三十二、論理くん、一気に語る
次の日、私は、待ち合わせの公園には行かず、そのまま学校へ行った。もう、私の中の、論理くんへの気持ちは完全に冷めていた。昨夜は、泣きに泣いたので、瞼が腫れ上がって痛い。なのに学校へ行くのは、坂口くんがいるからだ。論理くんの醜態を目の当たりにして、ますます坂口くんとのデートが、忘れられなくなった。教室に着くと、論理くんはいなかった。ひょっとして、公園で私を待っているのかもしれない。でも、そんなの、関係ない。私は、まっすぐ、坂口くんのもとへ行った。
「坂口くん、おはよ!」
私が、元気に坂口くんに挨拶すると、坂口くんは、論理くんが、私に絶対見せないような、眩しい笑顔を見せてくれた。
「おお、おはよう、文香。あれ?目が腫れているが、どうした?」
「うん…論理くんと、いろいろあってね。でも、大丈夫!もう、論理くんのことなんて、いいから!」
「ほう。でも俺には、文香が強がっているようにしか見えないぞ。俺の前では、強がらなくてもいいんだが」
坂口くんは、そう言って、私の頭を、ポンポンと撫でてくれた。きゅうううん!坂口くぅん…!この手の温かさ。撫でられたときのときめき。そのどちらも、論理くんにはない。
「坂口くん…私、今、すごく、ときめいてる。この気持ちはなんだろう!」
「文香…それはな…俺への恋だ」
えっ!私は、また、胸がときめいた。ときめいて、しかたがない。
「そっか!これ、坂口くんへの恋なんだ…!」
「じゃあ、俺もまだまだ、希望は捨てられないな。文香の気持ちを、引き当てる確率は、宝くじの一等くらいだと思っていたが、それも、二等ぐらいまで広がったかもしれない」
「ううん、違うよ、参加賞だよ…。坂口くん…私…!」
ガラガラ。と、教室の扉が開く。入ってきたのは、論理くんだった。論理くんの姿を見た瞬間、私は、坂口くんに、その先の言葉が言えなかった。どうして?私、もう、論理くんへの気持ちは、冷めたはずなのに…。論理くんは、私とは目を合わせずに、黙って自分の席に着いた。
「文香、枯れた薔薇のお出ましだぞ」
「……枯れた薔薇でも、ドライフラワーにできるかな」
私は、ポツリと言った。
「ドライフラワーだと言うのか。それならやっぱり、参加賞じゃなくて、良くて二等だな。狭き門だ」
論理くんは、私を、一瞥もしない。この前、坂口くんと私がしゃべってたときは、睨んできたのに。論理くんへの気持ちは冷めているはずなのに、胸が苦しい。どうして?私は、だんだんイライラしてきた。
「二等なんかじゃないよ!私!いつでも待ってるから!」
当て付けがましく、私は大きな声で、そう言う。それでも、論理くんは、こっちを見てくれない。
「どうした文香、急に大きな声を出して。ああ、論理か。まぁ、俺は、お前たちの引き立て役になってやるよ」
坂口くんが、寂しそうに、笑う。
「そんなこと言わないで。寂しいよ」
私は、そう言ったけど、坂口くんは、寂しげに笑うきりだった。そして、私の心の中にも、動かしにくい大きなものが、依然として宿っていた。
授業中、論理くんは、私のうなじを触ってはくれなかった。とうとう、私たちは終わってしまったか。いいよ、論理くんがいなくても、私には、坂口くんがいるもん!論理くんのことや、坂口くんのことで頭がいっぱいで、授業に集中できなかった。
音楽の時間。私たちは、合唱曲『COSMOS』の練習をしていた。いつも通りに大きく息を吸い、大きな口を開けて、歌っていた。ただ、一つだけいつもと違うのは、論理くんの視線を、まったく感じないことだった。もう、論理くん、私のこと、好きじゃなくなったのかな…もう、私の歌声で、射精してくれないのかな…。そう思うと、涙が出てきそうだった。なに、私だって、もう論理くんのことなんか好きじゃないし!私が好きなのは、坂口くんだもん!きっと、坂口くんだって、私の歌声で射精してくれるよ!私は、無理矢理自分に言い聞かせた。
休み時間。優衣と沢田くんは、何やら二人でどこかへ行ってしまい、私は、話す人がいなかったので、机に突っ伏して寝ているふりをしていた。はぁ…論理くん、今、私の後ろでなにやってるんだろ。なに考えてるんだろ。あーあ、論理くん…また、私のこと、愛してるって言ってよ…また、私のうなじにキスしてよ…また、私のお尻に指を入れて、そこに付いたうんちを舐めてよ…また、私の歌声で萌え立ってよ…論理くん…論理くん…。論理くんのことばかりが、頭に浮かぶ。もう、好きじゃなくなったはずなのに、どうして…。涙が出てきた。と、そのとき、頭の上に、温かい手の温もりを感じた。私は、驚いて顔を上げると、そこには、坂口くんが立っていた。
「坂口くん…」
「文香…泣いていたのか」
私は、慌てて涙を拭う。
「…大丈夫。なんでもないよ」
「論理のことか。おい、論理、文香を泣かせるなんて、最低だな」
坂口くんは、後ろにいるであろう、論理くんに向かってそう言う。私は、振り返って論理くんを見ようとはしなかった。
「ぼくって、最低だよ。毎日、そう言い聞かされてきてるもの」
そう言い聞かされてきたって、誰にだよ。少なくとも私じゃないよね。論理くん、もう、壊れたきりもとに戻らないのかな。
「誰がそう言い聞かせているかは知らんが、とりあえず、今のお前は最低だ。文香が選んだ男だから、それなりに見所のあるやつかと思っていたが、これは見込み違いだったようだな」
「………………」
論理くんは、坂口くんの言葉に言い返さず、黙りこくっているようだ。
「なんだ、論理、この前の勢いはどうした?」
「………………」
ふぅ、と、坂口くんは、ため息をついた。そのうち、授業のチャイムが鳴る。
「そんな様子じゃ、文香は俺がもらう。せいぜい後悔する力くらい残しておけ」
坂口くんは、ひとしきりそう言うと、一番の自分の席に戻っていった。先生が入ってきて、授業が始まる。
放課後になった。論理くん、どうするんだろう、一緒に帰るのかな…。帰り支度を済ませ、論理くんの方を見ると、論理くんは、自分の席で、うつむいたまま、特に何もせずに座っている。話しかけてくれないし…一緒に帰る気ないの?もう、いい。私一人で帰る。私が一人で教室から出ようとしたとき、論理くんが初めて顔を上げて、悲しげな視線で私を見た。何か口がもごもごと動いて、「みすて……」と、言ったみたいだったけど、私は、無視して教室の外へ出ていった。
論理くんと無視し合う状態は、数日間続いた。論理くんと私のこの状態を心配した優衣が、何度か私のところへやってきて、声をかけてくれたけど、私はその度、無理矢理別の話をしたりして会話をはぐらかせた。優衣は、悲しげな目をしながら、私のその無理な話に合わせていた。もう、放っておいてほしかった。もう私は、論理くんのこと、好きじゃないんだから。と、思ったとき、私の脳裏に浮かんでくるのは、決まって論理くんなのが、どうしようもないけれど。
論理くんと無視し合って、一週間経ったある日、突然私は、合唱部の先輩の東尾(ひがしお)先輩に廊下に呼び出された。東尾先輩は、眼鏡がよく似合う。
「東尾先輩、何の用ですか?」
「花に来る蝶のように、ここへ来てしまったんだ。君のソプラノという、蜜に誘われてね」
東尾先輩は、そう言って笑った。口元が星でキラキラとしているように見えた。東尾先輩、言い方がおかしい…でも、こういうの、好きかも。私は、照れ笑いをする。
「なに言ってるんですか?」
「わからなくて当然だ。何故なら、僕は君のハートへ、真実を一つ、持ってきたのだから」
東尾先輩は、自分に陶酔しきっている。東尾先輩とは、あまり話したことなかったけど、こういうキャラだったんだ。
「真実って、なんですか?」
「僕が君を愛し、一+一が二になるように、君が僕を愛するってことだよ、文香」
東尾先輩は、顔に星を散らしてそう言った。ドキッと、心臓が高鳴る。しかも、文香って、言われた…。
「東尾先輩…」
「いいか、文香、君の歌う姿を見ながら育んだ僕の愛情は、どんな楽譜よりも、愛を奏でている」
臭いセリフを、意気揚々と謳っていく東尾先輩。でも、そんな先輩の言葉に、私はうっとりしてしまう。
「東尾先輩…」
「人生というのは、日々、マークシートを塗りつぶすようなものだ。文香、ここでカンニングさせてやろう。正しい答えは、僕だ」
「え…?」
東尾先輩の、燃え盛る瞳が、私を射抜く。
「文香、好きだ」
ドクン!心臓が跳ねる。東尾先輩が、私のこと、好きだったなんて…。
「そんな…東尾先輩…」
「君は、僕のハートに火をつけた放火魔さ。だから僕は、君を逮捕しないと。おいで、ハニー」
私は、東尾先輩の紡ぐセリフに、完全に中毒症状を起こしていた。東尾先輩という麻薬に、手を伸ばす…。でもそのとき、坂口くんの厳しい声が聞こえた。
「何をしている!お前は誰だ!」
「坂口くん!」
坂口くんが姿を現し、私は、正気に戻った。
「あれ?おかしいな、文香は魔法使いなの?文香しか見えないよ」
依然として、東尾先輩は、私を見つめている。恥ずかしい…。
「おい!誰だお前は!」
坂口くんが怒鳴ると、東尾先輩は、私から目を逸らし、坂口くんを、大嫌いな人を見るような目で見つめる。
「…名乗る理由を認めないね。お前の価値が低すぎてな」
「なに?」
「お前が誰かはこれっぽっちも興味はないが、文香は今から僕のものだ。立ち去るがいい」
坂口くんは、怪訝な顔をしている。
「なに言ってんだ、お前。文香、こいつ誰だ?」
「合唱部の東尾先輩」
坂口くんに聞かれたので、私は、普通に答えた。
「立ち去れと言っている。聞こえないのか?この空間は、僕と文香のものだ。不法侵入だぞ」
「お前、頭おかしいのか?お前みたいなやつに文香は渡さない。文香から離れろ!」
「坂口くん…」
坂口くんも、私のことを想ってくれてる…まさか、私って、モテモテ?
「離れろだと?それは無理だな。僕という自立語に、必ず文香という付属語が付くのだから」
「わけがわからん」
と、呆気にとられる坂口くんを尻目に、東尾先輩は、私に向き直り、また、燃える目で私を見つめた。
「さあ、文香。君と僕とで、未来への扉を、開こうじゃないか。そのためには、鍵と鍵穴が必要だ。僕が鍵で、君が鍵穴なんだよ」
東尾先輩の言葉が、いちいち詩のように素敵で、心が奪われる…。
「東尾先輩…」
「やめろ!俺だって文香が好きだ!こんなやつに渡すくらいなら、俺がもらう!」
坂口くんは、そう叫び、東尾先輩を睨みつけた。東尾先輩も、坂口くんを睨みつける。
「坂口くん…東尾先輩…」
どうしよう…坂口くんも、東尾先輩も、それぞれ良いところがあるし、私を愛してくれてるし、どっちも選べないよ…それに、私は…。
「文香ぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ‼︎」
突然、廊下の向こうから、私の名を叫ぶ声が聞こえた。え?と、思って、そちらを向くと、論理くんが、いた。廊下の二十メートルくらい向こう。両隣にいるのは、優衣と沢田くんだろうか。え? それにしても今、論理くん、文香ぁぁって叫んだよね。私の…名前を…。
「論理くん⁉︎」
論理くんは、風のように早く走って、私のもとへやってきた。
「文香!誰のもとへも行くな!俺の傍にいてくれ!文香じゃなきゃ駄目だ!俺は、男でいられない!」
論理くんの言葉が集結して手の形を成し、私の心臓を鷲つかみした。
「論理…くん…」
「文香!ここ数日つらいことばかりで、俺も考えたし、沢田や向坂さんたちとも話ができて、俺ようやく気づいたんだ。俺は甘えていた。今までの文香との毎日に甘えて、そんな日が当然続くと思っていたんだ」
論理くんは、今まで何日間かのもどかしさが、一気に堰を切ったかのように、語り続ける。
「名前のことにしてもそうだ。俺はまた、やつの呪いに幻惑されて、文香の気持ちより、やつの烙印を優先しようとしていた。俺はまた、文香よりもやつを取ろうとしていたんだ。この何日かだって、俺を見捨てようとする文香がやつと同じに見えて、怖くなって何も見えなくなってた。やつに文香との仲を陰に日向に邪魔されて…。そんなこともう、あってたまるか!俺は…俺はもう、自分の母親は死んだと思って、文香に身を投じるぞっ‼︎」
論理くんは、そう言って、強く私を抱きしめた。論理くんの温もりが、骨の髄まで行き渡る。そこに、愛はあった。論理くん…また、私を愛してくれるんだね…。論理くんは、今までのおどおどとした論理くんではなく、もとの論理くんに戻っていて、正気に満ち溢れている。私は、この上ない嬉しさが怒涛のように全身に押し寄せ、涙が溢れ出てきた。
「論理くん…論理くん…、す、すはあああっ‼︎うええええ…ええええんっ‼︎すはあああっ‼︎論理くんっ、論理くぅんんん‼︎」
私は、安心しきって、迷子になったあと、親に巡り合った子どものように泣き出した。論理くんの温もりを貪るかのように、私も強く論理くんを抱きしめた。
「文香…今まで悲しい思いをさせてすまない。もう、俺は自分を見失わないぞ!この世界中の誰よりも、人類が生まれてから今まで生きてきた時代の誰よりも、俺は文香を愛すし、愛し続ける!」
「論理くん!論理…くんっ…!すはあああっ!うえええええ…えええんっ!すはあああっ、論理くん論理くんっ…す、すはあああっ!うえええええええええんっ‼︎」
私は、論理くんと、骨が折れそうになるくらい、固く抱き合う。論理くんは、私をもう離さないぞと言わんばかりに、強く抱きしめてくれた。
「ふっ、やれやれ、完敗だ。俺はやっぱり、文香の物語の主演男優にはなれなかったか。まぁ、幸せになれよ」
坂口くんは、そう言って、教室に入っていった。
「僕の君への想いは、角砂糖のように甘く、時計の針のように正確なものだった。僕は今、捨てられた人形のような気持ちだ。僕は去るよ。しかし、太陽が必ず昇るように、僕は必ずまた現れるだろう。君の夢の中に。アディオス!」
東尾先輩も、そう言って、立ち去った。
その日のお昼休み。私と論理くんと、優衣と沢田くんの四人で、過ごしていた。
「いやぁ、論理、さっきはかっこよかったぞ。前に、池田がいじめられてたときもそうだったけど、お前、本当に、決めるときは決めるやつだな」
うんうん、と、私は、うなずく。
「まぁ、あれは…思いもよらないやつが現れて、必死だったということもあるし、お前ら二人が、懸命になって、俺を説得してくれたことが大きい。本当にありがとう」
と、照れくさげに論理くん。
「私、論理くんとはもうダメかと思ったけど、またこうやって話ができるようになって、本当によかったよ」
私は、また論理くんともとに戻れたことが、悪魔が消えたときのように嬉しかった。
「つらかったときに、いろいろぶんちゃんからは話を聞いたけど、ぶんちゃん、最後の最後まで、論理のことを好きでいる気持ちを捨てなかったよね。だから私たち、ちょっと安心はしてたの」
「それにしても優衣、論理くんを、どう説得したの?」
私は、これが一番聞きたかった。
「そりゃあねぇ」
優衣が、沢田くんと顔を見合わせる。バツの悪そうな論理くん。
「それを言う前にだな、論理、池田のことを、今後どう呼ぶんだ?俺たちの前で呼んでみろ」
「えっ」
沢田くんの言葉に、私は、声を漏らした。期待して論理くんを見ると、論理くんは、顔を真っ赤に染めている。でも、いつものように、うつむいてしまうことはない。
「わかった」
論理くんは、恥ずかしげながらも、私をまっすぐに見る。その瞳の中に、はっきりとした意思が、燃えていた。その口が開いて、「はあああっ」息を吸う。肩が上がる。論理くんの胸式呼吸。そして──。
「文香!」
五千ピースのジグソーパズルの、最後の一ピースを嵌めたときのような、体の底から湧き上がる嬉しさを、今、私は感じた。これまで、論理くんに名前を呼んでほしくて、苦しんだ四千九百九十九ピースが、今、報われ、完成した。
「論理くん…」
私は、涙が出てきそうになった。
「よかったな、池田。で、池田は、論理のことを、どう呼ぶんだ?」
沢田くんは、いきなり私にそんなことを言った。
「え、そ、そう言われても…」
え?ここは、私も論理くんを呼び捨てで呼ぶってこと?なんだか恥ずかしい…。
「ぶんちゃん、なに恥ずかしがってるのよ」
優衣が、ニヤニヤしながら、私を促す。前を見ると、論理くんが、期待のこもった目で私を見つめてきている。そうだよね、私だけがくん付けでもおかしいよね。恥ずかしいけど、私も心を決めよう。論理くんがやったように、私も、論理くんを熱く見つめ、口を開いて、「すはあああっ」と息を吸う。腹式呼吸の私のお腹がふくらむ。
「論理!」
その言葉は、私が恥ずかしがった割には、簡単に私の口から吐き出された。その瞬間、論理くん──ううん、論理は、炭火のように、穏やかに顔を輝かせて私のその言葉を受け取っていた。
「わー‼︎」
「ひゅーひゅー‼︎」
優衣と沢田くんは、私たちを囃し立てたあと、私たちを握手させた。
「これでお前たちは今から、『論理』と『文香』だな!」
「良かったねぇ。大きな山を乗り越えたね」
論理と私は、優衣と沢田くんの祝福を受けながら、固く手を握り合っていた。
「それにしても、論理、お前、ずいぶん俺たちを手こずらせやがったな」
沢田くんが、論理を軽く睨むフリをする。
「すまない。目が覚めたのは、本当に二人のおかげだ。ありがとう」
「私も不思議だったんだけど、その…ろ、論理…の、『ぼくモード』って、なんだったの?」
私が、そう聞くと、論理自身が、答えてくれた。
「俺の母親は、正論で人を責めるやつだ。誰もが太刀打ちできないことで、自分の言いたいことを言ってくる。子どもの頃から、それに飼いならされてきた俺は、反射的に、正論を打つ人間に、丸め込まれようとするところができた。犬とか猫が、飼い主の前で仰向けになるときがあるが、あれは降参の印だ。だから俺も、文香の前で、降参していたということだ」
正論?降参?論理、仲直りじゃなくて、降参してただけだったんだ。
「正論って、私、なんて言ったっけ?」
「お母さんで逃げるな。私を傷つけたのは、お母さんに似た論理じゃなくて、論理自身だ。それを受け止めろ。論理を傷つけたのは、私自身だって受け止めてる。お互いそうやって、自分の罪を受け止め合ってこその、カップルだ。…俺は、そう聞いた」
確かにそんなようなこと言った覚えがある。
「俺は、そう言われた瞬間、まるで、文香が、俺の母親のように見えてしまった。頭の中で何かが切り替わって、文香に対してかつて子どもの頃、母親に感じていたような恐怖を感じるようになってしまった」
私があのお母さんと一緒だって?私は、少し悲しくなった。
「そうだったんだ…」
「俺が、そうなったのを、最後の最後で、助けてくれたのが、この二人だ」
「どうやって助けたの?」
私は、優衣と沢田くんを見つめた。
「いやぁ、苦労したぜ。なぁ」
と、沢田くん。
「最初は、『ぼくどうしよう』って、言ってるばかりで、もう私つら抱できなくってさぁ、悪いけど、論理、引っ叩いちゃった。論理、覚えてる?」
優衣…さすが優衣。怖いことを和かに言う優衣に、論理は、苦笑いした。
「覚えてるさ。怖くて号泣しちまった」
今の論理だったら、そんなことで泣いたりしないよね。
「とにかく最後の最後は、お前が、大事にしてるのは、お袋さんか、池田か、どっちなんだって問い詰めた。池田の正論は、俺も正論だと思う。その正論のせいで、池田がお袋さんのように見えるのなら、論理は池田のことでも、やっぱり、お袋さんに屈服することになる。それでもいいのかって、肩揺すってさぁ」
沢田くんも苦笑いしていた。
「そんなことがあったんだね…私、そんなこと知らないで、坂口くんと東尾先輩との間で揺らいでた」
横目で坂口くんを見る。坂口くんは、小野くんと仲よさそうに話している。もう、私のこと、本当に諦めちゃったのかな。いけないいけない、なに考えてるの、私。
「私たちが、必死になって最後の説得をしてたけど、論理、反応薄くてさ、もうダメかなって思った瞬間に、あの変なのが現れたわけ。そこで、論理正気に返ったね」
「気がついたら、目の前に、あんな光景があるだろ。一気に燃え盛った」
論理は、そのときのことを思い出したのか、エキサイトした顔で瞳を輝かせている。
「ありがとう論理…あのときは、嬉しかったよ」
「礼ならこの二人と、そして…あの東尾とかいうのにも、言ったほうがいい」
「坂口くんは?」
私がそう聞くと、論理は、ブスッとした顔で横を向く。
「あいつは、別にいいんじゃないのか」
「あはははっ、論理ったら、あのハルシマと一日デートをよっぽど根に持ってるのね。こらこら、器が小さいぞ」
優衣が、笑いながら論理を叩く。
「器が小さくてもいい、俺は、あいつが、文香のうなじにキスをしたことが、許せない。文香のうなじにキスできるのは、世界中で俺一人でなければいけない」
まだそれ気にしてる。でも、もう、私も気をつけなくちゃね。もう、私のうなじにキスできるのは、論理だけだよ。
「相変わらずだな、論理。でも、俺、論理のその一途さが好きだぞ。俺も見習わなくちゃな」
「無論、俺は、文香を一途に愛している。沢田、見習うと言うが、お前はどうなんだ?」
「お、俺か?まぁ、そうだな」
沢田くんは、照れたのか、優衣から目を逸らしながら、少しお茶を濁した。沢田くん、優衣に愛してるって言ってあげればいいのに。優衣の方を見ると、笑っていたけど、それはどことなく無理してるように見えた。
「もー、義久ったら、いつも、愛してるって言ってくれないんだから」
「そんなことは、言葉にしなくても、わかってるだろ」
沢田くんは、そういう考え方なのかぁ。沢田くんは、優衣の頭を撫でた。優衣は、やっぱり笑っていたけど、その笑顔は、繕っているもののように見えた。優衣、どうしたんだろ。やっぱり、沢田くんに、愛してるって言ってもらいたいのかな。
「でもありがとう。二人のおかげで、論理と仲直りできたよ。もし、優衣と沢田くんがピンチになったら、私たちが助けるからね!」
「さんきゅ。そんなことにはならないだろうけど、そのときはよろしく頼むわ」
「よろしく頼むね、ぶんちゃん。でも、そういうことにはならないよ、まぁ、ね」
論理を見る。論理も、見つめ返してくれる。あぁ、こういうことが、またできるようになったんだなぁ。私は、幸せを、しみじみと感じた。
その日、論理は、音楽室の真下で、私の歌声のシャワーを浴びてくれた。そして、部活が終わると、再び私たちは、一緒に手を繋いで帰るようになった。
「髪、ちょっと伸びたね」
論理は、私のうなじをのぞき込んだ。
「もう、三週間くらい経ったからね。どれくらい伸びたかな」
「ふむふむ、ここの赤あざが、隠れ始めているということは、もう、二㎝半は伸びたな」
「さすが、文香博士。詳しいですなぁ」
私がそう言うと、論理は、得意げに笑った。でも、急に顔を曇らせる。
「文香、襟足剃ったの、二日前だろ?」
「え?そうだけど…よくわかるね」
「そりゃあ、文香のうなじや襟足に関しては、文香以上に知っている自信がある。それより、二日前に剃ったということは、俺たちが、もめているときに剃ったということになるよな」
「うん。もしかしたら、論理が見ていてくれるかもしれないと思ったし…」
論理は、私の手を、強く握りしめた。
「ごめん、そしてありがとう」
「ううん、いいよ」
論理は、立ち止まって、私の手を離すと、私を後ろから抱きしめた。そして、少し震えた声で、こう尋ねる。
「文香、今までのことは、もう、どうでもいい。これから、このうなじに、キスできるのは、だあれ?」
「論理だよ」
「他には?」
「いないよ!」
「ありがとう。文香のうなじを見つめながら、その言葉をまた聞きたかった」
論理は、そう言うと、私のうなじに口付けてくれた。私は、論理の両腕に手を添える。長い間、このうなじが、欲しがっていた、論理の唇の温もり。それがようやく、帰ってきてくれた。私は、手に力を込める。あぁ、論理、もう二度と、離さないで。論理の唇がうなじから離れ、論理は、もう一度私を強く抱きしめてくれる。
「文香」
そう呼ばれ、私の心臓は高鳴る。まだ、呼ばれ慣れていないこの響き。嬉しいよ、論理。
「論理」
「愛してるよ」
「愛してるよ」
「大好きだよ」
「大好きだよ」
「ずっと一緒だよ」
「ずっと一緒だよ」
また、論理と心からこう言い合えた。きっと今、私たちは幸せの光を放っているだろう。私は、空を見上げた。雲間から、太陽の光が地上に降り注いでいる。それはまるで、私たちの未来を表すかのように、きらきらと輝いていた。
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