして、その分布と特徴とを論じていく。
太田氏は、春日ワニ氏系氏族(18)の分布とその特徴について、大和国春日地方を根拠とし、山城、丹波、近江、越前、美濃、尾張、伊勢の諸国、即ち近畿の東北部よりその付近の地方に密集しているが、「支脈に一」は東海道を下って上総の武社国造となり、一つは西に延びて備後の穴国造となっているとしている。なお太田は、前者について「武社国造牟耶臣の族裔は遥かに陸前牡鹿郡に達しているのである」とし、後者については「穴国造西隣の品治国造と共に日本武尊の穴海征伐に従軍した結果であるらしい」と思っていた。それは品治国造となった丹羽氏族とこの氏族とはともに「近江国に於いて、日本武尊と最も密接な関係を持っていることから「推測できる」と述べていた。なお太田はまた、春日ワニ氏系氏族について摂津より海を渡って讃岐伊豫にも一族を持っているとし、「これは石上の物部氏と行動をともにしたもの」と思っていた。そして、「石上布留社」に関連して物部(後、石上)氏と春日和珥氏系氏族の一派の物部(後、布留)氏とは「殆ど同族の如く行動している」と見ていた。
加藤謙吉は、岸俊男等の先学見識を参考にして、春日ワニ氏系氏族の「同族団組織の原形」は、六世紀末以降、大和・山背・近江の諸勢力が王権の意思に沿う形で政治的に連携し、「その統合が促進された結果成立したものと推断することができる」と述べていた。そして、その同族集団組織の中核を構成したのを、前代に有力であった大和の勢力ではなく、山背から大和・近江へと進出したグループであり、ワニの氏名も「直接的には漁撈民を掌握したこれらのグループや近江原住の勢力が主体となって誕生」したと見ていた。
吉田連や真野臣等のような渡来系の出自で仮冒により春日和珥氏系氏族の同族に列した氏族については、その同族化を促した最大の要因が「ワニ氏の対外交渉との関わりという点にあったこと」だと言う。このことについて、古代の外交や対外的軍事行動に関与したことが明らかか、そうした伝承を有する氏族の中には、阿倍氏・上毛野氏・紀氏等のように、配下に渡来系の集団を擁したり、渡来系の氏族と同族関係を持つ氏族の存在を挙げ、それらの氏族は対外的な任務を負うことにより必然的に氏族組織そのものが開放的性格を帯びるようになり、渡来系氏族を同族として内部に取り込むケースが増加したと推測し、春日ワニ氏系氏族の当該諸氏もこれと同様に考えても差支えないと述べていた。
そして、畿内と西海道諸国を除く若狭・越前・加賀(北陸道)、美濃(東山道)、伊勢・尾張(東海道)、丹波(山陰道)、播磨・備中・備後(山陽道)、讃岐(南海道)の国々に春日和珥氏系氏族が比較的濃密に分布している地方展開については、私的な勢力拡大で自由に行われたのではなく、王権との協調猪関係を前提として計画的に進められたと見られ、王権の意図によって「ワニ氏の過度の勢力拡大」に対しては、「事前に抑止するための歯止めがかけられていた」と推測していた。
なお、その勢力拡大は、畿内から駅路の前身にあたる古道等を経て、「放射線状に周辺諸地域へと伸長し、在地の有力土豪層と結び、彼等を同族団組織に九州することで、沿道諸国に徐々に勢力基盤を築いたのだろう」と推測していた。
西郷信綱(19)は、前節での多氏系氏族伝承の論述と同じく「和珥氏後の春日氏」の子弟またはその関係勢力が系譜伝承に記載されている氏族の本貫地に来る等して「部民的関係」を形成されるほどの影響があったため、『記』に見られる同族系譜が形成されたのだ、と考えていた。
以上、先学の論説を踏まえると、多氏系と同じく春日ワニ氏系氏族の同族系譜の伝承は全てが血縁関係にあるものではないことはもちろんである。しかし、大和の春日ワニ氏系氏族の同族系譜の伝承は全てが血縁関係にあるものではないことはもちろんである。しかし、大和の春日ワニ氏の子孫または臣下等の「血縁関係」のない関係勢力が特に『記』と『姓氏録』に記載されている地域に進出し、そこの土豪を放逐または婚姻や盟約での関係構築を行ってきたことによって形成されてきたものであるということになる。
そして春日ワニ氏系氏族の中の渡来人系氏族との同族関係・意識の形成されていく背景については、先述のように海の生物であるサメの古語である「ワニ」に由来しているという説から、春日ワニ氏系氏族の中には海人等の漁撈民と関係を持ち、海・水運に携わっていたという説もある。
第三節……「総括」
本章の一・二節では多氏系氏族と春日ワニ氏の各同族系譜についての先学諸氏の見識を参考にして、その分布と特徴とを論じてきたが、それらの見識では共通して主張していたことが二つあった。それは以下の通りである。
・特に『記紀』・『姓氏録』に記されている多氏系等の大和王権内の氏族が、皇族やその他有力人物を祖とする同祖系譜と大和から離れた地方豪族が大和王権内の氏族と血統が同じとする同族系譜は、その全てが「はっきりした血縁関係」にあるものではないこと。
・しかしながら、それら同祖・同族系譜は大和王権内の氏族が、皇族やその他有力人物と地方豪族が大和王権内の氏族との意識を高める何かしらの影響や関係があったから形成されたものであるということ。
以上の二つの主張を、私は見出したのだが、この主張については次の二氏の先学が簡潔に論じていた。その二氏は、太田亮氏と田中卓氏である。
太田自身の著作(20)で日本古代における氏族系譜伝承について、各地の豪族が自分たちの祖先の系統を後の大和王権を構成する名門豪族またはその祖先につなげるいわゆる「仮冒」をしていたであろうことは否定していなかった。しかし「全部がさうであつたとは云へぬ」と断ったうえで「中央」即ち大和王権における「臣姓連姓等の大姓」は、まるで後世の公卿のように大体においてその系統を「信じなければならない」としていた。そのため太田は地方の氏族・豪族が「其の一族」だということは、真実その血統を受けたものでないとしても、多くはそれら「京幾」(21)即ち王権を構成している豪族「大姓」の配下であった縁故からの仮冒であるため、その分布は「ある史実」を語る「有力なる史料たるを失わない」と論じていた。
太田は右のような結論を述べる前に「伊勢豪族に平氏が多いと云ふ事は、嘗て平氏が伊勢に栄えて居た影響と見ねばならぬ」と述べていた。そして古代の氏族も同様であって何らかの縁故によって「其の系統と云ふに至つたに違ひない」と見なした。
そこから氏族分布によって「ある系統が其の地方に多い」ということは、その系統がその地方と「何等かの関係」を持っていたからと考えねばならないとも述べていた。
次に田中卓は著作(22)で直木孝次郎の神武天皇架空説を批判することに、多氏系氏族の系譜伝承を取り上げて論じていた。
それは、二代天皇神渟名川耳(綏靖天皇)とその兄で初代神武天皇長子の神八井耳命が『紀』では「多臣の始祖」であることが綏靖天皇即位前紀に『記』では「意冨臣。小子部連」等の合計二十一氏もの派生氏族が記されていることを挙げていた。多氏系氏族の系譜伝承である。
田中氏は、神武天皇がもともと実体のない架空の人物で「五世紀後半以降に」創作されたとする直木説の場合、多氏系氏族の系譜伝承も同時期に、自分の祖先を新しく創作された神武天皇に結びつけた、ということになると述べていた。その反論として『記』に掲げられている氏族特に多氏系氏族の中には、九州から四国・近畿・中部・関東・東北に及ぶ広範囲の豪族が含まれており、それらがすべて五世紀以降、各地から一斉に競って自らの出自を飾るために、神武天皇の長子神八井耳命の後裔を詐称したことは到底考え考えにくいが、仮にもしそうした場合、その真偽の判断は一体、誰がどのようにしたのか、またそれ以外の氏族は何故、この時一緒に名乗り出なかったのかの説明がつかないと述べていた。そしてむしろ、「皇威伸長・版図拡大」の過程で「皇室の子孫」が次第に全国に普及し、右記及び史料で掲げられている各氏が、昔から神武天皇の長子神八井耳命に結び付く系譜伝承を持っていたため、それらが『記』にまとめて「記された」と見るのが自然だと見なしていた。
そして田中は『記』と『紀』の編纂に関与していた太朝臣安麻呂を取り上げて「安麻呂が自分の一族の祖先を神武天皇の皇子に結び付けたのだ」と考える者もいるであろう、と述べたうえで当時の政治状況からそのようなことは簡単にはできるものではなかったと見なしていた。
それは、両書編纂時期の左大臣で物部氏系の石上麻呂と右大臣で中臣氏系の藤原不比等という実力者が国政を指導していた事実があったからだと述べていた(23)。
以上、先学の系譜に関する見識を踏まえて、私はここで取り上げた二氏系氏族の同祖・同族系譜が、あからさまに恣意的に創作または仮冒できるものではなかったと考えざるをえない。
私がこれまで『記紀』や『姓氏録』の該当記述を読んできて、最低でも上記の書物の編纂時に前後して、急ごしらえで創作されたとは考え難い。何故ならば、私は同一の始祖を起点として引き継がれている氏族系譜伝承というものは、簡単に創作できるものではないことを理解したからである。それは、古代の日本では同祖をいわば統合の象徴として仰ぐ氏族にとって系譜は、自分たちの経歴を表すのはもちろん、その経歴によって自分たちの立場を確実なものにするために必要不可欠だったからである。そしてそのためには、「自分たちの経歴でもある氏族の系譜伝承というものは子孫にしっかり引き継がれていかなければならないものであった」ということなのだ。
確かに、氏族が自分たちの立場を「確実なものにする」ことを、自分たちの立場を「正当化」するために、「自分たちとは血縁はもとより、本貫地からの放逐や婚姻・盟約等の影響を皇族その他の有力人物か大和王権内の氏族またはその関係勢力から受けていないのに仮冒していた」と考えられるであろう。
しかしながら、そのような仮冒というものは脆いものだと思わざるをえない。ある地方豪族や大和内の豪族の一部が仮冒すると周辺の氏族等の外の社会と渡り会うとき説得力がないものになるからである。これは伝説でしかないが、特に『允恭天皇紀』で、氏族系譜伝承を濫りに仮冒することが盛んに行われて、いわゆる「盟神探湯」をして正すという話がある。このような伝説が語り継がれてきた背景には、氏族系譜伝承で成り立っていた社会では、その伝承に説得力がなく矛盾が多いものもあり、また不完全だがそれに対するチェックがあったと考えても過言ではない。
やはり先述の太田の見識である、両氏族の始祖やその本貫地を踏まえて、例え「仮冒」の可能性があったとしても何の根拠ないし核となる古い伝承や縁故等の影響を受けているため「ある史実」を語る「有力なる史料たるを失わない」と論じていた通りであろう。
また、次章で後述するが、今回私が小論で取り上げた多氏系氏族と春日ワニ氏系氏族のそれぞれの祖である神八井耳命と天足彦国押人命であるが、この両者は実在性の希薄さ以前に、その系譜伝承が七・八世紀になって創作されたとされる初代神武天皇と二代綏靖天皇から九代開化天皇のいわゆる欠史八代の系譜伝承に皇子として入っている。
神八井耳命は、初代神武天皇の長子であり二代綏靖天皇の兄であって天足彦国押人命は、五代孝昭天皇の長子であり六代孝安天皇の兄である。羅列した四人の歴代天皇の内、初代を除いた三人の歴代天皇は欠史八代に属する。欠史八代が欠史八代といわれる理由の一つに、この中の歴代天皇には、事績や治世での出来事を詳細に記した、いわゆる旧辞的記事がないことが挙げられている。このことは欠史八代の実在性の希薄さ以前に、その系譜伝承が七・八世紀になって創作されたとされる理由の一つになっている。
そうなると、この欠史八代の系譜にいる人物を自分たちの氏族の始祖として仰いでいる多氏系氏族と春日ワニ氏系氏族が自分たちの立場を「正当化」するために、「自分たちとは血縁はもとより、本貫地からの放逐や婚姻・盟約等の影響を皇族その他の有力人物か大和王権内の氏族またはその関係勢力から受けていないのに仮冒していた」と考えるのはもちろん、「そのために自分たちの始祖を創作した」と確かに考えられる。しかしながら、これらを少し改めて考えてみると疑問が出てきた。
それは、前者については何故これと言った旧辞的記事が見られない歴代天皇とその子弟を始祖として仮冒したのかということである。氏族が自分たちを正当化するために、自分たちとは関係もなく何の影響も与えていない天皇やその子弟に系譜を仮冒するとして、旧辞的記事が見られない天皇やその子弟に仮冒しても、矛盾があり説得力に欠けていて、自分たちに不利になることはあっても有利になることはないからである。また「自分たちの始祖を創作した」という考えも、それならば何故、創作した始祖についての旧辞的記事をも創作し、また誇張したものにしなかったのであろうというものである。
第二章と第三章で論じたように、多氏系氏族と春日ワニ氏系氏族は、『記紀』と『姓氏録』でも同族・同祖関係を持っている氏族数は他の欠史八代の天皇の子弟を始祖とする氏族と比べて一・二を争うほど多く、その中の氏族の本貫地も畿内を中心にほぼ日本全国に点在している。そのような諸氏族が何の関係のない、影響も受けていない天皇の子弟や大和内の氏族の系譜に仮冒したり、始祖を創作したと考えることには無理がある。やはり、各氏族にあった同祖・同族系譜は代々引き継がれてきたものであると思わざるをえない。また、その系譜の中に本当は、血縁関係のないものもあるであろう。しかしそれは、天皇の子弟やその他有力人物の関係勢力の影響を受けたからできたものであるため、始祖伝承の核となる出来事や人物がいたと考えてもいいであろう。
これぞまさに田中氏の、『記』に記されている氏族で多氏系氏族を挙げて九州から四国・近畿・中部・関東・東北に及ぶ広範囲の豪族が含まれていることから大和王権の「皇威伸長・版図拡大」の過程で「皇室の子孫」つまり王家の子弟の伝承が次第に全国に普及し、特に『記紀』・『姓氏録』で掲げられている各氏が、昔から神武天皇の長子神八井耳命に結び付く系譜伝承を持っていたため、それらが『記』にまとめて「記された」と見るのが自然だと見なしている通りと考えてもいいのである。これは五代孝昭天皇の長子天足彦国押人命を祖とする春日ワニ氏系氏族についても同様であろう。
(13)太田亮『日本古代史新研究』
(14)「日本古代文学」(『西郷信綱著作集第9巻)
(15)「古代阿蘇氏の一考察」(田中卓『田中卓著作集第六巻 日本国家の成立と諸氏族』)
(16)「古代阿蘇氏の一考察」(田中卓『田中卓著作集第六巻 日本国家の成立と諸氏族』)。なお同巻の付録には田中氏校訂の「異本阿蘇氏系図」があった。
(17)「真清田神社の創祀と発展」(田中卓『神社と祭祀 田中卓著作集第十一巻の二』)
(18) 太田亮『日本古代史新研究』
(19)「日本古代文学」(『西郷信綱著作集第9巻)
(20)太田亮『日本古代史新研究』
(21)「京畿」のこと。原文ママ。
(22)田中卓『祖国再建、上(建国史を解く正統史学)』
(23)田中卓『祖国再建、上(建国史を解く正統史学)』では、「その物部氏の動静について、直木氏によれば根も葉もない創作とされる『神武天皇東征・大和平定の物語』―それも最後は、自分の祖先のニギハヤヒの命が神武天皇に降参するという筋書の作り話―を、一史官である太安萬侶が書き上げ、しかも一方で、安萬侶自身の祖先が、神武天皇の皇子にあたるなどという架空の物語を特筆しているのですから(中略)物部(石上)氏側として、その虚構に対して、何の抗議もせずに、容易に認めると思われますか。まして政界の最高位にいた左大臣の石上麻呂が、そのようなデタラメのつくり話を承知するはずがありません。また元明天皇の詔旨をうけた安萬侶も、その立場上、このような手前勝手なつくり話を書けるわけがありますまい」と述べていた。
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