第3話 オオ氏系氏族の概要

第一節……「初めに」

 多氏系氏族は、多臣を中心とし初代神武天皇の長子である神八井耳命の後裔を称する諸氏族である。

この系統の氏族は『記』では「意冨臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造。小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国造、道奥石城国造、常道仲国造、長狭国造、伊勢舩木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等」であり、『紀』では「多臣」であるとされている。また『新撰姓氏録』では「多朝臣、小子部宿禰、嶋田臣、志紀首、薗部、火、肥直、志紀県主、紺口県主、志紀首、雀部臣、小子部連、志紀県主」であるとされている。

そしてこれから、『記』と『紀』そして『姓氏録』に記されている多氏系氏族の概略を書き記していく。


   第二節……「『記紀』内の多氏系氏族の系譜伝承」

ここでは『記紀』内の多氏系氏族の系譜伝承の概略を論じていく。なおこの概略を論じるにあたり『日本思想体系Ⅰ 古事記』(岩波書店)の補注がとても参考になった。また断っておくが、文中に『先代旧事本紀「国造本紀」』の引用部分があるが、これは同体系本からの孫引きである。

多臣……『記』では「意富臣」と記されている。大和国十市郡飫富郷(奈良県磯城郡田原本町多)の地名に由来する氏族。綏靖天皇即位前紀は多臣に作る。意富・多は「太」とも記し、『記』の撰録者、太朝臣安万呂は同族。天武十三年十一月に朝臣の姓を授けられ、『姓氏録』左京皇別に「多朝臣。出自謚神武皇子、神八井耳命之後也」とある。先述の太朝臣安麻呂の出身氏族である。

小子部連……雄略紀六年三月条に「天皇欲使后妃親桑以勸蠶事。爰命蜾蠃(蜾蠃。人名也。此云須我屢)聚國內蠶。於是蜾蠃誤聚嬰兒奉獻天皇。天皇大咲。賜嬰兒於蜾蠃曰。汝宜自養。蜾蠃卽養嬰兒於宮墻下。仍賜姓爲少子部連」とあって、小子部(少子部)連の氏名由来伝説が見える。『姓氏録』左京皇別、小子部宿禰条「多朝臣同祖。神八井耳之後也。大泊瀬幼武天皇御世、所遣諸国、取斂蚕児。誤衆小児貢之。天皇大哂。賜姓小児部連」とある。『姓氏録』和泉皇別に小子部連を載せ、神八井耳命の後とする。天武十三年十二月に宿禰の姓を授けられる。

坂合部連……『姓氏録』摂津皇別の坂合部の条には「同大彦命之後也。允恭天皇御世、造立国境之標、因賜姓坂合部連」とあって阿倍朝臣と同祖、大彦命の後と称し、神八井命の後裔という坂合部連と祖を異にする。大彦命の後と称する坂合部氏には『姓氏録』大和皇別の坂合部首がおり、また坂合部首がおり、また坂合部首には「七姓漢人の中の皂郭姓を祖とする氏」が『姓氏録』右京諸蕃、坂上大宿禰条の逸文に見える。天武十三年十二月、境部(坂合部)連は宿禰姓を賜ったが、『姓氏録』左・右神別の坂合部宿禰条は火明命(又は火闌降命)八世孫邇倍足の後と称する。また和泉神別の坂合部は火闌降命七世孫、夜麻等古命の後と伝える。以上、坂合部連には神八井耳命系の坂合部連は『記』以外には見当たらない。

火君……『姓氏録』右京皇別には多朝臣の同祖、神八井耳命の後という火の氏名が見える。火の氏名は火の国の地名に基づき、肥(後の肥前・肥後)とも表記する。肥前風土記、総記に「昔者、磯城瑞籬宮御宇間城天皇之世、肥後国益城郡朝来名峰、有土蜘蛛打猴頸猴二人、帥徒衆一百八十余人、拒捍皇命、不肯降服。朝庭、勅遣肥君等祖健緒組伐之。於茲、健緒組、奉勅、悉誅滅之。(中略)即、拳健緒組之勲、賜姓名、曰火君健緒純、便遣治此國」とあり、国造本紀、火国造条に「瑞籬朝。大分国造同祖。志貴多奈彦命児遅男江命定賜火国造」とある。遅男江命は健男組命の「誤写」と言われている。阿蘇家略系譜の健緒組命の尻付に「瑞籬大宮朝定賜火国造」とあり、同系譜、建加恵命(建緒組命四世孫)の尻付に「火君、忠世宿禰等祖也」とある。火(肥)君は後に肥前国松浦郡・養父郡に居住したが、筑前国嶋(志麻)郡にも広がり、大宝二年の筑前国嶋郡川辺里戸籍には同郡大領肥君猪手の一族が多数記載されている。『姓氏録』大和皇別には神八井耳命の後という肥直を載せている。

大分君……景行紀十二年十月条にみえる碩田国(豊後国大分郡、今の大分県大分郡)の地名に基づく氏族。同氏に属する人で壬申の乱で活躍した大分君恵尺・稚臣が著名。大分君は大分国造となった氏族と考えられるが、国造本紀、火国造条に「大分国造同祖」と見えるだけで、同紀には大分国造の条がない。阿蘇家略系図には建緒組命の子建弥阿久良命の尻付に「玉垣大宮朝定賜大分国造」とある。

阿蘇君……景行紀十八年六月条に見える阿蘇国(肥後国阿蘇郡、今の熊本県阿蘇郡)の地名に基づく氏族。国造本紀、阿蘇国造条に「瑞籬朝御世。火国造同祖。神八井耳命孫速瓶玉命定賜国造」とある。

筑紫三家連……『和名抄』に筑前国那珂郡三宅郷(福岡市三宅)があり、この地を含む那津の官家を管理した氏族。天武紀十三年十二月条に筑前三宅連得許の名が見える。

雀部臣……『姓氏録』和泉皇別に雀部臣を載せ「多朝臣同祖。神八井耳命之後也」とある。和泉皇別の志紀県主条には「雀部臣同祖」とある。雀部臣に天武十三年十一月に朝臣姓を賜った氏族があるが、これは武(建)内宿禰の後裔で別系。

雀部造……他に所見がない。

小長谷造……小泊瀬にも作る。天武十二年九月に、小泊瀬造、連の姓を賜る。仁徳紀十二年八月条に「小泊瀬造祖宿禰臣賜名曰賢遺臣。(賢遺、此云左舸能莒里)」とある。『阿蘇家略系譜』の宿禰臣の尻付に「又曰生葉宿禰臣。又曰賢遺臣」とあり、曽孫阿具礼の尻付に「泊瀬列樹大宮朝六年九月乙巳朔、為小泊瀬舎人、供奉」とあり、さらにその曽孫粟麻呂の譜に「天武天皇十二年九月丁亥、改小泊瀬造、賜連姓」と見える。阿具礼の名は他に見られないが、その尻付は武烈紀六年九月乙巳朔条の「置小泊瀬舎人」による。『記』は「定二小長谷部一」としている。小長谷造は小泊瀬舎人となり、かつ小長谷を管掌した氏族。

都祁直……『和名抄』大和国山辺郡都介郷(奈良県山辺郡都祁村)の地名に由来する氏族。仁徳紀六十二年条に闘鶏の地に額田大中彦皇子が猟をしに出かけ、闘鶏稲置大山主を喚して野の中の窟が氷室であることを知る伝説が見える。允恭紀二年二月条には闘鶏国造の姓を貶して稲置とした話がある。『阿蘇家略系譜』の武比古命の尻付に「志賀高穴穂大宮朝、定賜闘鶏国造」とあり、その孫国造大山主君の譜に「難波高津大宮朝、始献氷、是氷室之始也」とある。またその子国造角古君に「丹比大宮朝、為稲置」と注し、従兄弟の百島君の尻付に「是都祁値祖也」とある。

伊余国造……『国造本紀』伊余国造条に「志賀高穴穂御世。印幡国造同祖。敷桁波命児速後上命定賜国造」と見え、印波国造条に「軽嶋豊明朝御代。神八井耳命八世孫伊都許利命定賜国造」とあり、神八井耳命の後裔という印波(印幡)国造と同祖とする。『阿蘇家略系譜』は敷桁波命を敷桁彦命に作り、系図に混乱があるが、速後上命を建後上命とし、その尻付に「志賀高穴穂大宮朝、定賜国造」とある。『国造本紀』の敷桁波命の「波」は一本に「彦」、速後上命の「速」は「連」に作るので、略系譜の敷桁彦命、建後上命が正しいとされている。

科野国造……「国造本紀」科野国造条に「瑞籬朝御世。神八井耳命孫建五百建命定賜国造」とある。『阿蘇家略系譜』、武五百建命の尻付に「一曰健磐竜命。磯城瑞籬大宮朝、定賜科野国造」とあり、その子健稲背命、孫健甕富命の譜に科野国造とある。科野国造が後に金刺舎人の氏姓を称したことは、信濃国伊那郡の郡領が金刺舎人姓であること、および『日本三代実録』貞観五年九月五日条に「信濃国諏訪郡人右近右近衛将監正六位上金刺舎人貞長賜姓大朝臣、…神八井耳命之苗裔也」とあることで知られる。『阿蘇家略系譜』は科野国造となった武五百健命の八世孫金弓君の尻付に「磯城島金刺大宮朝、為舎人供奉。依負金刺舎人直姓」と見え、その後裔の諏訪郡領魚目の譜に「庚午籍負金刺直姓」とあるのも参考になるという。

道奥石城国造……「国造本紀」石城国造条に「志賀高穴穂朝。以建許呂命定賜国造」とあり、『阿蘇家略系譜』建許呂阪命の尻付に「志賀高穴穂大宮朝、定賜石城国造」とある。「本紀」の「以建許呂命」の「以」は卜部兼永本「坂」に作り、他の条文から見ると「『坂』は建許呂命に含まれていた字で、『略系譜』の建許呂阪(坂)命が正しいか」という説がある。

常道仲国造……『常陸国風土記』行方郡条に「古老曰、斯貴瑞垣宮大八洲所馭天皇之世、為平東垂之荒賊、遣建借間命(即此那賀国造初祖)」とあり、「国造本紀」仲国造条には「志賀高穴穂朝御世。伊予国造同祖建借間命定賜国造」と見える。『阿蘇家略系譜』(9)は神八井耳命の八世孫に建借間命を挙げ「志賀高穴穂大宮朝、定賜仲国造」と記す。

長狭国造……長狭国は後の安房国長狭郡。『阿蘇家略系譜』の建借間命の子武沼田命の尻付に「志賀高穴穂大宮朝、定賜長狭国造」とある。

伊勢舩木直……伊勢国多気郡舟木(三重県度会郡大宮町舟木)の地名にちなむ氏族。『阿蘇家略系譜』は伊勢舟来直に作り、長狭国造となったという武沼田命の孫、大荒男命を祖とする。姓を異にするが正倉院文書、写書所解には伊勢国朝明郡葦田郷の戸主舟木臣東君の名が見える。

尾張丹羽臣……尾張国丹羽郡丹羽郷(愛知県一宮市丹羽)の地名にちなむ氏族。『阿蘇家略系譜』では伊勢舩木直と同じく大荒男命を祖とする。

嶋田臣……尾張国海部郡嶋田郷(愛知県海部郡美和町あたり)の地名にちなむ氏族。『姓氏録』右京皇別、島田臣条に「多朝臣同祖。神八井耳命之後也。五世孫、武恵賀前命孫仲臣子上。稚足彦天皇(謚成務)御代、尾張国島田上下二県有悪神。遣子上平服之。復命之日、賜號島田臣也」とある。『阿蘇家略系譜』では武恵賀前命の孫を長狭国造になった武沼田命を挙げ、その子を那珂乃子上命とする。『姓氏録』の仲臣子上と同一人。子上の子が大荒男命で島田臣の祖という。弘仁私記序に見える嶋田臣清田の分注に「皇子神八井耳命之後、正六位上村田第一男」とある。



   第三節……「『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』内の多氏系氏族の系譜伝承」

 ここでは『姓氏録』の中の多氏系氏族の系譜伝承について論じていく。なおここでは佐伯有清氏編の『日本古代氏族辞典』が参考になった。

茨田連……河内国茨田郡茨田郷の地名に由来する氏族。『姓氏録』右京皇別、山城皇別に茨田連を載せ、「神八井耳命の子彦八井耳命」(10)の後とする。天武十三年十二月に宿禰の姓を授けられ、『姓氏録』河内皇別に茨田宿禰を載せ「多朝臣同祖。彦八井耳命之後也。男、野現宿禰、仁徳天皇御代、造茨田堤」とある。

豊島連……『記』では「手嶋連」と表記されている。摂津国豊嶋郡豊嶋郷に由来する氏族。『姓氏録』摂津皇別を載せ、「多朝臣と同祖、彦八井耳命の後」と記されている。

志紀……志紀は河内国志紀郡志紀郷の地名に由来する氏族。もと志紀の県主で、職名の県主がそのまま姓となった。『姓氏録』河内国皇別に「志紀県主。多同祖。神八井耳命之後也」、和泉国皇別に「志紀県主。雀部臣同祖」とある。また、首を姓とする志紀氏がおり右京皇別に「志紀首。多朝臣同祖。神八井耳命之後也」、河内国皇別に「志紀首。志紀県主同祖。神八井耳命之後也」と記されている。磯城県主を称する氏族がいるが、これは大和の磯城の地の県主であったことに基づき別氏である。

薗部……園部・苑部と記される。薗部の氏名は、苑池を掌り蔬菜・樹菓の種殖を職掌としていた薗部もしくはその伴造氏族であったことに基づく。『姓氏録』右京皇別下には「薗部。同氏(多朝臣同祖。神八井耳命之後也)」と記されている。この一族には、天平年間に経師・装潢であった薗部広足、同じく装潢であった薗部広公、天平宝字年間に左勇士衛火頭で写経所に出仕した園部八月等がいる。

松津首……豊島連と同じく彦八井耳命を祖としている氏族。氏名は肥前国にあった松津の地名に基づくものか未詳という。『旧事紀』「国造本紀」火国造条の次に松津国造を載せ、「難波(仁徳)高津朝御世。物部連祖伊香色雄命孫金弓連定賜国造」とあるが、この松津首とは系譜を異にするとされている。

紺口県主……河内国石川郡紺口郷の氏族。『姓氏録』河内国皇別に「紺口県主。志紀県主同祖。神八井耳命之後也」と見え、多氏・小子部氏等と同族関係に当たる。

下家連……彦八井耳命の後裔と伝える氏族。氏名は肥後国玉名郡下宅郷の地名に基づくものかは未詳とされている。『姓氏録』河内国皇別に「下家連。彦八井耳命之後也」とある。

江首……いわゆる大化前代に江で漁業に従事し、朝廷に上番して捕らえた魚の管理に当たった江人の伴造氏族。『姓氏録』河内国皇別に「江首。江人附彦八井耳命七世孫。来目津彦命之後也」とあるように多朝臣氏の同族と伝える。

尾張部……尾張部の氏名について佐伯氏は「河内国に分布していた尾張連の部民名に基づくものか」と述べていた。尾張部は河内国安宿郡尾張郷を本拠としていた氏族と推定されている。

 佐伯氏はこのことについて「これらはいずれも多氏系氏族の地方進出を前提として、在地土豪との同族化が進展した事実を示すものであろう」と見なしていた。


(9)これ以外にも『異本阿蘇家系図』があるが、いずれも『田中卓著作集 日本国家の成立と諸氏族』に掲載等されている。

(10)『姓氏録』原文では「多朝臣同祖。神八井耳命男、彦八井耳命之後也。日本紀漏」と記されている。ここから、田中氏は『記』の日子八井命と彦八井耳命を同一人物とし、「神武→神八井耳命→彦八井耳命」という世代の区切り方をしている(「新撰姓氏録における皇別の系譜」『田中卓著作集第六巻 新撰姓氏録の研究』)

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