二十五、論理くん、太田家の惨状に改めて接する

家に戻ると、お盆休み中のお父さん、お母さんもいて、正志もいて、私の家族は勢揃いだった。鬼ヶ島は明日までと言っておいたから、二人揃って家にやってくると、みんなびっくり。そこでの一件を話すと、みんなまたもやびっくりした。

「そう…、お姉ちゃんが丹精こめて作ったカレーをねぇ」

お母さんが苦虫を噛み潰す。

「でもお風呂で逆襲できたからいいよ」

私は明るく返した。ここでもし泣きそうな顔をしたら、お母さん本気で太田家に怒鳴り込みかねない。

「でも、なんだ…その…大便を振りかけたというのは、論理くん、いくらなんでもと思うが…」

お父さんが口憚りながらそう言う。

「私もそこまで自分がやるとは思いませんでした。でも頭の中には、母親から池田さんを守るという気持ちしかなくて。そのためには、何でもやれることはやってやる、というつもりでいました」

「私はね!論理くんがそうしたというよりも、論理くんにそこまでのことをさせた母親ってのがどうかと思うの」

お母さんが、両方の平手で両目をぱんぱんと叩く。声が潤んでいる。

「でもさ!」

正志が、口を開く。なんだかキラキラとした目で論理くんを見つめている。

「男が好きな女を守るってかっこいいよな!僕は、好きな女子にはついちょっかい出していじめてばかりだから、論理さんが羨ましいよ!」

「え、正志、好きな子いるの?誰⁉︎私の知ってる子かな」

私は興味津々に聞く。正志は、ニタァと笑った。

「お姉には言えないよーっだ!内緒なの!」

「じゃあお父さんには言えるか?」

お父さんも興味津々っぽい。

「言えない!僕だけの秘密なの!」

正志も、誰かを恋する年になったんだなぁ…。と、私は心がほっこりした。

「とにかく論理くん!何度もいうけどね、お家にいたくないと思ったら、ここが自分の家だって思っていつでも逃げてきていいんだからね!」

お母さんの温かい言葉。

「ありがとうございます」

論理くんは私の家族に深々と一礼した。論理くんはそのまま帰ろうとしたけど、お母さんが、そんな状態になった家にすぐに帰る必要はないと引き止め、夜まで一緒にいることになった。それまで私たちは、テレビゲームをしたり、以前にもやったペトロポリスで遊んだ。論理くんは相変わらず賽の目がついていて、またトップだった。そしてもうすぐ六時になるというとき、不意に電話が鳴った。

「お姉ちゃん、出られるー?」

台所から、お母さんの声。

「はーい」

私は、電話まで小走りをし、受話器を取り上げた。

「もしもし池田です」

「あ、もしもし、太田です」

なんと、聞こえてきたのは神の声だった!

「あ、お父さんですか?先程はすみませんでした」

「いえいえ。論理はまだ、そちらにいますか?」

「はい」

「そうですか。そろそろこちらも片付いたので、ぼちぼち帰るように伝えてやってくれますか」

片付いたって…あのうんことカレーとあられを全部お父さんが片付けたのかな…なんだか申し訳ないな…。

「わかりました」

「それとね…」

お父さんは一瞬言い淀むような調子を見せたが、やがてこう言った。

「今回の一件で文香さんには本当に迷惑をかけてしまったからね、明日、こちらで夕食でもと思うんだよ。絵美にも帰らせて、正式に文香さんに詫びをいれさせようと思う。だが、こんな家に来るのはもう嫌かな?」

「い、いえ」

お父さんのお心配り。それは有難いんだけど、お姉さんもお母さんもいる前でのお食事なんて緊張するし怖い。詫びを入れさせようって、お姉さん、謝ってくれるのかな…絶対謝らないと思うけどね…。なんだかんだで似た者親子だし。それにお母さん、またうんこ漏らしたりしないよね。

「でも、私はそんな、お詫びしてもらいたいだなんて思っていません。いろいろありましたけど、論理くんと二人でいられて楽しかったです」

「そう言ってくれるとホッとするよ。その文香さんの優しい心根で、もう一度こちらに顔を見せてくださらんかね。こんな家で恐縮だが、文香さんが論理との絆を築いてくれるのと同様に、この家との絆も保ってくれればと思っている」

お父さんにここまで言われては、私もお受けせざるをえない。

「わかりました。いつもすみません。お父さんがいらっしゃるから私たちはやっていけるようなものです。それで、明日は何時頃にお邪魔すればいいですか?」

「できたら六時くらいでどうだろう?」

「はい。では六時にお邪魔します」

私は挨拶をして電話を切った。論理くんが心配して、私の背後からお腹を抱きしめている。お父さんやお母さん、弟もそばにいた。

「太田さんから?」

そう尋ねるお母さんの顔が険しい。私はその場のみんなに、電話の主はお父さんだったこと、そして今の通話の内容を話して聞かせた。

「食事?昨日の今日だと言うのに?」

お父さんも眉をひそめる。

「もう別に詫びなんていいから、論理くんとお姉ちゃんを無罪放免にしていてくれればいいのよ」

お母さんはうんざりした表情を見せた。

「でも私、論理くんのお父さんのおっしゃることならお聞きしたい。私たちをあの地獄から救ってくれたのは、お父さんだもの」

「うーん」

お父さんが、腕を組んで考え込む。

「うーん」

正志が、お父さんを真似た。

「論理くんはどう思う。明日、文香が論理くんの家に足を踏み入れると、何が起こるだろう?」

「そうですね…」

論理くんは私のお腹から腕を離して、お父さんに向き直った。

「正直、私の家での父の発言力はそれほど強くありません。私たちのことで父があそこまで動いてくれているのに、びっくりするほどです。姉を呼ぶと言っていますが、おそらく姉は謝らないでしょう。いわんや母をや、です」

「じゃあやっぱりお姉はまた嫌な目にあうの?」

正志が、心配そうに聞く。

「うん、その確率は高いと思う」

論理くんは唇を噛んだ。私の脳裏に、ひっくり返されて割られたカレー皿が思い浮かんだ。またあんな目に遭うんだろうか。怖い。でも…。

「お姉ちゃん、行くのはやめたほうがいいよ。あられだの、カレーだの、大便だの、もう十分じゃない」

でも…。

「確かにそうだけどさ、お母さん」

私は、合唱曲を歌い出すときくらいの勢いで「すはあああっ!」と息を吸い込むと、お腹から声を出す。論理くん、私の腹式呼吸、感じてくれてたかな。

「論理くんのお父さんは、たぶん、私たちとお姉さんお母さんとの間に立っていてくれる気がするの。発言力があまりないっていうんなら、なおさらかも。お母さんたちの言うことも聞いて、こっちの気持ちも汲んでくれて、どちらも無事に済むようにって気を配ってくれてるんだと思う。なら、そんなお父さんの心配りを受けたい」

「なるほど、論理くんどう思う?」

と、私のお父さん。

「それは父の考えそうなことだと思います」

「でも折角気を配ってもらっても、それで文香がまた傷つけられてもねえ」

「お父様のご心配はごもっともです。しかし、私としても、父の顔を立てたい気持ちはあるんですよ。父はあの家で唯一の私たちの味方ですから。その父を信用して、明日の夕食には出たいと思うんです。何かあったら、池田さんは私が守ります」

何かあったら、池田さんは私が守ります…。きゅん!論理くん、かっこいいよぉ…。

「論理さん…。よし!お姉のことは論理さんに任せようよ。今の論理さん、すごいかっこよかった!」

正志が、お母さんとお父さんにそう言ってくれた。正志!ありがとう!

「でしょ!論理くんはかっこいいんだよ!お姉ちゃんの人を見る目は間違ってないんだから!」

私は、正志にピースをした。正志も、ピースを返してくれる。

「僕も論理さんみたいなかっこいい男になりたい!」

「正志くん…俺はそんなかっこよくないよ」

論理くんが、照れたように返す。

「ねえ、論理くんも正志もこう言ってくれてるし、行ってもいいでしょう?」

「あーあ、困ったわねぇ」

お母さんは、眉間に寄せた皺を、右手でつまみながら呻いた。

「よしわかった。行ってらっしゃい。この先太田さんの家とも、まだまだ付き合っていかなきゃなんないもの、避けてもいられないよね。論理くん、何かあったらお姉ちゃんをよろしくね!」

「はい!」

論理くんは力強く返事をした。そんな論理くんに、今度は私が背後から抱っこっこする。正直なところ、いくらお父さんの言うことだとはいえ、鬼ヶ島リターンズになってしまって怖い。でも、あの台風の夜、論理くんは私を守るためにあのお母さんと懸命に戦ってくれた。論理くんと一緒にいれば、鬼ヶ島だって怖くない。私は自分にそう言い聞かせた。


翌日六時。私は再び、あの場所にいた。目の前には鬼ヶ島。肌色に塗られた三階建て陸屋根。多分鉄骨造り。六つある窓には、今日も固く鎧戸が引かれている。でも、台風の中だったあのときとは違って、今日は建物全体が夕陽に照らされている。空も晴れて、涼しい夕風とともに蝉たちの声が届いていた。今日は論理くんもお父さんもいるんだ。私は四つ折りの扉に手をかける。ガタガタと音がして扉が開くと、あのときと同じく、論理くんが玄関口にあぐらをかいている。

「こんにちは池田さん。来てくれてありがとう」

論理くんの表情や声は、あのときと比べて緩やかだった。

「こんにちは論理くん。お父さんは?」

「居間で全員が揃ってるよ」

「お姉さん…も?」

「うん」

うう…お姉さんもお母さんもいるのか…怖い…。でも、お父さんが折角誘ってくださったんだもの!行かなくちゃ!

「じゃあ論理くん、お邪魔するね」

「ああ、どうぞ」

論理くんは立ち上がって、私をエスコートするように居間に連れてきた。裸電球の黄ばんだ灯りに照らされた居間は、いつもの通り左側が座椅子に座ったお母さん。そのすぐ右に緑色の手文庫。あそこには何が入っているんだろう。その手文庫の上に、かつてお母さんが私に投げつけた灰皿。十センチほどの直径で茶色のプラスチック製。吸い殻や灰が山のように積もっている。一方の左側には、灰色の大きなゴミ箱。これは論理くんが怒ってお母さんに被せてしまったものだ。今日は居間の中央には古びた食卓が設えてあり、もうお料理が準備してある。食卓を挟んだ私の真向かいにはお姉さん。無表情。脇には電気釜が置かれている。ご飯をよそう係なのだろう。お父さんはその隣。私と論理くんは居間の手前側、お姉さんとお父さんの向かいに座ることになる。

「今日は、どうもありがとう」

論理くんが居間のみんなに頭を下げる。これはこれで、すごく珍しい光景。それに続いて私もご挨拶した。

「今日は大変にありがとうございます」

挨拶のあと、私は素直に前に進み出て、食卓の前に正座しようとした。ちなみにこのまま正座すると、左にお母さん、正面にお姉さんという位置関係になる。論理くんはそんな私を背後から止めると、

「あ、こっちに」

と、自分と位置を入れ替えて、私を、お父さんの前に座らせてしまった。いきなりこんなことしなくても、と、私が思うが早いか、

「あらあらあら」

お母さんの猫なで声。

「露骨に用心されてしまったものねぇ、私も」

「そりゃ、実績があるからだろ」

「論理にやられた、という実績がね」

お母さんはそう言うと、身体を座椅子の上でゆさゆさと揺すり、頭も揺すってみせた。するとカレーとうんこのにおいが蘇ってくる。

「おい!そういう真似は無しにしないか。なんのための食事だと思っているんだ」

お父さんがそう言ってくれるけど、今度はお姉さんが、その意もまるで介さない調子で言う。

「あーあ、においを付けられる側も側だし、付けるガキどももガキどもよね。いい勝負だわ」

「そのガキににおいを付けるように悪巧みしたのは、いい勝負じゃないのかよ」

「黙りなさい論理。私があなたたちに謝らなきゃいけない筋合いは、これっぽっちもないわ」

お姉さんがお父さんを睨みながら言う。あああ、お父さん…。お姉さんは、淡々とご飯をよそおっていく。今日は南瓜の煮付けと、ほうれん草のお浸し、麻婆豆腐が卓上に並んでいる。

「お…おいしそうですね」

たとえお世辞でも、と思いながら私はお姉さんのお料理を褒めた。でもお姉さんの返事はこのようなものだった。

「あなたなんかが言ってもなんの意味もないわ」

うっ…あなた『なんか』ね…。

「池田さん」

と、論理くんが解説してくれる。

「この家で料理の良し悪しを決めるのはお母さんだけだ。たとえ世界の六十億人全員がうまいと言っても、お母さんがまずいといえば、それは食べるに耐え難いものになるし、たとえ銀河系の全生物が…」

「そんな娘になに得意がって解説してるの、いい加減にしなさい」

お姉さんがピシャリと言い放つ。『そんな』娘…ね…。ああ、つらいよぉ。そんな私の気持ちを察してくれたのか、論理くんは負けじと話す。

「池田さんはうちのことがよくわかっていないから、説明してやるの当然だろう。そんなこともわからんか。男に頭をのぼせさせられたとみえるな」

「明日にも別れて当然のようなカップルに偉そうな口を聞かれたくない!」

明日にも別れて当然?相変わらずこの家の人は…。私は唇を噛み締めた。確かにここにはお父さんという、力強い味方はいる。でも、でも、他の人は。人を泣かせても傷つけても、自分の言いたいことを言っていればそれでいい、という神経が、私にはどうしてもわからない。そしてお姉さんは、尚も恐ろしい表情でこう言う。

「論理。男がどうこうって今、その小娘の前で言ったわよね。信三(しんぞう)さんのことをしゃべったってこと?」

「信三さんだと。真正大学が、そうそう大したやつじゃあるまいに」

「お母さんはだまっててっ‼︎論理…あんた本当におしゃべりだねぇ。うちのそういうプライベートなことをこの娘にポンポンポンポンしゃべり倒して、ほんでこいつが学校だの部活だので、信三さんのことを面白おかしくしゃべるわけだ」

「私そんなことしませんっ!」

私は叫んだが、お母さんが横から口を挟んでくる。

「いいよいいよ文香さん、存分にしゃべって楽しんでしまいなさい。しゃべったからって減るもんじゃなし。そもそも真正大学ごときに、減るような価値があるとも思えないしねぇ」

「真正の何が悪いのっっっ‼︎」

お姉さんが絶叫した。冷徹なお姉さんにしては相当に珍しい。目が潤んでいるようにさえ見える。私はお姉さんの彼氏さんのことを知らないけど、少なくとも、冷徹なお姉さんをここまで熱くさせるような関係を結んでいるとはいえそうだ。

「お母さんは…お母さんは、何かと言えば学歴しか頭にないのっ⁉︎それなら東大京大はみんな聖人君子なわけっ?」

しかしお母さんは平然と応える。

「当たり前でしょう。頭がよければ人格もいい、悪けりゃ腐る。世の中それでできてんのさ。真正ごときがいい人?馬鹿言うんじゃないよ。まああんたも清風だ、清風の脳みそで見りゃ真正も聖人君子に見えるわね。お気の毒なこと。そもそもあの島倉とかいうの、月給いくらもらってんだい?生活するのもようような給料しかもらえないのも、みんな真正が真正ゆえだからでしょう?いい高校→いい大学→いい会社→いい給料ってのはね、神代の昔から決まってんだよっ!」

世の中の人を、みんなこうして学歴だけで測ることができたら、随分簡単に事が済むだろうなと思う。このお母さん、リウマチで社会に出てないからこう言えるんだろうな。お母さんに言われ放題のお姉さん、顔を真っ赤に上気させて怒鳴る。

「世の中にはねっ!世の中にはねっ!お母さんの見えてないことだってあるのよっ!それをわかったみたいに…。あんたなんかに、信三さんの何がわかるってのよっっっ‼︎」

私は、右隣のお父さんをちらりと見た。とても悲しげな顔でうつむいている。それもそうだろう。お父さんにしては、何らかの和を見出して、この食事会をしたかったはずだ。それなのに、まだみんな食事の手をつけてさえいないうちからこの有り様だ。どうしてこんな家庭になっちゃったんだろう…。私がいないときもこんな感じなんだよね…きっと。でも、私が論理くんのもとへ来たことで、もっと悪くなっちゃったのかな…。私は、少し申し訳なくなった。

「黙りなさい絵美。あんたはね、この聡美に育てられていながら、光ヶ丘にも中里にも受からんかった。それがそもそもの間違いだ。あの昌子のド性根ばっかりがしぶとくて…。誰に育てられようがね、私に育てられたら、私に似なきゃだめだってこと‼︎」

「誰に似ようが似なかろうが、私は私です!」

「いやあんたには昌子のド性根が…」

「もうやめんかっっっ‼︎」

突然、食卓の隅から恐ろしい怒鳴り声。お父さんだった。

「お前たち、お客人の目の前でどこまで恥を知らない?聞けば、誰に似とるとか似ていないとか似なきゃいけないとか…。絵美は昌子の娘だ。誰がもらい受けて育てようが、昌子の娘は昌子の娘。よう聞け!血の繋がりと、言うものは…、水より…、濃いわぁぁぁぁぁぁっっっ‼︎」

まるで歌舞伎役者さんのような、お父さんの大見得。いつもはおとなしいお父さんの意外な振る舞いに私たちはもちろん、お母さんもお姉さんも飲まれたが、やがてお母さんが正気を取り戻す。

「そう…。お父さんまでそう言うのね。絵美は昌子の娘だと…。この二十年間、懸命に絵美を育てて、それを夫からそう評価されるのならそれでいい。この不味そうな南瓜も、お浸しも、麻婆豆腐も、みんな昌子が作ったもんなわけね。ならそんなものを、この聡美ちゃんが、食べれると思うのっ‼︎」

ああ、またやるよ、この人は。お母さんはあのときと同様に、スプーンで南瓜の皿、お浸しの皿、麻婆豆腐の皿を次々にひっくり返した。確か、論理くんが食べ物を粗末にしたとき、論理くんの髪を引き摺り回して叱ったらしいけど、この人にそんな事やる資格ないよね。それにしても、他人の私が作った料理をひっくり返すのはまだともかく、実の娘ではないにしても、いやしくも娘の作った料理をひっくり返すなんて…親のやること?

「ああ……………っっ‼︎」

私は二回目だからそれほど驚きはしなかったけれど、これをやられたお姉さんの表情には、屈辱と怒りと悲しさが満ち溢れ返っていた。そしてその目から涙がぼろぼろと流れ落ちてくる。私もあのときは号泣したからなぁ。

「な、…なに、を、するの…!」

涙が満ち、憎しみも満ち、やり場のない感情も満ちたその目で、お姉さんはついに怒鳴った。

「それならいいっ‼︎これだけのことされて、こんな家にいてやる義理も何もないっ!」

お姉さんはそう叫んで、風のようにこの家から出て行った。私はその瞬間、あとを追おうと立ち上がりかけたが、お父さんがそれを厳然と制した。

「文香さん!行く必要はないよ」

「でも…」

「親子なんだ。似て当然だろう?それを受け入れられないからつらいんだ。奥方も絵美も、お互い頭を冷やしあえばいい」

居間の中には、南瓜とお浸しと麻婆豆腐の臭いが充満していた。今度はお父さんと論理くんで、これを片付けるのかな。そこでお母さんが何か言ったら、論理くん、残った麻婆豆腐をお母さんに塗りたくるのだろうか。はぁぁ…。同じ『家族』とっても、私たち一家とはあまりにも次元が違いすぎるよ。そんな中でよく論理くん、私と付き合っていられるよね。ひょっとして論理くん、私と合わない部分を心の中に山のように積もらせていて、それを外に出さないようにしてくれているんじゃ…。不安さを心の中に籠めながら、私は論理くんのそばに寄り添っていた。

「論理、文香さん、ちょっと…」

私たちは、お父さんに背中を押されるようにして玄関に導かれた。

「少しでも和解があればと思っていたんだが、こういうことになって恥ずかしいことだ。すまなかった」

お父さんは、そう言って頭を下げた。

「いえ、とんでもないです。頭をあげてください」

「親父、親父のせいじゃないよ。あいつらは、もう人間の理屈が通じないんだ」

「お父さん。お姉さんこれからどうするんですか?」

私は、さっきから気になっていたことをお父さんに尋ねた。

「絵美は、岩下の実家に向かっただろう。かねてから絵美と奥方とは仲がこじれていたから、そろそろ俺も考えを決めないといけないかもしれない。いずれにしても数日中には、岩下と話し合って結論を出したい」

あの勢いじゃ、お姉さん帰ってこないかもしれないんじゃないかな…。でもそうなると、論理くんがお母さんの世話をすることになるのかな…どうするんだろう…。

「お姉さんがもし帰ってこないとなると、お母さんのお世話は誰がするんですか?」

私は、お父さんに聞く。

「基本的に俺がやるが、論理と協力してやることになるだろう。論理、そのときは頼むぞ」

「うん、わかってる」

えぇ…論理くんできるのかな…この前のようなことにならなきゃいいけど…。

「論理くん、大丈夫なの?」

「あぁ。今度は、頭に何をぶっかけてやるか今考えているところだ」

論理くんは皮肉な微笑みを浮かべながら、ふてぶてしくそう言った。

「論理、この前したことを反省せねばならんと言ったはずだぞ」

「論理くん、お母さんに優しくしなきゃダメだよ」

私は、苦笑いしながら論理くんに言う。

「はいはい」

論理くんは、遠くを見つめる目をした。これは論理くんがお母さんをお世話することになったら、絶対またあんなことになるだろう。私は、お姉さんが帰ってくることを祈らずにはいられなかった。

「さぁ文香さん、ろくなおもてなしもできずに申し訳ないけれど、今日はもうこれで帰るのがいい。本当にすまなかったね」

「いえ、謝らないでください。また皆様とお食事できることを楽しみにしております。今日はありがとうございました」

私は、お父さんに向かって一礼した。

「こんな有様を見せても、なお、また食事がしたいと言ってくれるんだね。嬉しいよ。論理、それじゃあ文香さんを送ってあげなさい」

「わかった」

私たちは、二人して太田家の玄関を出た。お父さんに一礼して、あのガタガタという四つ折りの扉を閉める。薄暗い空に月が浮かんでいる。今日は満月だ。コオロギの鳴き声がリリリリリと合唱している。もう夏休みもあと二週間。どちらからともなく私たちは手を繋ぎ、家路を辿り始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る