三十六、論理くん、それぞれの家で勉強会をする

次の日の放課後。今日は、私の家で勉強会だった。

「ぶんちゃん家行くの久しぶりだよ〜」

「そうだね。今日はまだ誰も帰ってきてないと思うから、四人だけだね」

「俺も久しぶり。確か焼肉のとき以来だよな」

「俺は初めてだー」

そうこう言っているうちに、私の家に着いた。鍵を開け、みんなを家に入れる。

「ささ、入って入って」

「お邪魔しまーす」

私たちは、居間に入った。机の上に、四人の教材を思い思いに出す。今日は数学をやることにした。昨日の勇姿はどこへやら、論理はからっきし数学ができない。

「もう!論理!何回言ったらわかるの!ここはXに四を代入するんでしょ!」

「……向坂さん、ごめん」

「論理ったら、数学も英語もほんっとにダメなんだから!イライラする!」

私は、怒っている優衣の肩を、つんつんと突く。

「優衣、そのX、四じゃなくて二だよ」

「……え?あ、そうだそうだ。論理!ここのXは二だから!わかった⁉︎」

隣で沢田くんが、けらけらと笑う。

「とんでもない先生につくと、生徒も苦労するよな」

「なんだって⁉︎義久、どういうこと⁉︎」

昨日の論理の家とは違って、今日は平和に楽しく勉強ができる。


「ねぇぶんちゃん」

少し勉強したところで、優衣が口を開いた。

「なに?」

「ぶんちゃんの部屋、久しぶりに見てみたい」

「え、いいよ」

私は、みんなを自分の部屋に案内する。

「おお、中一の頃とちょっと変わったね」

「二回くらい模様替えしたからね」

「そっかそっか」

優衣はそう言いながら、意味深にニヤリと笑った。

「この部屋に、論理が来たわけだ」

「え、そりゃあ、来たけど?」

私は、優衣の意図を図りかねた。そんな私に、優衣は右手の人差し指をズバッと突きつけてくる。

「ズバリ聞こう、この部屋で論理と何をした?隠さずに言いたまえ」

私は、突然の優衣の問いに、驚きを隠せない。な、何をしたって…。

「……え、えっち、かな?」

私は、論理を見た。論理は、目を中空に泳がせて、落ち着かないそぶりだった。沢田くんは、ニヤニヤと笑っている。

「なるほど。でだ、どんなプレイをした?」

優衣は、また人差し指を私の眼前まで突きつけて、そう問い詰める。

「え、え…?プレイ?」

「そう。どんなことしたか詳しく言ってもらおうか」

どんなこと…確か、初めてのえっちのときは、いろいろ舐められて、お尻に指を突っ込まれて…論理の指に私のうんちが付いちゃって…それを論理が…。

「そ、そんなこと、恥ずかしくて言えないよ…!」

顔がカーッと熱くなってきた。私のうんちを論理が食べただなんて、そんなこと言えない!

「まぁまぁ、私とぶんちゃんの仲じゃないの。私もね、一体ぶんちゃんたちがどんなことしてるのか知りたいわけよ。さあ、白状しなさい!」

優衣は、また私に人差し指を突きつけた。そんなこと言われても…。論理を見ると、文香、絶対言わないでくれ〜というような顔をしていた。沢田くんは、またニヤニヤと笑っている。

「無理無理!言えないよ!」

「なに。私にそんなに言えないようなプレイをしたわけ?」

「うぅぅぅ……」

私が困り果てていると、優衣は、ふぅ…と、ため息をついた。

「じゃあいいわよ。一体どんなことをしたのかすっごく気になるけど」

優衣は、引き下がってくれた。私はホッとする。でも、優衣や沢田くんに、論理が私のうんちを食べてくれたんだよ、そのくらい論理は私のことを好きでいてくれるんだよ、って言いたい気持ちもあった。

「優衣…あのさ…」

「ん?言う気になった?」

私は、チラリと沢田くんを見てから、優衣に聞く。

「沢田くんってさ、優衣の…その…う、うんち…食べてくれたことある?」

私のその問いに、優衣と沢田くんは、時間が止まったかのように固まってしまう。論理は、私たちに背中を向けた。その背中には、漫画でよく見る青ざめたときに入る縦線が、何本も入っていた。

「…ないけど、え?どういうこと?」

優衣は、固まった口をなんとか動かし、やっとのことで声を発した。優衣たちはないのか!私は、何かに勝ったような気がした。

「あのね…論理は、私の…う、うんち食べてくれたの…すごく大事なもの食べれる、って言ってくれて…俺たちそんな男と女なんだよ、って言ってくれて…」

私のその言葉に、優衣と沢田くんは唖然とした。論理は、床に崩れ落ちて四つん這いになっている。あれ?私変なこと言ったかな?

「論理!お前、十分変なやつだとは思ってたけど、さらにスカトロ趣味があったとはな!」

沢田くんが、いきなり論理にそんなことを言った。

「気持ち悪っ‼︎論理、あんたのことは十分気持ち悪いと思ってたけど、気持ち悪いの度を越してるわ!」

優衣が、嫌悪丸出しの表情で論理を見る。なんか私、やっぱり変なこと言っちゃったんだ…。

「気持ち悪くて悪かったな。でも俺には、なくてはならないものがある」

論理は、顔を少し引きつらせて、思いつめた様子でそう答えた。

「なくてはならないものって何よ」

優衣が、鋭い声で聞く。

「確かに、人にとって俺がしていることは、気持ちの悪いことだと思う。だけど、俺は文香に愛情を表現する上で、これを外すことはどうしてもできない」

「どうしてスカトロにそんなにこだわるんだ?」

沢田くんが、怪訝そうな顔をして聞いた。

「どうしてそうなるかは俺にもよくわからない。ただ、誰でもそうだと思うけれど、好きな人の、ここはどうしても見ざるを得ない、感じざるを得ない、という所はあると思う。沢田、お前もそうだろ?」

「そ、そりゃあ…ある」

「それが俺の場合、たまたま文香のお尻だったというだけのことだ」

「それにしても度を超してる!ああ、吐き気がしてきた…」

優衣が、本当に気持ちの悪そうな顔をする。困った。論理が優衣にまた嫌われてしまう。

「優衣、みんなそれぞれ違った性癖を持っているものだから、お互いそれを理解しあうべきだと思うよ」

「それじゃあぶんちゃんは、論理にうんち食べられても平気なわけ?」

「うん、平気。それが論理の愛し方だと思ってるし、私も嬉しい」

はぁ…と、優衣と沢田くんが同時にため息をつく。

「世の中には、俺たちの知らない世界がたくさんあるなぁ、優衣」

「そうね…しかも、こんなに私たちに身近なところにね。はー、信じらんない」

二人は顔を見合わせて、しばし言葉もなかった。

「ねえ、そういう二人は、初めてのえっちのとき、どんなことをしたの?」

私は、まだ青い顔をしている二人に向かって尋ねた。

「ど、どんなことって…」

優衣は、苦笑いを浮かべ、沢田くんを見た。沢田くんも、苦笑いしていた。

「池田たちのも聞いたから、ここは言わなきゃいけねぇよな…。実は…夏休みにな、優衣が俺の部屋に初めて遊びにきたんだ。俺、優衣と少しでもたくさん楽しむために、どうしたらいいか雑誌三冊買って研究したんだ。それで、ある記事を見つけて、その通りなことをやってみた」

「沢田くん、どんなことをやったの?」

私は、優衣に尋ねてみた。優衣は、顔を赤くしてもじもじしていたけど、やがて語りだす。

「びっくりしたわよ。義久の家に着いたら、こんな太いロープをごっそり持って立ってるんだから。なんのつもり?って聞いたら、『こういう楽しみ方があるって雑誌に書いてあるから』って言って、ほとんど無理やり部屋に連れ込まれたの。そこで裸にされて、あれよあれよという間に、縛られちゃったの」

「縛られた⁉︎」

私は、驚いて叫んだ。

「縛り上げたのか。沢田、お前もやるじゃないか」

論理に聞かれた沢田くんは、顔を赤らめている。

「沢田くん、どうして優衣を縛ったの?」

「いやその…縛られて、泣きそうな顔をしている女の子を雑誌で見て、とてもかわいらしいと思ったんだ。だからそれを、優衣にやってみたくて必死に縛った。優衣は、『やだよやだよ』と言って、やっぱり泣きそうな顔をした。それが本当にかわいらしかったし、これこそが、俺の愛する優衣だと思ったぜ」

ということは、沢田くんは縛ることが趣味なのかな?

「優衣は縛られてどんな気持ちだったの?」

「最初は怖かったし痛かったけど…そのうちに…だんだん…気持ちが良くなってきてるうちに…義久が…」

優衣は、顔を真っ赤にして黙り込んだ。

「なにやったんだ沢田」

「優衣の半泣き顔を見ているうちに、勃ってきちまって、この優衣のこの瞬間を逃したら、こんな優衣は永遠に見られないだろうと思った。だからすぐにズボンを下げて、俺のものを優衣に見せた」

縛ったり縛られたりすることって、そんなに良いものなのかな。ちょっと興味があるかも…。

「全身縛られて、義久のもの見せられて、私なにやってるんだろって思ったけど、それでもどこか気持ちよかった。多分、義久に縛られて、義久のものだったから、気持ちよかったんだと思う」

「俺も同じだ。優衣を縛ったんだから気持ちいいんだ。その気持ち良さで、俺は、優衣にキスした後、優衣の股の部分にあるロープを脇に押しのけて、指を突っ込んだ。優衣のやつ、もう滴るばかりになっていて、俺は夢中で優衣のを舐めた」

沢田くんは、その体験がよほど気持ちよかったのだろう、目を少し血走らせて私たちに語った。私も、いつのまにか興味津々で聞いていた。

「縛られた優衣が、本当にかわいらしくて、俺はもうたまらなくなって、コンドームを付ける手もそこそこに、優衣の中に突入した」

「優衣、痛くなかった?」

私は優衣に聞いた。

「そりゃあ…痛かったわよ。体は全身痛いし、あそこはあそこで痛いし…でも、…気持ちよかった」

優衣は、消え入るような声でそう言うと、顔を真っ赤にしてうつむく。その手は少し震えていた。

「そのあとは、優衣と何度もズコバコやったよ。だけどそのあと、とんでもないことに気づいたんだ」

「とんでもないこと?」

論理が、怪訝そうな顔をして聞く。

「やることをやって、いざほどいてやろうとしたら、ちゃんと記事通り結んでいたのにどこか違っていたみたいで、どうしてもほどけないんだ。一気に焦りが出てきちまって…優衣も優衣で、全身が鬱血してくる。これは大変なことになったと思った」

「私このまま死ぬかと思ったわよ。力技ではほどけないから、ハサミを使ったり、のこぎりを使ったりしたけど、やっぱりダメだった。このままじゃほんとにどうにもならないから、とうとう…救急車呼んだの」

「救急車⁉︎だって、優衣裸だし、そんなの恥ずかしすぎるのに…」

私は驚いてそう言うと、優衣が、沢田くんを睨みつけた。

「そうだよ。誰かさんが馬鹿馬鹿しい企画を思いついたために、私は全裸でわけのわからない縛り方をされて、救急隊員さんのお目にかかることになったの。隊員さんの『これ、どうしたの、ぷぷ』って言葉、死んでも忘れないわ」

「そんなこと言うなよ。優衣だってノリノリだったじゃないか。あんなに大きく喘いで…」

「あとあとあんなことになるってわかってたら、ノリノリになんてならなかったわよ。ほんとにもう…」

優衣散々だったなぁ。でも、そう言ってる優衣の顔は、なんだか楽しそうに見えた。そのあと、七時になったのでみんなは帰っていった。


次の日は、優衣の家で勉強会。優衣の家に来たのは久しぶりで、優衣の家独特の甘い匂いが懐かしかった。優衣の家は、マルシェという名のケーキ屋さんで、優しそうなお父さんとお母さんが毎日働いている。

「おかーさーん、おとーさーん、ただいまー!友だち連れて来たー!」

優衣は、元気よくお店の扉を開けた。優衣のお母さんは、私たちを見るなり、レジを離れてこちらに出て来てくれた。お父さんは、厨房から私たちに微笑みかけてくれた。

「あら、優衣お帰り。義久くん元気にしてるかい?あら、ぶんちゃん久しぶりだねぇ!」

私は、優衣のお母さんに頭を下げる。

「こんにちは、ご無沙汰してます」

「たまには顔を見せるんだよ。…あら、優衣、その子は?」

優衣は、ニヤリと笑った。

「これが噂の、論理だよ」

お母さんは、目を丸くする。

「あぁ、この子が論理くんなのかい。はじめまして、優衣の母です。よろしくね」

「はじめまして。向坂さんには、いつもお世話になっております」

論理がそう言うと、お母さんは、さっきの優衣のようにニヤリと笑った。

「いやぁ、優衣ったら、前はあんたのことをめちゃくちゃ言ってたんだよ。それがどうだい、ぶんちゃんと付きあったって頃からあんたのこと嬉しそうに話すもんでさぁ」

「もーっ!お母さんったら!余計なこと言わないでよ!論理ともいろいろあって、今はお互い友だちになれたんだから」

優衣は、お母さんの体をポカポカと叩く。

「向坂さんには、私と文香のことをいろいろ取り持ってもらいました」

「あっはっはっは!そんなにかしこまらなくてもいいんだよ」

お母さんは笑いながら、論理の頭をポンポンと撫でた。

「じゃあお母さん、私たちはこれから私の部屋で勉強するから!ケーキ持って来てよね!」

優衣はそう言って、私の腕をつかみ、引っ張る。そして私たちは、優衣の部屋へと案内された。


「だから!論理そうじゃなくって!」

優衣が苛立たしげに論理を責める。

「そこは、たすき掛けをすると、ちゃんと(X+4)(X+3)に因数分解できるでしょ!いい加減にこのテクニック身につけてよ!」

論理は、決まり悪そうにうつむいている。

「はー!まったく、数学なんて、論理の塊のような教科なのに、どうして論理は数学が全然できないんだろ!ほんと名前負けしてるわね!」

優衣…そこまで言わなくても…。私は、見てるのがかわいそうになってきた。

「優衣、お前も名前負けしてるぞ。論理にその名前の通りに接してやれ」

沢田くんが、ポツリと、しかしグサリと言う。

「うぐっ‼︎う、うるさいわね!私は、優しく接してるつもりよ!」

そっか、優衣の名前には、優しいっていう字が入ってるもんね。

「ねぇ、優衣の名前って誰が付けてくれたの?」

私は、ふと気になってそう聞いた。

「え?えっと、お父さんとお母さん」

「こんな娘に『優しい衣』なんて付けるんだから、お父さんもお母さんも本当に優しい人だよなぁ」

「ちょっと、余計な一言が入ってるんだけど?義久」

「いや、何が余計だったろうなぁ、心当たりがないぞ」

「まったく…まぁ、お父さんとお母さんは優しい人だよ。夫婦喧嘩もしないし。温かい家庭で良かったと思ってる」

私は、チラッと論理を見た。案の定うつむいている。

「じゃ、じゃあ、沢田くんは、誰が付けてくれたの?」

私は、話を逸らそうと思った。論理に、幸せな家庭の話はあまり聞かせたくない。

「俺は、親父が、明久(あきひさ)っていう名前だから、『久』の字をもらって来て、『義に従って久しく生きろ』という意味で、親父が付けた」

「へぇ、そうなんだ」

私はそう言いながら、もう一度論理を見る。顔つきは少し緩んだけれど、目は相変わらず伏せている。

「最近、義久の八百屋さん持ち直したの?」

「いや、近くのスーパーに押されて、相変わらず厳しい。お袋は、『もう廃業したら?』と言うし、親父はそう言われれば、むちゃくちゃ怒るし、家の中も争いが絶えないな」

沢田くん家ってそんななんだ…。でも、それを聞いて、ホッとしている自分がいた。論理を見ると、同じ立場の人を見るような顔で、沢田くんを見ていた。

「そっかぁ…あのスーパーできたのが痛いよね。私放火してやろうかしら」

優衣は怖い顔で、ライターをつける真似をする。

「頼むよ優衣、俺ん家は死活問題だ」

「ちょっとちょっと二人とも、放火はやめよう」

私はそうやって二人を制したあと、ふと、論理にこのことを聞いていないことに気付いた。

「ねぇ、論理は、なんで論理っていうの?」

論理は、私にそう聞かれて、少しおどおどした顔を見せたけど、やがて話し出した。

「まず一つは、『論理』という言葉通り、だ。『あらゆることに筋道立った対応をしていけ』というところだろう。二つ目は、英語の、『lonely』にかけて『どれだけ孤独でもへこたれるな』という意味がご丁寧にも込められている。こんな名前の付け方をする馬鹿者は、世界で一人しかいない」

え、そんな意味だったんだ…。一つ目の意味はまだわかるけど、二つ目の意味は…。名前を付けたのって、お母さんだよね…論理のお母さんは、息子に自ら孤独になってほしいと願っているのかな…。

「ほ〜なるほどなるほど。一つ目の意味は、思いっきり名前負けしてるけど、二つ目は、私らに出会うまで、バッチリ名前通りだね」

優衣が、首を縦に何回も振る。論理は黙っていた。

「俺も最初論理に出会ったとき、『えー論理っていうのこいつ』って思ったもんだ。それに、歌でよく、『lonely』っていう言葉出てこないか?超昔の歌だけど、沢田研二の歌にあっただろ、なぁ優衣、なんだっけなぁ」

「あーっ!知ってるそれ!『ロンリーウルフ』ね!まさに、論理にぴったしの歌じゃーん!ね、論理!」

「………やめてくれ」

論理が、押し殺すようにつぶやく。その顔は、硬直して青ざめていた。

「向坂さんや沢田には、一時の冗談で済むかもしれないが、俺は、お袋に着せられた孤独の呪いを一生背負って生きていかなきゃいけないんだ!」

押さえつけられた論理の怒りが、優衣や沢田くんにも通じたのだろう、二人は立場をなくしてうつむいている。私は、論理の背中を撫でた。

「論理、今まで苦しかったと思う。でも、もう論理は孤独じゃないよ。私もいるし、優衣や沢田くんだっている」

「そ、そうよー、私がいるんだから、あの鬼ババの呪いなんて、吹っ飛んだわよ!ちょっとふざけちゃったけど、許してよね!」

「論理、少しノリが軽すぎた。申し訳ない。でも、俺がいるから心強いと、少しでも思ってくれたら嬉しい」

うん、私たちが論理を支えていけば、論理が孤独になることはないよ。というか、私が絶対孤独にさせない!

「……………」

論理は、しばらく押し黙っていたけれど、わかってくれたのか、小さくこくりとうなずいた。


そのあとも私たちは、暗くなるまで勉強をしていた。優衣の気さくなお母さんに見送られて、私たちが家路についたのは、もう七時過ぎになる頃だった。沢田くんと別れて、私と論理が二人きりで肩を並べたとき、論理は口を開いた。

「そういえばさ、これずっと文香に聞いてなかったんだけど、文香の名前の由来って、なんなの?」

「え?えっとねー、文章を書いたときに、その文章から香りが立つ人になって欲しいって願を込めて、お父さんが付けてくれたんだよ」

「えー、そうなんだ。じゃあ俺も、文香の書いたものの香りを感じたい」

「じゃあ、いつか論理に手紙書いてあげるね。ほんとに香りがするかはわからないけど…」

「本当?じゃあ、待ってるね」

私たちの前を、かわいい野良猫が、一匹横切っていった。論理は、その野良猫のような顔を見せてくれた。


今日は沢田くんの家で勉強会。初めて見る沢田くんの家は、白い三階建のビルで、一階では、沢田くんのお父さんとお母さんが、賑やかに八百屋を営んでいる。でも、その賑やかさとは裏腹に、お客さんの数が少なかった。

「こんにちはー」

優衣が、明るい調子で、二人に挨拶する。

「おお、優衣ちゃん、義久から聞いてるぞ、今日は勉強会なんだってな」

「おやおや、みんな揃って。義久のお友だち?」

お父さんは、背が高くて小太りの大柄な人で、優しそうだった。お母さんは、結構きれいな人で、これまた優しそうだった。でも、この二人、争いが絶えないって、沢田くん言ってたっけ。そんな人たちには見えないけどなぁ。

「ああ、そうだよ。じゃ、みんなこっち来い」

沢田くんは、無愛想にそう言って、私たちを家の中に通した。二階にある沢田くんの部屋は、男の子らしい少し乱雑な感じだった。でも何よりも驚いたのは、部屋の真ん中の壁に、大きなギターが掛けてあって、その下の床の上には、これもまた大きなアンプが置いてあった。

「わぁすごーい!沢田くん、ギターなんてできるの?」

私がそう驚くと、沢田くんは、照れた顔を見せた。

「びっくりしたでしょ?義久ってすごいんだよ!作曲だってやるんだから!」

優衣は自慢げだ。

「沢田、お前曲作るんだったら、向坂さんに曲書いたこともあるんだろうな」

論理がニヤリと笑って、沢田くんに聞いた。

「…………ある」

えー!そうなんだ!恋人に曲を贈るの。なんてロマンチック!

「実はそうなの!前に義久に聞かせてもらったんだけど、メロディーと歌詞に心を奪われて、私ちょっと泣いちゃった」

「ちょっとじゃないだろ、ワーワー泣いてたくせに」

沢田くんにそう言われた優衣は、思い出したのか、少し涙目になっていた。

「えー!すごい!私もぜひ聞いてみたい!」

私は、優衣が少し羨ましくなった。私も、論理に曲を書いてもらいたい。

「よし、拙い歌だが……」

沢田くんは、恥ずかしさと誇らしさの入り混じった表情で、壁のギターを取り外し、肩に掛けた。コードをアンプに結ぶ。アンプのスピーカーから、ブーン、という、ギターらしい音が聞こえた。沢田くん、かっこいい!様になってるじゃん!

「それじゃあ聞いてくれ。『俺だけの君、君だけの俺』」



恋だとは知らなかった 明るい笑顔が眩しかった

俺の素顔を受け入れてくれる君

恋だと気づいたとき 小麦色の肌が寄り添ってくれた


Oh My Baby 今日もこれからも

Oh My Baby 向こうにある坂道を

Oh My Baby ともに歩んで行こう


My Sweetest Honey、Your Sweetest Honey

夢じゃない ここにいてくれる俺だけの君

嘘じゃない ここにい続ける 君だけの俺

今すぐ君を抱きしめたい きつくきつくきつく

愛の言葉は 待っておくれよ


現実とは気づかなかった メゾソプラノの澄んだワルツ

俺の弱さを温めてくれる君

現実と気づいたとき 茶色の髪が振り向いてくれた


Oh My Baby いつもいつまでも

Oh My Baby 包んでくれ優しさの衣で

Oh My Baby それが俺の生きがい


My Sweetest Honey、Your Sweetest Honey

夢じゃない ここにいてくれる俺だけの君

嘘じゃない ここにい続ける 君だけの俺

今すぐ君を抱きしめたい 強く強く強く

愛の言葉は 待っておくれよ


My Sweetest Honey、Your Sweetest Honey

夢じゃない ここにいてくれる俺だけの君

嘘じゃない ここにい続ける 君だけの俺

今すぐ君を抱きしめたい 熱く熱く熱く

愛の言葉を 待たせてごめん


愛してる



沢田くんが、最後の音を爪弾いて、曲は終わった。隣で鼻を啜る音が聞こえると思ったら、案の定、優衣が溢れる涙を拭えずにいた。優衣だけじゃない、論理まで涙を止めどなく流している。私も、沢田くんがこんなにも優衣のことを想っているのを身に染みて感じて、目頭が熱くなった。

「………………良い‼︎」

論理はそう言って、力強く拍手した。優衣も私も、それに続いて拍手する。その音は、いつまでも鳴り止まなかった。

「みんな、ありがとう!」

沢田くんの目にも、涙が光っていた。


沢田くんの、愛のギターが終わったあと、私たちは勉強会を始めた。今日は、みんなで英語を勉強した。英語は、みんな苦手科目だったので、誰がリードするわけでもなく、みんなでお互い教え合っていた。始めてから一時間くらい経って、そろそろ一休みしようかというとき、突然、下の階から、

「……きの接客はなんだお前‼︎……くも来なくなるだろ‼︎」

「……ただってそうでしょ‼︎あなたになんて……れたくないわ‼︎」

「なにをくそっ‼︎」

という、怒鳴り声が微かに聞こえて来た。あれ、なんだろう…。まさか、沢田くんのお父さんとお母さんが喧嘩してる?沢田くんを見ると、悲しげに目を伏せていた。

「義久…」

優衣が、沢田くんの手を握る。

「すまん、みっともないとこ見せちまったな。あれでも、親父もお袋も、必死なんだと思う…。でも、……俺にはつらい」

「ずばっと聞いて申し訳ないが、やはり、店の売り上げが原因なのか」

「そうだ、論理。昨日も言ったけど、近くにスーパーができて、客は激減しちまった。今ここで店を辞めるのかどうか、それを考えなきゃいけないところまで来てる」

沢田くん家は今、苦境に立たされているんだなぁ…。一階からは、まだ怒鳴りあいの声が聞こえている。

「何かできることはないのかな…」

私は、必死に何かできることを考えてみたけれど、何も思いつかない。

「俺たちの頭で考えてもな…やれることは全部親父たちがやってるだろう」

「ねぇ、義久、お父さんとお母さん大丈夫なの?このままじゃ…」

「知らねーよ、このまま店を畳んで、離婚じゃねーの」

沢田くんは乱暴にそう言うと、いきなり壁のギターを取って、大音量で弾き始めた。途端に、下から階段を駈け上がる音が聞こえてきた。

「義久‼︎なにしていやがる‼︎大音量のギターは慎めと言っただろ‼︎それをさっきから‼︎」

扉を跳ね開けたお父さんが、沢田くんに怒りをぶつける。しかし沢田くんは、ギターを弾く手を止めない。

「義久‼︎やめんかっ‼︎」

「じゃあ‼︎」

ギターの音が、うるさいほど部屋中に響いた。それは、沢田くんの叫びだった。そして、沢田くんは、ギターを弾く手をピタリと止めて、お父さんを睨む。

「大音量の喧嘩はいいのかよ」

「くっ‼︎」

二人は睨み合う。

「あなた‼︎義久なんかに構ってないで、早く店に降りて来てちょうだい‼︎」

下から、ヒステリックな声が聞こえてくる。お母さん…義久『なんか』って…。お父さんは、まだ沢田くんを睨んでいたけど、やがて顔を逸らして、一階へ降りて行った。沢田くんは、また大音量でギターを弾き始め、誰もそれを止めることはできなかった。


土曜日の勉強会は、論理の家でやる予定だったけれど、この前のことがあったので、私の家でやることになった。

「ねぇ、明日は日曜日だけど、みんなどうする?」

優衣が、鉛筆を指でくるくると回しながら聞く。

「あのさ、図書館で勉強しない?論理と私、いつも日曜日図書館で勉強してるの!」

「図書館?鶴賀の?」

沢田くんに尋ねられて、私は、うん、と返事をした。

「ふふふふふふふふ…」

いきなり優衣が怪しげに笑い出した。

「なに、優衣?」

「ぶんちゃん、図書館といえば、なんてったって銀水でしょ!」

優衣は、私をビシッと指差して言う。その目は怪しく光っていた。

「し、銀水?」

私は、わけがわからず聞き返す。すると、優衣が近づいてきて、私の耳元で囁く。

「わかってるでしょー?伝説のトイレの勇者さん!」

思い出した!と、同時に、私は顔が真っ赤になった。そうだ、銀水のトイレといえば…論理を感じてしまって…。

「なんだ?今、トイレって聞こえた気がしたが、文香、銀水のトイレでなんかあったのか?」

「ああああ!論理、いいのいいの!なんでもないから!なんでもないから!」

私は、両手を思いきり振る。論理に知られたら恥ずかしくて死ぬ!

「なんだか知らねーが面白そうだな。銀水といえば、ずいぶん遠いけど、論理たち行ったことあるのか?」

「ああ、夏休みに文香と一度勉強しに銀水の図書館に行った」

それを聞くと、沢田くんはクスッと笑った。

「勉強するためだけだったら、鶴賀に行きゃ済むのに、わざわざ銀水まで行くとは、お前たちらしいな。よっしゃ、じゃあ、明日みんなで行ってみよーぜ!」

ということで、明日、みんなと銀水の図書館で勉強することになった。あの思い出の地にまた行くことになるとは…。でも、なんだかんだで楽しみだった。

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