三十一、論理くん、壊れる

次の日。私は、公園で論理くんを待っていた。論理くんと会うの、憂鬱だな。でも会ったら、昨日のこと、ちゃんと謝らなくちゃ。坂口くんにもラインで言われたし。でもその前に、論理くん、ちゃんと来てくれるかな。私は、ブランコをギコギコと一人で漕いでいた。と、そのとき、論理くんが来てくれた。表情は、仏頂面でうつむいている。論理くん、まだ怒ってるのかな。私は、ブランコを漕ぐのをやめ、論理くんのもとへ歩いた。『最高の笑顔でおはようと言ってやれ』。坂口くんの言葉が思い起こされる。その言葉どおり、私は、今できる精一杯の笑顔を論理くんに向ける。

「論理くん、おはよう」

私は、論理くんに挨拶した。声、明るかったかな。大丈夫だよね、坂口くん。

「……おはよう」

論理くんも私に挨拶を返してくれる。でも、その声は暗かった。

「…昨日は、ごめんね。私、ちょっと言い過ぎた」

私は、論理くんをチラチラと見ながらそう謝った。

「……いいよ……俺も」

論理くんも、うつむきながらだけど、そう言ってくれた。

「じゃあ、行こうか、論理くん」

「うん」

私のほうから論理くんの手を握り、手を繋いで歩き出した。


教室に着く。ふと、坂口くんが目に入った。坂口くんは、小野(おの)くんとおしゃべりしていたけれど、私が教室に入った瞬間、こちらに目を向けて、にっこりと笑ってくれた。私も、眉毛を下げて笑い返した。席に着くと、前の席のほうで、優衣始め女子たちが群がっていた。なんだろう?と、思ってよく見ると、沙希の髪型が変わっていた。沙希は、もともとおちょんぼだったけど、それをバッサリ切って、おかっぱになっていた。なかなか似合っていてかわいい。まあ、論理くんが褒めてくれる私のおかっぱには負けるけどね。なんて、天狗になってしまう。いけないいけない。あ、そうだ、論理くんに、国語の宿題でわからなかったところを聞いておこう。私は、何気なく振り返る。

「ねぇねぇ、論理くん…」

論理くんは、どこか上の空だった。いや、違う。どこかを見つめていた。熱く。いつも私を見つめる眼差しで。

「あ、なに?池田さん」

論理くんは、何事もなかったかのように、私にそう言った。

「今、なに見てたの?」

私の中の炎が、メラメラと燃え盛る。私の心は大火事だった。早く水をかけないと、収まらないよ。論理くんの、愛の水を。

「い、いや、別に…」

論理くんは、水どころか、油を注いできた。

「ふーん。かわいいよねぇ、沙希のおかっぱ」

そう。論理くんは、沙希を熱い眼差しで見つめていたのだ。

「…………………」

「いつも私だけを見てくれてると思ってたのに。おかっぱなら誰でもいいんだ?」

私は、思い切り嫌味を込めて、論理くんにそう言ってしまう。すると、論理くんは、両手で机を、バン!と、思い切り叩いた。

「そんなことないだろ!どうして池田さんはいつもそうなんだよ‼︎」

論理くんは、怒鳴った。教室内が一瞬で静まり、みんなの視線が私たちに集中する。

「な、なに逆ギレしてんの?」

「好きなもの呆然と見ているだけで何が悪い!心配でいても立ってもいられなくてあとをつけてきて何が悪い!俺が池田さんを傷つけようとして進んで行ったことなど何もないのに、どうして俺をそうやって悪く言うんだっ!」

論理くんは怒鳴り続ける。私の頭にも血が上った。

「論理くんが私を傷つけようとしてなくても、私は傷ついたの!自分の尺度でものを言わないでくれる⁉︎」

「それじゃその『おまえは自分を傷つけようとしなくても、自分は傷ついた』ってのも、自分の尺度で俺を見てるんじゃないか。自分の尺度だから、俺の心配もなにも、わからないんじゃないか!」

「っ!ああ言えばこう言う!まるで、誰かさんみたい!いつだったかお姉さんのことを似た者親子だってバカにしてたけど、人のこと言えないんじゃないの⁉︎」

「なにを……っ!」

論理くんの顔が、本当に、怒る。今までこんな論理くん、見たことがない。あ、私、ちょっと言い過ぎたかもしれない…。

「池田さんは、あのババアと俺が、似ているというのか…。一番言われたくないことを、俺は、池田さんから言われたんだな。…もういいっ‼︎」

論理くんは、痰を吐く中年男性のようにそう吐き捨てると、教室の外へ出て行ってしまった。やっぱり、今のは言ってはいけないことだった。でも、論理くんがいけないんだから!私以外の女の子のおかっぱを見てるなんて、酷いよ!

「なんだぁ?夫婦喧嘩か?」

峰岸くんが、私たちをおちょくる。もう、論理くんなんて、大っ嫌い!私は、前に向き直り、机に突っ伏した。


授業中、論理くんは、私のうなじを触ってくることはなかった。それが悲しかったし、苛立たしかった。きっと怒ってるんだろう。もう、知らない。それなら私も、徹底して論理くんを無視してやる。


休み時間になった。いつもなら、論理くんや優衣、沢田くんとわいわい話すのだけど、到底そんな気分にはなれなかった。論理くんだって、後ろから話しかけてくれないし。まったく!ムカつく!もういい!それなら、見せつけてやる!私は、本を読んでいる坂口くんのもとへ向かった。

「坂口くん、えへへ。昨日はありがと」

坂口くんは私を見ると、驚いた表情を見せたけど、嬉しそうに微笑んでくれた。

「どうしたんだ、文香。俺のところなんか来て、論理に怒られないか?」

まだ、文香って呼んでくれてるんだ…。坂口くん、嬉しいよ。

「いいのいいの。もう、怒ってるもん。論理くんなんて、知らないよ」

横目で論理くんを見ると、論理くんは、私たちを睨んでいた。

「さっきもなんか喧嘩していたみたいだが、どうしたんだ?…仲直りできなかったのか?」

「論理くんがいけないんだよ」

また私は、横目で論理くんを見た。優衣と沢田くんが、論理くんと何やら話していた。

「…そうか。文香、昨日はありがとう、すごく楽しかった」

坂口くんは、私の両手を強く握りながら、そう言ってくれた。

「私も、すごく楽しかった。ありがとうね」

「あ、そういえば、菅田将暉の『まちがいさがし』さっそくダウンロードしてみたんだよ」

「え!そうなの?聞いてみた?」

「ああ、いい曲だったし、菅田将暉は歌も上手いし、よかった。でも、」

坂口くんは、私を熱く見つめた。

「文香も、歌上手いよな」

ズキュン!自分の細胞の一つ一つに、坂口くんが刻まれていく感じがした。

「坂口くん…」

「合唱部、夏休みに合唱コンクールがあっただろ?あの日、実は俺、見に行ってたんだ」

「えっ!そうなの?」

私は驚いた。坂口くんも来てくれてたなんて!

「ああ、ちょっと頼まれてな…。あ、いやもちろん、文香の歌声も聞きたかったんだ」

「あ、ありがとう。でも、私そんな大した歌声じゃないよ」

私が謙遜すると、また坂口くんは、私の目を熱く、熱く見つめてくれた。

「そんなことない。文香の歌声は、海に沈む夕日のように熱く、きれいだ。コンクールのときも、文香の歌声がビンビン聞こえてきた。ステージの上の文香、光り輝いていたぞ」

ズキュン!坂口くん…!坂口くんも、私の歌を褒めてくれるんだね!ああ、私もう、坂口くんという名の箱庭に、閉じ込められたい…。私は、坂口くんに目がハートになっていた。

「ちょっと!ぶんちゃん!」

後ろから、優衣の声がしたので振り返ると、優衣は、怒った顔をしていた。隣に沢田くんもいる。

「なによ、優衣」

「あんたね、ちょっと来なさい」

優衣に連れられて、私は廊下にやってきた。窓の外から入ってきた秋の風が、廊下を走り、私のうなじを撫でた。論理くんのことを思い出して、腹が立った。

「あのさ、ぶんちゃん。ぶんちゃんは、論理のことが好きなんでしょ?なんで坂口くんと仲良く話してるのよ。まさかあんた、坂口くんに心が移ったの?」

優衣が、私を厳しく問い詰める。

「そうかもね」

私は、膨れっ面でムスッとしながらそう言った。

「嘘でしょ。ぶんちゃん、論理と喧嘩したからそんなこと言うんでしょ」

「私は本当にもう論理くんのことなんてどうでもいい。坂口くんと付き合う」

本当は、論理くんと付き合い続けたいけど…。自分でも、なにいじけたこと言ってるんだろうと思った。

「論理、悲しがっていたぞ。池田、あれは、いくらなんでも言い過ぎだ」

沢田くんが論理くんの味方をした。私は、少しイラっとする。

「そうよ、あれは言っちゃいけない言葉だったわ」

優衣まで論理くんの味方して!私は、怒りのバロメーターが六まで上がった。

「そんなこと、わかってるから!でも、論理くんがいけないんだよ!沙希のおかっぱ見てたんだから!」

「あれは、つい目が行ってしまったそうだ。別に、恋愛感情とか、そういうのはないんだ。池田、許してやれよ」

バロメーターが八に上がる。

「なんで二人ともそんなに論理くんを庇うの?私が全部いけないの?」

「そういうわけじゃないわよ、論理にも、ぶんちゃんに謝りなさいって言ったわよ」

「そしたらなんだって?」

「…………………」

二人は、黙ってしまった。

「論理も、頑固なところあるからなぁ…」

沢田くんが、苦笑いする。私は、ため息をついた。

「私が論理くんを傷つけたんでしょ!言っちゃいけない言葉を言ったんでしょ!だからもう論理くんは私のこと嫌いになったんじゃないの⁉︎」

自分で言っていて、涙が出てきた。嫌だ。論理くんが私のこと嫌いになるなんて、そんなの、嫌だよぉ。謝らなくちゃ。でも、私のくだらない意地が、そうはさせない。

「…論理は、ぶんちゃんのこと嫌いになったりなんかしないよ。だから、ちゃんと謝って仲直りしなさい。論理もそこまで聞き分けのないやつじゃないでしょ」

「……うん」

私は、渋々うなずき、涙を拭いた。教室に入ると、論理くんは、自分の席に座ってじっとうつむいていた。私は、そんな論理くんに近づいた。

「論理くん…」

私は、子犬が鳴くような声でそう言う。論理くんは、ぼんやりとした顔を、私に向ける。頬が汚れていた。論理くん…泣いてたの?私のせいで?論理くんを、泣かせてしまった…。私は、胸が押しつぶされそうになった。

「論理くん…」

「……なに?」

論理くんは、抑揚のない声で、そう答えた。

「…さっきは、ごめんね。私、論理くんに酷いこと、言った」

「いいよ。どうせ親子だから」

「……本当にごめんなさい」

「だから、謝らなくていいよ。俺は、あいつによく似た、最低の人間だから」

論理くんは、涙を堪えるような表情と声で、そう言う。

「最低じゃないよ。さっきは、勢い任せで言っちゃって…本当に論理くんとお母さんが似てるとは、思ってないよ」

「俺がどうがんばっても、血は争えない、似るものは似る、というのなら、俺はもう生きている必要はない。これでも、やつを反面教師にして、精一杯抗っているつもりなんだ!」

論理くんは、深い怒りをそれでも静かに湛えて、淡々とそう語る。生きている必要はない?論理くんに、そこまで思わせてしまったの?私は、体が二つに引き裂かれそうだった。涙が、溢れてくる。でも、私だって、傷ついたんだよ?隣にいる優衣と沢田くんは、何も言わずに、私たちが分かり合うのを待っている。

「ごめんね…確かに、私は、論理くんが一番突かれたくないところを突いて、傷つけた。それは謝る。でも、論理くんも、私のこと、傷つけたよね」

「だから血は争えないからだろ」

私は、舌打ちしたいのをグッと堪えた。だから、なんでそうやって…。

「お母さんで逃げないで。私を傷つけたのは、お母さんに似た論理くんじゃなくて、論理くん自身でしょ?それを受け止めてほしい」

「池田さんは、またそうやって、俺を責めるのか!」

「違うよ!私だって、今論理くんを傷つけたのは、私自身だって受け止めてる。お互いそうやって、自分の罪を受け止め合ってこその、カップルでしょ?」

気がつくと私は、必死になって、論理くんにそう言っていた。論理くんは、苦々しい顔をして、うつむいていた。いつのまにか、教室にいるみんなが、私たちの行方を見守っている。

「ということはつまり、」

と、論理くんが、まだ納得できなさそうな色を声に秘めつつ、言う。

「俺が池田さんを、名前呼び捨てにしないから、池田さんが傷ついた。そして、他の人のおかっぱをぼんやり見ていた。そこに俺の罪がある。許してほしい」

そう言って、論理くんは、私に頭を下げた。どことなく、論理くんの声に気になるものがあったけれど、私は論理くんの謝罪を受け入れることにした。

「うん、いいよ。私も、論理くんを傷つけてしまった。ごめんなさい」

私も、論理くんに頭を下げた。論理くんは、頭を私に下げながら、口の中で、「許して、許して」と、何度もつぶやき続けていた。その様子が異様で、私はギョッとした。私が、論理くんの肩を揺すり、もういいよ、と言うまで、論理くんは、つぶやくのをやめなかった。


それから、私たちは一応仲直りをしたけど、論理くんは授業中、私のうなじを触ったり、キスをしたりはしてくれなかった。まだ怒ってるのかな…。

「論理くん、まだ怒ってるの?」

六時間目の前に、私は、論理くんにそう言った。

「えっ?ち、違うよ…何か、俺、池田さんに悪いこと、した?」

論理くんは、おどおどとそう答えた。私は不審に思った。

「いや、してないけど…ただ、今日は、うなじ、触らないんだって思って」

私がそう言うと、論理くんは、脅された鼠のように、ビクリと体を震わせた。

「あ…あ、許して、許して…」

一体、どうしちゃったんだろ、論理くん…。このあとから論理くんは、何回か私のうなじに触ったけれど、それは、どこか、私に言われたからしている、という感じがした。


学期始めなので、今日は部活はない。放課後、論理くんと私は、すぐ肩を並べて帰った。論理くんは、いつものように私と手を繋いでくれた。そして、

「池田さぁぁん」

と、呼びかけながら、私を背後から抱きしめ、うなじにキスをしたりした。折から九月初めのとても暑い日差しが、降り注いで、私のセーラーの中はぐしょぐしょだった。そのせいなのか、それとももっと別の理由があるのか、私は、生まれて初めて、論理くんに抱きしめられ、うなじにキスをされるのを、鬱陶しく思った。論理くんといるのは、とても楽しいことのはずなのに、どうしてだろう。それはきっと、論理くんも同じことを考えているからではないか…。そんなことを思ってしまう。坂口くんとデートした日に感じた楽しさを、私は思い返していた。


私の家に着いた。この下校中、論理くんは、私の気のせいか、いつもより口数が少ない気がした。

「じゃあね、論理くん、また明日」

「うん、また明日…」

論理くんは、おどおどとした目を私に向けて、そう言い、帰っていった。論理くん…やっぱりおかしい。あの目は、四月に隣どうしの席になった頃のような目だ。やっぱり、まだ怒ってるのかな…。そういえば、論理くん、前に、「自分を傷付けるやつは、絶対許さない、一度言われたことは、何があったって忘れない」って言ってたな…。私のこと、許してないんじゃないの?それに、私のこと、やっぱり嫌いになった?遠ざかる論理くんが、遥か遠くに感じられた。


たまらなくて、その夜、私は論理くんにラインした。

『論理くんこんばんは。元気にしてるかな。あのね、今日はほんとにごめんなさい。反省してる』

既読はすぐについた。リプライが返ってくる。

『いいよ、もう。…ごめん、お母さんが呼んでるから行く。肩揉んでほしいって』

え…。論理くん、私の相手せずに、お母さんのとこ行くの?それに「クソババア」じゃなくて「お母さん」なの?論理くんどうしたの?モヤモヤが一層モヤモヤを呼んだ。


次の日。論理くんと一緒に登校してきたけれど、やっぱりどこか口数が少なかった。手を繋いでくれる。抱きしめてくれる。うなじにキスもしてくれる。愛してるよ、とも言ってくれる。でも、どこか不自然に感じられてならない。ベルトコンベアから流れてくる部品を組み立てていくように義務的なもので、そこには愛が、ないみたいだ。少なくとも、坂口くんとデートしたときに感じたことの中に、こんな無味乾燥なものは、なかった。


二時間目。論理くんはいつものように、私のうなじにキスしてきた。やっぱり、なんかおかしい。私は、そのせいか、うなじにキスされても全然嬉しくなかったし、苛立ちも覚えた。私は、論理くんに振り向く。論理くんは、笑っていた。でもその笑顔は、おどおどとしたもので、どことなく、私に気に入られようとしているようにさえ見えた。

「論理くん、無理してやってる?」

「え、違うよ、ぼく、そんなことしてないよ、許して、許して」

ぼく?論理くん、自分のこと、ぼくなんて言ってたっけ?

「ふーん、無理してやらなくていいから」

「え?池田さん、怒った?ぼく、なんでもやるよ。許して、許して」

論理くんの、その卑しい言葉に、私は、苛ついた。

「論理くん、さっきから、許して許してって、なに?ふざけてんの?」

「おい、どうした、池田、なにやってる」

先生の厳しい声が飛んできた。

「す、すみません」

論理くんを睨む。論理くんは、うつむいて、小刻みに震えていた。


休み時間、優衣と沢田くんが、私たちの席に寄ってきた。

「ぶんちゃん、二時間目、怒られてたじゃん、どうしたの?」

優衣が、明るい調子で、そう聞いてきた。その隣で、沢田くんも、ニコニコしている。いいな、二人は仲が良くて。

「別に。論理くんが、よっぽど悪いことしてるみたい」

「論理が?悪いことって、一体何をしたんだ?」

と、沢田くん。

「ぼくは悪いことしてる」

論理くんが、茹で上がったほうれん草のような、しなしなした声を出す。

「池田さんに、謝っても、謝りきれない」

「意味わかんない。なに言ってんの?」

「だって、ぼくは、池田さんを傷つけたから」

「いつ?傷つけられた覚えはないんだけど」

話の奇妙な展開に、優衣と沢田くんは、ポカンとして私たちを見ている。

「許して、許して。ぼく、池田さんを、名前で呼んでいないし、他のおかっぱの人を見ちゃった。もうしません、もうしません。許して」

私は、論理くんの、その驚くべき発言に、一瞬言葉を失った。

「は?もうその話は終わったでしょ?もう、謝らなくていいよ」

論理くんは、私がそう言っても、前と同じように、口の中でゴニョゴニョと、「許して、許して」と、壊れたカセットテープのように、繰り返している。

「論理、どうしたの?壊れちゃった?」

優衣は、論理くんに、珍しく心配そうな声をかける。

「お前さぁ、自分のこと、ぼく、だなんて言ってたか?」

と、沢田くんも、声をかける。でも論理くんは、許して、許してをやめない。私は、気味が悪くなった。

「ダメだこれは。重症だわ。論理にとっては、ぶんちゃんが傷ついたってことが、よっぽど堪えたのね。ぶんちゃんにとっては、終わったことでも、論理にとっては、かなり尾を引きそう」

と、優衣が、軽く首を横に振りながら、言う。

「はぁ、めんどくさ。恋って、こんなにめんどくさいの?ねぇ、優衣」

「それは、お互いがどんなタイプか、受け入れる受け入れないの問題でしょ。ぶんちゃんは、記憶その場限りタイプ。論理は、記憶長持ちタイプ。お互いのタイプを嫌がらずに受け入れれば、めんどくさくはないし、受け入れなければ、こんなめんどくさいものはないわ」

「ふーん、そんなものかねぇ」

私は、優衣の言葉を上の空で聞き、いつのまにか、教室の隅にいた坂口くんを、見つめていた。


帰り道。論理くんと帰るのが、少し苦痛に感じていた。相変わらず、論理くんは、抱きついたり、キスをしたりしてくる。それもきっと、私に許してほしいからなのだろう。世界のどこにもいない、「論理くんに怒っている私」に。今日も気温は、三十度を超えると言っていた。街路樹のあちこちに、まだ蝉が止まっていて、鳴きわめいている。うるさい。隣にいるこの人と、この蝉時雨を、私の部屋の中で聞いたときには感じなかった騒音。あの頃と、私たちはずいぶん変わってしまったような気がする。あの頃は、いろいろと苦難があったけれど、私の毎日は虹色に輝いていたし、論理くんへの気持ちも熱いものだった。でも、今は、軒並みに植えられているコスモスを見ても、私の心には何も響かない。多分、 COSMOSを歌っても、私の心には空洞が開いたままだろう。そして、論理くんへの想いも…。

「池田さん」

論理くんは、私の後ろに回り込み、うなじにキスをした。

「やめてっ!」

私は、振り向き、論理くんを払いのけた。え?私、なにやった?今の、誰の声?どうして、そんなに冷たいの?誰が、論理くんに、そんなことをしてるの?私、ここまで論理くんに気持ちが冷めてるの?

「あ、ごめん…」

私がそう言うと、論理くんは、今まで見た論理くんの数限りない表情のどれよりも、悲しそうな顔をしていた。この顔は、紛れも無い、私がさせた顔だ。こんな顔を論理くんにさせるほど、私の気持ち、酷くなっているんだ…。それが、私には、あまりにも悲しかった。

「あ、池田さん、許して、ぼく、悪いことしたね、許して」

どうして、論理くん、そんなことを言うの?今のは、百%私が悪いのに。私たち、もう、ダメだね。論理くんとの歯車が噛み合わない。私は、白と言ってほしいのに、論理くんは黒と言う。論理くんが、白と言おうとすればするほど、論理くんの言葉は、黒に染まっていく。

「その、許して、って言うの、やめてよ!もとの論理くんに戻ってよ!」

私が、そう怒鳴ると、論理くんは、腕で頭を抱えた。私に、心底怯えきった表情を見せ、「許して、許して」と、繰り返し、蹲ってしまう。私は、地球に隕石が降り注いで、みんなが逃げ惑う中、何もできずに立ち尽くす少女のように愕然として、論理くんを見つめるしかなかった。私は、もう、論理くんをどうすることもできない、と思うと、涙が溢れ出て、止まらなくなった。私の口が大きく開く。「すはああああっ」と私はお腹に息を吸い込んだ。

「うえええええええええええんっ‼︎すはっ、すはあああっ‼︎ええええええ…ええええええんっ‼︎」

私も、泣きながらその場に蹲ってしまう。ここまで積み上げてきた論理くんとの日々はなんだったの?あの夏休みの、あの思い出も、この思い出も、全部全部幻だったの?論理くんの、愛してるって言葉、もう、本心から言ってくれないの?私たち、ずっと一緒じゃなかったの?だったら、論理くんと付き合わなければよかった!論理くんは、変わってしまった!目の前の論理くんは、私の愛した論理くんじゃない!頭の中を、そんな思いが、渦を巻いて、余計、涙が溢れて止まらなくなった。


どれだけ泣いてたかわからないけど、いつのまにか、私の背中にそっと手が添えられているのに気づいた。論理くんが、私の傍にいて、背中に手を置いてくれている。論理くん…これだよ、これが私の愛した論理くんだよ…!そうだった、あの、優衣たちにいじめられたとき、論理くんは、こうやって優しく私の背中にそっと手を置いてくれていた。あのとき、論理くん…優しいな…って、思ったんだった。その優しさが、戻ってきたのかな。

「ぐずっ、ひっく…論理くん……」

私は、涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃになった顔を、論理くんに向ける。

「ありがとう、論理くん…あのときと一緒で、私を、慰めてくれるんだね」

「え?あのときって?」

「前に、優衣にいじめられてたとき、教科書に落書きされていて、私号泣したでしょ?そのときだよ」

「え?あれは、ただ……」

論理くんが、覚束なげな視線を、虚空に泳がせる。まるで、いたずらが見つかった、子どものように。え?論理くん、何を言おうとしてるの?

「ただ、なんなの?」

私は、涙と鼻水を、セーラー服の袖で、拭った。私の声には、さっきの冷たさが戻っていた。論理くんは、そんな私の前で、口籠もりながら、こう答えた。

「ぼくはただ、泣いている池田さんの背中に手を置いていると、池田さんの呼吸が感じられて、気持ちが萌え立つから、そうしていた」

論理くんの、口から吹き出す、一筋の風。その風は、私の心の中の森の木々を、全て枯らし、一瞬で、荒地に変えてしまう、猛毒の風だった。

「論理くんは…論理くんは…論理くんは、いつもいつもいつも…っ‼︎」

私は、傍にいる論理くんを、思い切り押し倒した。論理くんは、跳ね飛ばされて、車道に出てしまう。そこにちょうどやってきた車が、急停止した。

「論理くんは、私じゃなくて、呼吸を愛してるんでしょっっ‼︎」

私は、合唱の最高音のときだって、こんな大きな声は、出したことがない。論理くんが、車から降りてきた人に、何か叱られている。そんな論理くんを目が痛くなるほど睨みつけた。もう、論理くんと同じ空気を吸いたくない。私は、その場から、駆け足で立ち去った。

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